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途上のシャムロック  作者: 納戸
黒血に響く凱歌
80/96

   3

 手早く野営の準備を済ませ、メディリカが負傷者の治療に当たっている。ジャハを中心に話し合い、撤退の旨はすぐに決まった。そして、他の合流していない具者を一夜だけ待つと待機した一行。判断は正しかったようで、散り散りになった具者が次々に合流し、あの場で命を落とした者以外のほとんど全員が夜までに集まっていた。流石に腕利きの具者が揃っただけのことはある。


 ——しかし、一名未だに戻らぬ者がいた。

 ヨクリと同行していた具者のうちの最後の一人。大剣のトールキンである。


 辛抱強くトールキンの到着を待ったが、気温が下りきり、そして陽光が登り始めてもその姿を現すことはなかった。

 すっかり明るくなると、皆はくだんの人物の生還を諦めたようだった。最初の一人が物言わずに帰還の支度を始めると、その行動は具者全員へ波及する。半刻ほどの間に皆が一言も発することはなく荷をまとめ、負傷者に肩を貸して陣へ戻る準備を終えた。そのなかでヨクリだけは全く別のことを考えていた。——いや、もともとずっと考えていて、ただ提案する機会を窺っていただけだ。


 洞窟内に、まばらな足音が響き始める。しかしヨクリは具者たちの背中をただ見ていた。わずかのときのあと、気づいた人間がいた。


「ヨクリさん……?」


 その場を動かないヨクリに、メディリカが眉を下げて声をかけた。一同も、移動によって少し離れたところからヨクリの顔を見た。

 ヨクリは意を決して全員に聞こえるように告げた。


「俺は、残ります。トールキンを探したい」


 ヨクリの声と止まった足音の小さな残響が過ぎゆき、洞窟内を流れる水の音が耳に入ってくる。肩越しの具者たちから、完全にヨクリへ向き直った影があった。


「馬鹿な……」


 ジャハはかすれ声で呟くと、畳み掛けるようにヨクリへ声を荒らげた。


「君にもわかっているだろう! 生きているはずがない!」

「でも、残された彼を見たものはいないんでしょう」


 ヨクリが素早く反論すると、ジャハは眉を釣り上げ、さらに詰め寄る。


「可能性の話をしているんだ!」

「——わかっています」


 言葉を切って、


「だから、残るのは俺一人でいい」


 そう言い終わると、具者全員がヨクリへ意識を向けていた。一同の送った視線は、得体の知れないものを見るような目だった。

 具者の意見を代弁した南部の長の息子の言う通り、その目は吹けば飛ぶほど儚いものだった。だから、ここにいる具者たちを納得させるだけのものがいる。


 お為ごかしや嘘偽りのない、ヨクリの言葉が。


 ヨクリは大きく深呼吸したあと、皆をまっすぐ見た。


「あなたたちが冷血だとか、トールキンを見捨てたとか、そういうことを言いたいわけじゃないんだ」


 奇しくも、探索班の人員について口論したときとは真逆の立場のような応酬だった。


「ジャハさんの言うことは正しいと思う。でも、俺は彼の最後の振る舞いをみて、もしかしたらって思っているんだ」


 ヨクリはこれまでのトールキンを振り返っていた。人間的な話ではなく、具者としての振る舞いを。


「あの瞬間、彼が投げた獣避け。あれを見てしまったら、トールキンがまだ生きている可能性を俺は捨てられない」


 ヨクリの言いたいことはこうだ。あの年齢で皆を救う適切な判断ができるのならば、丸一日獣の住処に身をやっていたとしても十分生き残っているだけの技量がトールキンに十分備わっているのではないかと。


「……あまりにも希望的すぎる」


 ゆっくりと首を左右に振って、ジャハは小さく否定する。


「それもわかっています。——わかっているつもりです」


 無茶だ。仮に生きていたとしても、おそらく負傷したトールキンを連れて二人で陣まで戻るなんてほとんど不可能に近いといっていい。そんなことはヨクリもわかっている。


「……あの化物を見て、俺は俺の予想が甘かったことを思い知りました。とてもじゃないけれど、あんな化物に勝てるわけがない」


 ヨクリは洞窟の出口、光差す方へ目線をやって語り出した。


「——それでももしやつに勝つなら、生きているトールキンを見つけ、彼を連れて陣まで戻るくらいのことは簡単に出来なければ」


 具者たちは、息を詰めていた。ヨクリはその様子を見て、敵意がないことを示すように笑みをつくった。うまく笑えているだろうか。


「いくら強くたってあの年齢だ。苦境に立たされた“区域”で、一人味方からはぐれてしまっても責められない。——だからこそ、俺たち先達が次はこうしたほうがいいって教えないと」


