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途上のシャムロック  作者: 納戸
黒血に響く凱歌
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十話 手筈と奇遇

 上級魔獣の討伐に関わる全ての人間が同じ方角を向き、各々が割り振られた役割に邁進しはじめていた。そんな中ヨクリに与えられたのは、都市へと舞い戻るベルフーレの護衛につくことである。同行しているのはアーシス、タルシン、そして六大貴族の末娘だった。アーシスもヨクリと同じ任であり、もともとその役目を担っていたツェリッシュ家の具者は全て当主への報告に向かったプリメラの元へついている。


 そして先日の六大貴族の末娘とのやり取りによって決められた方針に沿ってタルシンが案内したのは、首都フェリアルミスだった。

 同じだけの時間をかけて砂漠を越え、長距離列車を乗り継いでたどり着く。一番の重傷を負っていたセフィーネのほか、少なくない人数の療管の手配を済ませた。途中まではメディリカが同行していたが、都市外での施術を報告するために施療院で別れ、ヨクリらは次の目的へ向かう。


 翠百通り。その名の由来である美しい植え込みが中央を分断し、道の両側には等間隔に図術灯が設置されている。並ぶ店々はどれもがその筋の最高の仕立て屋や料理長が務める一流のものばかりで、翠百通りを目当てに国を訪れる旅行者もいるほどだ。欠け一つない舗装された道は幅も広く、それぞれに馬車二、三台が余裕を持って通れる。ランウェイルが誇る、南大門から始まり中流層から大貴族街を抜けて王城へ繋がる一本の大通りは以前よりは閑散としていながらも、人の往来が戻りつつあった。


 一月も経つとあの日の動乱の気配は一応の終息を見せ、漂っていた死の匂いは中央に咲き誇る花の香りで書き換えられている。冬は完全に過ぎ行き、暖かな風とヨクリの今の心境を表すような、澄み切った青空が広がっていた。

 しかし一方で、あの夜の出来事をどうしても思い出してしまう。ヨクリは用心して目深に外套を被り髪の色が目立たないようにするが、横目で見ていた茶髪の男がその行動を咎めた。


「頭はずせよ、ヨクリ」

「いや、でも」


 アーシスは言い淀んだヨクリの頭を鷲掴んだ。


「堂々としてろ。オレらもお前も、文句つけられる筋合いはねえだろ」


 そのまま外套に指をかけ、頭から引っぺがす。ヨクリは行き交う人々の視線を確認しようとして、しかしやめた。


「……ありがとう」

「礼もいらねえっての」

「そうですね。私の護衛という名目です。是非胸を張ってくださいな」 

「は」


 ヨクリは小さく、恭しく応答する。心持ちを改めて、なんとかさざめく胸中を落ち着かせた。


 フェリアルミス貴族街王城区。タルシンに先導され、到着したのはここだった。他都市で言う所の上流層に区分されるが景観のために術金属で出来た諸施設は地下及び王城区を囲う壁中に敷かれ、古より続く町並みが保たれていた。

 一行は強固な砦の門のような構えの入り口で出入りの手続きをする。タルシンとベルフーレが衛兵である維持隊員と接触を取り、許可が降りた。加えてヨクリとアーシスには念のため簡易滞在許可証が配られる。これがあれば、貴族街ではぐれてもある程度身の安全は保証される。


 自治区の一件があってから治安が悪化し、厳重な警備体制が敷かれている。ベルフーレが居なければ到底入ることはできなかっただろう。明らかに場違いなヨクリとアーシスは、さすがに気後れして少し身構えてしまう。


「なにしてるんすか、二人とも。行くっすよ」


 手慣れた様子で先を行くタルシンと、その後ろにベルフーレ。少し下がって両脇にヨクリとアーシスの順で道を歩く。目が眩むほどの豪奢な邸宅が立ち並び、その一角にあったのは、豪邸揃いの貴族街でなお広い大豪邸だった。ファイン邸、ステイレル別宅と、家や敷地の大きさ広さに慣れていたヨクリの感覚をさらに壊す規模感である。もはやなにがなんだかわからない。


 基礎校かと思うほど広い門の前に佇立する衛兵。こちらに近づいてきて——タルシンが軽く手をあげると、目を見開いて、最上級の礼をとった。普段どちらかと言えば遠慮がちな態度をとっているタルシンの別の一面を垣間見て、ヨクリにもこの瀟洒な若者が何者なのか、見当がつき始めていた。


