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首都に騒乱の風が吹き抜けてから三日が経った。翌日から二日目にかけては自治区を含む周辺の治安が悪化したが、フェリアルミスの治安維持隊が迅速に対応したこともあってそれも落ち着きを見せていた。また、今回の攻勢に置ける民への説明がフェリアルミス議会長のジルヴェールから行われ、反体制側の数々の罪状などを理由としていた。六大貴族全ての調印もあったことから、首都の民の動揺は一応の終息を見せていく。
しかし武装勢力は大幅に弱体化したものの、今回の件は十二のランウェイル議会が国内全ての反体制組織と敵対する立場を明確に印象付けたもので、今後の混迷を察した漠々とした緊張が払拭されることはなかった。
戦闘の概算はランウェイル側の投入した戦力具者三百人のうち、戦死四十名。対し、反体制側は十倍の三千人、死者は四百名以上と推定されていた。自治区中央で行われた激しい交戦は実際のところランウェイル側にそこまで大きな被害を与えることはなく、おおかたの予想通り両者の戦闘技術の習熟の差が如実に表れた結果となった。ランウェイル側は周到に手を回した上での強襲であり、統率された指揮のもとに行動していたが、逆に反体制側は様々な勢力が入り混じっていたためほとんど烏合の衆と言った様相だったからだ。さらに言うならば、ランウェイル側の戦死者のほとんどが経験不足の具者ともつかないような者たちばかりであった。
ヨクリは夜明けのあと燻った町並みを後にして、クラウスの手配した車両に乗り込んでレンワイスへと舞い戻り、施療院で治療を受けていた。
細かな傷や打ち身はあったが、療管で治療しなければならないほど重篤な負傷はなかった。一日おいてからファイン家邸宅へと向かったのは事前に予定されていたことで、戦いの顛末をきくためだった。レミン集落を襲ったジェラルド・ジェールの情報は、まずはサンエイクの件をどうするか話し合ったあとでいいとヨクリも思っていた。そのほうが時間的余裕が生まれて動きやすい。
依頼を受ける前と同じようにクラウスの部屋へと向かい、扉を開ける。変わらぬ雑然とした室内に、同じく変わらぬ様子でヨクリを一つの動乱へと導いた図術士はそこにいた。久方ぶりだと感じてしまうほど、ヨクリにとってあの夜は長く錯覚していたのだ。
「やあ。待っていたよ」
ヨクリは頭を下げて答える。クラウスは同じようにヨクリへ茶を煎れると、無言で差し出したあと机上に散らばる書類の一番上を拾って読む。ヨクリは、二度目のカップは一口啜った。
そして前置きなどは挟まず流暢に会話が始まった。
「結局リマニは捕まえられなんだ。奮戦してくれた君たち二人には申し訳ないことをした」
「いえ」
いくら大刀の男を足止めしようとも見込みは五分五分だっただろうとヨクリは思っていた。あの笠の男は容易い相手ではないと言葉を少しかわしただけで痛感していたからだ。それこそ今目の前にいる図術士のような、ただ圧倒する武力とは一線を画す得体の知れない力。
クラウスは事後処理と思しき書類に目を通し、あるいは署名しながら、
「ガルザマから報告は受けている。“凶狼”と一戦交えたらしいな」
「……はい。彼は一体なんなんですか」
漠然とした質問だったが、クラウスは質問の意図を理解し一つ一つ答えていく。
「戦争はああいう手合いも産み出す。剣に取り憑かれた鬼をね」
鬼という言葉で、エイネアの忠告を思い出す。道を誤ればヨクリもああなるのだろうか。あるいはもう正道を踏み外しているのかも知れない、と。
「戦前はランウェイルとシャニールを股にかける熟練の業者だったらしいが、今はどうやら反体制側に与しているようだ」
だからランウェイル語を流暢に操っていたというわけか、とヨクリは得心する。
「しかしやつと剣を交えて生き残ったんだ。君は胸を張っていい。数多の腕の立つ具者が彼の手に掛けられているからな」
「軍や維持隊も追っているようですね」
「少し前から手を焼かされている。が、奴は戦闘能力のない人間に手を出すことはほとんどない。凶狼が絡んだ殺傷事件は全てそうだ」