 冗談めかすようにそこまで言い切ると、皆の空気が変わったことにヨクリは気づいた。その表情から、胸中を察することは容易だった。もしヨクリが逆の立場だったら、ならば自分も同行しようと申し出るだろうから。でも、最悪のことを考えると救援には出せて一人だ。そこだけは一人方針に逆らおうとするヨクリにもわかる。


「大丈夫。単独行動は得意だから。きっと、探しだしてみせる」


 皆を安心させるようにヨクリははっきりと言い切った。それぞれ、皆がヨクリに心配と申し訳なさとが混ざった表情を送った。

 ヨクリの意志が曲げられないものだと悟ったジャハは、考えるように目を閉じた後、開いてヨクリの目を正面から見据えた。


「——武運を祈る」


 ジャハの口から出た力強い言葉は、ヨクリにもわかるほど敬意の込められたものだった。





 自分は強いと思っていた。


 確かに平民の出だったが、具者としての資質を示せば誰もが一目置いて、馬鹿にされたりはしなかった。基礎校での模擬試合では、普段は偉そうに腰巾着に命令して踏ん反り返っている貴族どもも、ひとたび自分と剣を交えれば無様に地に口づけしていた。それを見て何度ざまをみろと思ったかわからない。


 自分を賢いと思ったことはないが、要領はいいと思っていた。


 上等校に入るくらい教書を開いて机にかじりつくのは正直かったるかったし、どうせなら業者として剣一本で名を上げてやろうと、基礎校に入って四年目には決めていた。だから座学は捨てたが、代わりに剣術体術と図術の訓練は絶対に手を抜かなかった。


 基礎校を出てからはいくつかの依頼を受け、やはり同世代で自分に敵うやつは一人として出会わなかった。そして、そのうちの一つで出会ったのがガダと派閥の一員たちだった。依頼の最中と、終わったあとの酒盛りで打ち解け、構成員のうちの何人かにしきりに派閥へ誘われる。それが血鎖との始まりだった。

 “血鎖”に入ったのは、そこがどこの派閥よりも楽しそうだったからだ。自分が一番得意な剣を使って、愉快なことをさせてくれそうな場所だったからだ。やはり直感は当たっていて、構成員は粗暴だが気のいい連中ばかりだったし、トールキンを年下だと侮ることもなかった。なにより頭領のガダは具者として尊敬できる人物だった。適当に半年くらい業者としての経験を積んだら抜けてやろうと思っていたが、居心地がよかったので思い直した。


 自分を善人だと思ったことはなかったし、悪人だと思ったこともなかった。


 名誉や誇りを傷つけるやりかたを嫌い、金額ではなく、真に窮地に立たされ業者に助けを求めている依頼を好んで受ける“血鎖”の方針も、口には出さなかったが実に気に入っていた。頭領の言う通り、そういう依頼を完璧にこなしたあとに飲む酒は格別に美味かった。

 業者生活が板についてきたところで、今回の依頼を“血鎖”の頭領ガダから持ちかけられ、同行することに決めた。あの姓無しは気に入らないが、世界は広いと思わせる強者ばかりで内心では心が踊っていた。この中でも結果を残すことができれば、自分はもっと高いところへ行けると思ったからだ。


 しかしこのザマだ。


 冷静だと思っていたのは自分だけだった。具者の何人かがやられたあとにあの化け物から背を向けて、めちゃくちゃに獣を振り切り、気づいた時にはここがどこなのかもう分からなくなっていた。日が落ち夜がきて、仲間の熾した焚き火の灯を探そうにも、大樹の群が邪魔をする。上天から注ぐ月明かりが、今は腹立たしくて仕方がなかった。

 もはや数える気にもならないくらい獣を仕留め、長剣を引きずって月明かりの大樹の森を一人歩く。忍び寄る孤独と恐怖を振り払い、どちらともわからない仲間の元へ辿り着かなければならない。ただ吹き付ける風と枝葉の擦れる音が耳の奥で反響し、どちらともなく、ただその方角が正しいことを願うことしかできなかった。逃亡の寸前、いくばくかの冷静さを保ててさえいれば、混迷の最中に陥らずにいられたはずだったのに。


