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途上のシャムロック  作者: 納戸
黒血に響く凱歌
79/96

   2

 日はもう落ち始め、夕方に差し掛かる時間帯に入っていた。


 施術が一段落し、メディリカは最低限の道具を残して片付けているところで、ヨクリは辺りで集めてきた薪に火をつけ、野営の準備を始めていた。

 セフィーネの容体が落ち着くのもそうだが、陽の落ちる時間に移動するのは流石に危険すぎるからだ。あの場の“獣”から逃げ果せることはできたとはいえ、他の魔獣に道中出くわさないとも限らない。


 メディリカは最後に小さな香炉を取り出し、眠るセフィーネの横に置いた。熾した薪に新たな木片を近づけて着火し、さらに小さな火種に調整して炉に入れる。貰い火を消す指先の細やかな仕草からは優美さすら感じさせ、幾度となくこの作業を行ってきたという経験が窺える。しばしすると、独特の香りがかすかに漂ってきた。本能的に拒否感を覚えたのは香りよりもその効能に対してのものだろう。


「離れておけば大丈夫だとは思いますが、少しぼうっとするなら仰ってください。セフィーネさんの痛み止めですから」


 ランウェイルで扱われている毒物の知識をわずかに有しているヨクリは知っていた。メディリカが焚いたのは緻密な調合技術で作られた、人間の意識に作用し、感覚を鈍らせる薬である。レミン集落の件でミリアがヨクリに処方したものよりも遥かに高度なものだった。

 セフィーネへの最後の処方を終えると、


「あとはセフィーネさん次第ですね。有難うございました、貴方のおかげで私は私の使命を全うすることができました」

「いや、俺はなにもしていませんよ」


 ヨクリは慌てて手を左右に振る。謙遜や偽りのない本音だった。はたから見てもヨクリのような素人が手を出せるような生半な領域ではなかったからだ。


「いいえ。貴方の言葉のおかげで、セフィーネさんは落ち着いて、生きるために自分ができることをすることができたのです」

「それは……」


 メディリカの真摯な言葉に目を伏せた。ヨクリにはそれを信じることができなくなっていたからだ。


「ヨクリさん」


 メディリカは俯いたヨクリに呼びかけて、そばまで寄ってくる。どんな言葉をかけられるのか予想はできなかったが、顔をあげ、間近でメディリカの顔を見た。


「はい」

「傷を見せてください」


 傷? と訝ったあと、頭部に衝撃を受けて出血していたことをようやく思い出す。すでに血は完全に止まっており、髪の毛に指を通すと、ぱらぱらと乾いた血液の欠片が落ちてきた。ざらざらした粒っぽい感触に無性に頭が痒くなったが、気合いで手を引っこ抜いて耐えた。さすがに傷口を掻き毟りたくはない。


「いや、もう治っていますよ。たぶん」


 手を払いながら答える。痛みもほとんど失せていた。というより、戦闘中は興奮して頭部の痛みなど感じず、むしろ流血によって塞がった右目のほうが鬱陶しかったのをおぼろげに思い出す。


「構いませんから」


 半ば強引に頭を下げられ、傷を探ってくる。膨らんだ胸元を顔に押し当てられて声をあげそうになり、ヨクリは腹に力を込めて堪えた後わずかにばつが悪くなった。


(……そりゃあ、巷で人気になるのも当然だ)


 これだけ献身的にされると、確かに男はぐっとくるだろう。

 この治癒者の人気の一端を身を以て知ったヨクリは、内心で俯瞰的な物言いをすることで心を落ち着かせ、必死に態度には出さないように努めていた。

 傷はやはり塞がり始めていたようだが、メディリカが荷から薬品の入った小瓶を取り出し、患部へ塗布すると流石に染みて痛みを感じる。その後余分な水気を布で拭われ、解放される。ようやく処置が終わったと思ったのもつかの間、


「腕も」


 あ、と再び思い当たる。セフィーネを落ち着かせるためにわざと腕を噛ませたのを忘れていた。どちらかといえばこっちのほうが痛かったかもしれない。

 同じように消毒を施したあと、荷物から包帯を取り出した。 


「貴方が怪我をしているところを、私は初めて見ました」


 メディリカはしゅるしゅるとヨクリの腕に包帯を巻きつけながら静かに呟いた。そういえば昔三度、同じ依頼を受けたことがあると言っていた。


「そう、でしたっけ」

「ええ」


 ここ最近はどこかしらに傷がないことのほうが珍しかったヨクリはぴんとこなかった。以前——キリヤと再会し、フィリルと出会う前はどうだっただろうか。思い出そうとするが、うまくいかない。

