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“翼の狼”の手下を森中に散らせて各個撃破していった各班は、徐々に主戦場となるエーテルの海へ集結していった。この広大な大樹の森にあって予め綿密な時間と場所を指定した、統率のとれた部隊でなければできない作戦は単独行動の遊撃具者によって成立し、また優れたその他の具者たちの尽力もありおよそ計画通りに事は運んだ。
そして、具者たちの気配を察知した魔獣たちもまた、ゆっくりと姿を現していく。前回と異なり、未だ上級魔獣が現れる様子はない。
「始まるか」
戦場を見渡す岩壁の上でクラウスは呟いた。夜闇とまではいかないが差し込む光が薄く、空間の光が鏡面のように磨かれた地面に反射していても肉眼で全てを見極めるのはかなり難しい。それでもその音や、あるいは図術的揺らぎを感じているのか、単眼鏡の奥にある碧眼は正確に戦場に息づくものたちを捉えていた。視界の左側にエーテルの海があり、右側の鏡面大地の上で戦いは繰り広げられている。
図術士の両脇にはその甥と、そして落日都市からの使者が控えるように並んでいる。その背後に、伝令のための具者が二人。他の具者はすでにこの岩壁を下り、エーテルの海へと歩を進めていた。また、この地点と戦場とを結ぶ岩陰には三人の治癒者と二人の護衛が付いて、負傷者を治療するための簡易天幕が新たに設置されている。
先に手下が現れる状況も想定済みであり、ジャハが陣形変更の指示を伝えると、具者の一人が眼下の戦場へ素早く走り去っていった。
絶え間なく吹きすさぶ風に衣服がはためき、マルスの髪がそよいで視界を遮り、そして次に開けた時に、とうとう衝突した。遠くの人影の塊が、咆哮しながら奥の獣の群れに突っ込んでいく。
戦闘によってくっきりと削り取られた鏡面大地の跡が、マルスの瞳に収まる。
六人の班が六つ、この陣地を守るように壁となって獣の群れを押し返している。次第に踏み抜かれ、さらさらとした砂埃が舞い、霧のように立ち込めてきた。
「さあ、マルス」
マルスは硬く頷いて、運び込まれた波動情報集積器の前に立つ。この装置を介することで支配領域を拡張でき、戦場一帯に広げられる。すうっと息を吸い込んで、訓練と同じように調律用の図術を起動させた。
——凄まじい奔流がマルスの脳天から爪先までを貫いた。
荒れ狂う場のエーテルは、操作を非常に困難にさせる。とめどなく、そして目まぐるしく変わりゆく状況をひたすら見極めて、ようやくその場を支配することができる。
選りわけられない無理解を一飲みに理解すべく歯を食いしばり、他者の波動情報を探し当て、そっと包み込むように律する。
鳥の視点とも違う、空間そのものにマルスの肉体の全てを溶け込ませていくような、喩え難い感覚。その翡翠の中空を泳ぎきり、それが途方も無い時間に感じ、過ぎ去ったとき、唐突にマルスは理解していた。
「あ、あぁ……!」
声は自ずと漏れ出ていた。
マルスはその滂沱のごとく流れ来る情報——熱量に圧倒された。
岩や土は暗く冷たく、茫漠としていた。逆にすぐそばにそびえる大樹の一本一本や、眼下で猛り剣を振るう仲間たち、そしてそれと対峙する獣たちは、その一つ一つのどれを取っても眩く熱く、そして雄大であった。
命もつ存在の波と、そうでないものの波の違いを否応無しに感じる。目に、肌に、そして心にただそのままの大きさでもって叩きつけられるのだ。
初蝕を終えた時と似た、自我が拡張された高揚感と陶酔感が去来し、未だ己の戦場に対応すべく氷のごとく冷えた心を保ってはいたものの、一方で意図せず込み上げてくる感動を堪えていた。
一つ一つの調律を終えていくたび、その具者の表情、動き、使用する図術が手に取るように理解が深まっていく。
情報の波に激しく揺さぶられながらも、マルスはその作業を必死に行っていく。
■
——その感覚を即座に察知したのは、前線で戦う具者たちだった。まるで誰かに見られているような、しかし不快ではない、遠くからの味方の視線。