 先導するタルシンは門から屋敷までの導入路をずんずん進んでいく。前庭も嘘のように広く、それをしげしげと眺める頃にはヨクリはもう驚くことをやめていた。きりがない。


 呼び出し用の扉飾りも無視して、タルシンは無造作に扉を開いた。


 外で見た通りの、いや、その想像を超える、端的に言えば恐ろしい内観だった。

 まさしく国内で辣腕を振るう上級貴族の邸宅にふさわしい豪奢な内装。入口の正面は幅の広い階段があり、突き当たりの踊り場には一族の肖像画がずらりと並んでいる。

 床、壁、柱、そして細かな調度品に到るまで、全てのものに素人が見てもわかるほど手が込んでおり、その芸術性の一端を感じさせる。


 ヨクリとアーシスが作り上げられた空間にただ圧倒されているなか、やはりというべきか全く動じない六大貴族の末娘と、そしてもう一人。

 そのタルシンが自然体のまま、すう、と息を吸い込んだ音が聞こえた。


「誰かいないか?」


 改められた口調は大声には少し届かない、絶妙な声量の覇気のある声だった。その声音でヨクリも我に返り、タルシンとベルフーレを前に、アーシスとともに一歩下がって姿勢を正す。服装はどうしようもないが、今は二人の従者として振舞うべきだろう。迂闊な行動でその名誉を汚すわけにはいかない。

 そうして気を張っていると、上階から駆け足が聞こえてきて踊り場で足音の主の姿が見える。その者はタルシンと同じ髪色をした年若い少女だった。肩で息をし、慌てていたさまを悟らせる。


「兄、さん?」


 学び舎の制服に身を包んだ少女は、タルシンに顔を向けて再び呆然と呟いた。


「兄さん……」

「——ターニャか」


 タルシンが少女を見て、その名を呟いた。懐かしさと申し訳なさが同居しているような静かな声音だった。

 少女の影から老執事が現れ、階段を降りてタルシンの側へ寄ってくる。満面の笑みを浮かべ、刻まれた皺はこの家に勤めた年月を表していた。


「お久しゅうございます、坊ちゃん」

「坊ちゃんはやめてくれ、トバル」


 うんざりするように執事の名を言ったあとこちらに振り向いて、口調を戻して語りかける。


「まあ、その、こういうことっす。隠してたみたいで申し訳ないっす」


 つまり、タルシンはこの家の出だったということらしい。


 タルシン・トラウト。商家トラウト家の長男——当主を継ぐ跡取り候補だったのだ。


 ゆっくりと、階下に向かう少女。詳しい話を聞かずとも出奔同然で家を飛び出したとやすやすと想像できるほど、少女の面持ちは驚きに溢れていた。

 が、ヨクリは全く別のことに、さらに驚愕することになる。兄を追うように姿を見せた少女のさらに向こうから、おそるおそるといった様子で二つの人影が現れた。

 首を持ち上げてそのうちの一人の姿をみとめた瞬間、今の状況を忘れてヨクリは声を大きな声をあげていた。


「……フィリル!?」

「ヨクリさん————」


 発した声の大きさは、その驚きの度合いをそのままヨクリ自身へ伝えた。


 確かに少女が属することとなった貴族分校はフェリアルミスにあるが、それだけでこの偶然を想像できるだろうか。

 その小さな姿は、緋色の友人キリヤから持ちかけられた依頼でヨクリと浅からぬ縁を結ぶこととなったフィリル・エイルーンその人であった。

 その青髪の少女もまた、声を荒らげずとも驚いているさまが伝わってくる。はっと、我に返ったタルシンの妹が、フィリルに向かって別の声をあげた。


「え、え? リルさん、知り合いなんすか?」


 わたわたと慌てるその少女に、どことなくタルシンの面影があった。絶世の美少女というわけではないが、多くの人に好かれそうな愛嬌のある顔立ち。身長は隣に立つフィリルよりも高く、肩より少しだけ長い髪。


