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裸足の人魚  作者: やわら碧水
第四部
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第七章・スイート・バレンタイン(その6)

 潮音が自宅に着いた頃には、冬の日は早くも暮れかけて西の空が赤く染まり、辺りを宵闇が覆いつつあった。潮音は自宅の右隣にある昇の家の門の前で、チョコを握りしめたまま目を伏せて、自らの気持ちを落ち着けようとしていた。冷え込む冬の夕闇の中では、潮音の吐く息も白くなってそのまま消えていった。


 潮音は先ほど紫からチョコを贈られて、本当の気持ちを打ち明けられたことで、昇にチョコを手渡すことへの覚悟はできたつもりだった。しかしいざ、潮音が昇の家の門の前に立つと、心の中でやはりためらいを感じずにはいられなかった。


 しばらくの間まごまごしていた潮音が覚悟を決めて、インターホンのボタンを押そうとしたときだった。潮音の背後で声がした。


「藤坂さん…僕の家に何か用があるの?」


 その声の主こそ、昇その人だった。潮音がどきりとしたときはもう遅かった。潮音は驚きと気恥ずかしさのあまり一瞬尻込みしそうになったが、もうここまで来た以上はやけくそだと思って、思い切って昇の前にチョコを突き出した。


「あ、あの、湯川君…。今日はバレンタインデーだから、これを受け取ってください」


 昇は潮音の突拍子もない行動を前にして、わけがわからないまましばらくその場に立ちすくんでいた。しばらくして昇にもようやく状況が飲み込めるようになると、昇は赤面しながら気まずそうな顔をしていた。


「ご、ごめん。僕って今までこうやってバレンタインデーに女の子からチョコをもらったことなんかなかったからさ…」


 まごついたままの昇に対して、潮音はたたみかけるように口を開いた。


「あの…湯川君には勉強のわからないところだって教えてもらったし、去年のクリスマスには一緒に過ごしてくれたし、何かお礼をしなきゃいけないってずっと気になってたから…」


 潮音がしどろもどろになって話しても、昇はあくまでクールな様子を崩そうとしなかった。


「そんなに気にする必要なんかないのに。勉強のわからないところとかあったらいつでも聞きに来ればいいよ。できる範囲でなら教えてあげるから」


 潮音は昇の屈託のない明るい態度を前にして、ますます気持ちがもやもやするのを感じていた。その昇の無邪気さこそが、かえって潮音の心を戸惑わせずにはいられなかった。


「そんな…湯川君こそ、この先ますます勉強大変になるのに。私なんて湯川君に比べたら全然勉強してないのに、湯川君の邪魔しちゃ悪いよ」


 潮音の言葉を聞いて、昇はますます当惑の色を浮べていた。


「藤坂さん…僕に対して変に気を使うことなんかないよ」


「いや、湯川君はとっくに目標を決めて、それに向かって一生懸命勉強しているのに、それに比べたら私なんて何をすればいいのかもわかんないまま、ここに立ち止まってばかりだから…」


 その潮音の言葉を聞いて、昇は暮れなずむ夕空に輝き始めた星を見上げながらそっと言葉をかけた。


「僕らはいつから、勉強って大変でつらいものだって思うようになったんだろうね。勉強して知らなかったことを知ったり、できなかったことができるようにようになったりするって、ほんとは楽しいことのはずなのに」


 潮音は昇の話を聞いて、こんな風に考えるなんてやはり昇は自分と頭の出来が違うと感じていた。そのような潮音の顔を見て、昇はさらに話を続けた。


「『何のために勉強するか』なんて、そんなの簡単に答えが出るわけないじゃん。僕だって弁護士になりたいって言ってるけど、なれるかどうかなんてまだわからないし。でも藤坂さんは自分が今勉強してるのは、目の前のテストでいい点取るためだけじゃないかとか思っているかもしれないけど、そうやって何でもいいから毎日頑張っていれば、目標だってきっと見えてくるんじゃないかな」


 そこで潮音は、自分の性別が変ってからしばらくの間、周囲に対しても心を閉ざしたままだった日々のことを思い出していた。潮音はあのときのことを思い出せば、今の自分が抱えている問題など何でもないと思えるようになっていた。


「…ありがとう。湯川君と話してて、少し気が楽になったかな。はっきり言ってチョコを渡すかどうかはだいぶ迷ったけど、それだけでも今日勇気を出して、チョコを渡して良かったよ」


 潮音が多少が明るさを取り戻したのを見て、昇も笑顔になっていた。その間にも冬の日はとっぷりと暮れかけて辺りもだいぶ暗くなってきたので、潮音は昇に手を振って別れの挨拶をすると、自宅に戻ることにした。



