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裸足の人魚  作者: やわら碧水
第四部
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第八章・明日への道(その4)

 レストランの建物を出て駐車場に停めた車に向かう途中も、潮音は紫の両親に対してただただ気恥ずかしそうにしていた。


「本当に今日はすみません。今日はレストランでおいしい料理までごちそうしてもらって…」


 それに対して幸枝は、ご機嫌そうな顔をしていた。


「そんなに遠慮しなくていいのよ。あなただったらこれからも紫のいい友達になってくれそうでほっとしたわ。これからもいつでも遊びにいらっしゃい」


「そんな…紫だって勉強やバレエで忙しいのに」


 その一方で、潮音の隣にいた紫はほっと胸をなで下したような顔をしながら潮音に言った。


「まったく、潮音って私の両親を前にしても歯に衣を着せずにはっきりズバズバものを言うんだもの。私の方がそばで話を聞いてて冷や冷やしたわ」


 そこで潮音も紫に返事をした。


「暁子からもしょっちゅう言われるよ。私はウソをついたりごまかしたりすることのできない不器用な性分だってね。それって褒め言葉なのかどうかわかんないけど」


 そこで紫は潮音をなだめるように言った。


「潮音ってほんとに石川さんと仲がいいのね。でもそれでよかったじゃない。潮音がそうやってストレートに自分の考えを伝えたからこそ、私の両親だって潮音のことを認めてくれたんだと思うよ」


「そうかなあ」


 紫がいぶかしんだままの潮音をそっと車に乗せると、亮太郎の運転する車は紫の家に向かった。帰りの車の中では潮音もレストランに行く途中に比べて緊張もいくらかやわらいで、紫の両親とも気軽に会話ができるようになっていた。


 しかし車が紫の自宅に着くと、紫の門の前で立っている人影があった。潮音はいったい誰だろう、萌葱と浅葱もまだ帰ってくる時間ではないのにといぶかしみながら、車の中から目を凝らした。しかしその人影の正体は、潮音が予想すらしなかった人物だった。紫の門の前に立っていたのは、榎並愛里紗その人だったのである。


 愛里紗がこの場にいたことに驚いていたのは、紫も同じようだった。紫は車を降りるなり、愛里紗に声をかけた。


「榎並さん、どうしてあなたがここにいるのよ」


 しかし愛里紗は、その紫の問いかけに対しても、険しい表情をしたままなかなか口を開こうとしなかった。それでも潮音が戸惑い気味に車を降りると、さすがに愛里紗も驚きの色を浮べた。


「どうして藤坂さんまで一緒にいるのよ。しかもそんなよそ行きの恰好なんかして」


 潮音は愛里紗の様子から、愛里紗が今ここにいるのはいいことがあったからではないだろうと直感していた。その通り愛里紗は、紫を前にすると唇をかみしめると、両目から涙を流し始めた。紫はただ事ではないと悟ると、なんとかして愛里紗を落ち着かせた。


「ともかく、ここで立ち話をしていても始まらないわね。私の家の中に入って、いっぺんちゃんと話を聞かせてもらえないかしら」


 そして紫は、愛里紗を家の居間に通してソファーに坐らせると、さっそくお茶とお菓子を出した。ずっと険しい表情をしたままだった愛里紗の顔に多少なりとも落着きが戻ってくると、紫は愛里紗に尋ねた。


「どうしてあなたが今こうやって私の家に来たのかしら。何の理由もなしにわざわざここまで来るわけないでしょ」


 そこでようやく、愛里紗は口を開いて事情を説明し始めた。


「この前の模試の結果が出たんだけど、この成績じゃ国立大の医学部は厳しいという結果が出たの」


 そう話す愛里紗は、眉間にしわを寄せて沈んだ表情をしたままだった。潮音はこの愛里紗の顔を見ながら、自分だって先日学年全体で一緒に受けた模試は出来が今一つだったのにと思っていたが、そこで紫は愛里紗をねぎらうように言った。


「榎並さんって、やっぱり医学部に行きたいんだよね。でも私大の医学部は授業料が高いから、国公立の大学の医学部に進むしかないけど、やっぱり国公立の医学部の受験は難しいみたいね」


「うん…国公立の大学に行こうと思ったら一年くらい浪人するのは当り前だって聞いてるけど、それでまた親に迷惑をかけるのかと思ったら…」


 潮音は愛里紗の話を聞きながら、愛里紗に誘われて愛里紗が母親と二人で暮している公営のアパートを訪れたときのことを思い出していた。潮音は愛里紗の家庭の現実だけでなく、日頃から愛里沙が友達との遊びにもあまり加わらずに一心に勉強に打ち込み、学校が休みの日にも塾に通っている様子を目の当りにしてきただけに、愛里紗が勉強を頑張らなければと意気込むのは当然だとしても、そのプレッシャーがますます愛里紗を追い詰めていたのかと思うと胸が痛まずにはいられなかった。


 そこからさらに愛里紗は話を続けた。


「で、医学部に行くためにはもっと勉強しなきゃいけない、とてもじゃないけど私立の医学部にお金は出せないと言う母親と口論になって、家を飛び出してここに来たの。私だってずっと勉強してきたのに、成績が伸びないことまで自分のせいにされて…」


 愛里沙の話を聞きながら潮音は、かつて愛里紗の家を訪ねたとき、愛里紗は家計が裕福ではない中でシングルマザーとして自分を育ててきた母親の期待に応えなければならないという強い思いを抱いていることは理解できたものの、そのぴんと張りつめた心の糸がぷつりと切れてしまいそうな危うさも感じたことを思い出していた。そこで潮音は必死に愛里紗をなだめるように言った。


