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裸足の人魚  作者: やわら碧水
第四部
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第八章・明日への道(その2)

 潮音は紫の家へと向かう間も、少し前のバレンタインデーに紫が言った言葉が脳裏から離れなかった。


――私は今の学校でいろんな子たちとつき合ってきたけど、今ではあなたと一緒にいると本心までさらけ出して話ができるような気がするし、そんな子に会えたのははじめてのような気がするの。


 潮音は勉強もバレエも生徒会活動も、その他何をやってもかなわないし、学校のみんなとも明るく接して信頼もされている、自分から見て雲の上の存在のように思っていた紫が、自分に対してこのように感じていたなどとは夢にも思わなかった。潮音は紫ほどの優等生ですら、学校生活の中で悩みを抱えていたのだろうかと意外に思わずにはいられなかった。


 潮音が紫のことを気にしていたのは、先ほどのバレンタインデーの日に本心を打ち明けられたからだけではなかった。ちょうど今ごろは、高校二年生から難関大学への進学を目指す特進コースと、それ以外の進学コース、さらには学科も理系と文系に振分けられるにあたって、生徒たちも卒業後の進路のことや勉強したいことを気にかける時期になっていた。潮音は自分の成績では特進コースなどとうてい無理だと思っていたが、紫はもちろん特進コースに進むとして、その先にどこを目指すのかが気になっていた。


 そこで潮音は以前、紫にプロのバレリーナを目指してはどうかと話しかけたときに紫が見せた表情を思い出していた。


――冗談言わないでよ。あの世界でやっていくのがどれだけ大変かわかってるの。


 そのように話したときの紫は、どこか寂しそうな表情をしているように潮音には感じられた。潮音は小学生のときから同じバレエ教室で紫がレッスンを行っている様子を目の当りにしてきたが、そのときのまだ子どもだった紫は純粋にバレリーナに憧れていたことを潮音は今さらのように思い出していた。


 もちろん潮音も、自らバレエのレッスンを受けている者として、バレエの道で生計を立てることの厳しさは理解しているつもりだった。しかし紫は本当にそれで満足しているのか、紫は何を目指したいのかが潮音は気になっていただけに、これを機に紫の両親にもぜひ紫の心の中について聞かなければならない、そして何よりも紫の本心がどのようなものであったとしても、自分自身がしっかりとそれを受け止めてやらなければならないと決意を固めていた。潮音は今日は服装こそおしゃれしてきたとはいえ、ことは穏やかには済まないだろうと予感して身震いを感じていた。



 やがて潮音は、紫の家の立派な構えの門の前に着くと、覚悟を決めてインターホンのボタンを押した。潮音が紫の家を訪れることは今が初めてではないとはいえ、潮音が今日あらためて紫の家の門を前にすると、どうしても緊張感をぬぐうことができなかった。


 しばらくして紫の母親の幸枝が、玄関口まで潮音を迎えに来た。小ぎれいな装いをした幸枝は潮音の着飾った姿を目にするなり、目を丸くしていた。


「いらっしゃい。藤坂さんは今日はずいぶんおめかしして来たわね」


 幸枝に笑顔で出迎えられると、潮音は気恥ずかしさのあまり顔を赤らめながら軽く会釈をした。


「い、いえ…。今日は紫の両親がせっかく家に誘ってくれたから、失礼のないようにしなければと思ったのです。うちの母と姉もわざわざいい服まで用意してくれて」


「藤坂さんもそこまで気を使ってくれなくてもいいのに。せっかくだから今日は気軽に話してもらえないかしら。紫からあなたのことを聞いて以来、あなたとは一度会ってきちんと話がしたいと思っていたの」


 潮音は幸枝を前にして、緊張のあまり生唾(なまつば)を飲み込んだが、ここまで来た以上もう後に退くことはできなかった。潮音が紫に案内されて家の中に足を踏み入れ、今まで通されると、そこには紫の父親の峰山亮太郎(りょうたろう)と紫が控えていた。紫も今日はきちんとした装いをしていたが、潮音を見守る紫の顔はどこか不安そうだった。潮音は紫の顔をちらりと見ながら尋ねた。


「今日萌葱と浅葱は…」


「友達と一緒に遊びに行っちゃったわ。二人とも来年は中学入試で、バレエの稽古だってあるのにどうしようもないわね」


 紫はため息混じりに答えた。


 紫の父親の亮太郎は一見温厚そうで落ち着いているように見えるが、体つきは頑健で目も爛々と輝いており、いかにも紳士という言葉が似合いそうな男性だった。潮音はこの人はスポーツか武道の心得でもあるのかと一瞬で見抜いたが、亮太郎の引き締まった精悍な顔つきを目の当りにすると、この人の前では小細工で言葉を濁すことはできない、はっきりと本当のことを話すしかないと直感していた。


