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途上のシャムロック  作者: 納戸
黒血に響く凱歌
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八話 血と泥と獣

 信じがたい衝撃と眼前に繰り広げられていた光景に具者たちは本当にわずかの時間、凍りついたように止まっていた。

 ——ただの尻尾の一振りだった。たったそれだけで、凄腕の具者たちは戦闘の続行が不可能なほどの損害を被っていた。なんとか食い下がるとか、一矢報いるとか、もはやそういう次元の話ではない。


 まるで力の差を誇示するように佇み睥睨する狼の長。


 具者たちの血を吸い、尾はてらてらと生々しく輝いていた。鋭い先端は、金属めいた鱗によって刮ぎ取られた肉が点々と張り付いている。

 るる、という小さな、しかし巨体ゆえの響くような唸り声に、再び時が動き出す。ヨクリは大きく息を吸い込んだ。


(——呑まれるな)


 度重なる戦闘を経て、ヨクリは知っていた。塔の上や集落、自治区でその身をもって味わった強烈な威圧感。心を圧し折るこの絶望に呑まれれば、本当にそれまでだということを。

 集中し、辺りを見渡すと尾を捌くことができた一人の具者が、負傷した仲間たちを庇うように剣を構え戦闘態勢を保っているのが目に入った。ヨクリは断続的に身を苛む痛みを振り払って、光景の中にあったうつ伏せに横たわる、まだ息がある具者の一人へと全速力で駆け寄った。


 その具者は、同行していたセフィーネだった。ヨクリが獣たちを睨みつけ、牽制しながら片腕で身を起こそうとすると、頭のどこかから警鐘が聞こえてくる。上衣は大きく裂け、胸元から腹部にかけて、とめどなく血が流れていた。

 その傷を冷静に診断するよりも前に、未だ力のこもった眉宇をヨクリへ向けたのは重傷を負ったセフィーネ本人だった。


「目くらましを、つくります」


 緩慢な動作で上体を持ち上げ、杖を翳した瀕死のセフィーネが絶え絶えの小声で語りかける。意図を理解した瞬間、ヨクリは咄嗟に叫んでいた。


「目を閉じろ!!」


 危機を察した並行する無意識でヨクリは腰のポーチからありったけの硝子筒を取り出して、獣の群れめがけて投げつけたあと、両方の瞼をきつく閉じた。その直前、トールキンもまた自身の荷から何かを放っているのが見えた。

 瞬間。セフィーネが紋陣を起動、辺りが天から注ぐ日差しよりも遥かに強い閃光に包まれる。

 その正体は“拡散”状態の“灼光”だった。瞼で遮ってもなお白で埋め尽くされる視界。視力の回復は一切捨て置いて、“感知”に全てを委ねる。ヨクリは光の中でも素早くセフィーネを背負って、脱兎のごとく駆け出していた。


 不意を打たれ目を焼かれた獣たちの叫び声と、警戒の唸り声が聞こえてくる。


 ややもせず並走する気配が現れた。メディリカだ。だが、後続の部隊や同行していた他二人とは距離があったため、離れることになってしまう。


「あの場で落ち合おう!!」


 ヨクリが叫ぶと、遠くから応答の声が聞こえた。背中から強烈な圧を感じるが、振り返りたくなる気持ちを堪えて林立する大樹たちを横切り、“灼光”によって霞んだ視界のなかひた走る。


「匂い袋、ですね」


 こほこほと咳き込みながら、メディリカが言った。辺りに立ち込めたむせ返るような臭気は、トールキンの仕業だ。あの手の魔獣は大体鼻が効くため効果は高いはず。いい判断だとヨクリは内心で賞賛した。


「彼女の傷の具合は」

「詳しく診ないことにはわかりません。治療の安全が確保できるところまでまずは逃げないと」


 投げつけた毒瓶と匂い袋、セフィーネの灼光でどれほどの時間怯ませられているかわからない。上空では、直前の戦闘に引き寄せられた“賤鳥”どもがぎゃあぎゃあとやかましくわめき立てている。逼迫した状況のなか、本当に耳障りな声だった。