すでに数え切れないほどの獣を斬って捨てた具者たちを励ますような、力強く暖かい感覚。
「体が軽くなったような……」
一人の具者が呟いて、それが錯覚ではないことを戦場の全員が悟った。意識は高揚し、士気が増す。
しばし激しい戦いが繰り広げられ、度々増える数よりも倒していく数の方が優っていくのを見るや否や、岩壁からの指示のもと、疲労の蓄積した第一陣の具者が後退し、代わりに第二陣が戦場へ踊り出る。浅くない傷を負った具者は、治療を受けるべく仮設天幕まで引き下がった。
ギレル式の水の構えを巧みに使い、安定して獣を屠るヘイウス。
トールキンも皆を信じて、防御や回避を考えずその長剣で、二、三匹まとめて獣を薙ぎ払う。振り切って死に体になった隙を埋めるように、ガダが近寄る獣の頭を斧で叩き潰す。月日をかけて培われた連携。
前線の獣と具者が乱れ舞う戦場で、“網四方”と“重ね格子”を組み合わせた陣形に近接手と遠射手の具者を配置。奇しくもヨクリが自治区で経験したような、四方から敵が押し寄せる乱戦の様相を呈していた。
(けれど)
人間を相手にするよりは遥かに戦いやすかった。
迫り来る正面の獣とはまだ距離があった。ヨクリの遥か後方でミリアは両手で“古物”を握り、引き金を引いて弾丸を撃ち放つ。——しかし、その弾は命中しなかった。
言葉通り獣の勘か、もう一匹の獣がミリアへ猛進するその脇腹に体当たりし、弾丸から逸らさせたのだ。空を切った命脈を絶つ小さな塊はその奥——黒髪の青年へ音を置き去りに忍び寄る。
「避け——」
警告は間に合わないはずだった。
しかしミリアの誤射した弾丸は、ヨクリには当たらなかった。振り返らずに、恐ろしく早く迫り来る小さな鉄の塊の情報を“感知”ではっきりと認識していたヨクリは首を曲げて回避した。弾丸はさらにその奥、ヨクリへ飛びかかろうとしていた獣の頭部に直撃する。
「うっそ……!」
その驚いた声さえ、精緻にヨクリは拾っていた。そのまま低く体を沈め、迫る次の獣の足を剣で払う。支配領域内の全ての情報が余すことなく伝わってきて、直後になにが起こり、状況がどう変化するのか手に取るようにわかっていた。
気力は満ちる。
“展開者”の役割を全うしたマルスの波動調律の影響もあるのか、領域下の感覚が軽い。まるで上空を飛ぶ鳥の見ている光景のように誰がなにをしているのかはっきりと把握できている。
(今なら)
具者としての経験。
記憶を失い、入れられた学び舎で剣をとってから多くの戦闘を経験してきた。緋色の女。青髪の貴族。教会の兵団長。そして、自治区での長い夜。
その全ての記憶が鮮明にヨクリの脳裏を駆け巡って、光の粒となって全身に染み渡っていくような感覚。
(ここにいる皆のおかげだ)
そして、隣にたつ仲間たちがヨクリの抱えるあらゆる迷いを吹き飛ばした。
まばゆい光明へ突き進むように、澄み切った心のままにヨクリは携えた刀に身を委ねる。ただ自分の持てる全ての力を引き出せと。
(俺は————)
数多の戦いを共にしてきたその名もなき剣が、ヨクリの魂に呼応するように陽光を反射させて煌めいた。
■
波動情報を調律していたマルスには即座に把握できていた。黒髪の青年が、この感覚を掴んだマルスと同様に、今まさに才能を開花させていたことを。
「……ヨクリ……!」
風雨の中でも鳥が空を飛べるのは、風を掴む方法を知っているからだ。
血に刻まれた能力。あるいはその者特有の資質。
それらと同じものを、黒髪の青年に感じ取っていた。
無数の獣に囲まれ、それでもなお止まらない刃の意志。人々が培ってきた叡智の結晶、その鋼の片翼で自在に戦場を飛んでいた。
————マルスはその姿に、具者としての一つの完成形を見た。
そして、それは遠巻きに戦況を見定めていたこの場の二人にも伝わっていた。黒髪の青年の漲らせる気力は展開者としてエーテル的空間を介さずとも届いている。
「これほどまでに……」
横のジャハはただ感嘆していた。そして————
「素晴らしい……!」
クラウスの、笑みがあった。それは常に理知的なクラウスとは程遠い、牙を剥いたどう猛な獣の笑みだった。