大刀の男の言動や行動理念から、ヨクリはその情報が腑に落ちた。政治的思想や金銭ではなく、純粋に戦いを楽しむためだけに戦場へ繰り出しているようなところが端々から見受けられたからだ。どちらの側についても戦うことはできるだろうが、それでも凶狼が反体制側についているのはやはり人種の違いだろうと、そこまで考える。
凶狼の戦闘能力は極めて高いが、男の生死によって組織内部が大きく変わることはないだろうというのが国や治安を司る貴族たちの見解のようだ。ヨクリもそれに異論はない。ただ一つの言葉も持たず剣をかざすだけの人間に、数多の人々が拠り所とする構造は変えられない。
「ただ、リマニはとり逃したが有力者の大部分は無力化することができた。結果的には作戦は成功と言っていい。これでしばらくは時間も稼げるだろう」
ぴたりと手を止めて、眼鏡を押し上げて結論を述べた。
「君への報告は私からは以上だ」
そう締めくくったあと、
「なにか他に、訊きたいことはあるかね」
ヨクリはしばし逡巡してから、深呼吸した。次に訊ねようとする質問の答えを聞くのが怖かったからだ。ややあって、ヨクリは腹をくくった。
「……俺のほかに、こちら側のシャニール人はいましたか」
クラウスはわずかに目を見開いてから、
「……いや。君一人だけだった」
それはしばしの間を開けてからの返答だった。そしてクラウスに応答するヨクリの言葉が紡がれるまでは、長い時を要した。
「そう、ですか」
目を伏せたあと唇を噛み、きつく瞼を閉じた。とても長い静寂が訪れた。
そのときに生まれた感情は、絡まった糸のように複雑だった。ヨクリ以外にただの一人もランウェイル側のシャニール人がいなかったことに対する深い失望。自身が参加したことで、シャニール人の総意ではないという最後の瀬戸際を守ることができた。そのわずかな安心と、たとえ魂の一部を削られたとしても、参加する意義があったと思えた、自身への慰め。様々な感情が次々にヨクリの胸中へ去来する。
この依頼をもちかけた図術士はそのかん、一言も発さずにヨクリを見据えていた。まるでヨクリの内心を過たず捉えているかのように。
思考をまとめ、ヨクリはなんとか現実を見つめることができた。そしてゆっくりと目を開け、心の揺らぎを落ち着かせた。
クラウスはそれを見届けてから小さく頷いて、机に積まれた別の山に目を向ける。その中から数枚取り出し、空白のある書面をヨクリのほうへ差し向けた。業者が受注の際に管理所から配布される依頼の記入書。
「サンエイクの件は、引き受けてくれるかね」
話が本題に入り、ヨクリは考えていたことを声に出した。大規模な討伐依頼をヨクリが受ける際のことを予想したときに考えうる疑念を払拭するための答えが欲しかった。
「……シャニール人の俺が役に立つとは思えません」
命が惜しいわけではなかった。しかし、ヨクリが混じることはむしろ依頼の潤滑な進行を阻害させる原因になるのではと危ぶんでいるのだ。クラウスはヨクリのことをランウェイル人と言ったが、やはりそこには明確な隔たりがあると先の戦いを通じてヨクリは痛いほど理解させられていた。ヨクリを知る人間がいかに判断しようとも、他の人間はそうはみないだろうと。共闘する前の一悶着——ガルザマと一戦を交えたときもそうだった。
クラウスも敏感にそれを察して、
「なるほど。でもこうも考えられはしないかね」
言葉を切って、ヨクリが思いもつかなかったことを口にした。
「君がこの依頼の中心人物になってもし討伐することができたのなら、君一人だけではなくシャニール人全体の名誉を大きく回復するきっかけにできると」
ヨクリは大きく目を見開いた。クラウスは頑強な土台にしっかりと石を積み上げるように、道理を重ねてはっきりと告げた。
「反体制側の殲滅はいわば裏の行動だ。それを行う決意をしたのならば、表の、多くの人々の運命に大きく、そして正しく関わる行動もきみはすべきだと私は思う」
そんな風に考えたことはなかった。未知の理屈に、ヨクリの心は揺さぶられる。