 その少女を尻目に、隣の茶髪の男が声をあげた。


「よ、久しぶりだな」


 アーシスもまた、フィリルへ片手をあげて挨拶する。フィリルは驚きから立ち返ったのか、数回瞬きをしたあとにぺこりと頭をさげた。


「お久しぶりです、アーシスさん」

「え、え?」


 未だうろたえる妹に、タルシンは朗らかに笑った。状況を正しく整理するように、


「ターニャの学友がアーシスさんたちの知り合いだったとは」


 そして切り出す。


「ターニャ。——当主はいるか?」

「あ、はい。今、書斎にいます」


 少女がなんとか応答すると、タルシンは頷いてからトバルに面会の旨を言付ける。


「兄さん……」

「わかってる。また後でな」


 不安げな顔をしたターニャを安心させるようにタルシンは微笑んだ。ヨクリもまた、こちらへ顔を向けるフィリルに小さく頷いて意を示したあと、背を向ける。

 老執事は一階の応接間に全員を招いてから、一人退出した。


 応接間もこれまた広く、天井も高かった。集合灯はやはり豪華絢爛で、今は火が灯されていないが夜はさぞ華やかに室内を彩ることだろう。床に敷かれた絨毯を踏むと、石材の存在感が上質な布地を通して伝わってきて心地よい足音がする。

 二人の別の執事に着席を勧められ座った椅子も恐ろしくふかふかだった。座っているんだかいないんだかわからない感覚にヨクリは落ち着けない。そんななか、貴族と関わりがあるアーシスは気に止めず、貴族そのものの二人は上品な立ち居振る舞いで平然としているようだった。


「しかし、トラウト家の嫡男さまだったとはなあ」

「アーシスさんは気づいていたんじゃないんすか?」


 出された茶を啜りながらしみじみ言ったアーシスに、タルシンが答える。


「そりゃ薄っすらとはな。だが、お前がここまでの名家とまではさすがに思ってなかったぜ。道理で事情通なわけだ。っと、タルシンさまが、か」

「勘弁してください、今まで通りに頼みますよ」


 いや、無理があるだろう、とヨクリは思った。六大貴族には劣るものの、トラウト家も国の運営に深く関わる家柄である。


「ベルフーレさまは、このことをご存知だったのですね」

「ええ。幼少の頃、一度お招きに預かったことがありますから」

「そうでしたっけ……」

「タルシン様も、まだお若い頃でしたし」


 いや、そうならベルフーレは本当に両手の指で足りるくらいの年齢だろうと、ヨクリは再び内心で突っ込んだ。


 しばらくして再び顔を出したトバルに、当主の対応の準備ができたことを告げられ、恭しく促された。年齢を感じさせない極めて聞き取りやすい発声と洗練された立ち居振る舞いに、ヨクリはとっさに目を奪われる。その家が今どう言う状況なのかを見るにはその家に仕える従者たちを観察するのが手っ取り早い、とキリヤが言っていたことをふと思い出す。貴族の友人の言葉を信じるならば、この老執事はトラウト家が数十年安泰だったことを体現しているかのようだった。そんなトバルに先導され、向かった先は当主の書斎だった。屋敷内をしばし歩いて、一つの大きな扉の前にたどり着く。ぎい、と重い音を立てて開かれ、身分の高い者から順番に入室した。


 部屋の奥に座して待っていたのは、程よく鍛え上げられた肉体を持った偉丈夫であった。四十そこそこだろうか。ぱっとみの印象はひょろっとしたタルシンとは似ていないが、瀟洒な服装の趣味と目鼻立ちはよくよく見れば血の繋がりを感じさせる。

 商人というよりは、歴戦の具者といった風貌のこのハンサ・トラウトが、トラウト家当主である。ツェリッシュ家が国内の貨幣の流通を牛耳っているのだとするなら、トラウト家は国内の物流を支配している、非常に強大な影響力を持つ貴族の家の一つだった。

