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途上のシャムロック  作者: 納戸
黒血に響く凱歌
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七話 古の森

 陣地とそれ以外を仕切る、急ごしらえの柵の出口。会議から二日後の朝。およそ十日ぶんの携帯食料を詰め込んだ荷を背負い、探索に向かう具者たちが陣地を発とうとしていた。組織された調査隊はヨクリとジャハの他に三名が名乗りを上げた。大剣のトールキン、杖を携えた遠射手のセフィーネ、そして治癒者のメディリカである。

 大剣を携えた長身の男は、ヨクリには別段珍しい手合いでもないので特に気にかけることもなかった。強いて言うなら、目付役というには失礼であるが血鎖の頭領の不在がわずかな懸念材料ではある、というところだろうか。


 ジャハのときもそうだったが、メディリカが同行するのにもヨクリは内心では反対だった。とにもかくにも薄紅髪の女は貴重な治癒者である。危険の多いところへ随伴させるよりもなるだけ安全な場所で負傷者の治療に当たって貰いたいからだ。だが、その場でヨクリがなにか意見することはなかった。ヨクリよりも先に、戦術的価値から反対を叫んだものが居たからである。

 だが、その声にメディリカは理路整然と反論を述べた。まずここまでの道中や砂漠と森の境界の陣地では治癒者が必要なほど重篤な負傷者がでることはほぼなかったこと、そして補給や帰還のむずかしい調査の場のほうが治癒者の力が発揮できる、という弁である。

 メディリカの言うことにも一理あった。どちらの意見がより作戦の成功に寄与するかが話し合われ、結果僅差でメディリカの言い分が通ることとなるが、それでもヨクリはやはり複雑な心境であった。


 そして、初めて顔を合わせるのはセフィーネという女だった。この業者はクラウスの推薦で、エーテルの海へ辿り着くための図術学的調査員としての役目を兼ねている。

 細身の短躯に短めの髪。灰がかった茶髪は図術的要素のない人種特有のものかは微妙で、貴族が遠縁にいるのかもしれない。淑やかというには少し眉尻がさがったような、気弱な印象を受ける。砂漠で使っていた外套は脱いだ身軽な装い。手に持つのは図術制御用の杖で、見るからに遠射手という様相であった。

 この手の女はレミンの件もあってヨクリは苦手だった。だが、それとも違う妙な違和感がヨクリの中にあった。


(この人、どこかで……)


 そう、どこかで会ったことがあるような気がする。ただ、いろいろと目立つメディリカをはっきりと思い出せたのとは別でいくら考えても霞みがかってはっきりとせず、過去受けた依頼を思い返して見てもやはりというか該当する女は記憶には居なかった。気のせいかと思おうにも、セフィーネがちらりとヨクリを窺っているようなそぶりを見せるので、面識がある可能性を切り捨てきれない。そもそもシャニール人であるから警戒するのはある種当たり前であり、ヨクリの思い過ごしかもしれなかったが。


 探索班の方針の決定権を握ったのはジャハである。これは満場一致だった。今後調査を終え陣地に帰還するまではジャハの指示に従うこととなる。

 陣地を発ったあと、鬱蒼と生い茂る森の中を進む。まず目指すのは、この森を抜け、そびえる大樹の群れの足元である。獣に警戒しつつも通れそうな道を探し、方角を確かめる。仕事の打ち合わせや相談以外、道中の調査隊は口数が少なかった。

 口論をしたあとのジャハ、同じく同行には反対のメディリカ、いろいろと妙なセフィーネ、そして最初から悪感情を持っていそうなトールキンという面子である。ヨクリが無言になるのは当然と言えば当然だった。

 人の手が全く入っていない森は、外からの見た目以上に歩きにくく、距離を遠く感じさせる。通れそうな道を探し、あるいは強引に突き進みながら探索は始まった。





 入室の許可が降り、布を捲って天幕の中に入る。奥では積み上げられた羊皮紙にひたすら筆を滑らせる小さな姿があった。不足分の物資に関する見積もりやそれを都市の各商人に手配するための書状である。マルスは携えたカップをベルフーレのそばに置くと、話を切り出した。


「しかし、盗賊を陣地の守りにつかせるとは驚きました」



 マルスが今ベルフーレの元にいるのも、叔父からの勅命だった。おそらくないだろうが、有事の際に命を狙われるのはおそらくベルフーレだろう、と。クラウスはあの盗賊たちの同行を認めつつも、一応の警戒は怠っていないようだった。