(俺に、正しい行いができるのか)
自分自身へ語りかける。血を分けた民族と袂を分かち、剣に訴えることを決めたヨクリに。
(でも、俺に選べる道は多くない)
図術士の言葉はヨクリを動かすに足る理屈を確かに備えていた。自身の価値を証明するために、ヨクリは行動しなければならなかった。この男の手のひらの上で弄ばれる駒だとしても。
「……受けます」
ヨクリは紙を手に取った。クラウスの差し出した羽筆をしっかりと受け取って、記名する。
「助かるよ。君が居てくれるのならばね」
「……買いかぶりすぎです」
「買いかぶりなものか」
咄嗟に自己を下げたヨクリを、クラウスは真っ向から否定した。
「謙遜も過ぎれば悪癖だな。君ほど戦闘経験を積んだ具者は国内でもそう多くはない」
図術士から見たヨクリの具者としての技量を評価する。続けて、
「徒らに自身を卑下するのは改めたほうがいい。君が損をしないためにも、君の価値を君が認めなければならん。それは驕りとは違う」
一理ある忠告だった。似たようなことをエイネアからも指摘されていたことを思い出し、
「……肝に命じます」
と素直に受け取った。
だが一方で、あの凶狼やジェラルド、そしてゲルミスといった完成された具者とヨクリ自身を正しく比較すると、そこには大きな隔たりがあるとヨクリは剣を持って痛感していた。さらに言うなら勝つには勝ったが、キリヤにも明確にヨクリは劣っている。
自分には剣しかないと感じているヨクリにとってはその事実は堪え難いものだった。かといって一朝一夕で同じ高みに登り詰められるわけではない。だからせめて油断しないように、自身を戒めることをせずにはいられないのだ。
記名の終えられた紙を渡すと、クラウスは一瞬笑みを作ろうとしてから中断し、入り口のほうを見た。ヨクリが遅れて察し、同じほうへ顔を向ける。外から足音が聞こえてきたからだ。
そして、扉は強く開かれた。姿を現したのは、肩を怒らせたマルスだった。クラウスが眉をわずかに顰めたことから、どうやらマルスが外出を装って機をうかがっていたらしいということをヨクリは推察した。
「……叔父上、ヨクリ」
「……やれやれ、困った子だ」
開け放たれた扉を閉めることもせず、マルスは一歩踏み入って自身の叔父を睨みつけた。
「……ヨクリを唆したんですか、叔父上」
「マルス……」
友人の怒りに、ヨクリはその名を呼ぶことしかできなかった。先日の件を知られ、マルスがどう思ったのかヨクリは咄嗟に考えてしまっていた。人の道を外した、外道に落ちた人間として謗るだろうかと。覚悟をしていたヨクリだったが、それでも身構えずにはいられなかった。
「なぜですか、なぜ!」
「落ち着きなさいマルス」
紙束を押しのけて詰め寄るマルスを、クラウスは極めて冷静に宥めようとする。繰り広げられている光景はフィリルの件で見たことがあった。
「いいえ、落ち着きません。貴方は間違っている!!」
「……いいんだ、マルス」
ヨクリは反射的に声をあげていた。しかしマルスは譲らず、弾かれたようにヨクリへ顔を向けて鋭く見据えた。
「なにがいいものか! 君は利用されたんだぞ! 政治の駒に!!」
マルスの剣幕に、ヨクリは逆に冷静さを取り戻し、ようやくこれまでのことを客観的にみることができたような気がしていた。
そして、マルスに向かって静かに語りかけた。
「……いいんだ。わかっている」
「わかっているだと……?」
マルスは驚いたようにヨクリの言葉を繰り返した。そして、
「君の思想に口を挟む気はない。僕はただ!」
「なあ、マルス」
ヨクリは続く言葉を遮って呼びかける。
「俺はどうすればよかったと思う?」
そう訊ねて、ヨクリは滔々と続けた。
「確かにクラウス様は俺を利用したのかもしれない。でも、俺が参加しなかったとしても別の誰かがそこの椅子に座るんだよ」
同じ部屋にいるクラウスに構うことなく、怒る友人だけに向けて全てを話してから言葉を切って、
「俺が斬ることと、俺の知らない誰かが斬ることに、なんの違いがあるんだ?」
マルスは首を強く横に振った。
