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途上のシャムロック  作者: 納戸
黒血に響く凱歌
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   2

 話の回し手がハンサに移り、当主は一層上機嫌に笑いながら集まった人全てに声をかけている。居心地悪そうにしながらも笑みを隠せないタルシン。兄が戻って心の底から嬉しそうなターニャ。商家の重鎮という表の面を取り払った家族の姿がそこにはあった。アーシスも友人の妹のターニャと話をしながら自身の妹を思い出しているようで、普段よりも表情は柔らかい。集った皆が一時自身に課せられた様々な義務を忘れ、暖かい宴を楽しんでいる。


 振る舞われた豪華な食事や酒の味に当てられたヨクリは、団欒の中で一声をかけて席をたった。ハンサはああ言っていたが、振る舞われた酒はかなりの上物のようで、気分は悪くないが酔いの回りも早かった。使用人に尋ねて場所を聞き、階上に上がって反転し、扉を開ける。


 露台に出て風に当たると、頬の熱を冷ましてくれて心地がいい。しばしの間、豪奢な装飾の施された欄干に手をかけて外を眺めていた。階下の賑やかさは、ここには届かない。

 一人涼を取っていると、扉の向こうの廊下から小さな足音が聞こえてくる。ヨクリは間を見計らって、肩越しに振り返った。


 招いたように吹いた風に、小さな影の服の裾が揺れ、青空色の髪がたなびいた。


「フィリル」


 ヨクリは少女の名を呼んで、まじまじとその姿を見る。


「久しぶりだね。元気だった?」


 少女の一件を終え、別れてから小半年以上が過ぎていた。以前よりも少し雰囲気が変わったような気がするのは、思い過ごしではないだろう。


 少女は、元気……と自分に問うように小さく呟いてから、


「はい。——ヨクリさんも、お変わりないようで」


 返事のあと、少し躊躇気味に付け加える。そういう所作も、ヨクリには新しいものに感じられる。


「驚いたよ、まさかこんなところでまたフィリルと会えるなんてさ」

「そう、ですね。はい。わたしも、驚きました」


 そこで会話は途切れる。

 もともと口数が多いほうではないし、フィリルは余計にだろう。

 話したいことはたくさんあったはずだが、ありすぎてどれから話していいのかわからない。ヨクリは少し考えて、一つ風が吹いた頃にふと切り出した。


「友達、できたんだね」

「ともだち」


 ヨクリの言葉を繰り返して声に出してから、


「……わかりません」


 フィリルはゆるゆると首を横に振った。その言葉は嘘じゃないとヨクリは直感した。たくさんの知らない感覚が心の中を渦巻いて、どれが真実なのかわからないのだろう。

 不意に、ヨクリは懐かしさに身を包まれた。きっと同じことを基礎校での二人や、失意のうちに基礎校を出たあとに巡り合ったアーシスの振る舞いにヨクリも感じたから。


「俺だってアーシスには、最初のころはこいつなに考えてるんだとか結構思ったよ」


 ヨクリは苦笑気味に言ってから、


「こうして家に招いてもらえるくらいの関係を築いているんだ。きみの感じていることは、たぶん正しいよ」

「そう、なんですか」


 長いまつ毛を伏せがちに、


「ターニャさんは、友達」


 事実を確認するように、フィリルは小さく声に出した。

 その声音からわずかに感じられた暖かい温度は、緩くそよいだ風に溶けて消える。このまま静かな時間を過ごすことをちらと望んでしまったのは、弱い心の現れだった。


 話さなければならないことがある。ヨクリは意を決して、少女の名を呼んだ。


「フィリル」


 翡翠色の輝きを正面から見据えて、


「俺の話を、聞いてくれるかい?」


 少女はヨクリの瞳をまっすぐと見つめ返していた。


「——はい」


 フィリルの返答に一つ小さく頷いて、ヨクリは目を切って首を持ち上げた。空をただ眺めながら、少女に気づかれないように深呼吸する。


「人を、殺したんだ。俺」


 声に出した言葉が、自分自身に突き刺さった。

 透き通った空気に、星が輝いていた。


「自分と同じ血が流れる人を。たくさん」


 事実を告白したヨクリは、少女の顔を見るのが怖かった。どういう反応をするだろうか。でも、伝えておかなければならない。


「シャニール人自治区の——」


 ヨクリが重ねて詳細を声に出すよりも前に、フィリル自身の口からその場所の名が漏れ、ヨクリは少女に向き直って、ぽつりと呟くように聞いていた。


「……知っていたのか」


 フィリルは首を振って否定し、


「いえ。でもなぜか、そんな気がしたんです。自治区での騒動を聞いたときに、ヨクリさんのことをずっと考えていました」


 どうして、とはヨクリは訊ねなかった。困らせることはしたくはなかった。

 返答のないヨクリに、フィリルは二、三度ゆっくりと瞬きをしてから、


「ヨクリさんは」


 他人に対して一歩踏み込むときの感情の僅かな発露が少女の様子にも垣間見える。ヨクリはそれに真摯に答えようと思った。


「——悔やんで、いるんですか」


 フィリルの問いに、ヨクリははっとした。

 もしもあのとき同胞を斬らなかったとしてもいずれは同じ結果になるだろう、というような予想は考えていたが、今ヨクリ自身が後悔しているのかどうかを真っ直ぐに見つめることはしてこなかったのだ。虚を突かれ、思考が次々に巡り行き、そして行き着いた先でヨクリは呟いていた。