 とは言っても天幕の外はツェリッシュ家の護衛がついているので滅多なことはできないだろうし、別に腕っ節が強いわけでもないマルスはこうして様子を伺いに訪ねることくらいしかすることもないが。


 ベルフーレは優雅に礼をしてカップを手に取り、机の脇にあった予備の椅子へマルスを促しながら唇をつけて白い喉をこくりと鳴らした。マルスが礼を払ってから着席すると、


「飢えるものにはパンを、指針なきものには聖樹書を。求めるものを与えるのが、商売というものなのですわ」


 父の受け売りですけれど、と言うベルフーレは、数多の商人の頂点に立つ者に相応しい確かな風格を備えていた。


「彼らはなにを——いえ、彼らになにを与えようと言うのですか」


 マルスが詰まりながら問うと、貴族の末娘は鉄扇で口元を隠し答える。


「誇りですわ」


 即答するベルフーレに、マルスは疑問を深める。意を決して、


「不躾な質問をしても構いませんか」

「ええ」


 少女は微笑みを変えずに頷く。マルスは一つ息を吐いて問いをぶつけた。


「貴女の命を狙った者を、どうしてそこまで信用できるのでしょう」


 そもそもあの盗賊たちの言い分が本当なのだろうか。マルスはそれも疑問だった。この貴族の娘のように迷いなく、カルネロが誇りを求めているなどとはとても断言できない。


「逆にお聞きします。彼らを殺すことが“私にとって”得策でしょうか?」


 反問にマルスは押し黙って考えた。ベルフーレの背景、そして盗賊団の背景。そして、ある考察に行き当たる。


「……確かに、ビルリットの息子だというのが本当だとするなら……」

「これこそリリスのお導きですわ。思ってもいない手札が、父ではなく私の元に転がり込んできたんですもの」


 カルネロを自身の手勢に加えることができれば、ベルフーレがツェリッシュ家の筆頭として表舞台に立ったときに強力な意味合いを持つだろう。


 反貴族の旗頭の血統と、六大貴族とが協力関係を構築したと知られたなら。


 はるか先の道筋を見通した一手。およそ齢十六の考え付くようなことではない。その思考を支える度胸と器も。砂漠で業者たちに言った理由さえも、嘘ではないが理由の一端にすぎなかったのだ。あのわずかな時間でそこまでの考えを巡らせて実行することができる人間がどれほどいるだろうか。


「それが、ご自身の命を賭けるに値するものだと」

「命を賭けない決断などこの世界にはありませんわ。人が大きな選択をするときは常に自分や誰かの命がつきまとう。多くは実感が伴わず気がつかないだけか、他者の命だからと軽んじるのです」


 そして、同意を求めるように言った。


「世界に自分一人しか居なかったとしたなら、商売は出来ないでしょう?」


 ベルフーレが返答に要した時間はごくわずかだった。貴族としての、自分だけが持つ指針がすでに完成されている。マルスは戦慄にも似た敬意を抱いていた。

 そこでベルフーレは話の向きを変える。


「マルス様にも、目的はおありになるでしょう。この話を貴方の目的のために利用するかどうかはお任せいたしますわ」


 別にばれて困るものでもありませんが、とベルフーレは付け加えた。マルスは返答を避けて、代わりに以前から思っていた不満を口にした。


「……その、僕をマルス様などと呼ぶのはやめていただきたい。貴女のほうが立場は上です」


 ベルフーレはふふ、と居心地悪そうにするマルスへ上品に微笑んだ。


「女はへりくだったほうがうまくいくものですわ。——殿方は持ち上げられたほうが心地よいものと聞いておりますから」


 冗談めいた口調で憚られそうなことを言ったあと、再び机に向き直って残りの紙に筆を走らせる。ややあって、


「さて、これで終わりですわね」


 紙の隅まで走らせていた羽筆を、締めるように小気味よくぴたりととめる。そして手早く書類を用途に応じて分けまとめると、


「すぐに物資の手配をすすめなければ」

「手配しましょう」


 マルスは紙束たちを吟味して、内容をざっと頭に入れてから物資の調達部隊へ知らせるために天幕を出ようとする。

 そこで、ベルフーレはマルスを止めた。


「マルス様」


 一言名を呼んだあと、


「姉様のこと、どうかよろしくお願いいたします」


 マルスの目をまっすぐに見て頼むベルフーレはただ真摯だった。

 これがツェリッシュ家内部での駆け引きのようなものなのか、それとも本心なのかはマルスにはわからなかったが、その言葉や態度に、マルスは同じように答える。


「——はい」


 小さく頭を下げたあと、物資の調達隊を集めるために天幕の外へと出た。




 


