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途上のシャムロック  作者: 納戸
白と黒の街
94/96

   序



 トルメニス海から齎される厳冬は西海岸側の諸都市にとっては毎年のことで、今日もいつもと変わらず、体の芯まで凍てつかせるとても寒い日だった。遠くの景色にあるはずの管理塔と上流層は雪靄と絶えず吐き出すその周囲の工場の排煙によって白灰に塗りつぶされ、片鱗すら見えない。

 しんしんと降る雪をかぶった瓦礫——というよりはごみの山。今にも崩れそうに積みあげられた廃材、鉄くず。角ばった塊からどくどくと流れる、汚れに濁ったエーテルなのか、はたまた油なのか判別しない、正体のわからない液体。しかし廃棄場というには特定の意図に基づいた法則はなく、あまりにも無秩序に全てが打ち捨てられている。それらの廃液同士が反応してところどころ分解のエーテル光でちかちかしたり、くすんだ煙を吹き出したりして劣悪な空気を作り出していた。


 その谷間を縫うように杖つき歩く、老婆があった。ゆっくりと進む足取りは気怠げで、鼻先に当たった雪片に顔を顰めた。骨と皮ばかりの姿だったが、どこか虫の居所が悪そうな表情に納まった瞳には重厚な意志の光が宿っている。

 その瞳が視界に入ったあるものを捉えた。

 それは路上とも呼べぬ道に倒れ込んだ小さな子供だった。老婆の眉が一層不機嫌そうに歪められ、深いため息とともにその姿へ近づいていく。

 腰が痛むのか、億劫そうにしゃがみこむと、老婆はその腕をとって命を確かめる。しわがれた指先でゆっくりとした鼓動を感じ取ると、うつ伏せ気味の矮躯を地面からはがすように仰向けにした。

 年の頃は三、四才といったところの、自我すら芽生えるかどうかの幼子だった。未だ息づく若い熱を必死に知らせるように、小さな呼吸は空気を白く染める。


 老婆はあたりのひとけを一度確認し、何人の気配もないことを悟ると、真理を見定めようと目つきを鋭く細めて再び幼子を見遣った。

 行き倒れたこの場に似つかわしくない縫製の整った衣服。乱れた様子がないことに、老婆はその異常性にすぐに気がついた。

 仮に何かの事故であるならば、この年頃の娘なら親や庇護者の不在に慌て彷徨い、疲れ果てた先にこの状況が訪れるはず。であるにも拘らず着衣は気味が悪いくらい整っていた。懐をまさぐって所持品を確認すると、手のひら大の金属に行き当たる。


 金の台座に銀の剣の紋章。目利きでなくともわかる、見るからに精巧な造りのそれは美術品として横流ししても高値がつきそうだった。

 しかし老婆にはその紋章に見覚えがあるようで、しばし考えたように硬直していた。皺の刻まれた手の内の紋章。ややあって、老婆は小さくため息をついて、紋章を手の内でまわし、親指で弾いて放り捨てた。そのあたりのがらくたとぶつかって、小さな金属音を立てたあところころと路上に転がるが、すでにその行方は老婆の興味の外であった。

 そして未だ眠る幼子を大義そうに担ぎ、自身のねぐらへ戻る。どこからか伸びた管の排気が雪を溶かし、足元を烟らせている。背負った温もりを老婆ははっきりと感じ取り、わずかに身を固くした。


 この掃き溜めに住む人ですら近寄らない、住居から遠ざかったガラクタの山の麓をくり抜いて作られたような、あなぐら。隙間風を塞ぐボロ布と継ぎ接ぎの素材でできた出来損ないの家具。中央の焚き火がなければこの時期に生きていくことはできないだろう。


 火の側に幼子を寝かせて、鍋に雪を入れて湯を沸かす。


 老婆がこの街——廃鉄都市ギネに流れ居着いてからまだ一年と経っていない。国内のあらゆる廃棄物がこの都市に集まり、それらを再生させることと、諸都市からの補助金で都市の経済を成り立たせている。しかし潤っているのは都市の上層部だけで、老婆のような廃材に囲まれて生活をしている民で溢れかえっているのが現状だった。