 長剣を握りしめる拳に、力が入る。己の未熟から湧いてくる悔しさがそうさせていた。


 それでも、絶対生き延びてやると思った。こんなところでくたばってたまるかと。これで終わりなはずがないと。まだ自分の剣腕を世界中に知らしめていないと。

 身体中の傷が睡魔から遠ざけ、自恃が絶望を追いやってくれた。まだ戦える。激しく肩で呼吸しながらもしっかり大地を踏みしめて、襲いくる獣どもを斬り払う。


 ——いつしか夜は過ぎ、朝がやってきていた。





 単身、結晶洞の先へ舞い戻ったヨクリは大樹の森を疾駆する。ただ目的の人物を見出すまではエーテルの残量はひとまず考えず、音を探りつつも、はぐれた地点まで向かう。エーテルの海を挟んだ対岸に行かれてしまった場合は相当骨が折れるが、おそらくは違うとヨクリは推定した。トールキンは決して無能な男ではなかったからだ。そうして半刻ほど捜索していると、獣の死体が目に入った。見た目から時間が経っているのがわかるが、ヨクリの目を引いたのはそれをついばむ、ぎらついた目の“賤鳥”だった。骨の隙間に顔ごと潜り込ませ貪りながら時折しゃがれた鳴き声をあげ、あるいは首を天に向け、ぱくぱくさせながら腹のなかへ肉を流し込んでいる。眺めるヨクリを警戒しつつも、死肉に潜らせる嘴は一様に鮮血に塗れていた。

 ヨクリはその禍々しい光景に言いようのない嫌悪を覚えたのもつかの間、はっと閃いて、空を見る。


(あいつを辿れば……)


 もしまだ生きて剣を振るっているのなら、“賤鳥”がその死肉を貪るために行き交っているはず。直感に近い算段をヨクリは信じ、空を辿って森を駆け抜けた。

 方針を定めて手がかりを追い、ひたすら疾駆していると、やはり“賤鳥”は位置を示すように点々と空に染みを作っている。上空の目印を辿りつつも、ヨクリは道中いくつかの身を隠せそうな場所に目星をつけながら進んでいった。そうするうちに中天からわずかに傾いた太陽の下、音が聞こえてきた。紛れもなく戦闘の音である。

 草木をかき分け姿を確認すると、今まさにその長剣で獣の首を斬り飛ばす瞬間が目に入ってきた。足元には、三、四匹の損壊した獣の死体が薄く生える草地を赤く染めている。


(生きていた……)


 ヨクリはその姿を凝視していた。身体中に受けている無数の傷。しかしそれら全てはかすり傷のようなもので、致命以外の優先順位を下げて戦闘を続行し続けた結果だろう。それでも二の足でしっかりと大地を踏みしめ、大剣を構えていた。

 とても良好だとは言えない仲だったが、それでも胸に込み上げてくるものがあった。その安堵を小さなため息に変える。


「——」


 その男は激しく呼吸しながらヨクリの気配に気づいて、大剣の切っ先を突きつけた。ほとんど反射だったのだろう。手負いの獣のような気配を刺激しないように、ヨクリは意識的にゆっくりと近寄った。姿を視認すると、虚ろだった目は徐々に焦点が合い、見開いて驚愕する。


「なん、で」


 ヨクリはトールキンの正気を確認してから小さく頷いて、


「戻ろう。君を探していたんだ」


 向けられたのは、信じられないものを見るような目だった。


「バカじゃねえのか……あんた」


 その表情はただ驚愕に包まれていた。わけのわからないというように首をゆるく振って、


「わざわざ、探しに、きたってのか。俺一人の、ために」

「よく無事でいてくれた」


 ヨクリが感慨を込めて言うと、トールキンは膝からくずおれた。張り詰めていた糸がきれたのだ。

 強化図術を起動して疾駆したとしても、あの洞窟まで一刻はかかる。


 ふ、と浅く息をつく。どのみちできることは一つしかない。


 この場は獣の死体が転がっていてそれが“賤鳥”や他の長耳もどきを呼び寄せてしまう。ヨクリは急いで抜き身の長剣をトールキンの背に納め、自身の首巻きを外してトールキンを背負うと、その長身を固定させるために首巻きでヨクリの体ごと縛り付けた。結び目は獣の襲撃に備え、すぐに外せる結び方にしておく。

