第三章・岐路(その2)
潮音は玲花と一緒に階段を下りて食堂に向かう途中も、少し歩いてみるだけでスカートから外気が舞い込むのに心もとなさを覚えた。
玲花は台所に向かう前に、潮音を食堂のテーブルの椅子につかせたが、そこで潮音が椅子に腰を下ろすとスカートのプリーツが乱れそうになったので、玲花は潮音をもう一度立たせて、お尻に手を当てて静かに坐る方法を教えた。
「スカートはいて坐るときは、こういう風にスカートがくしゃくしゃにならんように気をつけるんよ」
程なくして玲花は、簡単な食事を用意してテーブルに持ってきた。潮音は玲花の家で玲花の手料理を食べるという、想像もできなかったようなシチュエーションに胸が躍るような心地がした。玲花が潮音と向かい合う形でテーブルの席に腰を下ろすと、こんなに身近に玲花のことを感じたことがなかったような気がして緊張感が止まらなかった。さらに自分も今、玲花と同じセーラー服を身にまとっているという現実が、より潮音の感情を高ぶらせた。
「どう? おいしい?」
潮音は常に玲花の視線を意識していると、食事を味わうどころではなかった。しかし玲花はそのような潮音の表情を眺めながら、屈託もなくニコニコした表情を浮かべていた。
「こうやってご飯食べてるとこ見とると、ほんまに前から女の子やったみたいやね」
そこで潮音は、ようやく言葉を出せるようになった。
「尾上さんって…なかなか料理うまいよね」
「私は椎名君にお弁当作ってあげたことも何度かあるんよ。そのために料理の練習もしおったからね」
玲花はとりすました表情で、ティーカップに口をつけて紅茶を味わっていた。
「あの…尾上さんっていつごろから椎名とつきあってたの」
「中一で水泳部入ったころから、私は椎名君のことが気になっとったんや。そのころから椎名君の水泳の腕は抜きんでおったし。そして中一のバレンタインのとき、思い切って告白したんよ。そしたら椎名君も私とつきおうてくれるようになって」
「尾上さんってやっぱりえらいよ…ちゃんと自分の気持ちを人に伝えることができるんだから。それに比べたらオレなんか」
「ええやん。藤坂君は前からアッコと仲良かったし、優菜も藤坂君のこと好きやったみたいやし…アッコは藤坂君が病気で入院してから、誰よりもずっと藤坂君のこと心配しおったんよ」
潮音は、暁子が今の自分の姿を見たらどんな表情をするかと考えていた。
しかしそこで玲花は、今までとは一転してまじめな表情になると、あらためて潮音の顔を見つめ直した。
「で、マジな話、藤坂君は高校受験どないするん? ほんまに今のように、女子として学校通う? それともやはり学校には事情話して、男子として学校通うようにする?」
しかし潮音は、まだこの問題に対しては決断を下すことができなかった。潮音が答えに窮していると、玲花がそっと声をかけた。
「焦って決めることはないよ。それやったらいっそ、三学期になってからいっぺんこのかっこで登校してみる? でもそれやったらクラスの女子はええ顔せえへんと思うよ」
「どういう意味だよ」
「ほんまに鈍感やな、藤坂君って。クラスの女子は、学ラン着て男装した藤坂君がかっこいいと話しおったのに」
そう言われて潮音は、語気を強めていた。
「オレはクラスの女子を喜ばすために学ラン着てたんじゃないぞ。そんなこと言うならクラスの女子も胸潰して学ラン着てみろよ」
「少し落ち着くんやな。それに藤坂君が今のかっこで学校来たら、男子かてドキドキするんやないかな。今の藤坂君はマジでかわいいんやから」
玲花にそのように言われて、潮音は背筋がぞくりとするのを感じた。潮音の方こそ、今までクラスの女子のことをかわいいとか思いながら眺めていたのに、今度は自分の方がクラスの男子からこのような目で見られる立場になるのかと思うと、思わず身を引きそうになった。
しばらくの間潮音は黙ったまま考え込んでいた。そして潮音は意を決して席から立つと、玲花をまじまじと見つめながら言った。
「尾上さん…オレ、やはり尾上さんと一緒に南稜に行きたい。それにオレ…椎名からも言われてたんだ。コースは違っても、一緒に南稜で水泳やろうって」
「藤坂君、どこの学校行くか、その学校行って何するかは自分で決めることやろ。誰がどこの学校行くかなんて、そんなん関係ないやん」
「でも南稜は制服ないというから、オレでも抵抗なく毎日通えそうだし」
