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ツェリッシュ家の抱える具者、そして盗賊の頭カルネロを連れ、ベルフーレは物資の補給のため都市に舞い戻っていた。残されたのはプリメラである。
最初に出来上がった一軒めの建物が、プリメラの仮住居だった。意向はどうあれ、この令嬢を差し置いて他のものが使うわけにはいかない。
一応曲がりなりにも婚約者である以上は、気を使っておくべきだろうと、ベルフーレにしたように飲み物の差し入れを携えて、仮住居の前に立った。マルスを見留めた護衛たちは、道を譲るように一歩下がってこうべを垂れる。
扉を幾度か軽く叩くと、中から応答の声があった。名を告げてから許可を取って入室する。内装は簡素ながらも最大限の配慮がされ、過ごしやすい環境が整えられていた。速度優先で建てられたがゆえの荒削りの床材を覆う上等な敷物に、定期的な清掃で入り込む砂塵は払われている。直接触れる家具には丁寧に鑢がかけられ、ささくれは見当たらない。
あまり女性の部屋をじろじろと見るものではないとマルスが思い直しプリメラへ目を向けると、笑顔で対面の椅子を促された。
持参した飲み物を机上に置いて、マルスはとりとめない話を始める。
「お辛くはありませんか。都市外の——それも戦闘の頻発するところは不慣れでしょう」
「いいえ。足を引っ張っているのは、自覚しております。私が弱音を吐くわけには参りません。私にはベルのような戦の才も商才も、なにもありませんから」
責任感に満ちた言葉に、マルスは一つ小さく咳をして、
「……まあ、僕も得意ではありませんが」
「ふふ」
ぼやくようにマルスが言うと、プリメラは上品に微笑んだ。しかしその笑みがすぐに納められたのをマルスは見ていた。
「マルス様も、外は苦手でいらっしゃるのですか?」
「……ええ。面目ありませんが体を使うことは、昔から苦手でした」
プリメラとこうして二人きりで話すことは、内々で家同士取り決めた婚約者という間柄であっても、数える程だった。ここに赴く前にふと思った婚約者としての義理というものは確かにあったが、マルス自身の興味もあった。六大貴族の長女としてどう生きてきたのか知りたいのかもしれない。
「マルス様は聡明なかたです」
その賞賛を否定しようとしたときにプリメラの気配が変わり、マルスは開きかけた口を閉じる。
「私には、なにもありませんから」
プリメラは静かに、自身の非力を知らせる言葉を繰り返す。
「この身一つだけなのです。私が持っているように錯覚しているものは全て、私のものではありません」
全て父親が築き上げたものであり、プリメラ自身は父親譲りの才能も、あるいは別の才能も持ってはいないと語った。貴族の直系にはとても珍しい考えかただとマルスは思った。
「それでも、だからこそ私は見届けねばなりません。どんなに危険な場所だとしても。どうせ私が命を落としても、代わりのものはおりますから」
最後の言葉が、マルスの心をざわつかせる。
「それくらいしか、民に報いる術を持ってはいないのです」
「……そんなことは」
マルスの否定に、プリメラは極めて正しいことを述べるように切り出した。
「私は分不相応な家に生まれてきたのです。——以前、こんなことがありました」
記憶を思い出しながら、
「ベルフーレが十になると、父は財産の半分を私たち姉妹に平等に分けました。どう使おうと自由だと。それが君たちに定められた運命なのだと。……それから五年がたった頃。ベルフーレは増やし、次女のシェルメルは減らし、私は————」
言葉に詰まって、一度止まる。
「私は、増やしも減らしもしていないのです」
プリメラの面持ちは、自分自身で失格の烙印を押すような表情だった。
「使うことが怖いから、使えずにいるのです。——ずっと」
自身の傷口をなぞるように、プリメラは滔々と吐き出していく。
「結果を聞いた父はベルに喜び、シェルにも喜び、私には少しの失望を抱きました。増減は二の次で、使わないこと自体が問題なのだと。金商として富と名誉を築き上げた父には、私の姿勢が許せなかったのでしょう」