 そうしてしばらくの探索を経て、目標の地点へたどり着く。

 探索班は巨木の森————未踏の“区域”へ踏み入った。ここまで半日程度だろうか。

 図術という新しい分野が開拓され始めてから多くの時が経ち、その恩恵と弊害とを合わせて受けてきた。しかし、人間の被造物よりもあるいは巨大で雄壮な自然を目にすると、言葉がでないほどの衝撃を受ける。

 天地に果てない緑。広がる光景に圧倒されていた。


(これはすごい……)


 他に形容のしようがないほどの巨木が鬱蒼と生い茂っている。天に伸びる枝葉は彼方にあり、梢は煌めいている。降り注いだ光の帯のような木洩れ日も新緑に染まっていた。思わず感動してしまったヨクリは直後我に返ったが、五人めいめいにその森を見上げていた。


 そしてジャハの号令に一行は頷いてからその大樹の森へ踏み入る。

 果てないほど高いいくつもの大樹を横切り、探索は進む。“区域”に指定されてから百年以上が経過しているが、他の場所よりも獣の出現頻度が高いということは今のところなかった。むしろ少ないくらいである。やつらの餌となる人間が訪れないからとか、一応の理由はそれとなしに浮かんでいるがどれも仮説の域をでない。考えていてもあまり意味はないようにヨクリは思う。

 ただ、やはりなんの情報もないというのは得体の知れない不安を煽る。油断だけはしないようにヨクリは改めて自身を戒め、足を動かしていた。

 大樹以外は背の低い植物たちが息づいており、外周を覆うような森よりもむしろ歩きやすかった。獣道ではあるが、他の命を吸って大樹が成長しているのか、よく見る高さの樹木や歩行を妨げるような背の高い植物は少ない。


 そうして緊張を保ちつつも先へ進んでいき、しばし経つと、大樹の群の中から明らかに人工物のような景色が広がる。巨木の切り株をくり抜いた、人が住めるような建物が密集した集落のような様相となっている。

 百年以上前から人の立ち入りがないのだから、これはおかしい。しかし、どう見ても自然にできるようなものではない。

 皆が予想外の光景に訝るなか、声をあげたのは治癒者だった。


「見事なバラミア文明の遺跡ですね」


 全く人の手が入らなかったセルゲイ巨大森には、枯れた大樹をくり抜いて住居にしていた文明の痕跡が今も残っているということらしい。百年どころかはるか昔の建造物の名残が今も形を保っているのだ。


「サンエイク地方の石家はここが起源と言われています」

「この装飾、ダーダリオンのものと似ている」


 ヨクリが相似性に気づくと、メディリカは素早く補足する。


「ええ、ダーダリオン柱廊群もバラミア文明の遺跡です。建築物に施される太陽を模した彫刻装飾は、この文明の大きな特徴ですね」

「博学ですね」

「いえ、たまたま知っていただけですよ」


 メディリカは謙遜するが、ヨクリを含め業者らは基本的に浅学である。ましてや歴史的な文明や建築様式などには全くと言っていいほど知識がない。ヨクリもたまたま気がついただけで、そのほうの見識は皆無だった。


 なんだかばつが悪くなって、視線を遺跡へ戻すと疑問が生まれてくる。

 遥かいにしえの文明の名残、それもいくら巨大とはいえ枯れ木でできた住居が今も形を保っているのはどういうことだろうか。とっくのとうに朽ちて土に還りそうなものだが。そう思って大樹の住居の壁に触れると、固く冷たかった。


「化石……ではないけれど、石みたいだ」


 中指で叩くとほとんど石材と変わらない感触をヨクリに伝えてくる。かろうじて木の繊維が表面に見て取れるが、そういう模様の岩だと説明されれば信じてしまいそうだ。

 それ以外に変わったところはなかったが、目印になるので空白の地図に記しておく。一通り調査を終えてから、一行は集落遺跡をあとにした。


 外周の森よりは頻度は少なかったが、それでも度々自然の障害物に行く手を阻まれ、トールキンの大剣で蔓を薙ぎ払ったり、それが叶わない場合に“旋衝”で吹き飛ばしたりして進んでいく。稀に現れる魔獣は、エーテルの消耗を極力抑えるために力を抑えた、三人の近接手による直接攻撃でたやすく倒せる位の強さだった。