軽度の興奮を保ったまま、クラウスはマルスらから背を向ける。
「叔父上?」
「君も、そして皆も自身の役割を全うしている。私もそろそろその支度に取りかかるとしようか」
集積器と同様に運び込まれたいくつかの木箱のうち、細長い箱の封を開ける。中から出てきたのは豪奢な布包みだった。丁寧に開いていくと、その姿が露わになる。
「これを使うのも十年振りか」
先端が三葉のように枝分かれした、術金属の杖。
“原器”と呼ばれる引具があった。
発掘された初号引具と二号引具が現存する有名な“原器”であり、これからどんなに図術学が発展しようとも理論的に形を変えることができない、その存在自体が一つの定義になる引具。
そのうち、歴史から失われ、初号引具の発掘ののちに人が復元した“原器”のうちの一つがこの杖。
“図術士”のみが携帯を許される、“引具”と呼ばれる存在の生みの親。
——定めの杖と呼ばれていた。
その特別な引具に意識を奪われたのもつかの間、集積器の補助により戦場全体に張り巡らせていた支配領域になにか巨大なものが近づいてくるのをマルスは感じた。
戦場の先、さらに森の奥からそれはゆっくりと近づいてくる。
「——来るぞ」
クラウスが呟くと、大樹の影から二つの獰猛な光が瞬くのを、なぜかマルスははっきりと黙視していた。
「お気をつけて」
「君もな」
口数少なく交わされた言葉の中に、ジャハの懊悩が見て取れた。
いつか黒髪の青年と口論していたように、高潔な精神の持ち主だ。前線を任せるのを忍びなく感じているのだろう。
だが、この人数を指揮できる人間は限られている。話し合いの結果選出されたジャハに一切の落ち度はない。
「しっかりな」
「——はい」
マルスにも一言告げてから、クラウスは杖を携え、戦場へと赴いていった。
■
——あのときと同じように、空気が変わった。
戦いの最中にあって、その方角へ意識を向けざるを得ないほどの圧倒的な気配。戦場の最奥、大樹の影から威を持って歩み寄ってきた。
“翼の狼”がとうとうこの場に姿を現した。
ヨクリは探索隊でその外貌を一度見ていたにもかかわらず、身が竦んだ。初めて見る具者たちは一様に表情を凍りつかせている。到底理解の及ばぬ光景だったのだろう。個のみで、場の支配を終わらせてしまうほどの存在感。
“覇王の遺獣”はゆるりと首を天高く持ち上げ、顎門を開く。
大樹の森中へ響き渡る遠吠え。音の波が叩きつけられ、その音量に耐えながらも目の前に迫り来る獣を討ち払っていくと、ヨクリたちを取り囲むように無数の気配がその声に呼応して吸い寄せられていく。
四方八方から集まってきた小さな影たち。再び冷静さを取り戻した時には、その数は“翼の獣”出現前よりも倍以上は増えていた。
しかし、一度経験したことだ。先刻よりも深く背中を合わせ、素早く陣形を変更し、近接手を押し出した“網四方”のみに切り替え、遠射手は左右に別れて撃ち漏らした獣を遠距離攻撃で打ち倒し、増援にも対処していた。手薄になってしまう箇所には逐次伝令が戦場を駆け抜け、細やかな補充を行っていく。まだ気力は一切衰えていない。
続けて“翼の狼”両翼が持ち上がり、閃光がほとばしる。
その閃光が目に焼きついたとき、ヨクリはある程度の動揺が広がることを覚悟をした。
だが、見えないはずの現象がはっきりと見えた。
“翼の狼”の支配領域と、展開者が一つに調律した、具者たちの支配領域とかせめぎ合い、飲み込まれそうになるのを堪えるように拮抗した。
前回よりも明らかにねばついた重たい気配が薄れているのをヨクリは感じた。これなら、十分戦えるかもしれないと探索班に加わっていた具者の士気がさらに高まったのも束の間。
——最前線の具者が、尾によって一息で薙ぎ払われる。近接手主体の陣形のちょうど中央にいたヨクリはその光景を間近で見た。
(まずい)
その膂力は最優先で警戒していた具者たちの想像を越え、一度目にほぼ等しい被害を具者たちに齎した。たった一薙ぎで前線が崩壊していく。