 これで大丈夫、と治療を終える。礼を言うと、メディリカは柔らかく笑みを返してから、壁に体を預けてヨクリの隣へ座り込んだ。

 炎がゆらゆらと揺れていた。焚き火を挟んだ向こう側で眠るセフィーネの表情は穏やかだった。呼吸も落ち着いてきて、楽観視するわけではないが峠は越えたように思える。処方した薬が効いているだけかもしれなかったが、今のところ痛みに暴れたりする様子もなかった。


「だから私は、ひょっとしたら今回はもう私も助からないのではと、少しだけ覚悟をしました」


 メディリカは立てた自身の両膝に顔を埋め、つらつらと話を始める。


「盗賊団の残党と戦っていたあの時でさえ、貴方は両の足で立って、馬車の人たちを必死に守っていましたから」


 メディリカの発言に、ヨクリは息を詰めた。一瞬思考が停止して、意味を理解するのに時間を要した。今回遭遇したチャコ砂漠での話ではない。


「あの場に、メディリカさんも居たんですか」


 ヨクリが初めて人を斬った、あの場に。なぜを問う前に、ヨクリが優秀だと断じた才女は生まれる疑問を見越して、自らの身を明かした。


「私の本当の名は、メディリカ・アイシュース」


 ミニオットではなく、別の姓を名乗ったメディリカにヨクリは頭の中の糸がつながったような感覚を覚えた。


「アイシュース……あのアイシュース家ですか?」

「はい」


 そうか、と女の素性の不明瞭さが一気に明るくなる。ヨクリはその家の名を知っていた。


「アイシュース家は、かの盗賊団へ資金を援助していました」


 そう。ヨクリがその一端に関わったあの事件の裏でビルリッド盗賊団に援助をした貴族の一つが、アイシュース家だった。

「彼らは国を変えるといいながら、結局のところ罪なき民からの略奪を止めることができませんでした。事の始まりこそ非難したものの、しかし当主は彼らが使った引具がもたらす情報の集積へと興味が移っていきました。盗賊団が襲撃した人々の中には腕利きの業者を雇った商隊もありました。先の戦争から飛躍的に発展した戦闘用の引具が実際の争いに使われ、過去との比較や検証が行われていたのです」


 道理で各都市の維持隊の手に負えなくなったわけだとヨクリは得心していた。


「——すでに、アイシュースだけの問題ではなくなっていました。当主が整理した情報は国軍へと流れ、上層部はそれを高く評価していたのです。行為の瑕疵を一切棚上げにして」


 ヨクリの脳裏に浮かんだのは青髪の少女の父親であり、六代貴族の当主の顔だった。だが、疑問は一旦飲み込んでメディリカの話に耳を傾ける。


「盗賊団とアイシュース家、アイシュース家と国軍の、歪な関係は長くは続きませんでした。とうとうある日、盗賊団はとある貴族を襲ってしまったからです。国軍は抗議の声を無視できず、大規模な討伐隊が組織され、ややもせず盗賊団は壊滅させられました」


 それがセラム平野で行われた大規模な討伐だった。その後芋づる式に関係者が洗い出されていき、盗賊団の力は大幅に弱体化することとなる。


「そして盗賊団の生き残りは、暴力をアイシュース家にも向けました」


 頭を失った、誰も制御できない組織の残党。特に理念よりも利を選んで盗賊団に加入したならず者たちにとっては、最も狙いやすかったのだろう。

 アイシュース家を襲った盗賊たちは管理所が正式な手配書を公布していたため、業者たちのあいだでも噂になっていた。


「——全て、私が学業で家を離れていた頃に起きたことでした。あれほど誇りだった家名も、愛した両親も兄弟も私の中で色褪せました。彼らは全てを知っていたからです」


 目を伏せた印象的な表情からは、メディリカの心情は読み取れなかった。


「私が咎を背負うことはありませんでした。しかし、この償いは果たさねばなりません。だから私は私の未来を人々のために捧げると、そう決めました」


 一転して眠るセフィーネの顔に優しい瞳を向けながら、メディリカは静かにそう言った。血の気の引いた白い顔をしつつも呼吸は落ち着き、穏やかに胸元が上下している。流れ出てしまった血と、それに伴う体力の低下はどうすることもできない。あとはセフィーネの生命力に託すしかなかった。


