3
一日経ち、治療用の天幕にて朝早く目が覚める。未だ浅い疼痛はあるが、体の感覚からほぼ完全に回復したとヨクリは判断した。一つ一つはかすり傷のようなものだったし、最後に受けた背中の打撲も当たりどころがよかったようでレミン集落のときほどの激痛はなかった。
とはいえ起床には早い時間になったのは、薄幕の向こう側で物音が聞こえたからである。どうやらセフィーネが目を覚ましたようで、メディリカがせわしなく天幕の外と内とを行き来していた。隣のトールキンは昨日の夕方に一度覚醒したが、未だ疲労は深いようで眠りについている。ヨクリはしばし考え、出来ることはなさそうだったが、あまりに忙しそうだったのですれ違いざまにメディリカを呼び止めた。
「なにか手伝いましょうか」
「ああ、ヨクリさん。起こしてしまいましたか」
「大丈夫です。それよりも」
ヨクリがセフィーネのほうに視線をやると、
「ヨクリさんは体調の回復に専念してください」
返答の中にわずかな呼吸の乱れがあったので、ヨクリはその声を固く退ける。
「いえ、もう十分です」
「……本当ですか?」
訝る声に、ヨクリは靴を履いて立ち上がってゆっくりと筋を伸ばすなどして力の回復を示すと、メディリカは目を丸くした。
「人手が必要なら、ですけれど」
「助かります。ではそこの桶の水を変えて頂けますか?」
ヨクリは頷いて、治癒者の指示のもとで雑用をこなしながら凄腕の遠射手の様子をうかがう。女は痛みで暴れることもなく、落ち着いているようだった。時折漏れ出るまばゆい翡翠色はおそらく検査に用いられる施療図術の光だろう。
そうして手伝いを終えるとすっかり陽も登りきる。遅い朝食を摂ったあとはメディリカから一応安静にしておくように言付けられていたヨクリではあったが、なぜか落ち着かず、当て所なく築き上げられた陣内をうろついていた。
探索に出て、這々の体で帰還して、ようやく一息つくと、意識していなかった時間の流れが目に見えてくる。何もなかった野獣の住処からここまで人間の気配を感じさせる集落になるとはと、ヨクリはしきりに感心していた。
また、変わったことがあった。一緒に戦ってきた具者たちと軽い談笑をするようになったことだ。ほとんど全員がヨクリへ好意的な対応をしてくれて、それは味わったのことのない体験だった。
(しかし、あれには参ったな)
ひどい目にあった、とヨクリは内心で毒づいた。ヨクリが天幕で戦いの意思を示したあと、人の輪の中でもみくちゃにされ、疲れ切った節々や傷口も平気で触られたことだ。背中をばしんと叩かれたり、頭を鷲掴みにされて撫で回されたり。それが次に訪れる戦いへの高揚と、好意からくるものだというのはヨクリにもわかっていたから悪い気はしなかったけれど。
魔獣避けの篝火や柵の破損などをそれとなく確認しながら歩いていると、森の中から、哨戒に出ていた一人の具者が現れる。素通りするかと思いきや、その者はヨクリの近くで立ち止まった。
「よお」
声をかけてきたのは独特の雰囲気を纏った男だった。乱暴に真ん中で分けられ、頬まで垂れたくせ毛気味の髪。やや高い均整のとれた体躯。野性味ある外見とは裏腹に、首から下げた数珠繋ぎの三葉の首飾り。探索隊で同行していたときもかなり熱心に食前の祈りをしていたから、リリス教徒であることがわかる。教学校出身かと思ったがそうではないようで、ここまで敬虔な教徒は業者には珍しい。
ヨクリの硬直を誤解したのか、男は眉尻を下げて、
「おっと……俺の名前、覚えてるか?」
「探索のときに合流したヘイウスさんですよね。あいつの尾をただひとり、完璧に捌いていた」
「気づいてくれてた? 嬉しいねえ。……いやでも、位置がよかっただけなんだがな」