 この街で生涯を終えようと決めた老婆が幼子を見つけてしまったのはなにかの因果なのか。とりとめのないことを考えていると、布にくるんだ幼子が身じろぎした。


「起きたかい」


 眼をこすってうつろに首を持ち上げた。くすんだ短い金髪にあどけない表情。


「……寒い」


 ぎゅっと布の両端を体の前に引き寄せながら、


「ここ、どこ? 母さまはどこ」


 明朗な語り口から、聡い幼子だと老婆はすぐにわかった。


「さあねえ」


 老婆は質問には答えず、


「起きる前に、お前さんはどこでなにをしていたんだい」


 幼子はさらに身を小さくするように丸まって、わずかに考え込んだあと、


「……遠くに行くって馬車にのって、それで……」


 幼子はゆるゆると首を振った。


「なるほどね」


 相槌を打つ。すぐに老婆は状況を察した。


「帰りたい」


 くぐもった声が聞こえた。


「無理だね」

「どうして?」

「お前さんは捨てられたからさ」


 泣き出すだろうか、だとしたら面倒臭いと老婆は思ったが、しかしその予想は外れた。


「……そっか」


 布から顔を出して発せられた声は驚くほど平坦だった。齢三つか四つで自分の運命を悲嘆せず、ただ正面から受け止めている。それを見た老婆の驚きは小さなものではなかった。


 ——だからだろうか、老婆がそうすることになったのは。


「ちび、名前は言えるかい?」


 まつげを伏せて、幼子は答えた。


「……ミリア」


 老婆はしゃがみこんで、ミリアと名乗った幼子に目線を合わせる。そのあとも、茫洋な焦点が定まり、老婆に意識が向くまでじっと待った。


「よくお聞き。お前さんがこれから生きていくには、血を吐くほど苦労しなきゃならないよ。まだ子供も子供のちびにあったはずのものは全部なくなってしまったからね」


 小さな両肩を掴んで、


「ここで死んじまった方が楽だってくらいさ」


 瞳孔がゆっくりと開くのが老婆の瞳にはっきりと映った。


「お前さんはどうしたい」


 熱を込めた眼差しを向けたままの老婆が尋ねると、幼子は布の奥から両手を伸ばして、空の手のひらを見つめた。


「……生きたい」


 かすれた声から漏れた言葉に、老婆は深く頷いた。


「そうかい。じゃあ、まずは飲んで、食いな」


 沸かした湯と、がらくたで作った引き出しから干し肉を取り出して、幼子に手渡した。


「腹がふくれりゃなんとでもなるさ」


 にかりと笑った老婆に、幼子は目を丸くした。


「生きるんだ、ミリア」

「うん」


 流し込まれた熱を確かめるように、ミリアの喉がこくこくと大きく動いた。


 ——それが少女の、ひとつめの出会いだった。

 




 ——そうして老婆が幼子を拾ってから三年がすぎた。掃き溜めの生活を通して、老婆は今までに身につけたあらゆる知識をミリアに身につけさせようとした。この過酷な環境で生き抜くために、日々積み上げられる廃材の中から密売人から金を取れるものを選ぶ目や、生えている雑草から食せるもの、毒や薬になるもの。文字の読み書きから始まり、この場所、この街、この国、そして世界。この大地が刻んで来た歴史にいたるまで。

 老婆の手元に一冊あった聖樹書が、老婆を通して教書の代わりにミリアに様々なものを教えた。神話の神々の寓話から日常の物事について教えたり、あるいは関連することを導いたりした。


 そして、身を守る術も。組手を始めたのは二年前で、その筋のものが見れば老婆が相当な使い手であったことを示したが、ミリアはただその教えに従って相手を制する技術を習得していった。


 ぼろ布のあなぐらに、六つか七つのミリアが、腕を目一杯伸ばしてくたびれた金属の桶を抱えてやってくる。


「ばあちゃん、今日の水汲み終わったよ」

「ご苦労さん」


 もともと着ていた服はミリアの体が大きくなったのもあるが、上等な布地だったのですでに売り払っていた。代わりになんとか着られる程度には傷んだ衣服に身を包んでいる。その小さな体にはすでに無数の傷ができ、そして癒えたあとができていた。


 ことここに至り、老婆もこの少女が持つ才覚に気がついていた。同じ年の頃ならまだおぼつかない言葉もすらすらと話し、ひとつ教えると二つ三つと質問が返ってくる利発さ。組手の筋も極めて優良で、鍛え上げればどんな困難も打ち破れる強さを習得できる片鱗を感じさせる。