 そうしたあとトールキンを担ぐ。足取りはゆっくりだったが、方角を確かめ帰路の第一歩を踏み出した。

 長距離を歩くことは元から考えず、セフィーネの治療のために見出したような比較的安全な地形までくると、ヨクリはトールキンを地面に寝かせる。未だ心の不安を煽るように風に騒ぐ大樹の森は、来たときよりも不気味に思えた。眠る男が気力を回復するまでヨクリは警戒を怠らず、ただ静かに待った。


 半刻ほど時が経ち、小さなかすれた声が耳に入ると、横たわっていたトールキンは腕に力を込めて上体を起こす。茫洋とした瞳を集中させるように一度きつく瞼を閉じ、そして開いた。首をもたげてヨクリを見て、状況を思い出したようにはっとする。目を覚ましたトールキンへ、腰に装着していた自身の水筒を外して投げる。軽く掴んだトールキンは蓋を取って中を煽り、口元を拭ってヨクリを見た。ようやく状況が冷静に飲み込めたのか、口を開こうとする。しかし、ヨクリはそれを遮って、


「さあ、戻ろう」


 静かに促すと、男は目を見開いた。


「あんたは……」


 逆にヨクリは瞑目して、


「俺のことが気に入らなくてもいい」


 先に牽制したあと、今度は瞼を開けてしっかりと視線を合わせる。


「今は二人で力を合わせて、皆のところへ帰ろう」


 トールキンはなにかを言いたげに口をわずかに開閉させたあと、感情を押し殺すように頷いた。ヨクリも首肯を返して、右手に握る引具の感触を確かめる。


「行けそうかい」

「——ああ」


 トールキンの準備が整ってから、二人は一息に駆け出した。


 ここにくるまでに散々連携し戦ってきた。今はヨクリとトールキンの二人のみとなっていたが、呼吸を合わせるのは難しくなかった。

 ヨクリが道を先導し、トールキンが二人を追う獣たちをなぎ払って、傷の痛みと疲労の中、大樹の森を駆け抜ける。

 しかしヨクリらを追従するように頭上でけたたましい鳴き声をあげている魔獣たちがいた。“賤鳥”である。

一匹や二匹ではなく、遠目からでもわかるほどの数が集まり、ざらついた声が重なり合い雨のように降り注ぐ。


「なんであいつら、今になってぎゃあぎゃあと……!」


 トールキンが足を止め、上空を睨みつける。ヨクリもそれに合わせてから、


「たぶん俺たちが斬った獣や、“他の死体”を食べ尽くしたんだ。そのあと、餌をつくる俺たちを群の一匹が見つけて、それに呼応して集まってきたんだと思う」


 あえて曖昧な言い回しで、しかし冷静に推察を説明した。上級魔獣にやられた仲間たち。ヨクリがもっと上手く立ち回っていれば死人を出すことはなかったのだろうか。そんな傲慢な欲望がちらとでも浮かんでしまいそうだったからだ。

 必然的にヨクリらの移動経路には獣の死体が点々と転がっている。ヨクリがこいつらの性質を逆手にとってトールキンを見つけ出したように、頭上から眺める“賤鳥”の視覚なら見つけることはそう難しくないだろう。


「“賤鳥(やつら)”にとっては、位置を知らされた俺たちが獣に襲われて肉になっても、俺たちが斬る獣が肉になっても同じ餌だ。どっちだって構いやしないんだろう」

「くそったれ……!」


 毒づいたトールキンにヨクリも同調して、


「本当、くそったれだよ」


 血と泥で汚された頬をかすかに緩めた。そして一転して気を引き締める。


「さあ、まだ半ばだ」


 死に追いつかれる前に。


 二人は意識を集中させ、不吉な空を振り切るように再び駆け出した。




 とうとう洞窟の出口まで逃げ延びた二人だったが、気力ではどうにもならない現実に直面していた。心身が充実していた状態なら四半日で到達できるはずのこの地点まで二日を要していたのだ。言うまでもなくトールキンの消耗であるが、ヨクリとて戦い詰めであったため万全の状態からは程遠かった。さらに“賤鳥”のせいで戦闘は頻発し、どう勘案しても特にトールキンのエーテルの残量が足りない。ヨクリの予備もわずかな上、互いの型が合わずに使いまわすこともできない。さらに食料も底をつきかけていた。