男の印象深かった場面を話すと、上機嫌にヘイウスは破顔する。ヨクリの見立てでは集う具者のなかでも五本の指に入る強者だ。
いやそれはいい、とヘイウスは喉を鳴らして仕切り直した。
「正直、あんたが大剣のを探しにいくって言った時は絶対無理だって思ったぜ。けど、こうして連れ帰って、あんたも生き延びたんだ。あんたは本物だ」
言葉を切って、
「そんなあんたの言葉に震えたぜ、オレは。……あんたはオレよりもずっと、ランウェイル人だった」
「————」
「……シャニール人にされてたこととか、まあ、興味なかったからどうでもよかったんだ、オレは。だから首都で起こってることだって、どっか遠くで眺めてた」
自分を恥じるように言うヘイウスに、ヨクリは胸が締め付けられた。そんなに大層なものではない。ヘイウスが後ろめたく思うことはない。そう言いたいのに、口がうまく回らない。
「——悪かったな」
「あなたが謝ることじゃない!」
突然投げかけられた望外の言葉に、ヨクリはとうとう必死に頭を振っていた。
「……あなたが謝ることじゃないんだ。その言葉だけで、俺は」
繰り返したヨクリの言葉尻は震えていた。ヘイウスはその仕草には言及せず、ヨクリの意を汲むように感慨を込めてヨクリへと静かに告げた。
「——倒そうぜ、絶対」
「もちろん……!」
差し出された手をヨクリはとって、硬く握手を交わす。
そうして会話が終わる。すると二人を見計らっていたように、
「ちょっといいか」
別の声をかけられ振り向いた先にいたのは、一緒に死地を潜り抜けた大剣使いのトールキンだった。ヘイウスが小さく頷いたのを見てから、トールキンへ向きなおる。
「もう動いても平気なのかい?」
「……あんたこそ」
ヨクリが身を案じる言葉を投げかけると、トールキンもまた同じように短く返した。そこで一度会話が止まり、ヨクリはどうしたものかと一度逡巡する。
「なんとか二人とも生き延びられたね。君の剣腕のおかげだ、助かったよ」
少し迷って、ヨクリはわずかに口角をあげて言った。昨日の会議で、自然と笑みを向けることができるようになっていた。もちろん駆けつけてくれたジャハをはじめとする具者の救援のおかげでもあったが、なによりトールキンの手腕には大いにヨクリも助けられたのだ。
トールキンは目を丸くして、わずかに顔を伏せた。
「あんたのおかげじゃねえか……」
そう小さく呟いて拳を力一杯握りしめたあと、なにかを期するように勢いよく顔をあげた。ヨクリはその言葉よりも、変わった気配に身構えた。つかの間、
「悪かった! ヨクリさん——いや、兄貴!」
陣地全てに響き渡るような大声だった。その声量と内容に、ヨクリの思考が一瞬停止する。そして、
「は?」
呆けたような声がでた。あまりに間の抜けた声にばつが悪くなり、ん、と咳払いしてから改めて問う。
「……いや、なにが?」
「姓無しだのなんだのって生意気なこと言っちまっただろ! あんたは命賭けて俺を助けてくれたってのに」
「いや、気にしなくていいよ。無理もないし……」
ヨクリは努めて穏やかにそう答えるが、トールキンは砂の地面に両膝をついてヨクリに向かってひれ伏した。全く予想して居なかった行動に、ヨクリは目を見開いた。
「なにをしているんだ! やめてくれ!」
「そう言うわけには行かねえ! 俺を殴ってくれ! 兄貴!」
「いや、兄貴ってなんだよ!」
陣の外れにも拘らず、人がちらほらと足を止め、視線を集め始めている。ヨクリにとって居心地の悪いそれに変わりそうで、早く会話を打ち切らなければとなぜだか焦ってきていた。
「顔をあげてくれ……!」
ヨクリはおおいに慌てふためいたあと、視界の端にトールキンの上司である血鎖の頭領ガダを見つけると、光明を見出したように、
