十一話 望むものたち
一つの天幕。夜半過ぎ、最後の調整を行なっていたマルスとクラウス。納得のいくところまで詰めたマルスが休息を取るために自身の天幕へ戻ると、入れ替わるようにその天幕に訪れたのはベルフーレだった。一つの椅子を勧めたあと、再び術金属の箱やそれに繋げる管、数々の工具の片付けに戻ったクラウスの背中をベルフーレはただ見据えていた。
背を向けることをお許しください、とクラウスは作業を中断しようとはしなかった。時間は全てをさらってゆくが、しばしばそこへ悪い偶然をもたらすということも知悉しているがゆえの、男の理念に基づいた行動だった。
「かような夜更けにお一人で男の部屋を跨ぐのは、いささか感心しかねますが」
「あら、光栄ですわ。そのように私を見て頂けるのですか?」
苦言に笑顔で切り返すと、肩越しにクラウスは苦笑いする。
「これは参りました」
再び作業に戻ると、その表情は見えなくなる。
「つくづく六大貴族に生まれ落ちた者たちは計り知れませんな」
「クラウス様がそのように仰るのはとても珍しいですわね」
話をしつつ、汚れを丁寧に拭き取って欠けや不備がないかを確認したのち木箱に収納し、封をする。ここ都市外でもう使われることはないのだろう。国に名を轟かせる図術士がこうした雑用を厭わないさまを、ベルフーレは幾度か目にしてきた。
仕事に貴賎をつけないと言えば聞こえはいいが、自身の仕事道具に一切の者を触れさせない、全く他人を信用していないともとれる。
「私は、私の為すべきところをただ為そうとしているだけですわ」
「これでまた、当主への道を一歩進めたわけですか。いやはや、末恐ろしい」
「……そうするよりほかに、この国のためにツェリッシュが貢献できる道がないだけです。おそらくは、父もそう思っているのでしょう」
二人の姉はどちらも素養に欠けていた。内外の人間がそう考えているのは明らかで、だからこそツェリッシュの周囲はこの幼い少女に多大なる期待を寄せ、数多の機会を与えていたのである。少女もまた集められる全ての思惑にその思惑以上のことを次々と為してきた。フェリアルミス南にある小さな商店街の相談役から始まり、“拠点”の財務調査、ツェリッシュ金商会の一つの部署の改革など十二に満たない齢のころから今に至るまで、数々の成果を上げてきた。
全ての後片付けを終えると、クラウスはベルフーレを待たせ、一度天幕の外へ出てから再びカップを二つ持って戻ってくる。そのうちの一つを差し出すと、小さな椅子に腰掛けた。
「今を騒がせるシャニール人にまつわる事柄でなかったのは意外でしたが……」
ベルフーレが疑問を述べると、
「ときに、ベルフーレ様の目にはどう映っておりますかな。その首都での出来事は」
直前の声に連なるクラウスの質問に、ベルフーレは目を細めて思考をまとめ、
「彼らの魂の拠り所をこの国は壊しました。ランウェイルにもそうするだけの理由はありましたけれど、しかしそれもまた事実です」
才女の言葉はどこまでも整然としていた。
「そしてこの国の制度に虐げられている者たちも、同じように。正しきどこかへ彼らを導かねば、この国の怨嗟は止まらないでしょう」
今の旗手は怨嗟をその旗印に、シャニール人を破滅へ導こうとしている。ランウェイルにも同じような破滅をもたらそうとしている。そういう言葉が続いた。
「願わくは、正しき導き手の一人にツェリッシュの名が後世まで刻まれていることを——そんなところでしょうか」
ベルフーレの意見にクラウスはわずかに思案したあと、静かに口を開いた。
「少し、思い違いをしておられますな」
「と仰いますと?」
意見を否定するような言葉にはベルフーレは動じなかった。むしろその奥にあるものを臆面もなく求めるかのように続きを促した。
「先に来るのは心ではありません。どんなに崇高な精神の持ち主でも、人はどうしようもなく、その器……肉体に支配されております。結局のところ、貧しいからなのです。飢えからくる不満をかすかに残った理性と結びつけ、自我の均衡を保つために理由を探す。虐げられる者たちの全ての動機はこれに終止するのです」
数多の人間を見てきたものの言葉だった。その佇まいから醸し出される、揺らめくような気迫はベルフーレをわずかに気圧す。
「————紛れもなく、この国の民は飢えている」
他でもない国の財を支配しているツェリッシュ家の血筋の者に、クラウスは断言した。
飢えから始まり、その原因を憎んで、勢力を作っていく。そういう人間の仕組みを。直接咎を指摘されたわけではない。それでもその威圧感を拭い去ることはできず、ベルフーレは息を詰めてから、呼吸を整えてクラウスに重ねて疑問をぶつけた。
「——だから、父上に近づいたと。ステイレルでもゲルミスでもなく、ツェリッシュ家に」
「それにお答えするには少々の時が必要ですな」
一番の肝を、しかし図術士は臆面もなく濁した。そして、あるいはごまかすように話題の方向を変える。
「貴女は類稀な資質をお持ちだ。ロシ様もさぞお喜びになっていることでしょう。ただ単純な力を持っているというだけではない。長く人々に傅かれると見えなくなっていくものもある。貴女やステイレル家のキリヤ様はそのことを正しくわかっている」