 たった二人で獣と戦い続け、ヨクリも数え切れない傷を受けていた。これだけの数になると、一つ一つが浅手でも様々な支障がでる。


(血を流しすぎた……)


 荒い呼吸が後ろから聞こえる。休憩をとっても上がった息が戻っていない。

 次に、大きな金属音が聞こえた。

 トールキンが大剣を取り落としたのだ。拾おうと屈んだその腕は小刻みに痙攣していた。


「腕が、あがらねえ……」


 そのまま肘と膝をついて、うずくまるような格好になった。一部始終を見ていたヨクリは無言で大剣を拾い上げて、トールキンの背に括り付けた。

 そして、平坦な声音でその背に告げる。


「さあ、立つんだ」

「もういい、俺を、置いていってくれ……」

「断る」


 ヨクリが即答すると、トールキンはゆっくりと顔を持ち上げた。


「どうして……」


 煤けた頬が歪んだ。その表情はようやく年相応に、二十歳をすぎない少年と青年の過渡期にありがちな不安定さを克明に映し出す。そんなトールキンの姿を見下ろしていたヨクリの心が動く。

 吐き出された感情が弱音からくるものではないことは、トールキンを一目見てわかった。このままでは救出に来たヨクリも共倒れになると、そう言いたいのだろう。仮に弱音であったとしても一夜以上を一人で戦い続け、なお力を振り絞りようやくここまで来たこの男を非難できる者はいない。

 己のことよりも全体を優先し、口に出せるその気高さに、ヨクリの心は動いたのだ。瀕死のセフィーネを目の前にして湧き出た感情と同じものが再びヨクリの闘志に火をつける。


「動けないなら、背負ってでも一緒に行く」


 ヨクリは有無を言わせなかった。トールキンに肩を貸して、右手で強化図術を起動する。自身の荷袋の口をくくる紐を首に掛け、身長差のせいで不安定になりそうなところを、空いた左手を後ろに回し、トールキンの腰の革帯を掴んで姿勢を保った。こうして無理に長駆を背負って進む。

 事実だとしても後ろ向きな言葉は聞きたくなかった。そのことについて考えれば、暗闇を振り切ることができなくなってしまう。

 洞窟内の水晶地帯を抜け、光源の一切がない暗がりに差し掛かると“感知”を起動。支配領域を張り直しながら、風の流れを読んで足場を探し、トールキンを半分引きずりながらなお進む。

 ここでエーテルを消耗すれば、さらに生き延びる確率は減る。自身がとった行動とは裏腹に、状況を冷静に俯瞰するもう一人の己が居た。


 もう十分じゃないか、と囁く声が頭の片隅で聞こえてくる。ここでトールキンを見捨ててもヨクリを責めることはできないだろう。だが、指針を持たず曖昧に行動するのはもうたくさんだった。それにガダとの約束もある。

 基礎校を出て、青髪の少女の一件と、レミンでの出来事で学んだ。

 剣を掲げ続けると、同胞を斬った夜に誓ったのだ。


(死ぬなら、それを貫き通して死ぬ)


 半ばそれを覚悟してヨクリは心のうちで自身へ呟くと、ふっと体が軽くなる。

 気力の問題ではない。朦朧とした意識の中、トールキンの足に力が込められているためである。背の男もまた、諦めてはいない。ヨクリは一層生還を渇望し、ひた歩いた。


 暗闇の中、どこか頭だけが冴えていて、自身のこれまでの振る舞いを今までよりも客観的に見ることができた。

 どうしてトールキンを助けに、無謀ともとれる行動に出たのか。もっと言えば治癒者の女が指摘した、依頼の当初から、仲間たちと最低限しか会話をせず、どんな戦闘でも一人囮になって敵へ先駆けたのは。

 それはシャニール人だから。他の人よりも、この国では命が軽いから。出立前にジャハと口論したときと全く同じ理由だった。そう冷静に判断したつもりだった。


 でも、それだけではないことを今はっきりと自覚した。——きっと後ろめたかったのだ。


 自身よりも恵まれない環境にいる誰かに。そして、同行する心の正しい人たちに。

 だからなにか、自分がここにいてもいい理由が欲しかった。自分の価値を証明したかった。あの夜、全てが変わったと思っていたけれど、結局のところ全ては地続きなのだ。言葉で誰かを動かすことはできないが、せめてヨクリの剣へ抱かれる、皆が寄せる期待には答えたかった。