「あ、ガダさん! なんとかしてくれ!」
たまらず大声で助けを求めた。しかし当のガダは遠巻きににやにやと笑みを浮かべているし、隣のヘイウスは手のひらで顔を覆って肩を震わせていた。
謝罪されているはずなのに、なぜかヨクリが追い込まれている。
「さあ! 思いっきりやってくれ! 兄貴!」
「兄貴はやめてくれ! 君のほうがめちゃくちゃ背が高いじゃないか! 呼ぶなら助けてくれたジャハさんにしてくれよ! ほら、みんな見てるよ! やめてくれ!」
笑いを堪えるヘイウスを尻目になんとか手を尽くしてトールキンを宥めすかす。その後トールキンは食事などの各施設の説明や今後の方針を受けるべく、ヘイウスの案内で中央の天幕へと案内されていった。ヘイウスもまた哨戒の報告があったため都合が良かったらしい。二人の背中を見送ってからヨクリはくたびれたように大きなため息をついた。
そうしていると、
「やはー、ヨクリさん、私感動しちゃいましたよぉ」
一連のやりとりを眺めていたうちの一人、討ち帽子の女をみたヨクリは疲れた声で名を呼んだ。
「……ニノンさん」
先ほどのやりとりで脱力しきり、ヨクリにはもう余力は残っていない。たぶん直前の物言いから、また茶化されることを懸念してヨクリは勘弁してくれ、と内心で思っていた。
「はい! ニノンさん頑張っちゃいますよー!」
上機嫌でにこにこ顔を向ける。会話の間が独特すぎてヨクリが対応に困っていると、更に別の上品な笑い声が聞こえてきた。
「……メディリカさん」
「すみません、でも、可笑しくて」
当惑に弱り果て、倦んだようなヨクリに、メディリカはこみ上げる笑いをおさめるように口元に手をやった。
そして、今度は穏やかな笑みをヨクリへと向けた。
「貴方がここにいる人に敬意を払って一人一人を認めているように、私たちも貴方を認めているんです。トールキンさんも、ニノンさんも、他の皆さんも。貴方とお話したいんですよ」
「ホントそうですよ!」
ニノンが高らかに同意する。
「メディリカちゃんもですけどね!」
「私も?」
「ここって女の人のほうが少ないじゃないですかあ! 見たときから仲良くなりたかったんですよ!」
きゃいきゃいとはしゃぐニノンに、メディリカの声もどことなく楽しげに変わっていく。
「確かに、ニノンさんとはお話する機会がありませんでしたね」
「メディリカちゃん、人気者でしたからねー」
「お上手ですね」
眼前で広げられる女性同士の弾み声にはあまり縁がない。ゆっくりとこの場を後にしようとしたヨクリの行動を目ざとく捉えたのはメディリカだった。
「ヨクリさん、そろそろ天幕へ」
「え、いや、もう大丈夫ですよ」
「包帯を変えないと不衛生ですから。ご一緒しましょう」
どうやらメディリカがここへ足を向けたのはヨクリを探していたからだったようだ。ニノンはひとつこくりと頷いて、
「ありゃ、じゃあまた今度ですねぇ」
「ええ、では。さあ、ヨクリさん」
そう促されては大人しく従うほかない。まあ会話も終わったのでわざわざ別れる理由もないと思い直し、素直に天幕へと足を運んだ。
薬の匂いが強くなった天幕へくると、メディリカはセフィーネの様子を確かめてから寝具に腰掛けたヨクリの包帯を新しいものに変えていく。血を剥がす小さな痛みとくすぐったさに耐えていると、訪問者が現れた。金髪の青年である。
「やあ、元気そうだな」
「マルス。——久しぶり」
「ああ」
そうして言葉少なく会話すると、ちょうどヨクリの治療が終わる。マルスは薄紅髪の女に短く訊ねた。
「彼女は?」
大丈夫ですよ、とメディリカは返答して、
「セフィーネさん?」
大きめに呼びかけると、はーい、といらえが返ってくる。先んじてメディリカが新しい水差しを持って薄幕を捲り、マルスを微笑みで促した。