まるで大罪を告白したように、プリメラは沈痛な面持ちで言い終え、マルスへ顔を向ける。心奥に語りかけるような目だった。
「私にマルス様は、過ぎた人なのです。もっと相応しい女性がいらっしゃるのです」
大貴族の長女は長い睫毛を伏せた。
「ただたまたま偉大な父の元に生まれただけで、私は臆病で無知な、凡庸な女なのです」
その婚約者の表情は先日見た黒髪の青年の顔と重なる。マルスはたまらず叫んでいた。
「……違う!」
なにかがマルスを突き動かし、
「どうして皆、自分の価値が“それ”だけみたいに言って、その一つが叶わなかったら全てを否定されたようにするんだ!」
憤りをとどめておくことはできなかった。マルスは激しく腕を振り、体のうちの熱をそのままぶつけるようにプリメラへ向けていた。
「僕は貴女と話をすると心が落ち着く。優しい気持ちになる。それは貴女がツェリッシュ家の人間だからじゃない。きっと、他の人たちだってそうだ」
「————」
その熱はプリメラの表情を一転させる。寂しげな顔は驚きに変わり、ただ目を丸くしていた。マルスは婚約者の顔にはっとして、
「……すみません。つい、出すぎたことを」
「……いいえ、でも、驚きました」
マルスにか細く返して、
「面と向かってそんなことを言われたのは初めてです」
「……すみません」
「いいえ。——心を砕いて下さったこと、感謝いたします」
プリメラはマルスへ礼を述べ、しかし続いた言葉に揺らぎはなかった。
「けれど、私は自分が恵まれていることを知っています。食べるもの着るものどころか贅沢にも困っていないのに、民を導くこともできない」
悲しみに満ちた声音のあと、
「だから、言いなりでも人形でも、構わないのです」
プリメラは困ったように微笑んだ。そして唐突に両手の指先を上品に合わせて、明るい声を作った。
「私などの話より、マルス様のことをお聞かせください。もっと知りたいのです」
「僕は……」
無理をして態度を変えたことは、マルスにもわかった。わずかに戸惑ってから、プリメラの意を汲んだ。今はまだ、マルスの言葉はプリメラを変えるだけの力がないことに気がついてしまったからだ。だから意識して思考を切り替えていた。
「……そうですね。僕は、月へ行きたい」
空の彼方に浮かぶ月、幼いころ叔父に聞かされたファイン家の夢想に、マルスもまたずっと心を奪われ続けている。
「今はまだ、空を飛ぶ方法は模索中だが、いつかきっと」
地上付近で浮遊する程度の技術はすでに確立されているが、流力層と呼ばれる気体のエーテルが絶えず流れ続ける上空では図術機器は不調をきたし、機能しなくなる。また、自在に加減速することも未だ困難を極めている状況だ。
山積する問題を解決する鍵はこの大地のもつ波動情報——絶対波動にあると推論が立つところまではきている。
そしてこの依頼の要点である地表に現れるエーテルの海は大地の中心から流れ出た一端であり、つまりは絶対波動に近しい。しかし、調べるには今の技術だとエーテルの海の更に奥まで探索しなければならなかった。
「……」
そうして夢に想いを馳せると、どうしても考えてしまうことがあった。
マルスにとって越えねばならない壁。
図術士クラウス・ファイン。国内に名を轟かせる自身の叔父と——その息子である。
ファイン家次期当主、と目されたケイネス・ファイン。その思想の違いからクラウスと袂を分かった図術技師。叔父の前では口に出すのもはばかられる男。
黒髪の青年がもたらした青髪の少女フィリルの一件から始まる、マルスが感じていた最近のクラウスから漂う気配はケイネスと非常によく似通っていた。
与えられた称号や過去の輝かしい実績からクラウス・ファインの図術技師としての名声はいささかも衰えていないが、今若手の図術技師で一番勢いのある、絶対波動の秘密に最も近い男と界隈で評されるのがこのケイネスである。マルスが入学することが叶わなかったハスクル学術院を首席で卒業し、とりわけ施紋学や、それに関連する軍事的図術研究においてすでにいくつかの功績を挙げている。