 進んでいくうちに各々の性格や戦闘の特徴などが把握できるまで集団の意思疎通が成熟し、それによって必然的に会話が増え始める。大人しそうな外見とは裏腹に、意外とお喋りなのがセフィーネだった。トールキンやメディリカと、道中生息する動植物についての話題などで盛り上がる。会話の中心となって、必要以上の緊張を緩和させてくれていた。


 探索を進めると、巨大森は山というほど険しくはないが、なだらかな丘のようになっているのがわかってくる。今のところ、進行方向に下り坂はない。

 わずかに気温が下がっている。近くに水場がある独特の気配だった。皆、次の道しるべとなりうる水源を探索することに決める。流れる水の音に近寄ると、そこには一つの川があった。セフィーネが一歩前へ出て皆を制したあと川に寄ると、引具を翳す。漂う波動がびりびりとヨクリの肌を刺激した。


「……この川、触らないほうがいいですね」


 普段柔らかい目元を鋭くしてセフィーネが言った。


「エーテルの含有量が高すぎます。普通じゃありえないくらい」

「わかるのか?」

「はい。支配領域を展開したときに気がつきました。陣地で使っている川とは違うみたいです。これだけエーテル濃度が高いと、下流でも影響はあるはずなので」


 ジャハの問いにセフィーネははっきりと答えた。ヨクリが目をこらすと、確かに妙な違和感がある。透明度は高いのに、魚一匹住み着いてないどころか水草すら生えていない。ただ変わらない涼やかなせせらぎが逆に不気味だった。

 さらにセフィーネは調査用の紋陣を展開させ、深く調べていく。ややもせず終えると、川のエーテル濃度が高い事を確定させ、皆に保証した。

 ヨクリは上流に顔をやって、


「……なら、辿った先にエーテルの海がある可能性が高いんじゃないか?」

「そうか……」


 ヨクリの言葉を肯定するように呟いたのはトールキンだった。皆同じ意見らしく、ジャハが硬く頷く。


「この川を辿ってみるとしようか」

「うわあ、どきどきしてきました」


 川を眺めて瞳を輝かせ、頬を紅潮させるセフィーネ。


(……業者、だよな?)


 この様子、どこかで見たことがあると思ったらマルスに似ているのだ。レンワイスのあの部屋に無数に転がっている、ヨクリのような無学な者からしたらその辺のそれとなんの変わりもない木っ端や石くれをヨクリの顔へ持ってきて、エーテルの含有率がとか結合と堆積の比率がとかどうのこうの言っているときの。枯れ木の集落で見せたメディリカのような、単に知っていた知識を披露する以上の気概というか、熱量を感じる。


「あ、すみません……」


 胡乱げなヨクリの視線に気づいたのか、セフィーネは恥ずかしそうに俯いた。


「いや、こちらこそ」


 さすがに不躾すぎたかと、別の話題にしようと考え、ふと思い立つ。依頼を受けるときに浮かぶべきだったかもしれない、今更な疑問である。


「そういえば、こういう場所って珍しいんですか?」


 意図を読み取ろうと体を傾けるセフィーネに、


「飲み水に使えないくらいエーテルが濃い川とか、あるいは地形とか。エーテルの海くらいは聞いたことはありますけれど」

「はい、珍しいです!」


 とても良い返事だった。


「こういう例で最も有名なのは旧シャニールのシフカ山のエーテルの海と、それに関連する河川ですね」


 セフィーネが挙げたのは戦争の原因の一つとなった、旧シャニールが有していたエーテル資源の筆頭である。名前くらいはヨクリも知っていた。


「エーテルの海があっても、基本的にはずっとその場所に滞留することが多いんです。高濃度であるがゆえに周りの物質を分解してしまうので、必然的にほとんどが低地で発見されますから。こういう環境は十分な水源と、地中の埋没エーテルとが良い比率でその地に存在しないと生まれないんですよ」