マルスが目配せするとヨクリは小さく頷いて立ち上がり、二人もセフィーネの元へ近づく。
「セフィーネも、容態はよさそうだね。安心したよ」
金髪の青年が笑みを向けてセフィーネへ声をかけた。セフィーネは水差しを交換したメディリカへ頭を下げてから、穏やかな顔で答える。
「マルス様……」
「君ともこうして会話するのは久しぶりだな」
「恐縮です。わざわざ来て頂けるなんて」
「いやなに、昔のよしみだしな」
青年のその言葉に、
「そういえば、元々二人は知り合いなんでしたっけ」
探索の道中でセフィーネがそんなことを言っていたと思い出す。そのヨクリの声にマルスは怪訝そうにヨクリへ向き直った。
「なぜそんなに畏まっているんだ」
首をかしげて、
「君も今回の依頼が初対面じゃないだろう。イヴェールの基礎校で何度か顔を合わせているじゃないか」
「え!?」
ヨクリが驚きの声をあげ、マルスとセフィーネが視線を向ける。マルスは呆れた表情で、
「なんだ、覚えていなかったのか」
ヨクリはそこで弾かれたようにセフィーネのほうを向いて顔を凝視すると、恥ずかしそうにセフィーネは目をそらした。
そうだ。野外訓練や合同の課題などでマルスと組んだ際、わずかだが話をしたことがある。幼いセフィーネの像と今の姿がぴたりと重なって、ヨクリはようやく思い出した。
「……どこかで会ったことがあるような気はしていたけれど、まさか基礎校の同期だったなんて思わないじゃないか」
「薄情なやつだな」
「……ひどいです」
「ご、ごめん」
口々に避難され、ヨクリは体をすくめた。
「だからセフィーネさん、様子がおかしかったのか」
「気づいていたんなら言ってくださいよぅ」
拗ねたような声に、ヨクリはたじろいだ。
「いやほら、シャニール人だから、とか、考えてしまうから。気を悪くさせたくなくて言えなかったんだ。すまない」
謝罪を交えつつ、言葉は長くなる。
「それに、こんな優秀な人と依頼以外で接点があったとは普通は考えないよ」
遠射手としての技量と、エーテルに関する知識。“翼の獣”から逃げ帰るときにも、瀕死のセフィーネが咄嗟にとった行動に命を救われた。その言葉は世辞ではなく、まさしくヨクリの本心だった。
「でも、俺のことを覚えてる人がいるとはね……」
重ねて言い訳のようなことをもごもごとするヨクリに、未だわずかに頬を膨れさせたセフィーネは、
「そりゃあ、キリヤ様は飛び抜けて有名でしたけれど。あのかたと仲の良かったヨクリさんと——シュウさんも」
その言葉を言い切って、ヨクリへわずかに不安そうな顔を向けた。
「——そう、か」
当時、ヨクリと同期で同じ学び舎にいた基礎校生だったなら、事件の顛末は漠々ながらも知っていておかしくはない。
「それにマルス様とも親しくしていたんですから、印象に残らないわけがありませんって」
外から見た人間から言われると、確かにそんな気もしてくる。
だが、それは没落したとはいえ高名な図術技師が当主のファイン家と、押しも押されもせぬ六大貴族のステイレル家がたぶん特別だったのだ。
実際にあの頃ヨクリに話しかけてくる人間はその二人と、ヨクリと同じシャニール人のシュウだけだった。もちろん今よりも輪をかけて人嫌いだったヨクリの性質そのものが原因の一端でもあっただろうけれど。
「私、キリヤ様に感謝しなくちゃいけないと思っていたんです」
言葉を切って、
「あのかたが同窓ではなかったら、きっと私も国の雰囲気に飲まれて、シャニール人を悪く言っていたに違いないから」
当時、他でもないキリヤが地位や人種を盾にとった行いが学び舎で起こることを絶対に許さなかった。ステイレルの目が届かないところでは横行していたが、それでもヨクリは、他のシャニール人よりもまともな暮らしを送ることができていた。それに気づいたのは、そのキリヤと袂を分かったあとだった。