年の近いケイネスが様々なことを為しているのに対し、マルスは未だどこへ向かうべきなのか、模索の最中にあった。
「僕はまだ、なにも為していない。今回の件でもそうだ……」
今の状況と重なり、ふと言葉が漏れる。
「そんなに、引け目を感じていらっしゃるのですか」
「当たり前です。彼らが必死に戦っているのに、僕だけ何もせず高みの見物など、一体何様だっていうんだ」
悄然としたマルスに、プリメラは微笑んだ。
「やっぱりマルス様は、他のかたとは違いますね」
言葉を切って、
「貴族の皆さまは、平民がなにをしていても気にかけませんから」
「それは貴女だってそうでしょう。だからツェリッシュ家であることに責任を感じているんだ」
素早く切り返したあとに、マルスは気がついた。貴族として背負わなければならないこと。そしてその力が自分には足りないこと。両者とも、マルス自身にもぴたりと当てはまることだった。
「僕らは、似ているのかもしれません」
マルスの半ば呆然としたつぶやきに、プリメラは目元をわずかに和らげた。
「そうかもしれません」
そして、目の前の婚約者は、マルスの友人にもどこか似ていた。
「上手くは言えないけれど……僕は、貴女の力になりたい」
「マルス様……」
親近感からの声なのか、婚約者としての務めか、更にあるいはまた別の感情なのかは曖昧だったが、マルスは確かにプリメラが望む道へ進むための手助けがしたいとそう思っていた。
■
結晶の洞窟の先を探索し始めて、三日がすぎた。
そこでヨクリらに吉報が訪れる。探索班の人員増加である。結晶の洞窟出口を夜営地としていたが、後続の者たちが魔獣避けの痕跡や荷を見て待機していたのだ。その夜に夜営地へ戻ると、追加された具者と合流する。
総勢十五名——およそ半数がすでに探索班として駆り出されたことになる。物資も多めに運んできてくれた探索の追加人員と相談し、班を三つにわけ、広範囲の探索が開始された。この場所を中継地として一班が陣に追加の物資を運搬する役割を担い、残りの二班がここで再び、水源の確保とエーテルの海の探索を進めていく。徐々に空白の地図は埋まってゆき、適切な道のりの選定、獣への対処、個人間の連携などが熟達していく中、時は経過していった。
そうして苦心して進められ、エーテルの海がどこにあるのかの目処がたつ。その地点になければ、この強く吹き付ける風や、空気中にも含まれる高い濃度のエーテルは別の要因だと断定せざるを得ないほどに。
いよいよ三つの班全員でエーテルの海へと向かう算段が整うと、日が昇ってから少し経った頃に結晶洞の出口から出立した。
事前に調べた道のりを辿り、大樹の森をかき分けて進んでいくと——。
たどり着いた先は、一目でわかる他の場所とは違う光景だった。
目に飛び込んでくる、新緑とは異なる翡翠色の輝き。
まるでこの場所を覆い隠すように、周囲が隆起している岩石地帯。大樹とその梢は更に空を覆い、細い光が差していた。ヨクリらのたどり着いたこの場の入り口とでも言うべき場所には、むき出しの根が岩場を貫き露出している。
日陰を作るこの場所を照らすのは、そこに広がる果てないエーテルの海だった。息づくものはなく、あるもの全てが磨き抜かれた鏡のような地形がエーテルの緑を反射している。
かすかに遠い向こう岸は、そこにたたえられた翠の力の大きさ、広さを伝えている。
岩や大樹の隙間を縫うように吹きすさぶ風。一行の着用する衣服の裾が忙しなくはためく。大樹から伸びる枝葉はとめどなく揺らめき、渦を作るようにエーテルの水面が逆巻いていた。光の届かぬこの場所でもなお、翠に煌めき薄く明るい。細く差す陽光をきらきらと宝石のように反射しているのは、極めて高い濃度のエーテルから析出した、細かな結晶だった。
ぽつりとした呟きが、言葉を失った一行を正気に戻させた。声の主はこの場に最も知見のあるセフィーネだった。
「本当にあった……」
灰茶の前髪を吹き抜ける風が揺らす。衝撃に茫洋としていた瞳の中の星々が、胸の内の鼓動を伝えるように、煌々と瞬いた。
