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裸足の人魚  作者: やわら碧水
第五部
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第二章・ゴールデンウィークの風(その5)

 ゴールデンウィークの後半になって、潮音が浩三と会う日が来た。この日も空は青く晴れわたっており、五月の明るい日差しが街に降り注ぐ絶好の行楽日和になっていた。


 潮音は浩三と会うときにどのような態度を取るべきなのか、そしてどのようなことを話すべきなのか、当日が来ても迷っていた。着て行く服をどのようなものにするべきかすら、潮音は迷わずにはいられなかった。潮音は少し考えた末に、春物のニットに裾にフリルの飾りのついたマーメイドラインのスカートで行くことにした。


 自宅を後にする間際に、綾乃が潮音を呼び止めた。


「どうやらあんたは、そのマーメイドスカートが気に入ったみたいね」


「…まあね。ちっちゃな頃から姉ちゃんが何度も読んでくれた、人魚姫の絵本のことが今でも目でも心の中に残っているからかな」


 その潮音の言葉を聞いて、綾乃はふと息をついた。


「あんたがそんなクサいセリフを吐けるようになるとはね。でも昔から気心の知れた椎名君に会いにいくんだから、変に気取っておめかししなくたっていいんじゃない? 椎名君には身構えずに自然に接することが一番じゃないかな」


 しかし潮音は、その綾乃の言葉に首を横に振った。


「今日は椎名とチャラチャラ遊びに行くんじゃないんだ。あいつにはちゃんと会って話解かなきゃいけないことがあるからね」


「ほんとにあんたって強情なんだから」


 綾乃はあらためて息をつくと、潮音を玄関口で送り出した。


 家を出る間際に、潮音はスマホを操作してSNSで玲花と連絡を取った。寮生活をしていて自由もあまりない浩三のために、玲花がデートスポットとして提案したのは、神戸の市街地の中心から少し西側に行ったところにある海辺の水族館だった。潮音はここで、玲花があらかじめ段取りを決めた待ち合わせの場所は水族館の正門だということと、その時間を確認した。


 電車に乗ってからも、潮音は心の動揺を抑えることができなかった。浩三とは正月にも会っていたとはいえ、やはり自分の浩三に対する眼差しも、そして浩三の自分に対する眼差しも中学生のときの、同じ男子水泳部員として練習に明け暮れていた頃と比べてやはり違ってきているのだろうかと思うと、潮音の心の中にはざわめきが起きずにはいられなかった。


 潮音の家から、水族館の最寄駅に着くまで時間はかからなかった。潮音が駅から少し歩いて待ち合わせの場所に指定した水族館の正門前に着くと、浩三はすでにその場で待っていた。


「ごめん…やっぱりちょっと待った?」


 潮音が少し気づまりな様子で浩三に尋ねても、浩三はさほど気にしてはいないようだった。


「いや、そんなには待ってへんけど…。でもこういうときって女はたいてい、『女の子の身支度には時間がかかるんだから』とか言うんやろ? 潮音もずいぶん女みたいになったな」


 潮音はその浩三の皮肉っぽい言葉に、照れくさそうな顔をした。


「そんなことどうだっていいだろ」


 そこで潮音があらためて浩三に目を向けると、ポロシャツにジーンズという普段着の装いながら、連日の練習と筋トレで鍛え上げた、筋骨隆々としたたくましい体格は少し見ただけでも明らかだった。潮音はそのような浩三の姿を目にするだけで、浩三はもし自分が女にならなかったとしても、すでに自分の手の届かないところに行ってしまっただろうと感じていた。


 そこで潮音と浩三が水族館のチケットを買い求めようとすると、浩三が潮音の分のチケット代も自分が出すと言った。潮音は今の自分が女だからといって余計な気遣いをすることなどないのにと内心で思っていたが、ここは黙って浩三の顔を立てることにした。


 水族館の展示室の中に入ると、潮音はまず館内の大水槽の中を悠然と泳ぐ色も形も、大きさもさまざまな魚の群れや、無数のクラゲたちがぷかぷかと浮いている水槽に目を奪われていた。そこで潮音は、思わず隣にいた浩三の方を向き直して言葉を漏らしていた。


「泳ぐにしたって、この魚のようにもっと自由にのびのび泳げたらいいのにね」


 そのとき潮音は、幼い頃に綾乃に読んでもらった人魚姫の絵本の中に描かれた、人魚たちの城がある海底の情景を思い出していた。そこで綾乃は、自分が女になって落ち込んでいたときに、綾乃が海辺で口にした言葉を思い出していた。


――あんた、あの人魚姫のことをかわいそうだと思う?


