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裸足の人魚  作者: やわら碧水
第四部
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第七章・スイート・バレンタイン(その5)

 それと同じ頃、布引女学院でも生徒たちは落ち着かない様子をしていた。もともと校風が厳格な布引女学院では、校内にチョコを持ち込んだりチョコの受け渡しをしたりすることは禁止されていたが、生徒の中には放課後に学校の外で好きな人にチョコを渡すために、カバンの中にチョコを隠し持っている者もいた。


 富川花梨も先生に気づかれないように、通学カバンの奥にチョコを隠し持っていた。花梨はルミナリエの後に漣から自分が昔男だったことを打ち明けられて以来、どうすれば漣を元気にできるのか、漣を支えてやれるのかをずっと考えていたが、その末に花梨は漣にチョコを贈ったら漣の心がかすかにも温かくなるのではと結論を出したのだった。花梨はバレンタインデーの当日もずっと、チョコを先生に見つかって没収されやしないかと気が気でなかったが、そうやって落ち着かない態度を取っていたらますます先生から怪しまれるかもしれないと思うと、心が落ち着く暇がなかった。


 この日の花梨には、授業が終るまでの時間もとりわけもどかしく感じられた。ホームルームが一段落すると花梨はさっそく、帰宅の準備をしていた漣を呼び止めた。花梨はそのまま、きょとんとしている漣を誘って足早に校外に出ると、学校の近くの街の一角にある小さな公園に漣を連れ込んだ。


 漣は公園に入ってからも、落ち着かない様子できょろきょろと辺りを見回していた。


「富川さん…こんなところに来ていったいどうしたんだよ」


 そこで花梨は、ニコニコと笑みを浮べながら漣の顔を見つめた。


「漣、今日は何の日か知ってる?」


 いきなりの質問に漣がますますまごまごしていると、そこで花梨は通学カバンを開けてチョコを取り出し、漣の前に示してみせた。漣は今までこのような経験などなかっただけに、たじたじとするしかなかった。そこで花梨は、しっかり漣の顔を見据えて口を開いた。


「私はこの前漣の話を聞いたときからずっと気になってたんだ。漣はずっと自分のことを誰にも打ち明けられずにいたんじゃないか、心を許せる友達が誰もいなかったんじゃないかってね。…でも漣は、これ以上一人で悩む必要なんかないよ。苦しいときや困ったときは、私だって藤坂さんだっているんだから、いつだって頼ってくれたらいいよ」


 漣は花梨の顔と、花梨が手にしているチョコを交互に見比べながら戸惑いの色を浮べていた。そこで花梨は言葉を継いだ。


「これ? 漣って今までバレンタインにチョコなんかもらったことなかったんじゃないかって思ったから、私が用意したんだ。良かったら受け取ってよ」


 漣は花梨からチョコを手渡されると、照れくさそうな顔をしたままその場に立ちすくんでいた。そして漣は、控えめながらようやく重い口を開いた。


「自分は今までこんな風にチョコなんかもらったことなかったけど…どうもありがとう」


 その漣の言葉を聞いて、花梨もいつしか表情をほころばせていた。


「これで漣が少しでも元気になってくれるんだったら、私もチョコを贈って良かったよ。何だったら一緒に駅まで帰らない?」


 二人で公園を後にして、港を見下ろす高台の道を歩き出してからも、日頃から寡黙な漣は、多くを話そうとはしなかった。しかしそれでも、花梨は漣の気持ちを感じ取って、やわらかな冬の西日を浴びながら柔和な表情になっていた。



 さらにそれと同じ頃、南稜高校の温水プールでは、水泳部員たちが練習に打ち込んでいた。南稜高校の水泳部は高校総体をはじめとするさまざまな大会への出場を目指しているだけに、練習もとりわけ厳しいものとなっていた。プールで練習している部員達には、バレンタインデーだからといって浮かれる様子など微塵もなかった。