 潮音が自宅に戻って玄関のドアを開けると、その途端に潮音は腰を抜かしそうになった。玄関口で暁子と優菜の二人が、待ちくたびれたような表情をして立っていたからだった。


「潮音、バレエの教室行ってたからとはいえ、ちょっと帰るの遅いよ」


「ほんまやで。うちらはせっかく潮音にチョコを渡そうと思って待っとったのに」


 潮音がすっかりまごまごしていると、そこに綾乃も出てきたので、潮音は綾乃に尋ねた。


「姉ちゃん、これはいったいどういうことだよ」


 うろたえている潮音を前にしても、綾乃の態度は落ち着き払っていた。


「さっき私が大学から戻ってきたら、暁子ちゃんと優菜ちゃんが家の門の前で待ってたからね。この寒い中外で待たすのも何だから、私が家の中で待つように言ったのよ」


 潮音はさっきまで自分が昇の家の前で昇と話していたことに暁子や優菜は気づいていないようだったので、内心でほっとしていた。しかし潮音が息をつく間もなく、暁子はためらい気味に潮音の前にチョコを差し出していた。


「あの…あたしは今までこうやってあんたにチョコなんか渡したことなかったけどさ、あんたが今こうやって頑張ってるのを見たら、あたしも何かしなきゃいけないって思ったからさ…。あたしだってあんたにはいろいろ世話になってるし」


 そのように話す暁子の口調はしどろもどろで、落ち着きのない様子が丸わかりだった。そのような暁子を見て、優菜はじれったそうに声を上げた。


「アッコもせっかく覚悟を決めたんやから、思い切って告白したらええのに」


 そこで暁子は、ますます赤面しながら声を上げた。


「変なこと言わないでよ。あたしはあんたのこと好きだとか告白したいとか、そんなつもりなんかないんだってば」


 そのような暁子の様子を見て、優菜も呆れ顔になっていた。


「アッコかてもっと素直になればええのに。あんたら二人を見とったら、ほんまにじれったいわ」


 そこで優菜も、自分が用意したチョコを取り出した。


「潮音、あたしは中学のときからずっと潮音のこと好きやったけど、中学のときのあたしは内気で告白することもできへんかった。だからあたしは中学の三年分の思いを込めて、今潮音にチョコを贈るで」


 その優菜の告白には、潮音までもが気恥ずかしい思いがした。潮音はたじたじとしながらも二人に返事をした。


「暁子に優菜…二人ともありがとう。せっかくこうやってチョコまでもらったのに、二人ともオレの方から何もできなくてごめん」


 その潮音の返事を聞いて、暁子と優菜は口々に答えた。


「だから、あんたがそんな風に変に遠慮する必要なんかないってば。あたしだって優菜だって、あんたが元気で頑張ってる、それだけで十分だよ」


「アッコの言う通りやで。潮音が頑張ってる姿を見るだけで、あたしらかて元気になれたような気がするんや。だから潮音かて、もっと自分に自信持った方がええよ」


 その二人の言葉に、潮音は大きくうなづいた。そこで潮音の隣にいた綾乃が暁子と優菜に声をかけた。


「二人とも潮音のためにここまでしてくれてありがとう。でももう外も暗くなるし、そろそろ家に帰った方がいいんじゃないかしら」


 暁子と優菜が手を振って潮音の家を後にしたときには、二人ともどこかふっ切れたような表情をしていた。潮音は二人から受け取ったチョコを眺めながら、その二人のいつもと変らない元気な顔を思い出していつの間にかほくそ笑んでいた。


 しばらくして則子も仕事から帰ってきて、家族で夕食の席についてからも、綾乃は潮音にバレンタインデーに何があったのかをしきりに尋ねていた。潮音は食事を口に運びながら、いやそうな顔でそれに対して気のない返事をした。


 潮音は夕食が済んで自室に戻ってから、紫からもらったチョコをカバンから取り出してみた。そのチョコはどちらかというと小粒だったが、それを見て潮音は、紫は栗沢渉に本命のもっと立派なチョコを渡しているのかもしれないと思ったものの、それを詮索するのも野暮だと思い直した。潮音はそれよりもむしろ、紫が自分にチョコを手渡したときに、本心を打ち明けたことの方が気になっていた。潮音は表向きは学年一の優等生でリーダー格のように振舞ってきた紫も、心の底では悩みを抱えていたのか、そのために自分を頼りにしてきたのかと思うと、紫に対してどのように接したらいいのかますますわからなくなっていた。


 それと同時に、潮音は先ほどの昇の表情も思い出していた。潮音はたしかに昇の優しさは感じていたものの、だからこそそれに甘えてばかりはいられないと思い直して、あらためて机の上で問題集を広げていた。


 潮音はあらためて、先ほど昇に言われた言葉を思い出していた。


――勉強して知らなかったことを知ったり、できなかったことができるようにようになったりするって、ほんとは楽しいことのはずなのに。


 潮音は自分は何を目指して頑張ればいいのか、その先に何があるのかもまだよく見えなっかったが、紫や昇に負けないようにするためにも、今の自分はかすかでも歩みをとめるわけにはいかないと思っていた。

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