「今でも懇意にされているのなら、是非お礼をお伝えしてくださいね」
曇りなく 誠実な言葉だった。
「……ああ。わかったよ」
了承したあと、ヨクリは自身の出自や緋色の髪の貴族を思い出し、自然とそのことについて深く考えようとした。しかし、そんなヨクリの内心を見透かしたように声をあげた者がいた。
「貴方の価値は決して、剣だけではありませんよ」
ヨクリは弾かれたようにメディリカの顔を見た。
「貴方を助けたいと思う人は、貴方が思っているよりもたくさんいます。マルス様をはじめ、ここにいる私たちも」
「——そうですよ!」
セフィーネもまた、ニノンと話した時の続きを語ったメディリカに大声で同調したが、その直後、
「あいたた……」
「いけません。傷に障りますよ」
途端胸と腹部の間を押さえて涙目になるセフィーネにメディリカが看護机の上にあった小さな香炉に火を入れた。大樹の森で使ったそれと同じものだろう。
ある程度痛みが治ったのか、セフィーネは改めてヨクリへ顔を向ける。
「私、覚えてます。もうダメかなと思った私に、ヨクリさんが声をかけてくれたこと。あのときはヨクリさんが強いからじゃなくて、私はその言葉に励まされたんです。だから頑張ろうって思えて、こうして助かりました。——メディリカさんとヨクリさんのおかげです」
自身はなにもしていないとヨクリが声を発するよりも前にセフィーネは、
「だから、ありがとうございます」
隣には、優しい笑みを浮かべるメディリカが居た。マルスもまた、眉を下げて穏やかに笑う。ヨクリは小さく息をついて、セフィーネに言った。
「俺のほうこそ、ありがとう」
皆の姿勢にヨクリも感化され、自然と感情を声に乗せることができた。今くらいは、皆の言葉を素直に受け止めていいと、そう思えたから。
■
夕刻に差し掛かる頃には探索隊の帰還者が全員目を覚ましたという情報は陣の全員に伝わり、回復の祝いと命を落とした者への弔い、そして今後の戦いの決意を兼ねた小さな宴が催されていた。これは昨日のうちから予め準備されていたことらしい。
最初に簡略化したリリス式の葬儀がベルフーレをはじめとする中心人物たちによって行われ、その後はジャハが取り仕切り、ささやかに進む。
途中まではヨクリも人の輪の中に加わっていたが、ヨクリにとっては賑やかで、それでいてゆっくりとした時間のなかでするりと一人抜け出る。
酒を片手に、新たに作られた貯蔵庫の外壁に寄りかかって歓談の声を見守る。寒暖差の激しい砂漠の夜だったが、今宵は優しい風が吹き、森とのはざまに穏やかな安らぎを運んでいた。浮かぶ月も淡く美しい。そんななか、一人の男が人知れず近づいてきた。砂を踏む足音にヨクリが気づくのとほぼ同時に、
「失礼」
前回と同じように、ヨクリ一人きりのときに呼び止められる。声の主は“隠者の客舎”の男だった。ヨクリと同様、樽の酒器を携えている。その仮面では飲みづらいだろうと内心で思いつつも男に向き直って、
「なんでしょう」
と短く返した。男は露出した口元に弧を作り、
「良いほうへ向かったようで、ほっとしたよ」
「……おかげさまで」
男が悪意を持って接して来ているようではないことは薄々感づいていたが、しかしその大きな理由がわからなかった。ヨクリは再び男の口が開かれるのを待った。
「……どうしてキリヤ様が貴公を気にかけ、今までずっと親しくしてきたのか、少しわかった気がするよ」
なぜ緋色の貴族の名を——という疑問をぶつけるよりも前に、“隠者の客舎”の男が外套に手をかける。夕日がかった鮮やかな金髪が外を待ちわびていたように風をはらんでふわりと揺れ、そして仮面が外された。