「……わからない」


 失われた可能性は確かにある。でもそれはきっと、ヨクリがどんなことをしていても決して手に入らないものだったのではないかと、同時にそうも思うのだ。


「わたしの、せいですか」

「それは違う」


 聡い少女が僅かに目を伏せ、言う。ヨクリはすぐに、そしてはっきりと否定した。


「このことに、きみのしがらみは関係ない。俺がそうしなければならないと思ったからだ。この国に生きるシャニール人として」


 むしろ、ヨクリがシャニール人であるから生まれた大きな壁だった。


「嘘じゃない」


 フィリルにこのことを話すと決めた時にそこだけは真っ先に考慮したことだった。絶対に誤解をされたくない。妙な遠慮をされたくはない。念押しするように、少女の瞳をまっすぐに見つめていた。


「——はい」


 ヨクリのまなざしに、フィリルは首を縦に振った。その瞳が寄せる信頼にヨクリは答えなければならない。


「ただ、きみにこのことを黙っているのはとても不誠実なことだから、言わなくちゃいけないと思っていたんだ」


 正しく伝わるように精一杯言葉を選んだあと、


「迷惑を、かけてすまない」


 ヨクリが目を伏せて謝罪すると、フィリルはゆるゆると首を横に振った。


「お話は、それだけですか?」

「……ああ。すまない」


 ヨクリの二度の謝罪に、フィリルは僅かに逡巡していた。しばしの間があって、ゆっくりと唇を開いた。


「わたしは」


 声音を確かめるように言葉を切って、


「わたしは、以前にも言ったように、ヨクリさんの話してくれたことをちゃんと考えられるほど、自分で考えて生きてきませんでした。今のわたしには、それにどうお答えすればいいのかわからないんです」


 そうやって、正直に心の内をヨクリへと明かしていた。


「だから、謝らないで、あなたの思うとおりにしてください」


 ヨクリは心が揺らされて、ただ少女を見つめることしかできない。


「ただ……」


 フィリルは言い淀むように唇をきゅっと閉じる。ヨクリは急かすでもなく、その続きを静かに待った。


「ただ、無事で居てください」


 ヨクリは目をわずかに見開いた。そして、悟られないように一つ呼吸して、瞑目する。


 言葉を内心で反芻して、心に刻む。ヨクリの深いところにある、ずっと乾いていた部分に溶け込んでいくような感覚だった。


 分かっている。この少女は確かな自我に目覚めてからほとんど時間が経っていない。ヨクリの行動の意味や意義、あるいは邪悪さやこれから齎す災いを、全てを正しく視界に収められているわけではないのだろう。


 それでもその戸惑いがちな表情や、小さな声をヨクリは決して忘れることはない。


 ゆっくりと目を開いて、その言葉をくれた小さな友人へはっきりと告げた。


「……ありがとう」


 少し見ないあいだに、こんなに成長している。誰かを気遣ったり、思いやったりすることができている。ヨクリにはそれがとても眩しかった。


「つまらない話をしてごめん。そろそろ、戻ろうか」


 そう言ってヨクリはフィリルへ背を向けようとしたとき、小さな力を左腕に感じた。振り返ると、フィリルが服の裾をつまんでいる。その表情は、どうしてそうしたのかわからないというような戸惑いがわずかに見受けられた。


「あの」


 まつ毛を伏せて呟かれたその音は、聞き取れるか聞き取れないかの小さな声だった。少女の控えめな意思表示を見たヨクリは、


「そうだね」


 少しくらい長居をしても誰も咎める者はいないだろう。先ほどの発言を撤回して緩い笑みを浮かべると、ヨクリの顔を見たフィリルは、袖を掴んでいた力をするりと抜く。


「じゃあ、楽しい話をしようか」

「楽しいおはなし、ですか?」


 ヨクリは大きく首を縦に振って、


「フィリルのことを聞かせてくれ」

「それが、楽しいお話なんですか?」


 フィリルの無表情でいてどこか不思議そうな顔を見て、ヨクリは本当に久しぶりに心の底から穏やかな気持ちになる。


「ああ。最近起きたきみのことを、俺は知りたい。楽しかったこととか、戸惑っていることとか。なんでもいいんだ」


 ヨクリの表情を見たあと、少女は幾度か左右に目を泳がせてから、


「上手におはなしできるか、わかりませんけれど」


 躊躇いがちに、ぽつぽつと話し始める。ヨクリは時折質問を混ぜたり、相槌を打ったりしてそれを聞いていた。特異体質の経過、学び舎で起きたこと、ターニャやマリーのこと。フィリルは言葉に詰まりつつも記憶をなぞるように思い出しながら、ゆっくりと説明してくれる。

 ヨクリは少女の一言一言を聞き逃さないように真剣に耳を傾け、心に深く刻み込んでいく。


 薄く伸びた雲の先の月明かりと煌めく星々の淡く優しい光が、静けさの中で言葉を交わす二人を照らしていた。

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