ヨクリは突出し、うずくまる負傷者を担いで素早くその場から後退した。同じように周りの具者も動き、最後方の近接手が、一転して最前線へ押しあがる。
遠射手の列よりもさらに後退して安全が確保できるところまでくると、応急処置を施していく。傷口を洗い流し、布できつく縛り、一声励まして立ち上がった。一度息をついて周りを見ると、同じような光景で溢れていた。深い仲の顔ぶれもヨクリの視界に入ってくる。
そうしていると、ややもせず仮設天幕の方角から一人の人間が現れる。
治療の際に汚れたのであろう、前掛けを血で染めたメディリカが息を切らしてやってきた。汗に濡れた額に髪を張り付かせ、人員不足と天幕の状況を前線へ通達にやってきた。手当する具者を手伝ったあと、
「このままでは、押し切られます……!」
ヨクリの背中に言った。獣の群はある程度倒すことができたものの、その防御力を皆無にできるほどには効果を発揮していない。予想以上に森の中に潜んでいた“翼の狼”の配下は多かった。
状況を維持したまま長くは保ちそうにない。いずれ破綻するだろう。
決断の時が迫っていた。
「——やるしかない」
ヨクリがぽつりと呟くと、皆がヨクリの方を向いた。その言葉の意味を正しく理解し、最年長で経験豊富な血鎖の頭領がその背を後押しする。
「合図は俺が出すぜぃ」
「わたしと、ニノンさんでなんとか近寄れるようにします」
「うん。任せてー」
続いてセフィーネとニノン、二人の俊英の遠射手が頼もしい声をかけた。
「なら、俺たちで」
ヨクリが端的に言う。
「ああ。——羽一本、落とすぞ」
呼応したアーシスと二人でうなずき合い、周りの具者たちも賛同の大声をあげた。
即席で短い間のやりとりが複数回行われ、作戦がまとまる。
勝負は一瞬。失敗は許されない。このときのために戮力を結集させた。これで敗北すれば、次の機会は永遠に失われるだろう。
そのかん、負傷者が何名か後方へと下がってくる。肩を貸していたうちの一人がタルシンだった。ヘイウスに目配せしたアーシスが、
「タルシン、そいつら連れて天幕まで引いてくれ」
「俺もまだ戦えるっすよ……!」
「いや、メディリカの護衛だよ。向こうの人手も足りてねえからな」
ヨクリも頷くと、タルシンはきつく瞼を閉じた。少なくない数の傷をタルシンも被っている。限界だろう。戦い続ければいずれ集中が切れ、致命傷を負いかねない。
「……わかったっす」
「お願いします」
メディリカは深手の小柄な具者を背負うと、タルシンとともにこの場から離脱する。
負傷者を連れた二人を見送ってから、呼吸を整え戦場を見渡し、身構える。
「今だ!」
ガダの号令で、ヨクリたちは駆け出した。
セフィーネが紋陣を多重起動、巨体とその俊敏さでもって動き回る“翼の獣”の両目を、しかし過たず“灼光”で狙い撃つ。その後方ではニノンが大量の矢をつがえて、術の時間を稼ぎ、発動後の隙を埋めるために、セフィーネへ近寄らせないように牽制していた。二人の遠射手の連携は分厚い瞼に遮られ、目を焼くほどの効果はなかったが、しかし足を止めるには十分だった。
眩さに視界を奪われた“翼の獣”が硬直する。ヨクリは未だ集う獣の群れを突っ切って、全速力で猛進した。即応し後に続いたのはヘイウスで、後方の憂えを断つべくヨクリの背後を死守する。左右の隙は“伝達”で加速させたアーシスの投刃によって打ち払われた。
ヨクリは渾身の力を足にため、地面を蹴り抜いて跳躍する。動きの鈍った“翼の狼”の背へ一息で登ると、気味の悪い足場に対応し、さらに飛び上がった。
「はああああ!!」
気迫とともに、全体重と腕力を持って、兜を割るように右の翼の根元に刀を振り下ろした。ひときわ高い金属音を立てたあと、その瞬きより短い時間で鱗を断ち割り、刃が肉を割いて骨まで到達した感触が手に伝わった。
「————————!!」
今度は“翼の獣”が絶叫した。初めてあげる、痛みに喚く吠え声。至近距離で音の波を叩きつけられる。鼓膜を激しく揺らし、頭の中をかき回すとてつもない声量だった。
(駄目か……!)