「私の名はレイス。レイス・サイレルだ」
上品で端正な顔立ち。まさしく貴族然としたその出で立ちを見せつけられる。ヨクリには男の意図が読めなかった。
“隠者の客舎”がこうして素性を明かすのは基本的にはありえない。そのヨクリの戸惑いを、男の次の行動が晴らした。
「恐れ多くもキリヤ・ステイレル様の騎士を務めている」
「————」
ヨクリは頭の中が真っ白になった。
この男が、あの緋色の友キリヤの騎士。
キリヤに対するヨクリの先入観を除いたとしても、あの六大貴族の騎士ともなればそれに相応しい能力と家柄が求められる。
この端正な顔立ちとその肩書き、技量は社交界での婦人の注目を一人集めてしまうだろう。男は顔に似合わない酒器を小さく煽ってから、
「貴公の話は聞いている——というのは少し違うな。あの方の口からだけではなく、私たちも調べたのだから」
先ほどの男の言葉と外見に奪われていた意識を戻し、耳を傾け考え始める。
「私自身、貴公に興味があったしな。あのキリヤ様に剣で土をつけたと聞いたときには、正直あのかた自身の言葉でも半信半疑だったが、君の剣を実際に見て考えを改めたよ」
「いや、貴方の当時の考えは正しい。あれは色々な意味で公平ではない勝負でしたから」
おそらく、まだキリヤの領域まで自身の剣は達していないだろうとヨクリは冷めた心で見据えていた。そうかな、と短く苦笑いしたレイスに、ヨクリは補足しようとして、
「キリヤ——様も、ああ、いや」
「うん?」
二度口ごもったヨクリに、落ち着いた口調で首を傾げるレイス。わずかに逡巡したあと、決して侮辱するつもりではないのですが、と前置きして、言い淀んだものを言い切った。
「……あの性格ですから、一度の負けを少々大げさに捉えているだけかと」
レイスは一度目を丸くしたあと、
「ふふ、確かに、あの方はそういうところがある」
女性を骨抜きにしてしまいそうな笑い顔は、男のヨクリからみても魅力的だった。
「その上で、会議の場での貴公の言葉は素晴らしかった。あの言葉に震えないのは戦士ではない」
「なぜ俺に正体を明かしたんです」
賞賛の言葉にも、ヨクリは浮かれなかった。全てを後にして、まず真っ先に訊ねる。レイスは一つ頷いて、
「キリヤ様も知りたがっている。——クラウス・ファインはなにを考え、行動しているのかを。キリヤ様と親しい貴公ならば、私が正体を明かせば正直に答えてくれると思ったからだ」
「と、言われても……」
ヨクリは返答に詰まった。そんなことはヨクリにもわからない。しかし、キリヤもクラウスの行動を追っているとは思っていなかった。理由はいくつか考えられるが、今はレイスの質問に答えるのが先だろう。ヨクリは頭の中を整理するのに、しばしの時を要した。
「なんでもいいんだ」
まっすぐな眼差しを向けられる。考えがまとまると、腹に力をためて、ヨクリの知る限りを話しはじめた。
「クラウス様は、暴徒と化したシャニール人や、それに乗じるランウェイル人たちを止めようとしている。それは確かだと思う。その裏になにがあるのかなんていうのは、それこそ貴方がたのほうが詳しいでしょう」
俺が教えて欲しいくらいだ、とヨクリは内心で呟いた。
「ならば貴公は? その意図を知らずにクラウス・ファインに従う理由はなんだ。あの場で言ったことから推察はできるが……改めて、貴公の言葉を聞きたい」
鋭く、そして真摯な眼差しだった。まるでキリヤに直接訊ねられているようで、ヨクリは小さく息を詰めた。今一度自身の心を探るために、一言一言を噛みしめるように話し始める。
「俺は、首都で剣を振るう彼らと同じシャニール人だからこそ先日の動乱に加わった。……そして今も俺のために、クラウス様の戦いに加わっている」