「彼女をこちらへ。私は走るのに集中しますから、ヨクリさんは獣の迎撃と退路の確保をお願いします」


 メディリカに頷いて、速度を緩めて背負うセフィーネを預ける。湿っぽく離れた背の感触が、ヨクリに不吉な予感を与えた。だが、今は構っている余裕はない。メディリカの体勢が整うと、二人は呼吸を合わせて離脱を加速させた。頭部から流れる血はいつのまにか止まり、乾いていた。“灼光”の影響も消え失せ、視野が完全に回復する。


 そうして道を切り開きつつも、先ほどの戦いをどこか冷静に振り返る。

 ヨクリら具者側にとって幸運だったのが、“翼の狼”が極めて用心深かったことである。

 たかが尾の一撃ではあったがその破壊力を知っているのか、それだけで潰滅することができなかったと知るや否や、ゆっくりと後退し、壁をつくるように小型の魔獣が手前に集まってきたのだ。

 “翼の狼”がなんらかの追撃を加えていたなら、探索班は全滅していただろう。

 甘くみていた。特性や討伐のいとぐちを掴み、きりのいいところで撤退する算段は脆くも崩れ去り、今は這々の体で遁走する有様だ。


 護印を結んだ具者の図術であるにもかかわらず“灼光”がここまで直接的な障害を与えたのは、セフィーネの技量とあの上級魔獣の使った図術の効果を激減させる光だろう。具者が用いる図術と同様に、中和領域も脆弱になっていたというわけだ。ちょうどその推察が頭をよぎったとき、その範囲から逃れたようでぐんと体が軽くなる。目配せしたあとさらに速度をあげ、正面からくる“獣”や邪魔な木々はヨクリが“拡散”の“旋衝”で吹き飛ばし、ただひたすらに撤退する。一切歩調は緩めない。この速度帯では刹那よりも短い時間の判断を要求されるが、ヨクリには迷いはなかった。


 どれほどの疾駆が続いたのかわからなかったが、二人はセフィーネを連れたまま獣たちを振り切って逃げ果せた。

 隆起した岩場の影。洞穴に近い、三方が閉塞したこの場所でヨクリらは深手を負ったセフィーネの手当に取り掛かるために滞留するほかなかった。女の容体は、具者たちが中継地に定めたあの洞窟まではとてももちそうになかったからである。


「手当に取り掛かります」


 ヨクリが地面に広げた外套は、すでに女の血で濡れていた。メディリカは素早くその上へ横たえると、荷をかき分けて準備を始める。


「わ、たし……死ぬんで、しょうか」


 絶え絶えの、か細い声が聞こえてきた。まだ息がある。意識もあると、ヨクリがどこか意識の遠くでほっとしていたのもつかの間、


「嫌……!」


 呼吸が荒くなり、身悶えし始める。途端にセフィーネの傷口から流れる血と、青ざめた顔が正確にヨクリの心中を射抜いた。繰り広げられる悲痛な光景に現実に引き戻されたヨクリは、目を背けたくなる気持ちを押さえつけ、まっすぐにセフィーネを見つめていた。

 現実と死の境界線に追いやられ、苦痛に顔を歪める姿にヨクリはそのとき確かに動揺していたのだ。


「興奮させたままだと出血が増えます。ヨクリさん」


 普段の柔和な声音とはかけ離れた、ともすれば冷たささえ感じさせる冷静な音だった。その平坦さにヨクリもなんとか現状を正しく把握することができた。

 短剣よりもさらに小さい刃を有した引具を取り出して大型の携帯エーテルに繋ぎ、処置に取り掛かる。同時にメディリカはヨクリへ静かに語りかけ、その後、図術を起動した。メディリカの揺るぎない姿勢に励まされ、なすべきことを悟ったヨクリは、セフィーネへ近寄る。

 ヨクリの目からはとても治せそうにもなかったが、メディリカは毛ほども諦めていない。ならばヨクリもそうしない理由があるだろうか。セフィーネは助かる。暗示をかけるようにヨクリは心で呟いて言葉を染み込ませた。