 ミリアもすっかり老婆に懐いて、まるで血を分けた家族のようにその教えに素直に従っていた。どんなことにも答えられる知識と知恵を深く尊敬するようになっていた。


 あなぐらから外に出て、日課の組手を行い、それを終えるとまたミリアは老婆へ訊ねる。


「なんでばあちゃんはこんなに強いのに、いつもは杖をついてるの?」

「その方が油断してくれるだろ?」


 平然と言い放った老婆に、ミリアの丸い瞳が瞬いた。予想していない答えに驚いたのだろう。


「ばあちゃんはすごいね……!」

「伊達に歳食ってないからね」


 目をきらきらさせて言うミリアに、老婆は勝気に答えた。そして二人揃ってあなぐらへ戻ると、今度はがらくた机で聖樹書を開いて勉強の時間だった。

 文字を覚えたかどうかの復習のあと、何度も読んだ頁を再び開いて、また新しい真理をミリアへと伝える。


「そして火神メイギスが娘のリリスに向けた言葉が、“その淵に進むのならば、魂は灰となるだろう”、だ。これが転じて、今日まで伝わる、教えに背いたものの魂が永遠に救われないというリリス教の教義になっているね」


 実際には、リリスの魂は父に背いて人々の罪を代わって受けたことで、世界樹としてこの大地にとらわれ続けているという見方が最も支持されている解釈であるが、そこまでミリアに伝えるつもりは今はなかった。

 聞いていたミリアは、ひとつ老婆へ質問をする。


「魂はどうなっちゃうの」

「リリス様の世界樹の根の届かない、大地の奥深くの暗闇に落ちるらしいねえ」

「……こわいね」


 ぽつりと呟いたミリアに、老婆はふっと笑った。


「怖くなんてないさ。現世の苦しみに比べれば」


 しみじみと染み渡るような声音で老婆は語った。


「腹が減るのが、一番怖い。食うものがないのが一番怖い。——まずはそれを怖がりな、ミリア。そうすりゃ長生きできる」


 それが老婆の体験に基づいた言葉だというのはミリアにはわからなかったが、しかしその言葉はミリアの心の奥深くに刻み込まれた。





 老婆の体調が目に見えて悪くなったのはそれから一年が過ぎた頃だった。しばしば咳き込むようになり、食も細くなった。日課の組手も時間がどんどん短くなり、やがてほとんど行われなくなる。とうとう寝込みがちになって、それから半年が過ぎる頃には起き上がれなくなっていた。


 そのあいだミリアは一人奔走し、老婆の治癒に役立つ薬をこのがらくたの街を走り回って集めたり、日々の糧を得るために廃品を漁ったりしていた。


 まだ少女は気づいていなかった。自身の体も限界に達そうとしていたこと、そして、老婆がもう助からないことに。

 まだ陽が昇ってすぐの時間。凍てつく寒さに少女は身を起こし、傍の老婆を見やった。昨日もほとんどなにも口にしていない。意識は覚醒しているようだったが、ただ朽ちかけた鉄の骨組みを茫洋とみているばかりだった。


 ミリアはたまらなく不安になって、


「……ばあちゃん、なにか食べないと」

「そうだね……」


 ひとしきり咳き込んだあと、虚ろな眼差しでミリアを見上げた。


「薬を、貰って来てくれるかい?」

「わかった」


 こくりと頷いて、ミリアは駆け出した。


 ひたすら街を駆けずり回って、飢えを手近な雪を掴んで口に入れてしのぎ、ようやくできた顔見知りに頭を下げ、わずかな路銀を全て使い、なんとか薬を手に入れてあなぐらに戻って来たのは日暮れすぎだった。

 紙袋を抱えたまま、あかぎれた両手にはあ、と息を吐いて冷えを温める。明かりがついていない。この寒さで火を焚かないのは自殺行為に等しかった。ミリアは慌てて布をまくり、その中へと入る。


 しんとしていた。

 なんの物音もない。————呼吸さえも。


 抱えた紙袋が軽い音を立てて地面へ落ちて、中の丸薬が飛び出しいくつかあたりに散らばった。


「……ばあちゃん?」


 かすれ声で呼びかける。いらえはなかった。


「ばあちゃん」


 跪いてその細い肩を揺すると、もう命の熱はなかった。


「ばあちゃん」


 三度呼びかけても、返答はやはり返ってはこなかった。その顔はただ安らかだった。その時を予期していたように、寝床は整っていた。少女があなぐらを開けたあと身支度をしていたのは明らかだった。