 矢継ぎ早に答えが飛んできてヨクリはまたも面食らうが、今度は努めて表情にはださなかった。


「クラウス様は、あるいはこの状況も、と見越して調査の準備をしていらしたんですね」


 尊敬します、と川を眺めながら感嘆の声を漏らす。


「昔の連中はどうしてたんだろうな? そんなにやべえ川なら普通に飲んでおっちんじまいそうだ」

「いい質問ですね!」


 トールキンの何気ない疑問にも、目を輝かせる。


「過去の文献を探ってみると、伝承や言い伝えにすり替わって危険性が知られていたみたいですよ。呪われた地だとか、魔女の住処だとかで近隣の住人が近寄らないように面白い工夫がなされていました」


 それらに光が当たったのは、原器————初号引具が発掘されてからのことになる。こういう図術学関連の付け焼き刃の知識も与太話から派生したマルスへの質問のなかから覚えたもので、その時々では辟易したものだが、今となって思えば無駄ではない。

 それはそれとして、話が長いのは勘弁してほしいが。


(うん、マルスを女にしたみたいな人だ)


 ヨクリはそう納得しつつ、この遠射手はとんでもなく優秀な人材なのではないかと疑い始めた。そもそもクラウスに替わってエーテルの調査を任されているのだから、図術学的知識や経験は証明されているようなものだ。これで戦闘も文句がなければ、逆に業者をやる理由がないほどの類い稀な能力を持っていることになる。


(メディリカさんといい、よくわからない)


 世間では荒くれ者と一緒くたにされがちの業者には似つかわしくない才女二人に、巷で噂される業者は皆相当の変わり者だな、とヨクリは思っていた。


 くるくるとめまぐるしく表情を変えるセフィーネを見た一行の雰囲気が弛緩し、打ち解け始める。非常時の緊張感は必要だが、いたずらに心を張り詰めさせていてもただ疲れるだけだ。セフィーネに助けられたと感じたのはおそらくヨクリだけではないだろう。


「さて行こう、と言いたいところだが」


 ジャハは空を見上げた。はるか向こうの梢の隙間に見え隠れする青空は、黄金色に染まり始めている。


「もうすぐ日が沈む。野営にしよう」

「では、集落遺跡まで戻りませんか? 体を休めるなら、少しでも良い環境のほうが体力も回復します」

「決まりだな」


 メディリカの提案にジャハは同意し、一行は来た道を少し引き返すことにする。


 ややもせず遺跡に着いてから各々的確な判断で動くと、セフィーネは最後に杖を掲げて大樹の梢を貫くように紋陣を作り出した。水質の調査と同じように、しかし形の異なる紋陣はしばし規則的にゆっくりと回転していた。この図術は厳密には干渉図術ではなく、陣地にいるクラウスへ波動情報を送っているらしい。これは事前の準備の際にセフィーネへ通達された仕事のうちの一つで、こうすることで位置の確認を向こうで行える。

 そうして日が落ちるまでには休憩の態勢が整った。





 からん、と放り込んだ薪が炭に当たり、木と石材のあいだくらいの高く乾いた音を立てる。入口と屋根とが半壊した遺跡のなかから、一番状態の良い住居で一行は休息を取っていた。半分石化したバラミア文明の樹木の住居は、ところどころから雑草が生えているものの野ざらしの地面よりは格段に過ごしやすい。持ち込んだ魔獣よけの香木を薪で炊いておけば、夜間襲撃されるおそれも格段に減る。


 中央の大きく抜けた火床の跡で焚き火をして暖を取りつつ、輪になって座り込む。風が木々を揺らし、ざわざわと騒いでいた。夜は梢から月光が落ち、森の姿を幻想的な光景へ作り変えている。

 一行はちょうど夕食を摂ろうとしているところだ。石と木を組んで、焚き火の上から携帯鍋を吊るし、湯を沸かしている。そろそろ沸騰しそうだった。

 ジャハ、セフィーネとメディリカがそれぞれの簡略した祈りを捧げてから、食事ははじまる。薄々予想していた通りトールキンはそういう作法に無頓着だった。

 名うての業者たちだけあって五人全員が森を歩き詰めでも疲労の色は全くなく、むしろまだまだ余力があり平然としている。野営の準備も迅速で、夜を越す野外での活動にも慣れているようだった。


 ただ、そろそろ都市外へ出てからかなりの日数が経過したこともあり、ヨクリのうちにあった一つの不満が大きくなり始めている。

 食料事情である。ほとんど毎日恐ろしく硬い乾燥麺麭(パン)と干し肉に、乾燥果実。酒精の少ない、香りの抜けた二番酒。ここ数日で顎がかなり鍛えられたような気がする。そしてそう思っていたのはヨクリだけではなく、同じようなことを一人の人物が口走った。