 亮太郎は潮音の顔をちらりと見るなり、にこやかな笑顔を浮べて潮音に話しかけた。


「君が藤坂潮音さんだね。紫からいろいろ話は聞いているよ」


 潮音は亮太郎の顔を見つめ返すなり、不安げに口を開いた。


「私のこと…紫はどんな風に言っていたのですか」


 そこで亮太郎の傍らに控えていた幸枝が笑顔で口を開いた。


「紫は私たちにあなたのことを話すときは、今まで学校でもあなたのような子に会ったことはないって言ってるのよ。一緒にバレエのレッスンをやっているときのことを話すときなんかは、ほんとに楽しそうにしているわ。それに萌葱と浅葱だって、あなたにはだいぶなついているじゃない」


 ご機嫌そうに話す幸枝の姿を見て、紫は余計なことを言わないでほしいとでも言いたげに、気恥ずかしそうな目で幸枝の方を見ていた。そこで亮太郎は一同を見渡しながら提案をした。


「せっかくだから、みんなでどこか食事でもしに行こうか」


 潮音が戸惑う間もなく、亮太郎はスマホで電話をかけてレストランの席が空いていることを確認し、さっそく予約を取った。続いて亮太郎と幸枝は手早く身支度を整えると、紫と潮音を車に乗せて家を後にした。


 車が走り出すと、潮音は運転席でハンドルを握っている亮太郎に声をかけた。


「紫のお父さんって、何かスポーツやってたんですか?」


 その潮音の質問に、亮太郎は少し怪訝そうな顔をした。


「どうしてそんなことを聞くんだい?」


 そこで潮音は、ためらい気味に返事をした。


「いや、紫のお父さんって、ずいぶん立派な体格をしているから…」


 その潮音の言葉に、亮太郎は笑顔で答えた。


「よくわかったね。私は高校と大学でラグビーをやっていたよ。今でもときどき試合を見に行くんだ」


 潮音はその亮太郎の言葉を聞いて、亮太郎はスポーツマンらしいがっしりとした体格をしているはずだと納得するとともに、亮太郎が役員をつとめている会社は社会人ラグビーでも有名なことを思い出していた。そこで潮音の隣の席に腰かけていた紫も、潮音に声をかけた。


「私も父に連れられて、ちっちゃな頃から萌葱や浅葱と一緒にラグビーの試合によく行ってたの。潮音も今度いっぺん一緒に試合見に行かない? 潮音が一緒だと、萌葱と浅葱も喜ぶと思うよ」


 その紫の言葉に、潮音は多少なりとも緊張をやわらげることができたような気がした。


 そうしているうちに、亮太郎の運転する車は海を見下ろす高台にある、しゃれた感じのするレストランに着いていた。潮音は駐車場で車を降りたものの、今までこのような高級そうな感じのする飲食店に入ったことなどなかっただけに、思わず尻込みしそうになった。しかしそこで、そのような潮音の背を紫がそっと押してやった。


 店に入ると、亮太郎はさっそくスタッフに気軽そうにあいさつをした。紫の家族にとって、このレストランは行きつけのようだった。


 潮音がテーブルについてメニューを見せられると、あまり味わったことがないような高級そうな料理の名前だけでなく、その値段にも思わず目を丸くした。幸枝は遠慮しないで自分の食べたいものを注文すればいいと勧めたが、潮音は安めのコース料理を遠慮気味に頼んだ。


 しばらくして食器が運ばれてきてテーブルの上に並べられても、紫は潮音があまりにも緊張で体をこわばらせているのを見かねて、少し落ち着くようにと声をかけた。


「学校の礼法の授業でもちゃんとテーブルマナーについて習ったでしょ。こういうフォーマルな場に出ても、ちゃんとお行儀よく食事ができるようにならなきゃダメよ」


 そこで潮音は、紫にちらりと目を向けた。紫はフォーマルなドレスをきちんと着こなしていて、それがよく似合っていて気品を感じさせるだけでなく、今のような高級なレストランに入っても何ら動じることなく落ち着いた行動を取っていた。潮音は服や化粧でいくらうわべを装ったところで、自分はどうしても紫にはかなわないと内心でため息をつきたい気分になった。


 やがて料理が運ばれてくると、潮音は食器の上げ下ろし一つにすら気を使わなければならなかった。音を立てたり、食べ方がだらしなかったりすると紫からも叱りの声が飛ぶかもしれないと思うと、せっかく出された料理を味わって楽しむ余裕などとてもなかった。そのような潮音の様子を見て、紫はじれったそうに口を開いた。


「せっかくのごちそうなんだから、もっとおいしそうに食べればいいのに。たしかにエチケットだって大切だけど、そればっかり気にして料理をおいしく食べられなければ何にもならないでしょ」


 そう言う紫は、潮音よりもずっと手慣れた手つきで食器を器用に操りながら、料理を口へと運んでいる。潮音は食事のマナー一つを取っただけでも、紫の方がずっと自分よりも先を歩んでいるように感じて、気後れを覚えずにはいられなかった。それと同時に、潮音の心の中ではどうして紫の家族は自分をわざわざこのような場に呼んだのかと疑念が深まっていった。


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