 ハンサの身につけている車輪の紋の胸飾りは、ツェリッシュ家が天秤を模した家紋であるのと同様に、トラウト家の象徴である。


 奥の豪奢な書斎机の椅子に腰掛けていたハンサは読みかけの書類を机の上の紙束に戻すと、はっきりとヨクリらを見据えた。


「今日は客人の多い日だ」


 迷惑そうな台詞とは対照的に、笑みをのぞかせるハンサ。その一挙でこの男がどういう性格なのか感じさせる印象的な振る舞いだった。


「しかし、まさかベルフーレ様がこんなところへいらっしゃるとは」

「お久しぶりでございます。ハンサ様もご健勝のようで」


 優雅に礼を取るベルフーレ。ハンサもゆるく頭をさげたあと、そこでヨクリら——というよりはタルシンの顔をちらとみた。


「なにやら皆に内緒で面白そうなことをやっているとか」

「ええ。とても愉快なことを。彼らと」


 すでに、今現在クラウスやツェリッシュ家が行なっている上級魔獣の討伐について耳に入れているのだろう。

 前置きもそこそこに、ハンサは切り出した。


「で、なんの用だ、馬鹿息子」

「……父さん」


 出奔した血筋の者に向かい、しかし未だその繋がりは絶たれていないことを告げる呼び方だった。応じるように真っ向から見合って、タルシンは小さく呟いた。大きな呼吸が一つ聞こえてきて、緊張のためか、喉を鳴らしてからタルシンは口火を切った。


「物と人がいる」


 硬い口調そのままに、


「トラウト家の人脈でどうにかできないか」


 出奔した自身の家の当主を見据えてはっきりと告げた。ハンサは思案気に眉を顰めてから、対面の椅子を指差した。


「……まあ、改めてお前の口から詳しく聞かせてもらおうか」


 促された先に腰掛けて、タルシンは今起こっていることについて詳しく説明を始めた。時折ベルフーレが情報を補足し、概要をさらったあとは商家同士でやりとりされるような、細かな数字の話にもつれ込んでいた。

 四半刻以上をかけて全て聞き終えたトラウト家の当主は大きなため息をついた。


「無謀だな」


 ハンサの口から出た言葉は、端的でいて当を得ていた。


「負け戦に金と人を突っ込んだとなりゃ、家の面子は丸つぶれだ。不貞腐れて家出したお前に責任がとれるのか」


 続いたのは極めて鋭い切れ味を持った正論と、


「どうなんだ」


 強烈な威圧がタルシンを襲う。横で聞いていたヨクリの背筋をも竦ませる重たい声音。タルシンにとっての父としての顔ではなく、一族とそれに連なる家々を束ねる上級貴族の顔だった。


「……確かに、父さん達の言う通り俺は中途半端だった。家を出てからずっと。……レミンでは何も出来なかった」


 苦い経験を話して、


「でも今、この話に協力できなかったら俺は一生中途半端なままだ」


 タルシンは一度ヨクリの顔を見た。


「俺もあそこで戦った皆の力になりたい。だから————家の力を使わせてくれ」


 頼み込むように告げたあと、顔を上げたタルシンは打って変わって力を秘めた眼差しを父へと向けた。


「この家の人間として言う。こんなでかい山、トラウトが乗らなきゃ一族の恥だ」


 真っ向から言い切ったタルシンを、ハンサはしばし何も言わずにただ睨むように見据えていた。そしてその後、厳しい気配を和らげる。


「レドの話よりもだいぶいい面構えになったじゃねえか」


 身内への言葉遣いで、ハンサはタルシンへ語りかけた。


「レドさんを知ってるのか」

「当たり前だ。お前がどう思おうが、お前はトラウト家の次期当主だぞ」


 その言葉の裏をタルシンはおよそ正確に掴んだようで、わずかに眉尻が下がる。


「不服だったか」

「……いや。たとえ父さんの手のひらの上だったとしても、外へ出てよかったと今は思っている」


 タルシンの言葉で、ハンサが家を出たタルシンをずっと見守っていたということがヨクリにもわかった。そしてそのことを素直に受け入れた息子に、ハンサは深く頷いた。


「わかった。その話に乗ろう」

「本当に……!?」

「自分で頼みに来ておいてその反応はないだろう」


 タルシンの驚きにハンサは苦笑する。タルシンの覚悟を試していたということはヨクリにもわかった。


「感謝致します」

「いやなに、かのツェリッシュ家と親しくするのは、当家にも利はあります」

「では」

「ええ。話を詰めましょう」


 タルシンがベルフーレから預かっていた書類を机上に並べ、その一つ一つについての吟味が始まった。

 当主の協力が取り付けられて具体的な話に進むと、見計らっていたようにトバルがヨクリとアーシスの二人に退出を促した。ここにいても出来ることはないだろうし、ヨクリらが必要な情報でもない。素直に老執事に従い、静かに部屋を後にした。


「……うまくまとまりそうだな」

「うん」

「お二方、よろしければ屋敷の中を案内致しましょうか」


 することもない二人はトバルの提案に従い、中を軽く見て回った。老執事が話すトラウト家の歴史や、分家をはじめとする、連なる家々が行う事業などは面白く、展示室にあった収蔵される蒐集品など興味をひかれるものもあり退屈せずに済んだ。