 ここにいてもいい理由が欲しかった。


 その言葉の裏を返せば。

 ただ仲間として、皆に認められたかった。

 たぶん、それだけだ。


 今は背中に感じる重みと、少しの温度が、窮地を切り抜けるのはヨクリ一人ではないことを伝えてくれる。その揺るぎない事実にヨクリは救われていた。


 そうして来た時の倍以上の時間をかけてようやく洞窟を抜けた先————


 ——入ってきた感覚は、暗がりを抜けた眩さと、ひたすら粗暴に耳をざらつかせる声だった。


 日が落ち始めた黄昏の中、空には無数の黒い影が飛び交っていた。やかましく喚き立てる“賤鳥”と、洞窟を囲むように集まってきた“魔獣”たち。小さく、しかし合唱のように重なる威嚇の声と、空から降ってくる二人の絶命を望む罵声にも似た鳴き声。


 ヨクリは放心し、頭の中が真っ白になった。

 次いでざり、というどれかの前足が地を擦る音が耳に入って、我に返る。

 喪失していたのは一瞬だったようで、ヨクリの意識は急速に目の前の光景に向かった。


(くそったれ)


 ヨクリはトールキンを寝かせて荷袋を放り出し、震える息を殺して魔獣の群れを睨みつけた。


 ふつふつと、一つの感情が込み上げてくる。


(あれだけ死んだんだぞ……これ以上討伐隊を消耗させて、どうなるっていうんだ)


 ヨクリの見た限りでは、五人が命を落としていた。これでヨクリらがこいつらの餌になれば死者は七名になる。

 仲間が死ぬところをみたくない。それはその通りだ。だがそれよりもはっきりと、ヨクリはこの依頼の成功率が下がることに対して、果てない怒りが湧いていたのだ。そこに含まれる自身の死につきまとう感情については一切を斟酌していなかった。

 ただ次々降ってくる目的への障害に、かつてないほどの苛立ちを感じていた。そしてその激しい感情のうねりを解放することを咎めるものは、今この場所には誰もいなかった。


「邪魔を……」


 眉宇に力がこもる。なにかを払うように右手の刀を振るって、


「するなあぁ!!」


 追い詰められた狼の吠え声のような声音とともに駆け出し、ただ汲めども尽きぬ泉のような心の熱に任せて、猛然と獣の群れに襲いかかった。

 突進し、囲まれないように位置取りを調整しながら、首を刎ねる。胴を貫く。爪や牙を躱して、残りわずかなエーテルを使い、図術で仕留める。


「うおぉぉ!!」


 自身を鼓舞するように吠え声をあげながら、ヨクリはただひたすらに限界に近い体を気力で引っ張り、携えた剣で獣を屠り続けた。血臭があたりに広がっていき、色と臭いと狂乱の声に触発された“賤鳥”が熱に浮かされたように余計に騒ぎ立てる。獣の咆哮とヨクリの気迫とが混じり合って、梢の音をかき消し、ただあたりに響き渡っていた。

 しかし、とうとうヨクリの力が底を尽きる。がくんと精度が落ちた“感知”は、“上級魔獣”の影響とは理由が違った。シリンダー内のエーテルが空になったのだ。遅れて、携えた引具は一気に重みを増し、獣の俊敏さに反応できなくなる。迫り来る脅威に即座に気づいたヨクリだったが、しかし気配を感じ後方を振り向こうとしたときにはすでにその爪はヨクリの背中を捉えていた。


「——」


 速度が急激に落ちたことで、結果的に獣の爪ではなく人間で言うところの掌底の部位が背を打ち据え、ヨクリは洞窟の入り口に吸い込まれるように弾き飛ばされた。背骨が逆に曲げられたような凄まじい衝撃。一切の図術的補助がない状況で、この一撃は決定的だった。

 呼吸がつまり、痛みを通り越して痺れたような背中の感触。めちゃくちゃに洞窟の岩肌に体を擦り付け、寝かせたトールキンの足元まで追いやられていた。ざらついた視界にトールキンの靴の底が見える。後ろからは無数の唸り声。


(まず、い……)


