第七章・スイート・バレンタイン(その2)
潮音はバレンタインデーの直前になっても、誰にチョコを贈るべきか、贈るとしてもどのようなチョコを贈るべきなのかずっと決めかねていた。インターネットでチョコの作り方のレシピを検索したりもしてみたが、それを見たところでもともと料理が得意ではない潮音には、とてもそれをうまく作れる自信がなかった。お菓子作りが得意な暁子や綾乃にチョコの作り方を尋ねるのも、照れくさくてためらわざるを得なかった。
そのような潮音の様子をはたから眺めながら、暁子はじれったさを覚えずにはいられなかった。いよいよバレンタインデーが数日前に迫ったある日、暁子は優菜を呼びとめると、潮音が悩んでいるらしいことをため息混じりに打ち明けた。
「潮音ってほんとに隠し事するのが下手なんだから。このところずっとそわそわしてて、落ち着かない様子なのがはたから見てても丸わかりなんだもの。あいつってけっこう優柔不断だけど、そんなに一人でクヨクヨ悩んでるくらいだったら、何でもいいからあたしに相談すればいいのに」
しかし優菜は暁子の話を聞くと、逆に暁子に尋ねていた。
「でもそれやったら、アッコはその迷っとる潮音に相談されて、それに対してちゃんと答えられるん?」
そう言われると暁子も口をつぐんでしまった。
「この前まで男の子やった潮音が今どないな気持ちでおるかなんて、そんなことアッコにもあたしにも、誰にもわかるわけないやん。潮音には潮音なりの思いがあるやろから、あの子が誰にチョコを贈るとしても、あたしらはそれをあったかく見守ってやるしかないんとちゃうかな」
そこまで言われると、暁子も返す言葉がなかった。しかしそこで、優菜はあらためて暁子の顔を向き直した。
「アッコかて人のことばっか心配するより先に、自分はどないするか考えた方がええんとちゃうん。アッコこそ潮音のこと、女の子になる前から好きやったんやろ? だったらこれを機に思い切ってチョコあげて告白したらええやん」
優菜が冷やかすような言い方をするのを、暁子はいやそうな目で眺めながら語調を強めていた。
「バカなこと言わないでよ。あいつとは家が隣同士で、ちっちゃな頃から一緒にいただけだってば。だいたい優菜こそどうなのよ。あんたこそ中学の水泳部にいた頃からあいつに憧れてたんでしょ。なかなか言い出せなくてもじもじしてたくせに」
「アッコもそんなにカッカせえへんと、もっと素直になればええのに」
優菜になだめられても、暁子はふくれっ面のままだった。そこで優菜は、そっと暁子に耳打ちした。
「あたしは今度のバレンタインデーに、思い切って潮音にチョコを贈ろうと思っとるんや。中学の間は告白できへんかったから、その分の思いを込めてな」
その優菜の話を聞いて、暁子は呆気に取られたような表情をした。そして優菜は、暁子にあらためて声をかけた。
「いずれにせよ、バレンタインデーはアッコの好きなようにすればええやん。後悔することのないようにな」
そのとき暁子は、中学生のときは内気で自分の気持ちを素直に言い出すこともできなかった優菜が、いつの間にか積極的な性格になったことにあらためて戸惑っていた。それと同時に、暁子は潮音だけでなく優菜までもが自分より先に進んでいて、自分一人がそれに取り残されているような感触を味わって、焦りを覚えずにはいられなかった。
潮音が煮え切らない気持ちを抱えながら過ごしているうちに、いつしかバレンタインデーの前日になっていた。潮音は今日こそバレエの練習もないし、覚悟を決めてチョコを買いに行かなければいけないと思っていたところ、昼休みにカフェテリアでいきなり元気のいい声をかけられた。
「藤坂先輩」
声のした方を振り返ってみると、松崎香澄が二人の中等部の生徒と一緒に笑顔で手を振っていた。
「先輩はさっきから、なんか考え事してるような感じだったけど、どうしたんですか? まさかバレンタインデーをどうするかで悩んでるんじゃないでしょうね」
潮音も香澄の無邪気で屈託のないそぶりを前にすると、悪意がないだけに言い返すこともできないまま、内心でやれやれと思っていた。潮音はあまり気乗りのしない表情をしながらも、香澄に尋ねてみた。
「そう言う香澄こそバレンタインデーはいったいどうするんだよ」
そう問われると、香澄はますますニコニコしながら答えた。
「私はこれから放課後になると、ここにいる同じクラスの友達と一緒に、姉にあげるチョコレートを買いに行こうと思ってるんです。あ、私の友達を紹介しときますね。こっちの子は新島清子、そっちの子は芹川杏李です」
香澄に紹介されて、一見おとなしそうに見える清子はぺこりと頭を下げた。
「藤坂先輩のことは香澄からも聞いています。よろしくお願いします」