 その後は振り分けられた部屋で軽く体を休めたが、呼び出される気配はなかった。少しばかりの時間を持て余す。屋敷の中を自由に行き来していいと伝えられていたので、立ち上がって扉を開けた。廊下に出てからどうしようか思案して、あの青髪の少女と話をしようと思い立つが、格式高い貴族の屋敷で女人の部屋を訪れるのもいかがなものか。そんなことをつらつら考えていると、通路の奥から人影が現れた。この家の当主のハンサだった。どうやら話し合いは終わったらしい。姿を視認したヨクリは礼を失さぬように、即座に頭を下げて道を譲るが、ヨクリに用があったらしく、目の前で立ち止まった。


「馬鹿息子が迷惑をかけたな」

「いえ、滅相もありません」


 畏れ多い言葉だった。キリヤやツェリッシュ家のような例外を除けば、ヨクリのような身の上の人間がこうも面と向かって言葉をかけられることなどありえない。


「なんだ、俺が君に話しかけることがそんなに不思議か」

「いえ」


 しかも、息子のタルシンや同じ派閥のアーシスならともかくまさかヨクリ一人のときに声をかけられるとは思っていなかったのだ。反射的に否定してしまってから、控えめにそれを取り消した。


「いえ……そうかもしれません」

「縮こまらずもっと胸を張れ。俺は君を買っているんだ」


 その言葉をどう受け止めていいのかわからず、ヨクリは戸惑いながら疑問を声に出す。


「なぜ俺のようなものを」

「さすがに息子の近辺くらいは調べさせるさ。……シャニール人が皆君のような者なら話は早いんだがな」


 頭を掻きながら言うさまは、首都の動乱やその原因となる様々な出来事に少なくない害を間接的に被っている言外の現れだった。ヨクリがそれについて深く考えるよりも前に、


「息子も命を助けられたらしいしな。金ならいくらでも貸してやるぞ」


 ハンサの口から聞かされる言葉の一言一言にヨクリは感謝した。

 ヨクリが思っている以上に、周りはヨクリのことを気にかけてくれている。最近はそのことを感じてばかりだ。


「いえ……ああ、いや」


 重ね重ね畏れ多い言葉にヨクリは気持ちだけ受け取って断りかけて、思い当たった。この男——上級貴族トラウト家の当主なら、あるいは知っているかもしれない。


「すみません。お金ではありませんが、少しお尋ねしたいことがあります」

「よしきた。俺が知っていることなら、なんでも一つ答えよう」


 ハンサは二転するヨクリの態度にも気分を害すことなく、むしろ愉快そうに返答した。


「感謝いたします」


 そうして当主の部屋に招かれ、ヨクリが訊ねたのはある一つの事件についてだった。





 密談というほどではないが当主との二人きりの話を終えると、窓の向こうは夜の帳が降りていた。部屋に戻ったヨクリを訪ねたタルシンから、今日はこのままトラウト家の世話になる旨が伝えられる。ヨクリは固辞しようとしたが、この時間のシャニール人が首都をうろつくと無用の騒ぎが起きかねないこと、タルシンも世話になった礼がしたいこと、ヨクリにとって浅からぬ仲の青髪の少女がいることを受けて、一番位の低い部屋である先ほどの部屋を借受けることとした。それでもそこらの宿よりもはるかに上等な部屋であったが。


 ややあって夕食の支度ができたと、トバルがヨクリの部屋を叩く。その姿に従い、踊り場でアーシスと合流すると、トラウト家の大食堂へ招かれる。


 促された席に座ると、たちまち次々に運ばれ、所狭しと並べられる豪華な食事にヨクリは目を丸くしていた。こちら側の中央にベルフーレ、向こう側の中央にはハンサ。また、娘のターニャの友人たちも席を共にし、食堂は華やかであった。


 ヨクリがしばし滞在していたステイレル家の別宅とは趣がだいぶ異なるもてなしだった。見たこともない美しい料理や、それ一つとっても豪華な食器。ヨクリは再び内心でただ驚くことしかできない。