 直後、どさりと少女はその横へ倒れ込んだ。ようやくミリアも、もう何日もまともな食事をしていないことに気がついた。

 骨と皮ばかりの腕が視界に入った。最後に顔を見ようと、ミリアは両腕に力を込めて身を起こした。空腹だけがただ頭の中を埋め尽くしていた。


「お腹、空いたな……」


 ぽつりと呟いたその時、普段老婆がミリアにものを教えたり、時折何かを綴っていたりしていたがらくた机が目に入った。なにかに導かれるように、ミリアはその方へ歩み寄った。


 がらくた机の引き出しを開けると、そこには一冊の手記と、磨き抜かれた短剣があった。その手記には老婆の生い立ちがつらつらと綴ってあった。名うての業者として若年を過ごし、歳を重ねると諸組織の軍事顧問のような生業で日々を送ったこと。そして戦争の折、シャニール人の幼子を何人も手にかけたこと。それを悔い、この街で誰一人傷つけることなく生涯を終えるつもりだったこと。ミリアと出会い、これまで生活して来た日々がその罪を忘れられるくらい楽しかったこと。そしてそれが終わると————


 ————極めて詳細な人体の解体方法が載っていた。


 最後に、震えた筆跡で生きろと、そう記されていた。


 読み終えたミリアはしばし我を忘れて呆然とした。空腹だけがただミリアに自我を伝えていた。


『生きるんだ、ミリア』


 出会ったときに言われた言葉が、頭の中をがんがんと叩いた。最後の震えた文字がミリアの視界を埋め尽くした。


「あたしは……」


 短剣を手に取ると、驚くほど手に馴染んだ。


「あ、たしは」


 安らかな老婆の寝顔があった。勝気に笑う顔や、不始末を叱る困った顔が浮かんだ。そしてそれらを思い出して、手から力が抜け————


 ————肩を力強く掴まれ、生きろといったあの眼差しを思い出した。ぐっと、抜けかけた手に力が戻る。


「あたしは、生きる」


 そして、ミリアは横の手記に目を通したあと。


 目を閉じたままの老婆の首めがけて、短剣を振り下ろした。





 一週が過ぎた頃、周辺が騒がしくなった。リリス教の修道士たちが貧民を探しに、この辺りを巡回していたのだ。配給と布教のために。その熱心な集団はいるはずがないとは思いながらも、この人の気配から離れた瓦礫の山までやって来て、諦めつつも近づいた頃、ようやく漂う異臭に気がついた。


 本能的な忌避感を覚えるその例えようのない臭い。

 そして意を決したそのうちの一人が、少女のいるあなぐらへやってきて、布に手をかけた。


「誰かいらっしゃいますか————」


 ————中は凄惨な光景だった。


 ただ赤い光景に、少女はぽつりと膝を抱えて座っていた。乾いた右手には、同じように乾いた短剣が握られていた。


 吊るされた残りのもの。

 ばらばらに解体された残りのもの。

 掘られた穴にうめられた廃棄されたもの。

 焚き火にかけられたもの。


 全てが赤く染まっていた。


「どうした————うおっ!!」


 さらに一人入って来て、驚愕の声をあげた。一人目の奥、あなぐらの中央にいた少女を見つけると、


「————娘!!」


 声を荒らげ、腰の断罪剣を抜き払おうとしたその瞬間、その手を押さえつけたのは一人目の修道士だった。

外套の修道士は、その異常なあなぐらを隅々まで見渡して、ただ一つ温度の違う、がらくた机の上にあるものを見つけていた。


「いけません。聖樹書を持っているということは、等しく我らが兄弟です」

「しかしこの娘は!」

「わかっています」


 問答を終え、外套を脱いだその奥に現れたのは、くすんだ金髪の年若い美しい娘だった。娘は部屋に踏み入り、しゃがみこむ少女の前にたち、そして同じように膝をかがめた。

 血に染まった少女が虚ろに顔をあげた。


 娘は、ただ柔らかく微笑んだ。


「私と一緒に行きましょう」


 捲られた布の奥から光が差して、娘と少女を照らしていた。


 その光景が、とても眩しかったのを覚えている。


 ——それが少女の、二つ目の出会いだった。

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