潮音がその清子という子はずいぶん腰が低くて態度が丁寧な子だなと思う間もなく、杏李が快活そうに潮音に声をかけた。
「あなたが藤坂先輩ですね。去年の文化祭でジュリエットの役をやったことは、中等部でも評判になってますよ」
香澄だけでなく清子や杏李にまで視線を向けられて潮音はげんなりしたが、そこであらためて香澄に目を向けた。
「香澄のお姉ちゃんって、あの松崎千晶先輩のことだよね。香澄は先輩にチョコをあげるのかよ」
「はい。生徒会の活動も剣道部も、勉強もすごくよくできるし、それにずっとあたしのことを守ってくれた姉を私は尊敬しています。それに姉は去年のバレンタインデーにも、後輩からたくさんチョコをもらっていたのですよ」
そこで香澄のそばにいる杏李も口をはさんだ。
「なんてったって剣道に打ち込んでいる松崎千晶先輩はかっこいいですからね。面越しの真剣な眼差しといい身のこなしといい。私が見ててもほれぼれします」
そのように話す杏李は、見るからに千晶に憧れているようだった。するとそばにいた清子も身を乗り出してきた。
「今年のバレンタインは、藤坂先輩のクラスで次期生徒会長とも言われている峰山紫先輩やバスケ部の吹屋光瑠先輩、文化祭でヒースクリフの役をやった榎並愛里紗先輩にも後輩からチョコがたくさん贈られそうですね」
そうやってにぎやかに話している後輩たちを、潮音はいささか呆れ気味に眺めていた。
「うちの学校って、女の子同士で後輩が好きな先輩にバレンタインのチョコを贈ったりするのかよ」
そこで香澄がむっとした表情で言った。
「バレンタインデーだからといって、女の子がチョコを贈る相手は男の子じゃなきゃいけないなんて法律なんかないと思いますけど。好きな人だったら、贈る相手は男の子でも女の子でもいいじゃないですか」
それを聞いて潮音は、先輩を相手にしてもはっきりと自分の意見を言う香澄の芯の強さは、やはり姉譲りだなと思っていた。
「わかった…香澄の言う通りだから少し落ち着いてよ」
潮音がなんとかして香澄をなだめると、香澄は一転してけろっとした表情で潮音を向き直した。
「で、藤坂先輩もバレンタインデーには誰かにチョコをあげるのですか?」
そこで潮音はもじもじしながら答えた。
「いや、実を言うとついさっきまでチョコを渡すべきかどうか、ずっと迷ってた人がいるんだ。でも今こうして香澄と話してて、ようやく決心がついたよ。クヨクヨしてばかりいたって何も始まらない、やってみないことには何にもならないってね」
そこで香澄は表情をほころばせた。
「へえ。藤坂先輩もチョコを贈りたい人がいるのですか。じゃあ今日の放課後、私や清子、杏李と一緒に駅前のお店にチョコを買いに行きませんか? 藤坂先輩はチョコを買いに行くこと自体が恥ずかしいみたいな感じだったけど、そうした方がお店にも行きやすいと思うから」
潮音は後輩にまで気を使わせて面目が立たないと思いながらも、香澄の好意を断るのも悪いような気がしたので、その香澄の提案を受け入れることにした。
昼休みが終りに近づくと、清子が潮音と少し話したいことがあると言って、香澄と杏李に先に教室に戻るように言った。香澄と杏李が少し気づまりな表情でカフェテリアを後にすると、清子はさっそく潮音にそっと話しかけた。
「香澄はああやって人前では明るくしてるけど、実はお姉さんの千晶先輩に対してだいぶコンプレックスを持っているんだと思います。さっきだって自分はいつもお姉さんに守ってもらってばかりだって言ってたし、それに香澄は自分もお姉さんに憧れて剣道を始めたけれども、練習についていけなくなってやめたって言ってるし…。この学校でもまわりから『千晶先輩の妹だ』と見られていることが、かえってプレッシャーになっているんじゃないかと思うのですが」
潮音はそのような清子の話を聞いても、意外には思わなかった。そこで潮音は清子に答えてやった。
「そうやって悩んでるのなんて、みんな一緒だよ。私だって今大学生になるお姉ちゃんがいるけど、何をやってもそのお姉ちゃんにはかなわなかったし、今だってしょっちゅう迷惑かけてばかりいるし。だからあまりつまんないことばかり気にしてクヨクヨするなって言っときな。それに新島さんが友達のことを大切に思っていることはわかったよ」
そう言って潮音は、清子を中等部の教室に帰らせた。潮音は自分が教室に戻る間も、一見明るく陽気に見える香澄にも、心の中ではナイーブな一面があるのだなと考えていた。しかしそれだけに、これからの放課後やバレンタインの当日はどうなるかと思うと、潮音はやれやれと言いたい気分になった。潮音はこれまで中等部の後輩に対して、先輩らしいことなんかしてやったことなどなかったなと思うと、ますますこれからの放課後に不安を感じずにはいられなかった。