 尾上玲花は水泳部のマネージャーとして、プールサイドに立って部員たちの泳ぎを確かな視線で見守りながら、ストップウォッチを手にタイムを計測していた。力強くプールを泳ぎ切った浩三も、プールサイドに上がって玲花からタイムを聞かされると、唇をかみしめて悔しそうな表情をした。浩三は毎日練習や筋トレに励み、食事にも気を使っているにも関わらず、なかなかタイムが縮まらないことにもどかしさを感じているようだった。


 部員たちが練習を切り上げてプールを後にしてから、玲花は後片付けやデータの整理を済ませると、自らも帰り支度を始めた。しかしそこで、玲花は浩三のために準備したチョコを手にしながら少し考え事をしていた。


 水泳部のホープである浩三には、校内でも何人かの女子生徒がチョコを贈ろうとしていた。浩三がもじもじしながらそれを断るのを、玲花はやきもきしながら眺めていた。それ以前に玲花は水泳部のマネージャーという立場として、一部の部員に対して特別に親しくすることなど許されるものではない。しかし玲花は、中学生のときからずっと抱いていた浩三に対する想いを抑えることができなかった。浩三が南稜高校に進学して、中学生のときよりもはるかに本格的に水泳に打ち込んでいる姿を目の当りにして、玲花の心の中の浩三に対する想いはますます強まっていった。


 そして玲花は、寮に戻ろうとする浩三を待ち構えると、こっそり物陰に連れ込んでカバンから取り出したチョコを手渡そうとした。しかしそこで、浩三は玲花の顔を向き直すと、きっぱりと口を開いた。


「すまへんな、玲花。今のオレは玲花のチョコを受け取るわけにはいかんのや」


 その浩三の言葉を聞いて、玲花は一瞬で表情を曇らせた。そのよう玲花の表情を見ると、浩三は玲花をなだめるように口を開いた。


「誤解せえへんといてくれ。そんなつもりやないんや。むしろオレは玲花のこと好きやからこそ、こう言うとるねん。今のオレとお前は、水泳の選手とマネージャーという関係で、その枠をこえてベタベタつきあうわけにはいかへんのや。それにオレは大会に出ようと思うたらもっと練習かてがんばらなあかんし、そのためにも今はチョコをもらって浮かれとるわけにはあかんのや。そのチョコは、もっとほかのええ人にでもあげてくれ」


 玲花も険しい表情をしながらも、浩三のこの言葉には納得したようだった。


「わかったよ。はよ寮に帰りな」


 浩三は一瞬悔しそうな表情をしながらも、玲花に背を向けると振り向かずに寮に向かった。玲花はしばらくその場に立ちすくみながら、チョコを握りしめて鼻をすすり、涙で頬を濡らしていた。



 その一方で潮音は、ホームルームが一段落すると紫と一緒に帰宅の準備をしていた。


「やれやれ、せっかくのバレンタインデーだというのに、バレエの練習があるなんて」


 ため息をつく潮音を、紫がなだめた。


「しょうがないでしょ。うまくなろうと思うんだったらもっと練習しなきゃ」


 そして潮音が紫と連れ立って教室を後にしようとしたとき、長束恭子が紫のもとに駆け寄ってきた。紫が戸惑う間もなく、恭子は紫にチョコを手渡した。


「紫…いつも世話になっとるな。どうもありがとう。これからもよろしゅうな」


 そのときの恭子のデレデレした表情は、潮音に対して意地を張っていたときとは対照的だった。潮音は口ごもって自分の気持ちを素直に伝えられずにいる恭子を見て、自分は紫に憧れていると気持ちをはっきり伝えればいいのにと、じれったい気持ちを抱いていた。


 潮音と紫はそのまま電車に乗ってバレエ教室に向かうと、夕暮れまでバレエのレッスンで汗を流した。バレエ教室に通っている子どもたちの中には、バレンタインデーのことを話題にしている少々ませた子もいたが、紫はそのような子どもたちを落ち着かせて練習へと向かわせていた。