次に紡がれた音は、自嘲や失意とは別の感情を秘めていた。
「私は決して民に寄り添う善人ではないのです」
ベルフーレはクラウスの意を推測し、躊躇せず返す。
「それはきっと人より多くのものが見えるから。見えすぎてしまうからでしょう」
「なるほど。であるなら、貴女もさぞ退屈でしょうな」
その言葉は、同類にかけるような親しみをもった響きをしていた。そしてそんなクラウスに目を伏せた。憂いを湛えた瞳だった。
「私は、貴方様が哀れですわ」
「哀れですか」
一回りどころか、父親と同世代くらいの年上に向かって、ベルフーレはなんの遠慮もなく言い放った。
「はい。マルス様、とご子息。貴方はどちらも理解することができてしまう。だからどちらも選べずに、次の道を模索するしかない」
声音はその眼差しと同様に、侮蔑とは対極的な悲しみを感じさせる音を持っていた。
「彼らのようにもう少しどちらかに寄っていれば、もっと単純でしたのに」
耳にしたクラウスも、静かに少女へ同意していた。
「……そうかもしれませんな」
「——それは世界にとっても不幸なことです」
たわむ天幕を見上げ、ベルフーレは言った。
ベルフーレの言葉は決して大げさではなかった。図術士クラウスを縛るものがなければ、今よりも多くの発見をもたらしていたことを嘆いている。
「私はそこまで、世界に貢献したいなどとは思っておりません。ただ己の欲するところを欲するままに生きてきました。……先ほども言った通り、貴女のような高潔さはないのですよ」
この男ほど現代の図術学発展に貢献してきた者は存在しない。にもかかわらず、その言葉は嘘を言ってはいないように聞こえた。
「貴方様とケイネス様、それにマルス様。三人の優れた図術技師がそれぞれ三方に別れた道を行くのは、定めなのかもしれませんわね」
「マルスにも、資質をお感じで?」
「ふふ」
ベルフーレは可笑しそうに笑って、
「貴方様も感じているからこそ、そばに置いているのでしょう?」
クラウスはそれには答えず、遠い眼差しで言った。
「人は優れたものに正しい心を求めたがる。自分にも、他人にも」
わずかに射した暗い影は、すぐに跡形もなくなる。
「あの子なら、あるいは私とあれが為し得ないことを為すかもしれないと、そう感じているだけです」
クラウスは少女に向き直り、希求した。このときだけは、いかなる場合でも内心を悟らせようとしない図術士のもう一つの面を垣間見せる。
——真摯な姿だった。
「ツェリッシュと、国のためにどうか使ってやってください」
「賜りましたわ」
一度閉じられた会話を再開させたのは、少女だった。応酬から生まれる感情や思考の波を正しく制御している。
「では、私からもお訊きしても?」
「なんなりと」
深く頷いて快諾するクラウス。ベルフーレは、では遠慮なく、と、
「——新たなエーテルの海を手に入れ、国がどう動くのか」
クラウスは虚を突かれた様子はなく、まるでその問いを予測していたように落ち着き払っていた。
「もう勝った後のことをお考えですか」
「家名で動くものは皆そうでしょう。なおさら貴方様ほどの方が考えていないはずがありません。あるいは、国の行く先を導くべく、今回の話を画策したのではないでしょうか」
ベルフーレは言葉を切って、
「ここセルゲイを開拓し、サンエイクとガラウを繋ぐ行路を作る。そのために、諸外国との繋がりを絶った今、多くの貧しい労働者が諸施設の建設のために職を得る。人の押し寄せたサンエイクも、人的資源不足が解消されエーテルの利益で立て直すことができる。父の引いた図面はおそらくはこんなところでしょうが」
当主の意向を余さず弾き出したような、確信を持った言い回しだった。
「ですが、先ほど仰った近年起こっている動乱の元凶、つまり民の飢えを解消するためだけに貴方様が動くとは思えないのです」
両者思いがけず、次の言葉は天幕内の空気を鋭く切り裂いた。
「——シャニール戦争で用いられた“あれ”を作ったクラウス様が、本当にそれだけのために?」
「手厳しいお言葉です」
クラウスの苦笑に少女はゆるく首を横に振った。
「貴方様を非難できるランウェイル人はこの国には存在しないでしょう」
「果たして、そうですかな」
その苦笑が深みを増したこと、そしてその表情の意味にベルフーレは気づかなかった。
クラウスは少女が話を続けようとしているのを察知していながら、しかし再び話題の矛先を変える。
「その慧眼には、ただ脱帽するばかりです。——ですが、知らないほうがよいこともまた、現実には存在します」
瞳の中におよそ感情というものが欠落した表情だった。
「貴女の力が、貴女自身を滅ぼすことにならないよう、ゆめゆめお忘れなさるな」
それは忠告のようであり、また、脅迫のようでもあった。
話は終わりだと、クラウスはベルフーレから目を切って、最後に閉めた木箱を再び開けて目で確認してからベルフーレを残し、天幕を去っていった。
そして、その少女の内心もまた何人にも悟らせはしなかった。
齢十六にして国内の貴族の頂点に立つ家でその才覚を如何なく振るってきたベルフーレは、少女の行く道や国の趨勢を秘め、今はただ立ちはだかる全てのことに注力することだけを他の人間へ伝えるのみである。




