第四章・一年の計は元旦にあり(その6)
それから潮音たちが神社を後にしたところで、モニカが潮音たちに声をかけた。
「潮音ちゃんの友達も、もっといろいろ話したいことがあるみたいやな。ちょっと家でお茶でも飲んでいかへん?」
そこで紫は頭を下げると、丁寧な口調でモニカに言った。
「すいません。私はこれから家族と一緒に過ごすのでここで帰ります。その代わり潮音とは、明日学校の友達とも一緒に神戸の街に行こうと約束していますから」
そこで紫はきちんとお辞儀をして潮音たちと別れると、萌葱や浅葱をはじめとする家族と一緒に帰宅の途についた。紫の姿が去ってからモニカが言った。
「あの子は潮音ちゃんと一緒の学校に通ってて、流風とも一緒にバレエをやっとるんやろ? なかなか礼儀正しくてしっかりした子やね。双子の妹もかわいかったし」
そこで綾乃も潮音を向き直した。
「潮音はもう少し友達と一緒にいるんでしょ? 私は父さんや母さんと一緒に先に家に帰ってるから」
雄一と則子、綾乃も帰途につくと、モニカは浩三と玲花、優菜を敦義の屋敷に誘った。優菜はすでに中学校の卒業式の日に敦義の屋敷を訪れていたが、浩三と玲花は興味深げに古い屋敷の造りに目を向けていた。
モニカは玲花や浩三、優菜を今に通してソファーに坐らせると、お茶とお菓子を出した。アンティークなティーカップには、玲花も思わず目を向けていた。
しかし浩三は屋敷に入ってからというもの、ずっと落ち着かなさそうにしていた。浩三は着物姿の潮音と対面して、あらためて潮音の姿に戸惑っているようだった。
そこで潮音があらためてモニカに浩三と玲花を紹介すると、モニカは特に浩三に視線を向けていた。
「潮音ちゃんが中学のときに、同じ学校に水泳のすごくうまい子がおるという話は聞いとったけど、あなたがそうやね」
その後モニカは、浩三に南稜高校の水泳部について尋ねた。浩三が寮生活を送りながら練習とトレーニングに取り組んでいる様子や、それをマネージャーとして支えている玲花の話を、モニカも興味深げに聞き入っていた。
しかしそこでモニカはいきなり神妙な面持ちになって浩三を向き直した。
「椎名君はやっぱり潮音ちゃんと一緒に水泳をやりたかったんやろ? でも私たちがこの屋敷で潮音ちゃんを鏡に触れさせたりせえへんかったら、潮音ちゃんは女の子になってしまうこともなかったのに。そのことについては、ほんまに申し訳ないと思うとるよ」
潮音はモニカがこのように話している間、モニカや浩三の顔を直視できないまま目を伏せていた。しかしここで浩三が示した反応は、潮音の想像とは全く違っていた。
「そんなに自分を責めないで下さい。もし自分が藤坂みたいにいきなり女になったりしたら、きっと立ち直れないと思います。でも今日藤坂を見て、あれだけのショックから立ち直って学校に行き、勉強のことだって考えているのだから、やっぱり藤坂はすごいと思いました」
そこで浩三の隣に腰かけていた玲花も口を開いた。
「私も椎名君の言う通りだと思います。私は藤坂さんが女の子になったばかりのとき、どれだけ悩んでたか知っているから…。それだけに、今藤坂さんがこうやって学校に通って友達とも仲良くやれているのは、おばさんが藤坂さんのことを支えてくれたからだと思います」
玲花に「おばさん」と呼ばれてモニカは少し複雑そうな顔をしたが、潮音は浩三も玲花も、あらためて今の自分の姿を受け入れてくれていることを感じて、自然と胸が熱くなっていた。
それから優菜も交えてしばらく雑談していると、いつしか冬の日は早くも黄昏ていた。モニカがみんなに暗くて寒くなるからそろそろ帰宅した方がいいのではないかと告げたので、潮音たちは屋敷を後にした。
みんなで明かりの灯り始めた夕暮れの通りを歩き出してからしばらくたった間も、玲花はその余韻が抜けないようだった。
「潮音のおじいちゃんの家が、こんな立派やったとは思わへんかったわ」
しかしそこで潮音は、あらためて浩三に声をかけた。
「椎名は明日にはもう寮に戻るんだろ? なかなか練習大変だな」
「ああ。でもこれは自分がやりたくてやってることやからね。…でもやっぱり、オレとお前とでは目指す方向が全然ちゃうようになってしもたな。それでも頑張ってるんだからお前はえらいよ」
「そんな…私なんて椎名が水泳のハードな練習を積んでいるのに比べたら、その何十分の一だって努力なんかしてないよ」
潮音が自信なさげに肩をすくめると、優菜が口をはさんだ。
「そんなことあらへんよ。あたしは潮音と同じ学校通っとるからわかるけど、潮音は勉強もよく頑張ってるよ。この前の文化祭では劇にだって出たし」
そのような話をしている間に、潮音は自宅の前まで来ていた。そこで潮音は、浩三と玲花、優菜にあらためて別れの挨拶をした。
「椎名もこれから水泳は大変だろうけどしっかりがんばってよ。…それに玲花はマネージャーとして椎名のことをしっかり支えていてほしいんだ。…私だって今年は進路のこととかいろいろ考えなきゃならなくなるだろうし、勉強だってますます大変になるけど、これから頑張るから」
その潮音の言葉には、浩三だけでなく玲花や優菜も笑顔で応えた。最後に浩三と別れようとする間際に、潮音はあらためて言葉をつけ足した。
「あの…今日はみんなと一緒にいられて、中学のときに帰れたような気がして楽しかったよ。それにさっき椎名がモニカさんに言ったこと聞いたときは嬉しかったな。やっぱり椎名は私…オレが女になっても、オレはオレだと認めてくれてるんだって」
そこで浩三は振り向き様に答えた。
「何言うとるねん。そんなん当り前やろ。お前もがんばれよ」
そう言い残すと、浩三は潮音のもとを立ち去った。潮音は夕暮れの通りを歩き出す浩三の後姿を見送りながら、自分と浩三の関係はもはや中学のときのようには戻れないと実感するとともに、浩三がはるか遠いところに去っていくような一抹の寂しさを感じていた。
そこで潮音は、着物の振袖から伸びた自らの手をあらためてじっと見つめた。
――去年のオレだったら、神社で「自分を男に戻してほしい」とお願いしたかもしれない。でも今のオレは、もう昔のオレには戻れない。…それだったら、オレはこれから何をお願いすれば…そして目指せばいいんだろう。
潮音は拳をぎゅっと握りしめながら、夕闇に沈む街の中で、そこから一人だけぽつりと浮き上がったかのような孤独感を味わっていた。今の潮音の身には、冬の風がいっそう冷たく感じられた。
そうしていると、玄関のドアが開いて綾乃の声がした。
「何やってるの、潮音。外寒いから体冷えちゃうよ。早く家に入ったら」
そこで潮音は、黙って綾乃の言に従うことにした。