「落ち着いて」


 ヨクリはセフィーネの目を見て語りかけるが、暴れるように首を激しく振る。


「いや、いや……!」


 聞く耳持たず狂乱するセフィーネの顔を右手で押さえつけ、左腕を強く口に押し当てた。くぐもった声音が肌を通して伝わってくる。


「思い切り噛むんだ」


 皮が破け、血が滲む感覚と激しい痛みがあった。だがヨクリは態度にあらわさず、セフィーネの目をもう一度見る。荒い呼吸が、鼻と腕に噛み付いた口の両端から漏れていた。


「メディリカさんが手当している。大丈夫」


 痛みを分かち合うように、ヨクリは努めて優しく語りかける。


「大丈夫、君は助かる。落ち着いて」


 激しく乱れた呼吸は徐々に落ち着いて、目の焦点が定まってきた。同時に噛んでいた力が抜け、左腕が解放される。肌に食い込んだ歯が抜かれる感覚があり、ヨクリはそっと腕を引き戻した。遅れて噛み跡から血が玉のように盛り上がり、つう、と流れ、腕を赤く染めていく。だが、瀕死のセフィーネをなんとか落ち着かせることができた。

 ヨクリはセフィーネの左手に女の杖を握らせて、


「無茶かもしれないが、強化図術を使うんだ。痛みがもっと和らぐし、助かる公算も高くなる。——君ならできるはずだ」


 肌に伝わる感覚から、セフィーネが起動に成功したのを確認して、会話を合わせるためにヨクリも図術を起動する。

 しばらくすると、背中から緑と青の中間の色彩が迸り、図術の光が溢れてくるのを悟った。戦場でのこの光を、ヨクリは初めて暖かな光だと感じていた。セフィーネの傷と首のあいだ、胸元の上部あたりに展開紋陣が現出する。呼応するようにセフィーネの呼吸が落ち着いて、苦痛に歪んでいた表情が和らいだ。どうやら痛覚などを遮るための干渉図術らしい。ヨクリは影響を恐れ、紋陣に触れないように注意を払う。


 メディリカの作り出した展開紋陣の直後、ふっとセフィーネの全身から力が抜け、同時に女の起動した強化図術も解かれる。自身の傷を見てしまうと再び混乱させるおそれがある。ヨクリは即応し自身の図術も解除して、セフィーネの右手をヨクリも両手でとって握りしめ、顔を見て励ますようにして遮った。

 肩越しにセフィーネの傷の具合を様子見る。素人目にも深手だ。普通なら助からないだろう。 

 胸部から吹き出す血が頬にかかり、メディリカの白い肌を汚すが、女は構うことなく患部の手当に集中している。


「ここを繋げば……」


 艶の失せた薄紅髪が汗と血で頬に張り付く。数日の探索と、この極限で生み出された凄絶な横顔のなかに、命の輝きを守るものの美しさがあった。


「大丈夫。君は優秀だ。君はこんなところで失われていい命じゃない」


 三度声をかけると、セフィーネは潤んだ瞳をヨクリに向けて応答するようにうんと小さく頷くと、動きの弾みで頬に一筋の涙が流れる。両手から、弱々しくも確かな命の感触が伝わってくる。


 初めて目の前で死を見て、そして自身が命を奪う存在となり、それから今に至るまでヨクリが見てきた数多の死の光景。いつしか心は冷えてゆき、いつの間にか生と死の狭間にたつ人々へ抱くはずの情念は乾き出していた。しかし干からびた井戸から再び水が染み出すように、セフィーネの姿が幾度も見てきた必死に生きていた人たちの霞んだ残像と重なって、胸の内が激しく揺れ動いた。

 死を前にした人間に、ヨクリは我を忘れて本気で語りかけていた。それはおそらくヨクリの生きてきた中ではじめての経験だった。


「気をしっかりもって」


 横たわる仲間にただ死んでほしくないと。


 ずっと懊悩していた、他の誰かに自身の言葉が届くかどうかなど、もう頭の中にはなかった。無意識に強く握りすぎていた手に気づき、はっとして緩める。だがセフィーネの手を気遣いつつも、ヨクリはこの内にあるとめどない感情を伝えるような力強さを、生を渇望する仲間へ残したかった。

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