 潮音はあらためて人魚姫のことを思うと、胸が痛むのを感じていた。そのとき潮音は、浩三の横顔をちらりと一瞥(いちべつ)してみた。浩三も先ほど潮音が言った言葉が耳に入ったのか、大水槽の中を泳ぐ魚たちを黙ったままじっと眺めていた。潮音はそのとき、浩三が今まで自分には見せたことがなかったような表情をしているのを見て、軽々しく声をかけることも(はばか)られたまま、あらためて水槽の中の魚の群れをじっと見つめた。


 それでも大水槽より上の階で飼育されているペンギンたちのかわいらしい表情や、水槽から上がってのんびりと寝そべっているアシカやアザラシの姿を見たときは、潮音も多少は表情をほころばせながら浩三にも顔を向けた。


「このペンギン、なんかかわいいよね」


 その潮音の様子には、浩三の方が潮音は男の子だったとき、「かわいい」という言葉を軽々しく口にしていただろうかと思っているようだった。そのような浩三の態度を前にすると、潮音も口をつぐんで浩三にどのように接するか戸惑わずにはいられなかった。



 潮音と浩三は一通り水族館の展示を見て回った後で、館内のレストランで昼食を取ることにした。


 レストランのテーブルに向かい合って腰を下ろしても、浩三は落ち着かなさそうにしていた。浩三は中学生のとき、水泳部で一緒に練習に明け暮れ、クラスメイトとしても一緒に過ごしてきた潮音が、今は女の子になって自分の目の前にいるという現実に対して、いまだに戸惑いが収まらないようだった。


 そのような浩三の態度を見て、潮音は浩三に声をかけた。


「どうしたの? なんか落ち着かないようだけど。いつもの椎名は、何に対しても動じずにどっしりとしてるのに」


 しかしその潮音の無邪気なあどけない様子が、浩三の心の中の戸惑いをますます増幅させたようだった。


「い、いや…。オレは藤坂が女になってから、こうやって一緒に店なんか入ったことあらへんかったから…」


 そのように答える浩三は、口調もしどろもどろだった。


「玲花とはこうやってデートしたことないわけ?」


 潮音に問われて、浩三はますます答えに窮していた。それはいつも明るく元気で、堂々とした浩三の態度とは対照的だった。


「だから玲花はそんな関係やないって。玲花はたしかに水泳部のマネージャーとして、オレたち水泳部のメンバーのためによく働いてくれとるけど、今のオレは玲花のこと好きになって、そういうことにうつつを抜かしとるわけにはいかんのや」


 浩三がいつになく弱気になっているのを見て、潮音はむっとしながら言った。


「でもだからといって、玲花に対して冷たい態度取ることないだろ。それで玲花がどれだけ傷ついたと思ってるんだよ」


 それに対して浩三も言い返した。


「お前にわかるかよ…。ろくに自由もないような寮生活して、そこで毎日水泳の練習と筋トレに明け暮れて、食べるものまでいろいろ制限して、そこまでやってもなかなか記録が伸びへんで次の高校総体にも出られへんかもしれへんと言われたときのオレの気持ちが。お前こそ女になったからと言って、女子校で女と遊んでばかりいて、そんなチャラチャラした恰好して」


 その浩三の言葉に潮音はむっとするものを感じた。潮音にとっても自分が女になってから数多くの苦悩や戸惑いがあったのに、それをこのように浩三に言われることには正直内心で腹を立てていたが、このままでは口論になるだけだと思ったので、ぐっと息を吸い込んで怒りをおさめると、もの静かな口調で語り始めた。