 練習が一段落すると、潮音は帰り支度をしながら顔に笑みを浮べて紫にさっそく声をかけた。


「紫、実を言うと昨日、私は紫がチョコを買いに行くのを見たんだ」


 紫がそれを聞いた途端に顔色を変えたのを見て、潮音は紫をなだめるように言った。


「そんなにあわてるなよ。紫が誰にチョコを贈るかなんて私には関係ないだろ」


 しかしそれを言われたとき、紫はますます赤面しながら恥ずかしそうにしていた。潮音はいつも気高く凛とした様子をしている紫がこんな表情をしているところなど見たことがなかっただけに、ますます意外にならざるを得なかった。


 紫は身支度を済ませると、ためらい気味にカバンを開けて、そこから包み紙にくるまれたチョコを取り出した。


「これ…潮音にあげようと思っていたの」


 潮音は紫が自分にチョコを手渡すという予想外の展開に、ますます目を白黒させた。


「紫、これはいったい…」


 当惑したままの潮音を前に、紫はためらい気味に口を開いた。


「潮音、あなたが去年高等部からうちの学校に入ってきて、だいぶ私の学校生活は変ったと思うの。あなたは男の子から女の子になっちゃって戸惑ったり悩んだりすることだってたくさんあったと思うけど、だからこそあなたは目の前の現実から目をそらしたりしないで、体当たりでぶつかってきた。私はそんな潮音の姿を見てると、自分まで元気をもらえたような気がするの」


 その紫の言葉を聞かされて、潮音はますます当惑の色を深めていた。自分は何をやっても紫にはかなわないと思っていたのに、その紫が自分のことをそのように見ていたと告白されると、ますます意外に思わずにはいられなかった。


「そんな…私なんてこの学校行ってから、周りの子たちについていけなくて悩んでばかりいるのに」


 しかし紫はそこで軽く首を振って言った。


「私は学校でも、先生や周りの子たちからは優等生のお嬢様として通ってきた。でも、潮音はそんな目で私を見たりせず、私に対して自分の思うことをはっきりと伝えてくれた。トラブルが起きたときにはそれを解決しようともしてくれた。私は今の学校でいろんな子たちとつき合ってきたけど、今ではあなたと一緒にいると本心までさらけ出して話ができるような気がするし、そんな子に会えたのははじめてのような気がするの」


「…紫がそんな風に思うのは、やはりオレが男だったからなの?」


「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。ただ一つ言えるのは、私はあなたに感謝の念を込めてチョコを贈りたいってことよ」


 そこで潮音も、ようやく用意していたチョコを紫に渡す決意を固めた。潮音もカバンから昨日買ったチョコを取り出して、紫の前に差し出した。


「私こそこの一年足らずの間に紫にはだいぶ世話になったから、チョコを渡そうと思ってさ。…でもそれだけじゃないんだ。…もし自分は男の子のままだったら、絶対紫に惚れていたと思う。この前のクリスマスのとき、紫が栗沢先輩と一緒に踊っているのを見て、やはりちょっともやもやするのを感じたんだ」


「…潮音ってやっぱりそんなことでずっと悩んでいたの。でもそれでもこうして、私にチョコをくれるなんて」


 紫は潮音から丁寧な手つきでチョコを受け取ったときも、その表情はどこか浮かなかった。しかしそのとき、バレエ教室を主宰している森末先生が二人のところに来た。


「いくらバレンタインデーだからといって、二人とも話しこんでいないでそろそろ家に帰りなさい」


 そこで二人は、ようやく話を切り上げて帰り支度を済ませ、バレエ教室の前で別れた。


 潮音は帰途についてからもずっと、紫が自分に対してあのように思っていたのかと思うと、心の中から動揺が抜けなかった。潮音は紫とは一度腹を割ってきちんと話し合ってみる必要があると思いながらも、まだ帰宅すると昇にチョコを渡さなければならないと気持ちを切り替えて、暮れなずむ冬の街を自宅へと急いでいた。


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