「メシがまずいだろ」

「…………」


 渋面を隠さないトールキンの言葉に、皆そのほうを見た。沈黙の中、焚き火の上に吊るされたかたかたと揺れる携帯鍋の沸騰音がなんとなくもの悲しい。ジャハが鍋を少し遠火にすると、止まっていた時が動き出したように声を上げるものがいた。


「……まずくはありませんけど、まあ、確かにちょっと飽きましたよね」


 食べかけの麵麭を両手に持ったセフィーネが眉尻を下げて困ったような表情を浮かべる。言葉通りあまり食は進んでいないようだ。


「……選択肢は豊富ではないからな。ロシ様も日持ちする食料の手配にはさすがに苦慮されていた」


 そこでジャハは自分の荷から手のひら大のなんだかよくわからない塊を取り出し、人数分配った。そして自身の携帯カップにそれを入れて、沸かしたお湯を注いだ。皆真似をしてそのようにし、撹拌すると茶褐色の液体が完成する。立ち上ってくる香りは食欲をそそられるが、見た目があまりよくないのでヨクリは躊躇した。そして臆さず率先して啜ったのはトールキンである。


「うめえ! なんだこれ!」

「油と乾燥果実、干し肉などを固めたものだ。湯に溶かすとそこそこ味のいい汁物ができる」


 レミンの道中で飲んだ煮こごりと同じようなものかと、ヨクリも倣って口をつける。破顔したトールキンに口元を緩めたジャハは、話し始める。


「君は本当に腕が立つが、いくつなんだ」

「十九だな」

「若いな。よくその歳でそこまでの技術を身につけたものだ」

「俺は天才だからな」


 カップを啜り、間髪入れずに麵麭にかじりついてもぐもぐしながら律儀に答えるトールキン。そんな男を火を挟んだ正面でちらと窺いながら、年若くして同じ色の輝きを持つ友人を思い浮かべる。


(フィリルで慣れているつもりだったけれど)


 男の所属する派閥“血鎖”の頭領ガダは手を焼いていたようだったが、初対面の感想通りこれほどの卓越した剣腕は多少の増長を覚えても致し方ないだろうとヨクリは改めて思っていた。道中のトールキンは障害物の多い森の中でも間合いや呼吸をまるで熟練した具者のように適切にとっており、その振るわれる剣自体も非常に鋭かった。

 このまま正しい戦に恵まれ続ければ稀代の長剣の使い手になるかもしれない。そんな期待を抱かせるくらいのまぶしい光だった。

 生来の寛厚さを強調するように、ジャハはトールキンへ笑みを深める。


「頼もしいな」

「もっと強くなってやるぜ」


 得意げに言ってから、トールキンはジャハに向きなおる。


「まあでも、あんたもなかなかやるな」

「そうだな」


 謙遜するでもなく頷いた顔には確かな自信があった。


「南部の民は武に優れる者を尊敬するからな。私の父も槍の名手だった」


 裏を返せば弱い者が長になるなど民が認めないということだ。サンエイクを背負ってここにいるジャハは自身だけではなく、民の後押しでその技量の高さを保証されているのだろう。だから行動にもその気配が滲み出る。


「へえー。なら、クラウスさま、であってたっけか。あの人もやっぱつええのかな」

「どうかな。クラウス様は図術の知識や技量で称号を得たかただから、私たちサンエイクの人間とは違うかもしれない。正直、“獣”と戦っているところもあまり想像できないな」


 ジャハの意見は面と向かってクラウスに告げるものだとしたなら少し耳障りの悪い言葉だったが、それを咎めるものはここにはいない。なかなか結構な神経の持ち主のようだった。


「あんたの意見はどうなんだ?」


 固い麵麭を浸して頬張り、幸せそうに頬を緩ませていたセフィーネはトールキンに水を向けられると、白い喉を鳴らして口の中のものを飲み下したあと、


「私ですか?」


 と二、三度目をしばたかせ、小さく咳払いする。


「ええと、そうですね。具者の間で言われている強さがどうなのかは私にもわかりませんけれど、図術技師の間では雲の上の人のような扱いですよ」


 話題は集団を束ねる図術士の素性へと移っていた。


「言わずもがな、国を代表する、“図術士”の称号を戴く三賢人のうちのお一人です。領分と言われている施紋研究の第一人者でもありますけれど、こと利力の研究に関しては、クラウスさまの右にでる人はおそらく世界中を探してもいないでしょう」