 全身の力が抜け、言うことをきかない。未だ握っていた刀だが、拳を握ろうにも手は震え、指先が離れていく。

 光の差すほうから一匹の獣の気配。ヨクリの息を確かめる、様子見と思しき獣が洞窟内に入ってくる。未だ意識のあるヨクリを見たが、あれだけ獣どもを斬って捨てたヨクリを警戒しているのか近寄ろうとはしなかった。しかし、その代わりに眠るトールキンを見つけた。


 その裾を咥え、外で待つ腹を空かせた同胞のもとへずるずると引き摺り出そうとする。ヨクリは開き切った瞳孔でそれを見た。


 “仲間”に襲いかかる敵がいる。


 ——力を取り戻させたのは、ただ脅威に敵対する意思だった。


 再び掴んだ、今まさに取り落とさんとしていた柄の感触ははっきりしていた。しかし、これでは長すぎる。ヨクリは、今度は自身の意思で引具から手を離して目だけ動かして荷袋を探し当てると、音を立てずに手を伸ばして口を開き中のものを掴んだ。


 “獣”はトールキンに夢中で、岩の隙間に引っかかる皮鎧を強引に抜くように、首を左右に激しく振っている。

 荷の中にあった解体用の短刀を手に、腕に力を込めた。そしてトールキンを襲う獣に飛びかかっていた。

 突然の出来事に、獣は一瞬硬直した。ヨクリも目の前のそいつと同様に、牙を向いて襲いかかっていた。

 正気ではない。しかし、それゆえにタガが外れたとでもいうのか、ヨクリ自身にも信じられないほどの力が出た。獣の顎の下に腕を滑り込ませ牙を無力化し、勢いそのまま仰向けに組み伏せる。爪が体をかすめ、肉に食い込む。それすらも構わず、血走った目で右手の短刀を、心臓めがけて突き立てた。


「ああぁぁ!!」


 絶叫とともに放った一度目の刺突で、痛みに悲鳴をあげる獣。引き抜いたそばから血が噴水のように吹き出て、ヨクリの顔中をめちゃくちゃに染める。食い込んだ爪から力が抜けたにもかかわらず、


(まだ息がある)


 瞬き一つなくただもがく獣をじっと見据えていた。心の隅にある全く温度を感じさせない虚無の空間で、そう思考していた。

 すでにどう見ても致命だったが、二度、三度とがむしゃらに刺しまくると、わずかな痙攣ののち、獣は動かなくなった。返り血でしとどに濡れた前髪がべったりと肌に張り付いた。取っ組み合い、獣のきつい匂いが鼻の奥にこびりつく。


 ゆっくりと起き上がり、短刀を投げ捨てて引具を拾うと、再び立ち向かうために陽の下へ出た。どうせ逃げられないのなら、一匹でも多く道連れにするしか他に選択の余地はなかった。未だ数の減った様子がない獣たちがヨクリを取り囲む。しかしヨクリは一歩も引かず、鋭く群れを睨みつけた。


 死を覚悟しつつも不退転の意を示していたヨクリだったが、唸り声とは別の一つの音が群の奥から聞こえてきた。断末魔である。それは瞬く間に増え、群が割れるように向きを変えていく。


 ヨクリは先ほどまでの状況とおよそ連続しない、現実感のない光景をただ目を開いて見ていた。


 群の上からちかりと光るいくつもの金属の煌めき。——携えられた引具の切っ先だった。

 気合の声とともに獣たちは次々に屠られていく。それが何者の仕業だったのか、ヨクリは思い至るまでに少しの時間を要した。

 ——ヨクリとトールキンの救援に駆けつけたのは依頼を共にする、ヨクリが認めた凄腕の具者たち。霞んだ視界に映ったのは、浅黒い肌の屈強な男だった。

 ヨクリはその名を呟いた。


「ジャハさん」


 ふらつくヨクリへ、ジャハは肩を貸す。ぐいっと体が持ち上がる力強い感覚。


「遅くなってすまない。二人とも、よく無事でいてくれた」


 奇しくも、ヨクリがトールキンを見つけた時にかけた言葉とほとんど同じ声が顔の上から聞こえてきて、視界の先でトールキンに治療を施す具者たちが見えた。続けて、ヨクリの体にも節々をいたわる優しい感触が伝わってくる。


 とうとうヨクリの緊張の糸は切れ、意識を手放した。

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[一言] 最近更新が多くてとても嬉しいです。 ありがとうございます! 今回も面白かったです!
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