まさしく秘境だった。これだけ人間の目から遠ざけるような地形だと、たとえ夜間に管理塔の上から調査したとしても確認することは難しいだろう。
「なんだ、これ……」
トールキンがおもむろに踏み抜いた足は鏡面に跡を作っていた。足を持ち上げると、その足跡は普通の土くれのように細かくばらけて、それがさらに妙である。
「年月をかけて、風に乗ったエーテルが土や岩の表面を削って磨かれるんだと思います……ほら、あそこも」
セフィーネが指差した方向には岩盤から手近に突き出る大樹の根があった。その樹皮もまた、まるで金属でできた柱のように磨き抜かれている。覗き込んだトールキンの顔を根の稜線にそって湾曲させながら映し出した。
「夢でも見てるみたいだぜ……」
一行がその非現実的な光景に目を奪われていたとき。
空気が、変わった。
にわかにぴんと張り詰め、五感とは別のところの違和感に全ての具者が反応し全く同じほうを向いた。
ざわざわと大樹の枝葉が風に揺れている。
ついで、地面がかすかに揺れるような錯覚にも似た振動を感じ、それは確実に近づいてきた。
具者たちが凝視したその先から、影が現れる。恐ろしく大きな影が。
大樹の奥から全容を明らかにしたのは、山のように大きな“獣”だった。
————これが上級魔獣だということを、全てのものが悟った。
こちらを視認し、明らかな敵意を向けている。鋭い、などという生ぬるい形容ではない。射抜かれ、そこから血がとめどなく溢れそうなほどの強烈な威圧感だった。
黒褐色の体毛に、道中であった長耳もどきと同じ、狼のような頭部。尾は長く、鱗のような光沢を持っており群生する大樹のように太い。背中には牙のような、骨が変質した突起がいくつも突き出ている。
そしてとりわけ異様だったのは。
(なんだ、あれは……腕……? 翼、か?)
人間でいう肩のあたりから左右対称に、一本ずつ突き出ている腕のような部位。飛ぶはずのない命の形をした獣に存在する不気味な構造に視線が動く。尾と同じく体毛にかわって鱗のような金属感があり、先端は人間の手のような多関節を持っていた。
そうして、一行にゆっくりと詰め寄ってきて、戦端を開くにはもう少しというところで足を止めた。なにかがくる、とヨクリも直感していた。
そうしてゆるりと首を持ち上げたそいつは胸部をわずかに膨らませ、天に向かって顎門を開く。
直後、強烈な衝撃があたりを消し飛ばすように吹き荒れた。
「うおぉっ……」
その正体は出立した陣地まで届くのではないかと思うほどの、絶叫という表現では生ぬるい、凄まじい咆哮だった。具者たちはたまらず耳を抑え、音の波の暴力に耐える。
吠え声が止むと、人間が地を這う虫を眺めるように、この森の主人は佇んでいた。ヨクリらが再び戦闘態勢を取るよりも前に、四方八方からざわざわと木々の擦れる音が聞こえてくる。辺りに吹きすさぶ風が生んだ音ではない。
続々と現れたのは、道中襲われた、“長耳”に似た魔獣たちだった。どうやら上級魔獣の指揮下にあるようで、まるで軍隊のように統率された動きをとってヨクリらを囲む。
「くそ! こいつら、どこから!!」
咆哮の残滓を追い払うように頭を何度か振ったあとトールキンが叫び、集った具者がめいめいに戦闘準備に移る。七名の近接手を前に、素早く陣形を整えた。
側面と背後を取られないように迎撃が始まる。対応しきれない獣も遠射手の図術や敷陣で仕留め、少なくともエーテルが切れるまでは勝負になるようだった。
だが、肝心の上級魔獣は四方八方から集う群れの奥でただ見下ろしているばかりで、それが逆に不気味だった。
崩されかけた陣形を立て直すために後退し、また、新たに獣が到着するよりも前に、目の前の獣を倒し切って前進する。そんな応酬が続いていると、とうとう上級魔獣がこちらへ向かって一歩詰め寄った。
一行が呼応するように意識をそちらへ向け、空気が張り詰めていく。
背中の恐ろしく発達した筋肉が山のように隆起し、突き出ていた他の生物には存在しない部位が持ち上がる。