「榎並さん、この前の模試の結果が悪かったのはたまたま調子が悪かっただけだよ。榎並さんくらい真面目に一生懸命勉強してたら、きっと次はもっといい点取れるはずだよ」


 しかし潮音の慰めの言葉も、愛里紗の耳にはなかなか届かないようだった。そこで潮音はさらに語調を強めながら、畳みかけるように言った。


「榎並さんってあんなに勉強頑張ってて成績だっていいのに、家にお金がないからとかそんな理由で夢や目標を諦めなきゃいけないなんて、そんなの絶対おかしいよ」


 潮音がますます焦燥の色を深めていっても、紫の態度はあくまで落着き払っていた。


「潮音、あなたはちょっと黙ってなさい。あなたが榎並さんのことを心配する気持ちももっともだけど、だったらあなたに榎並さんのために何ができるの」


 そこまで紫に言われると、潮音もさすがに黙るしかなかった。潮音は内心で、紫もバレリーナに憧れながら、それを諦めた過去があるからこのような冷然とした態度を取っているのだろうかと思っていた。


 そこで紫はあらためて愛里紗を向き直して言った。


「で、親とケンカしたとして、どうして榎並さんは私のところに来たのかしら」


「なんでか知らないけど、私は峰山さんの家にも来たことがあるし、峰山さんなら私の話を聞いてくれるかもしれないって思ったの。でもまさか藤坂さんまで一緒だとは思わなかったわ」


 そう話すときの愛里紗は、自分自身戸惑いの色が抜けていないようだった。潮音は前年の五月に、紫の家で開かれたパーティーに自分が愛里紗を招待したときの顛末を思い出すと、少し気恥ずかしい思いがした。しかし紫は、愛里紗が自分のことを頼りにしていたことを知って当惑しているようにも見えた。しばらくして紫は、きっぱりと口を開いた。


「ともかく榎並さんは、勉強でも何でも人一倍頑張ってきたことはみんなわかってるよ。だから榎並さんは無理をしすぎて疲れているだけじゃないかな。少しゆっくり休んだ方がいいよ。…それからお母さんとも、いっぺん進路について本音でじっくり話し合った方がいいと思うよ」


 しかしこの紫の言葉を聞いても、愛里紗は唇をかみしめたまま、紫の顔をじっと見つめていた。潮音はこの愛里紗の表情を見て、愛里紗は紫に対してコンプレックスを捨てきれていないのだろうと直感していた。そこで潮音は思わず口を開いていた。


「あの…榎並さんは親とケンカして家に帰りづらいんだったら、ちょっと私のところに来たらどうかな。気持ちが落ち着くまで一日か二日くらいだったら家にいてもいいよ。うちの親に頼んだら、その間の飯くらいは出してくれると思うから」


 その潮音の提案には、愛里紗本人だけでなく紫やその両親までもが呆気に取られたような顔をしていた。紫は怪訝そうな口調で潮音に尋ねた。


「ほんとに大丈夫なの?」


「ああ。榎並さんにとっては紫より私の方が安心できると思うから」


 それでも顔から不安の色が抜けきれない紫の耳に、潮音は口を近づけるとひそひそ声でそっと耳打ちした。


「学校行けなくて家にこもるしかなかった経験だったら、この私だって男から女になったときにしてるからね」


 その潮音の言葉に、紫は少し納得したようだった。


「わかったわ。でも困ったことがあったら、遠慮せずに私にも相談してね」


 潮音が愛里紗と一緒に紫の家を後にするときも、玄関口で幸枝は不安そうにしていた。


「榎並さんだっけ…早くお母さんと仲直りしなさいよ。今だって心配しているだろうからね」


 しかし紫の家の門を出て、通りを連れ立って潮音の家に向かう途中も、愛里紗は沈んだ表情をしたままだった。そこで潮音は愛里紗との間を持たせようと口を開いた。


「榎並さん…なんだかんだ言っても、ちゃんと榎並さんは紫のこと認めてるし、頼りにしてるじゃん。そうやってここまで来るんだから」


 そこで愛里紗は、うつむきがちに潮音に尋ねた。


「藤坂さん…どうして私を家に誘ってくれたの」


「理由なんかあるかよ。榎並さんを見てると、なんかほっとけなくてさ。自分だって昔は、今の愛里沙さんみたいにずっと悩んでた時期があったからね」


「それってやはりあのこと…」


 潮音の言葉に、愛里紗も納得したようだった。潮音はさらに言葉を継いだ。


「私だって悩んでるんだ。…榎並さんほどじゃないかもしれないけど。そろそろ二年生になってからのコースや大学の進路も考えなきゃいけないのに、自分なんか何をやればいいかわかんないから…」


 そこで潮音は、先ほどレストランで亮太郎から、自分も弁護士を目指してはどうかと勧められたことをあらためて思い出していた。潮音は昇から、今の愛里紗のように家庭の問題で悩んでいる人を対象にしている弁護士もいるという話を聞いていたものの、それでも潮音は、自分の今の学力では弁護士になるのは愛里紗が医学部に進むよりずっと難しいと思うと、ますます愛里紗に対して気後れを感じずにはいられなかった。


 そのとき愛里紗が、ぼそりと口を開いた。


「あの…藤坂さんがさっきからずっと私のこと心配していろいろしてくれたのは、やっぱり藤坂さんが昔は男の子だったからなの」


 潮音はその愛里紗の言葉にきっぱりと答えた。


「そんなの男も女も関係ないだろ」


 その潮音の言葉には、愛里紗も少し納得したようだった。そこで潮音は、ふと空を見上げた。青く澄んだ空を満たす光は、二月も後半になって多少は明るさを感じられるようになったものの、風はまだ冷たかった。


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