「たしかに水泳やってていつも調子がいいことばかりじゃないかもしれないよ。正直に言って、水泳で強化選手を目指すことがどれだけつらいかなんて、自分にはわからない。でも悩んだりつらい思いをしたりしているのは椎名だけじゃないんだ。私…いやオレだって、今のこの姿を受け入れられるようになるまでには、どれだけ悩まなきゃいけなかったと思ってるんだ」


 最初はもの静かな口調で話し出した潮音も、話しているうちに語調を強めずにはいられなかった。潮音のその言葉を聞いて、浩三はしばらく黙った末に重い口を開いた。


「…そのくらいわかっとる。でも今のオレには、どうすりゃ玲花の気持ちにこたえられるかわからへんのや」


 沈んだままの浩三の顔を見て、潮音はため息をついた。


「だからそんなに思いつめるなよ。今は全力を出し切って水泳を頑張る、玲花の気持ちにこたえるにはそれしかないんじゃないかな。心配しなくたって、玲花はしっかりお前のことをちゃんと見てくれてるよ。ともかくお前がこれ以上玲花を泣かしたりしたら、このオレが承知しないからな」


 その潮音のはっきりした口調に、浩三は少しふっ切れたような表情をした。


「お前にまで心配かけてすまへんな。今日お前と話して、ちょっとは気が楽になったよ」


 食事がすんで席を立つ間際に、潮音はあらためて浩三に声をかけた。


「あのさ…何もかも自分で抱え込んで一人で悩んでばかりいないで、本当につらいときや苦しいときは玲花のことを頼ればいいと思うよ。玲花はそれを断るような性分じゃないし、話を聞く相手くらいにはなってくれるから」


 その潮音の言葉に、浩三は軽くうなづいた。潮音は浩三をもっと元気づけようと、明るい口調で声をかけた。


「あっちの方ではシャチやイルカのショーをやっているよ。一緒に見にいこうか」


 そこで潮音が、水しぶきを上げながら豪快に水面から跳び上がるシャチやイルカの姿に歓声を上げるのを目にすると、浩三もずっと心の中に抱えていたわだかまりが、多少なりとも解きほぐれたようだった。


 続いて潮音と浩三がスーベニアショップに行くと、店頭にかわいらしい感じのする魚やペンギンのぬいぐるみが並ぶのを見て、潮音はかわいいものが好きな吹屋光瑠ならこのぬいぐるみを見て喜びそうだと思った。潮音が魚のぬいぐるみを買い求めたときには、浩三も思わずニコニコしていた。


 水族館を後にして潮音と別れる間際に、浩三は潮音に声をかけた。


「今日は一緒につきおうてくれてありがとう。さっきお前がイルカのショーを見とるときの顔を見て、やっぱりお前は昔から変っとらんなって思ったよ」


 その浩三の言葉には、潮音も途端に嬉しそうな顔をした。そこでさらに浩三は言葉を継いだ。


「ともかく玲花とは、もういっぺんよう話し合ってみるよ」


「玲花のことをよろしく頼んだよ。玲花を笑顔にできるのはお前しかいないからな」


「それはそうと、帰ったらまた筋トレせえへんとな。これは日課になっとるから」


「やっぱりお前は水泳が好きなんだな」


 潮音は駅で浩三と別れて帰宅した後で、さっそくスマホで玲花のSNSに通信を送った。


『今日は椎名に会うための準備をしてくれてありがとう。おかげで楽しかったよ。椎名にも玲花をもっと大切にするようにガツンと言ってやったから、その点は安心していいよ』


『潮音こそ楽しかったようで何よりやわ。やっぱり椎名君は潮音と一緒になると元気になるみたいやね。それは潮音が女の子になっても変ってへんみたいやわ』


 玲花のこの返信を見て潮音はふと顔をほころばせながら、先ほどスーベニアショップで買った、つぶらな瞳をした魚のぬいぐるみをじっと見つめた。潮音はそのまま、玲花と浩三の仲がこれからもずっとうまくいけばいいのにと思っていた。

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