声に出すと、小さな動揺はおさまっていく。
「彼らによって貶められた血の名誉を少しでも回復させるために」
そしてそれはヨクリ自身や、ヨクリが繋がりを持つフィリルの立場をこれ以上悪化させないためでもある。奇しくもこの貴族に向かって改めて口にしたことで、ヨクリ自身の目標が明確になったような気がした。
「——なるほど。よくわかったよ」
レイスは噛みしめるように頷いた。
「貴公は信頼に足る男のようだ」
そして緋色の女の騎士は最後に一つ、と前置きして、
「……ユラジェリー家と聞いて、思い当たることはないかな」
「六大貴族の、ですか」
「ああ」
ヨクリは少し頭の中を探るが、
「いえ、特別なことはなにも。役には立てないようです」
「いや、十分だよ。ありがとう」
どうやら問いは終わったらしい。
キリヤの騎士、というのを耳にして、ヨクリはあることを思い出した。それを確かめるために、一つの質問を投げかける。
「キリヤ様は、他になにか言っていませんでしたか」
「——いや? なにも」
そして、その騎士の返答を聞いたヨクリは、
(手紙は、届かなかったんだ)
ヨクリは直感していた。レイスに言付けることができたはずなのに、そうはしなかったからだ。筆まめなキリヤなら、受け取ってからすぐに返信するはずだった。
誰も責めることはできない。ただ、その変わらない事実がヨクリのどこか現実離れして浮ついた心を引き戻すようで、次々に起こったことが地続きであると改めて認識させていた。
「この戦い、勝ちましょう」
ヨクリはあえて言及することなく、レイスへ声をかけた。
「ああ。私も微力ながら力を尽くそう」
レイスはヨクリの酒器に自身のそれをかるく打ち合わせてから仮面を付け直し、優雅に一礼してこの場を去った。言葉通りレイスのためになる情報はなにも持っていないように思えたが、男はどこか満足そうだった。
しばらく一人でカップに波波注がれた酒を半分ほど飲んでから、ヨクリは息をついた。
たくさんの人と話をして疲れたのかもしれない。あまり経験していないことだったから。
基礎校を出てからずっと張り詰めていた。それはきっとその通りだ。そうしなければヨクリはやっていけなかっただろうから。
でも、ヨクリが必要以上に人を遠ざけていただけなのかもしれないと、たくさんの感謝と共にそういう考えを抱く。確かにシャニール人は多くの場合、好意的に見られることはないけれど。
——同胞を斬ったあの夜とは、関係なく。もっと、ずっと前から。
ヨクリがあとほんの少しの勇気をもって人と接していたなら、もっとたくさんの、同じようにヨクリが尊敬できる人たちと言葉を交わし、考えを伝え合うことができたのかもしれない。今よりも未熟だった頃だったとしても。
(だめだな、俺は)
そうやって内罰するが、心は穏やかだった。この依頼を受けて本当に良かったと、この一日を振り返ってヨクリは噛み締めていた。そして同時に強く思う。
絶対に皆の力になりたいと。
心に強く願ってから、ヨクリは瞑目した。その想いの余韻ではなく、気配があったからだ。声に出し、それを確認する。
「——で、俺になんの用だ」
少しの間のあと、
「ばれちゃってたか」
建物の影から姿を現したのは金髪の暗殺者だった。言葉とは裏腹に、いつも通りのゆるい笑みを浮かべている。全く申し訳ない気持ちが伝わってこない。
だが、もうさすがにヨクリも慣れたもので、感情の起伏はなかった。
「いや、アーシスに自治区でのこと口滑らせちゃったから、謝ろうと思ってたんだけど」
「……意外だな」
そんなに義理堅い人間には見えない。
「でもま、よかったじゃん。ずーっと辛気臭い顔しちゃってさ。あれじゃ皆も気使うってもんだよ」