「そないに言う割には、今普通にセーラー服着とるやん」
「さすがに毎日これ着て学校行くのにはまだ抵抗あるけど…入試受けるんだったら今の服でも行けると思う」
「…わかったよ。でもそう言うなら、やっぱり勉強せえへんとな。そろそろ家帰って勉強した方がええんとちゃう? ほかのみんなは、塾とか行って勉強しとるのに」
「尾上さんは塾行かないの?」
「勉強は自分のペースでやるもんやろ。藤坂君の場合は、とても塾どころじゃなかったというのはわかるけど」
そう言って潮音と玲花は食堂を後にすると、再び玲花の部屋に戻った。そこで鏡台にセーラー服を身にまとった自らの姿が映っているのを目にすると、潮音はなぜか今ここでこの姿を解いてしまうのに気後れを感じずにはいられなかった。それでも潮音は意を決すると、セーラー服を脱ぎ始めた。
潮音がナベシャツで胸を隠し、白いワイシャツと黒い学生ズボンを身につけてあたりを見渡すと、潮音が先ほどまで身につけていた濃紺のセーラー服が床に脱ぎ散らかされているのがいやでも目に入ってきた。そのセーラー服を手に取って、潮音が少しの間戸惑いの表情を浮かべていると、玲花が声をかけた。
「そのセーラー服はもともとお姉ちゃんが着とったものやから、良かったら藤坂君にあげるよ。そして冬休みの間ほんまに自分はどうしたいのか、じっくり考えてみるんやな。もしどうしてもセーラー服なんか着とうないと言うんやったら、捨ててもかまわへんし」
潮音は玲花のくれたセーラー服をきちんと降り畳むと、玲花の用意してくれた少し大きめの袋にしまった。そして潮音は黒い詰襟の学生服を着て玲花の家を出るまぎわ、玄関口で玲花に声をかけた。
「ありがとう…今日は楽しかったよ。でも…どうしてオレのために、ここまでしてくれたんだ」
「そりゃ藤坂君がそんなに落ち込んどるとこなんか見てられへんもん。教室全体までもが暗くなるし。…それに、何べんも言うけど今の藤坂君はかわいいんやから」
その「かわいい」という言葉に潮音が顔を赤らめているのを、玲花は笑顔で見守っていた。
「藤坂君…入試が落ち着いたら、もういっぺんプールに泳ぎに行かへん?」
「…いいよ。空いてる時間なら」
その言葉を聞いて、玲花は何かしらほっとしたような表情をした。
「藤坂君はここんとこずっと緊張しっぱなしのような感じやったけど、今になってやっと入院する前のような自然な表情できるようになった気がするわ」
玲花にそこまで言われると、潮音もなにやら気恥ずかしい気分になった。
潮音はセーラー服を収めた大きめの袋を肩に下げて、玲花の家を後にしてからも、先ほど玲花の家でセーラー服に着替えるときの、今まで感じたことがなかったような感触を思い出すだけで胸が高鳴るのを抑えることができなかった。その時間は潮音にとって、まるで魔法にでもかけられたような、甘酸っぱい不思議な感触に満ちた時間だった。潮音にとっては、玲花の家で口にした香り高い紅茶と甘いケーキの味わいすら、いつまでも忘れられないものであるかのように感じられた。潮音は坂道の向こうに広がる、青く澄んだ明石海峡を見つめながら、学生服の中で、全身の血潮がより激しく騒ぎ出すのを感じていた。
潮音が自宅に戻ると、家には誰もいなかった。潮音は玲花に譲ってもらったセーラー服を部屋の奥に隠すと、部屋着に着替えるために学生服のボタンに手をかけた。しかしそのとき、潮音の胸の中に何かどきりとするような感触がこみ上げてきた。潮音は黒い学生ズボンを身につけたまま、ワイシャツとナベシャツを脱いで上半身裸になり、スポーツブラを取り出してそれを胸につけた。そして再びワイシャツを身につけたが、ナベシャツで胸を隠さないと胸元のボタンを留めるのに少々手間取った。それでもなんとかボタンを留め終り、ワイシャツを学生ズボンの中にきちんと納めると、あらためて詰襟の学生服を着てみた。
潮音が鏡に自分の姿を映してみると、黒い学生服の下で両胸はふくよかな曲線を描き、金色のボタンを留めた胸が窮屈そうだった。それは、潮音がいつも行っている「男装」ではなく、ただ短髪のボーイッシュな女の子が男子の学生服を着ているにすぎなかった。さらに、自分以外には誰もいない自宅の静まり返った空気が、潮音の心の中の後ろめたさをより増幅させた。潮音はまじまじと自身の両手を眺めながら、自分はいったい何がしたいのか、いやどうするべきなのかと当惑していた。