刀身は翼の半ばで止まり、両断するには至らずに止まる。しかし、ヨクリは思い出した。マルスの尽力によって図術の効力を低減させる獣の力場が揺らいだことを。
さらにセフィーネが“多重起動”を安定して成功させていたのを見て、これならヨクリでも干渉図術を安定して制御できるかもしれないという推測が駆け巡り、即座に試みようとした。だが。
転瞬、“翼の獣”はヨクリをふり落すようにめちゃくちゃに暴れまわる。それでも食い込んだ刀は剥がされなかったが、ヨクリの足は踏みしめていた獣の胴体から浮いて、激しく揺さぶられた。
切断するには足りない、しかし態勢を保つので精一杯だった。
そのさなか、ヨクリは叫んでいた。
「アーシス————!!」
左右に振れる視界の中、眼下に二人の男が映った。
腰を沈めて両腕を倍以上に膨らませ、斧をしっかり握りしめたのは血鎖の頭領。ほとんど寝かせた斧頭の上に片足を預けたのは、名を叫ばれた茶髪の男。
「行け!!」
打ち上げるように斧をぶん回すと同時に、アーシスは跳躍した。ガダの踏みしめた大地がその力によってわずかに陥没する。
「うおおおおおお!!」
天を貫く気合いの声に、ヨクリは反射的に顔をあげると、ヨクリよりもさらに高く、陽光を背に宙で拳を振りかぶる男の姿があった。
紋陣を生成し、極限まで短い時のなかで、アーシスは翼の上部に“伝達”とともに拳を叩き込んだ。
砕けた紋陣が燐光のようにゆっくりと落ちてくると、ばきゃり、と肉が裂け骨の折れる、体の大きさを感じさせるはっきりとした音が聞こえた。
アーシスの拳によって、ヨクリの一撃が刻まれた傷口からその右の翼はへし折れた。全てが精緻に、落下する最中に映った。ヨクリが見ている世界が減速しているのは、外的な要因ではなく、凄まじく集中した感覚ゆえのものだった。
支えを失ったヨクリは“翼の狼”の背中から投げ出される。
宙に浮いて、受け身の取れない体めがけてその尾が迫り来る。死に体のヨクリがその余波を頬に感じたその瞬間、
「おりゃああ!!」
足の付け根に、斧を両手で振りかぶり刃を叩きつけたのはガダだった。ヨクリを狙った尾はその衝撃に逸らされ、頭上を恐ろしい音ともに空ぶった。
幾度か錐揉みするように宙を舞ったヨクリはなんとか姿勢を制御して正しく着地すると、生還の安堵を感じる暇もなく即座に跳び退り、態勢を立て直す。状況を見ると、遅れてアーシスもその背から離脱し、着地するところだった。
そして、小さな地鳴りとともに落下したのは二人の攻撃によって体から離された片方の翼である。痛みに藻搔く“翼の狼”の挙動に合わせて、空中へ何かを描くように血の軌跡が舞った。
その後理性を失った獣が暴れ出すのを警戒し、囲んだ具者たちは一斉に身構えたが、その予想に反してわずかの間でその獣は全身に力を込めた。
喪失した部位を建て直すように右側の筋肉が盛り上がり、一度ぶしゅ、と血が噴出したあと、その流血は急激に治り始める。
およそ考えの及ばぬ光景が連続して起こり、具者たちの身を再び竦ませた。
だが、半分は斬撃、もう半分はひしゃげちぎれた生々しい切断面から、未だわずかに血液が吹き出ている。ヨクリが格闘する最中にも、残った具者たちはその巨躯に激しい攻撃を浴びせ続けていた。
無数の傷を受け、片翼を捥がれた“翼の獣”。
しかし、恐ろしいほどの冷静さを感じさせるその佇まい。低いうなり声とともに距離をゆるくとって再び睥睨する。焦げ付いた瞼の奥から獰猛な光が覗く。
————激しい殺意を宿す獣の眼差しが、そこに集う具者たちを余さず貫いていた。