「利力? ってなんだ」

「エーテルの結合、分解と、あとは……エーテルにも物体を動かす力がある、だったっけ」


 トールキンの疑問にヨクリがぽつりと思い立ったことを呟くと、セフィーネは素早く反応した。


「はい! 図術を使うと髪や服が揺れるのはそのためですね」


 いつか聞いたマルスの長い講釈の中にもあった。ヨクリもうろ覚えだが、空気中のエーテルと自身の波動情報に由来するエーテルとが反発しあって、起動時に髪の毛などの軽いものがそよ風にそよがれるように揺れるらしい。それが物体の結合、分解の他にエーテルが有する特徴だった。

 その三種の性質を包括して“利力”と図術学的に呼ぶらしい。


「クラウス様はその性質を応用して物体を空中に浮かせる仕組みを考案した、素晴らしいお方なんですよ!」


 それは初耳だった。

 実際具者にとっては戦闘で用いる知識や技術だけが重要で、それ以外の図術学的知識や知見は求められない。基礎校でも、簡単な図術学的歴史、引具やエーテルシリンダー、エーテルそのものの取り扱いについては学ぶが、普通の物体や現象とは異なるこういった特質を教わることはあまりない。マルス曰くハスクルの基礎校での図術学講義はこのあたりの知識も整然とされはじめているらしく、国全体の教育の質を嘆いていた。ランウェイルの教育を担うステイレル家批判に近いので、ヨクリとしてはどう反応していいかわからなかったが。

 にしても、エーテルを利用した物体を浮遊させる仕組みがすでにあり、それをクラウスが確立させたとは。


「近年は古の技術の施紋だけじゃなく、エーテルそのものに着目されはじめているんです!」


 高揚を隠せない様子で話すセフィーネ。


(あれは、そういうことか)


 自治区で用いられた試験用の引具。エーテルの分解能力を増幅させたような干渉図術は、おそらくその研究成果の一つなのだろう。


「ああ、すみません、また」


 我に返ったセフィーネが頬を染めて謝ると、メディリカはにこやかに対応する。


「いいえ、知識に感服します。セフィーネさんはずっと業者をしていらっしゃるんですか?」

「いえ、業者になったのは最近で。それまでは、ハスクルの研究所のお世話になっていました」


 つまり、基礎校を出てハスクルの上流層にある研究区域の研究員になったということか。学術院を出ていても採用されるのが難しいと聞くが。やはり相当優秀な人間なのだろう。


「なぜ、業者に?」


 重ねて問うと、少しの間を置いてセフィーネは答えた。


「……基礎校を出て三年くらいでしょうか。対人の図術に関する研究ばかりずっとやっていて。それが肌に合わなかったのかもしれませんね」


 長いまつ毛を伏せたセフィーネの表情は印象的だった。変わりそうになった空気を察したのか、今度は努めて明るく言葉を続ける。


「ならいっそ業者になって外へでて、都市外にしかないエーテルの環境をたくさん知ることができればって。それで外に自生する植物や、埋没する鉱物の調査なんかの依頼を請けていました」


 ヨクリが主に請け負っていた魔獣討伐とは少し毛色の違う依頼内容だった。セフィーネのような依頼は請けようと思っても知識がないのでヨクリは請けられないのだ。川辺での水質調査や、位置を知らせるための図術操作もその知識のうちの一つである。また、そういう依頼を専門とする“派閥”があるらしいということは知っているが、それらは独特な一派であるからヨクリのような人間には関わりがない。


「でもまさか、クラウス様にお声をかけていただけるとは思いませんでした。クラウス様が今回の依頼で必要な人員を探していると、昔勤めていた研究所に相談されたことがきっかけで」


 セフィーネはふと思い当たったように、


「……マルス様とは、何度かお話をさせて頂いたことはありましたけれど」


 そこでなぜかヨクリの顔をちらと窺った。思い当たる節もなく、ヨクリはわずかに首を傾けて疑問を体で示すが、セフィーネもまた顔をかすかに振るように、微妙な反応をした。


 その後も談笑は続き、ヨクリの手番が回ってくるが口数少なくやり過ごすとトールキンは小さな悪態をついた。しかし波風を立てるものではなく、とりたてたことも起きずに夜は更け、代わる代わる番をして休息をとった。

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