 ぱちぱちと熾した薪が爆ぜる。それが持ちかけられた全ての依頼を断ることなく受け続けてきたメディリカの独白だった。

 そしてまた推測する点も生まれていた。砂漠で屈服させた盗賊たちへの振る舞いは、おそらくだがメディリカが意図していないにせよ、無意識のうちに感情が出てしまったのではないかと。

 ヨクリは女の指針について訊ねようとしたが、しかし口から出たのは別の言葉だった。


「あの男——カルネロは本当にビルリッドの息子だと思いますか」


 その奥へ踏み込むのを避けたことに気づいているのかはわからなかったが、女はややあって答える。


「……さあ、それはわかりません。さきほども申しました通り、父と盗賊団の関係は私が家を離れていたころの出来事でしたから。ただ、こんなところでその名を聞くとは思いませんでした。……因果ですね」


 最後に苦笑いをヨクリへ向けたあと、表情を改めた。


「だから、私はずっと貴方に訊きたいことがあったのです」

「俺に、訊きたいこと?」


 ヨクリが訝ると、メディリカはすぅ、と息を吸って、切り出した。静かな音だった。


「……後悔していませんか?」


 柔らかい焚き火の光に照らされたメディリカは真剣な眼差しでヨクリを見据えていた。なにを、とは問わず、ヨクリは静かに次の言葉を待った。


「あの日、貴方が盗賊に襲われなければ、同胞を斬ることもなく、ただの業者として日々を暮らせていたのではないかと」


 言葉を切って、


「私は、貴方を見るとそう思ってしまうのです」


 女は長い睫毛を伏せた。

 ヨクリがメディリカの疑問を正しく飲み込むよりも前に、


「知っているんです。貴方が先日、自治区の征伐に加わっていたことを」


 付け足された言葉にヨクリは一度頭の中が真っ白になる。


「どう、して」


 心の揺らぎを隠せなかったヨクリの声音は途切れていた。また、それを知られたことに動揺した自身に気づいて二の句が継げない。


「先ほども申しましたでしょう。ずっと、貴方に興味があったからです」


 ヨクリへ向けるその顔は形容しがたい雰囲気をまとわせていた。


「だから、貴方が征伐に加わったのは——加わってしまったのは、私にも原因があるのではないかと」


 ヨクリは息を詰めた。

 複雑な感情が心に逆巻いていた。先ほど踏み込むことを躊躇した自身に、どうしてそこまで思いつめているのか。たかが偶然居合わせた業者のうちの一人ではないかと。そして、その想いを向けてくれることへの感謝。相反するような心の波がぶつかり合ってかき乱す。

 ヨクリはしばしその波に耐えるように瞑目したあと、息を浅く吐いた。


「……同じですよ」


 ヨクリは静かに心のうちを語り出した。それが、自身の過去を話してくれ、そしてヨクリへいくばくかの感情を向けてくれたメディリカに対する礼儀だと思ったから。


「俺はどのみち、いつか人を斬っていたと思います。————俺には、それしかないから」


 ヨクリには剣をとって戦うことしかできない。誰かの考えを変えることも、誰かを奮い立たせることも、誰かを癒すことも。人に響く言葉を持っていないから。


「だから、メディリカさんが気に病むことはありません」


 ヨクリが断言するが、メディリカの瞳から疑問の色は消えなかった。


「……では、なぜ?」


 そして、短く問いかける。ヨクリは質問の意図がわからず、続きを待った。


「ずっと苦しそうにして、私たちから距離を取っているのは、なぜですか?」


 メディリカは目を伏せて言った。


「……ランウェイル人が、憎いからですか?」

「——」


 ヨクリは虚を突かれた。違う、そうじゃないと言葉にするよりも前に、メディリカは顔をあげてはっきりとヨクリのほうを向いて、静かに、しかし畳み掛けるように続ける。


「戦後、シャニール人がどういう立ち位置に追いやられたのか、私にもその一端はわかっているつもりです。そんな貴方が同じシャニール人を斬らなければならなくなったのは、やはり私たちランウェイル人のせいだと」