その揶揄にもヨクリは動じなかった。ヨクリは浅く息をついて、ミリアに向き直った。
「お前は、なんなんだ」
ヨクリははっきりとミリアの顔を見た。
一切の曇りなく少女の顔を見たのはきっとはじめてだった。奇しくも、青髪の少女と同じ時期に出会い、同じようにヨクリの辿る道の傍らに居るこの少女の本当の言葉を、ヨクリは打算なく、本心から知りたくなっていた。
「どうして俺に構う。お前ならどこだってやっていけるはずなのに」
同じくアーシスに構う理由も。茶髪の男の後見人エイネアと交わした密約があるらしいが、しかしそれは履行せずとも少女が不利益を被ることははっきりいって皆無と言ってよかった。そもそも少々の障害ならミリアはものともしない。
「お前のことが嫌いだから言っているわけじゃない。アーシスの家でお前が言っていた、ヴァスト・ゲルミスへのたくらみも信じていないわけじゃない」
ヨクリの静かな語りに、いつしかミリアは笑みを納めていた。
「でも、それが全てじゃないんだろう。それくらいは俺にもわかる」
ヨクリがあの男と剣を交え生き残ったのは偏に偶然によるものだ。ミリアとて調べがついているところだろう。あのときのヨクリがゲルミスに剣で敵うという考えに行き着き、本気でそれを肯定するほどこの少女は愚かではない。
ヨクリが誠実さを見せたあと、しばしの間があった。そのかんヨクリはただミリアの表情を窺っていた。
そして、ようやくと言うべきか、ミリアの唇が動く。
「……に」
枝葉の擦れる音に声が紛れてヨクリには聞き取れなかった。ミリアはもう一度口を開いた。
「——それに答えたら、ヨクリはあたしを助けてくれるの?」
遅れて、さあ、と砂を纏った風が一陣吹き抜けた。ヨクリはその言葉の意味を飲み込むのに時間がかかった。
聞き違いではないのかと確認するように、小さく眉を顰めて呟いた。
「助ける……?」
「……なんてね。うそうそ、冗談だよ」
その態度をどう受け止めたのかミリアの内心の手がかりすらヨクリには掴めなかった。
撤回した仕草は、いつものように人を食うようなミリアとは違っていた。だからヨクリはどう答えればいいのか戸惑い、言葉の続きを待った。
「ここの人たち、皆優しいよね。——強くて優しい」
口調は初めて耳にする、優しさのような、憧憬のような、そんな音色だった。
「——あたしには、よくわからないや」
ゆるく首を振ると、遅れて金髪が風を纏ってふわりと揺れた。その直後、ミリアの様子はヨクリがこれまで見てきた飄々としたものに戻っていた。
「でもちょっと本気だして力になりたくなっちゃった。それは本当」
会話を打ち切るためだったのか、顔を見られたくなかったのかはわからなかったが、少女はヨクリへ背を向ける。
「だから今は気にしないでよ」
そう言い残して、ミリアは闇の向こうへと姿を消した。ヨクリは黙ってそれを見届けてから、酒精が微かに残る中で頭を回す。
キリヤの騎士に紐づいて、レミン集落で、先ほど言葉を交わしていたミリアがヨクリへ向けた言葉を思い出したからだ。
(ステイレル、ゲルミス、ツェリッシュに……そしてユラジェリーもか)
出会ってきた六大貴族を心のうちで呟いていた。
否応なしに関わることになる、と。ミリアはそう言っていた。これが単に偶然なのか、それとも少女のいう通りなにか運命のような目に見えない力が働いてそうなっているのか。
そして、ミリア自身のことについても。
単なる顔見知りというだけではないあの金髪の少女の、内面の一端さえ未だに茫洋としていて掴めない。それでもそれを考え続けるのが、突き詰めれば人と正しく関わるということなのだろうと、淡い月の浮かぶ砂漠の夜でヨクリは改めて思い直していた。