掲げられた狼の両翼から、凄まじい光が迸った。視覚だけではなく肌に伝わる波動と衝撃に、なんらかの直撃を受けたととっさに感じたが、しかし光が収まり体を見回しても外傷はない。疑問と安堵とが頭の中を駆け巡ったその瞬間————
————急に、体が鉛のように重くなった。ヨクリが原因を探るよりも前に、答えに行き着いた者がいた。
「図術が…………」
自失したように呟いたのはセフィーネだった。その青ざめた顔を見たあと、ヨクリも感覚を確認する。正しく機能しているはずなのに、効力が少なくとも通常の半分以下であることがわかった。
波動の残滓が、びりびりと肌を撫でた感覚があった。
上級魔獣の特性の一つだろうと、ヨクリは絶望的な状況をどこか冷静に見つめていた。だが、考える時間はすぐに奪われる。混迷の最中にあった具者たちへ、機を図っていたように小型の獣たちが殺到した。
しかしこの状況にもヨクリは即応して、獣たちを迎撃する。鈍いまどろみの中に沈むような時間のなかで、半減された効力の強化図術でも三匹を仕留めていた。集団戦闘で頼りにしている“感知”の性質上、効果範囲は大きく狭まっているものの、伝達されてくる情報はそれほど低減していない。“補助図術”は引具そのものが効果の安定と情報の処理を行いそれを使用者に流すという仕組みであり、実際に操作する手順は少ないという性質も幸いした。
だが、ややもせず限界が忍び寄る。押し寄せる獣の群れにヨクリの処理能力が追いつかなくなって、じわじわと押され始めた。同じように戦線を共にする具者たちもまた、ひしめく獣に対応しきれなくなっていく。そのさまを見定めるようにしてその奥に佇んでいた翼の狼が、にじり寄ってきた。
一歩、また一歩と距離を詰めると、獣たちが呼応するように引いていく。しかし、ヨクリにはどうすることもできなかった。
そしてとうとう、狼の攻撃範囲内まで具者たちは追い詰められる。ゆっくりと上半身を引いた狼。
その恐ろしく長く強靭な尾が鞭のようにしなる。
視認よりも先に、ヨクリの支配領域内に侵入した“感知”から齎される情報を解釈した。
(躱せない)
極限まで圧縮された時間の中で、ヨクリは直感していた。体感で半減された図術の効力では、今から回避するために挙動したところで体が追いつかない。それでも刃を立ててしっかり柄を握りしめ、後方へ跳躍しようと力を溜めて地面を蹴るか蹴らないかの瀬戸際、波打つように揺らぐ凄まじい威力を秘めた尾がもう目の前にあった。
「来るぞ!!」
たくさんの叫び声と凄まじい衝撃を感じたのは瞬きよりも短いあいだのことだった。
意識が暗転する————
「うっ……」
————誰かのうめき声が耳に入って、ヨクリははっと意識を取り戻した。激しい全身の痛みがヨクリを襲い、詰まった息に、空気を求めるように喘いだあと、咳き込んだ。
「……つ」
手のひらの感覚から、引具は手放していない。けたたましい耳鳴りと、全てのものがねじ曲がっているような、ぐにゃぐにゃとした視界。
全て堪えて気合を入れて立ち上がる。なぜか塞がったままの右目を開けようとして、違和感と痛みに断念する。左手で乱暴にこすると、手に赤い液体が付着していた。血によって開けることができないことに気がつく。眼球の出血ではない。瞼か、と考え、ちりりと走った肉体がもたらす情報から、頭部に激しい衝撃を受け、おそらくはそこからの出血であることを悟る。
焦点が定まってくると、状況がわかった。弾き飛ばされたヨクリは大樹の一つに背を打ち付けていたらしい。
肉体の頑強さも低下している今、受ける衝撃もここまでのものになる。
一刻よりも長い時間意識が飛んでいたような感覚だったが、実際はわずかにも満たないあいだだったようで、覇王の遺獣に従う眷属たちはヨクリらを見据え、次の行動に移るところだった。
口から漏れる息は、濃密な獣臭を遠くまで伝えてくる。そして、ヨクリと獣たちのちょうど中間に、倒れる影がいくつもあった。
そのうちの一つに目を引かれる。大地に広がる、夥しい赤い色。尾を躱しきれず、地に伏すその業者の上半身は、なかった。
————この依頼で初めて、死者がでた。