 薄紅髪の女の目は、逃げようとするヨクリの視線を捕らえた。


「貴方を見ていると、そう考えずにはいられないのです」


 ヨクリの心のうちに深く切り込んでくるこの治癒者に、ヨクリは心中をかき乱される。侮蔑でも嘲笑でも憐憫でもない、その声に。


「——それでも」


 自然と唇が動いた。


「それでも俺は、この国が好きなんだ。出会った人たちが、好きなんだ」


 ごまかしのない言葉だった。

 それが本当のことだった。シャニール人征伐に加わったのも。

 ヨクリはずっとこの国が好きで、そんな国や人に対してシャニール人たちはただ過去に執着し、今を生きる人を傷つけ思想を声高に叫んでいるようにしか見えなかったから。

 ヨクリの持っていない過去に、ヨクリと同じ血を引く民が縛られていることに言いようのない疎外感と失望とがあったのだと。

 そのこともまた、ヨクリが剣をとった理由のうちの一つなのだと。

 今振り返れば、自然とそう思うことができた。


「俺の言葉なんてなんの意味もない。俺にできることは剣を振るうことだけだから。剣でこの国の人たちになにか貢献ができれば、それでいい」


 どんな志を持とうとも、結局は血と泥に塗れた獣なのだ。獣の言うことに耳を傾けるものはいない。そうして、あの夜に決断した。今はその言葉が嘘にならないように、少しでも前へ進みたいだけだ。相手がどんなに強大であったとしても。

 あの獣を前にしても、ヨクリの心は変わらなかった。


(——そうか)


 どこの誰ともしれないヨクリを、メディリカは気にかけてくれていた。アーシスやマルスも。ジャハや、あの仮面の男もそうだ。

 セフィーネに生きて欲しいと思ったのも。他の誰かに向かって秘めた想いを声にしたとき、ヨクリは再び悟った気がしていた。

 今のヨクリの為すべきことは、あの獣を倒すことだと。


 ——そんなヨクリをメディリカはただ見つめていた。


「……どうして、そこまで思っていて、貴方は」


 メディリカが見せた顔は、これまでとは違う悲しげなものだった。


「……いえ、私が言うことではないのかもしれませんね」


 睫毛を伏せた顔にヨクリは目を引かれた。なにか言うべきところであるにもかかわらず、しかし声にはならなかった。しばしの間絶えず吹く風、眠る呼吸、そして火の粉の爆ぜる音が辺りを包んでいた。その後は現状を切り抜ける話が軽く行われ、周囲への警戒のため互いが入れ違いに休息を取ることが決まる。そうして火番を代わる代わるしつつ、夜は過ぎていった。


 ——明け方、太陽の位置を頼りに集合場所の洞窟の出口を目指す。前日同様に、未だ意識の戻らないセフィーネをメディリカが背負い、ヨクリが危険を打ち払いながら邁進していった。吹き抜ける風が梢を騒がせるほかは、なんの気配もしない。


 そうして進んで行った先に現れたのは梢高く響く戦いの音だった。

 複数の紋陣の破砕音にヨクリはメディリカにセフィーネを任せ、引具を手に取り駆け出していた。

 上級魔獣との戦いによってはぐれ、散り散りになった具者たちが戦っている。その中にはここにくるまでに共に戦ってきた砂漠の街の使者もいた。そのジャハたちもヨクリらと同じようにどこかで一夜を過ごし、合流地点の洞窟へ向かっていたところだったようだ。加勢に加わったヨクリに安堵の表情を浮かべたのもつかの間、意識を獣どもに向けて掃討にかかった。

 この長耳もどきの戦闘能力自体は下級魔獣相当であるうえに幾度も戦ってきたので、ややあって難なく全ての息の根を止める。皆の顔には疲労の色が見え隠れしていたが、それでもこの程度なら問題ない。

 ただ、腕や足などに深手を負っている具者たちも見受けられる。治療を行うためにも、合流後は結晶洞の出口へさらに急いだ。

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