「ベルフーレ様がいらっしゃるなら、こちらとしてもそれ相応の用意をしなければならなかったが。無礼を許していただきたい」

「いえ、突然押しかけたのはこちらのほうですわ。十分すぎる歓迎に感謝いたします」

「もう少し待てばリンドで作られる上物の果実酒が入るんですがね。この時期は酒気を抜いても酔っちまうくらいうまい」

「それはもったいないことを致しました」


 品良く微笑むベルフーレに、ハンサは盃を軽く掲げた。


「では、今後の成功に」


 全員が同じように食前の所作を倣った。


 そうして食事が始まり、手を触れるのもおそろしかったが、横のアーシスは手慣れた様子で料理に手をつけていた。エイネアのもとでこうして貴族の晩餐に招かれることもあったのだろう。内心で裏切り者、と毒づくが、どうしようもない。しかし、かといって一口すら口に運ばないのもかなり失礼だ。ヨクリはかなり葛藤したあげく、キリヤに教わった作法や、ファイン家で今同卓しているベルフーレと食事をしたことを思い出しながら、おそるおそる食事を試みる。確かに挙げた二つの場面で作法を重視した食卓を囲んだことはあったが、トラウト家は全くヨクリと関わりがない上に、下手をして、今回の依頼に悪影響を与える懸念を拭いきれない。


(こんなことになるなら、断ればよかった)


 そうでなくてもシャニール人だ。わざわざ問題のありそうな人間を護衛につけなくてもよかったのではないか。

 周りの席で軽やかに行われている歓談を尻目に今更出てくる悪態を心のうちで散々言ったあと、


(味がわからん)


 もう一人のヨクリがよく知る人物は、一通りの貴族の作法を教え込まれていたためかすいすいと食事を進めていた。手元をしばし盗み見て、顔をあげるとぱちりと対面の青髪の少女と目が合う。


(あんまり見ないでくれ。……っていうのもおかしいか)


 一度視線は逸らされるが、意識し始めるとどうやら何度もこちらの様子をうかがっていたようでその後何度も視線がかち合った。

 同じように、フィリルも気にしているらしい。自分自身に苦笑しつつ、これが終わってから二人で話をしなければなとヨクリは思っていた。


「ヨクリさんとリルさんは、後見人の間柄なんですってね!」


 向かい側のターニャに水を向けられ、ヨクリはそっちを見る。学び舎の三人での話題に上がり、フィリルが話をしたのだろう。


「……ええ。でも、できれば内密にお願いします。よく思わない人もいると思いますから」


 もちろんっす、とターニャから返事があり、すると直後、


「じゃあ、フィリルに剣を教えたのもヨクリさんとか? もうすごい噂なんですよ、フィリルの謎の強さ!」


 マリーという名のフィリルの学友がはしゃいだ口調で訊ねた。ヨクリは少し考え、


「いや、フィリルは最初から戦いに関しては筋が良すぎるくらいでした。俺が教えたことなんてほとんどない」

「そんなこと、ありません」


 ヨクリの言葉に否定の意を唱えたのはフィリルで、少女らしからぬ比較的大きな声だった。ヨクリは目を丸くしたあと、


「……そうかな」

「はい」


 硬く頷いたフィリルの心情をヨクリなりに想像して、


「まあ、何回か手合わせはしたよね」

「いつも、ヨクリさんには敵いませんでした」

「リルさんが負けっぱなしなんて相当っすね」


 まっすぐ目を見てそう言われると、ヨクリも引くほかはない。会話を継いだのはタルシンで、マリーの話を同じ顔見知りのアーシスへ問いかけた言葉は妹とは対照的だった。


「そんなに強いんすか、フィリルさん。アーシスさんも知り合いなんでしたっけ」

「まあな。都市外でもフィリルは落ち着いてたからなあ」


 都市外での護衛を思い出したのか、アーシスは実感のこもった相槌を打つ。

 国内最強の具者と言われているあのヴァスト・ゲルミスの血筋なのだから当然と言えば当然の才覚ではあるが、たとえトラウト家がその情報を掴んでいたとしてもここでわざわざ言う必要はないだろう。


 それとなく口を噤んだヨクリを尻目に会話は進んでいく。ヨクリは当主ハンサの様子を見ると、退屈どころか上機嫌に歓談を聞いている。長男が家に戻ったのが嬉しかったというのもあるのかもしれない。一同の表情も明るく、今は食事を楽しんでいるようだった。


 大貴族の邸宅での時間はそうして穏やかに過ぎて行った。

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