「違いはある。人は自分の大事なものと、目の前で起きている出来事を天秤にかけて、選んでいくんだ! 叔父上は君の大事なものにつけ込んで選択を曇らせる卑劣な甘言を用いた! それは公平じゃあない!」
叔父を否定し、ヨクリを思いやるその言葉は、マルスの嘘偽りない本音だとヨクリは感じた。しかし、ヨクリはそれでもなお食いさがった。
「でもそれは、俺が蒔いた種のせいだとも言える」
遠い因果を作ったのは、緋色の女と仲違いした他でもないヨクリ自身にあると、ヨクリは端的に言った。
ただ、ヨクリはあの青髪の少女と出会ったことを否定したくはなかった。全てが間違いだったわけじゃないと。だからこそ行動に伴う責任を果たす義務がある。
「ヨクリ……! 僕は……」
言葉に詰まるマルスに、抑揚なくヨクリは言った。
「俺にできることなんて本当に少ない。だから、なるべくしてなったんじゃないかって、今となっては思うよ」
マルスにしっかりと向き直って、
「それでも、君が俺のために怒ってくれるのは本当に嬉しい」
気を遣ってくれる友に向けて、ヨクリは微笑んだ。マルスは心を落ち着かせるように目をきつく閉じてから、ほとんど握った状態の人差し指で眼鏡の縁を押し上げてから、決意めいた表情でヨクリを見た。
「……君は、叔父がエイルーン嬢へ行ったことを許すのか」
その問いを投げかけるのに勇気が必要だったのは、ヨクリにもわかった。だからヨクリも努めて冷静に答えた。
「いいや」
そこだけはヨクリが譲れない最後の線だった。少女の後見人になると決めたそのときから、決して揺らいではいけない心の指針。
そして、金髪の青年の疑問を解消させるためにすかさず付け加える。
「でも、俺がいくらそれを叫んでも誰も聞きはしない」
「……そんなことは」
マルスの否定を遮って、
「だから今はそれをしない。いつか誰かが耳を貸してくれる日が来るまでは」
ヨクリは誰かを動かすことのできる言葉を持ってはいなかった。でも、道の先でヨクリがずっとそうなのかは誰にもわからない。ヨクリ自身にだって。まずはそこを目指すのも間違いではないと、今ならば思うことができる。
「そのために俺は利用できるものはなんだって利用する。クラウス様もだ」
マルスのいうように、ただの政治の駒と成り下がるのか、それとも。どちらに転ぶかはわからないが、手を伸ばさなければ状況は変わりはしない。————自分の居場所を守るために。
ヨクリはもう決めていたのだ。
「——君は」
マルスは息を詰めて、
「君は、変わったな」
ヨクリを評したマルスに、ヨクリもまたそうかもしれないと思っていた。先日の戦いはヨクリにそれだけの影響を与えていたからだ。
クラウスはそのやりとりの一部始終を見届けてから、ようやく口を開いた。
「それでいい」
まるで正答を自分で導き出した生徒を褒めるような声色だった。
「それでいいんだ、ヨクリ君」
繰り返し肯定するクラウスを、ヨクリは静かに見た。相手を思慮深く諭す一面と、また、自身の行いや、それを甥から批難されても気にも留めない冷酷な一面。どちらが本性というわけではなく、おそらく両方の性質を備えた人間だということが、ヨクリには朧げながらわかってきていた。だが、その更に深くにある両者を矛盾なく成立させる行動の核は部屋の照明を反射する眼鏡の奥からは未だ読み取れなかった。
「では、サンエイクの件は頼んだよ」
「はい」
そしてようやく、クラウスとは浅からぬ付き合いになるだろうということをヨクリは悟っていた。絶対に結びつかない縁を結びつけたのはマルスとフィリルだった。
「そうだ。念のため療管で治療を受けておきなさい。費用は私が出そう」
「いえ、このままで」
「万全の状態になっておいてほしいからね」
そう言われると返す言葉がなかった。差し出された施療院への紹介状をヨクリが受け取ると、クラウスは部屋の扉へと向かう。
「ではな」
足を止め、顔を向けずに去り際の挨拶をするクラウスに、ヨクリはわずかに頭を下げる。
「叔父上、僕の話は」
「後にしなさい。私からも話があるから、その時にな」
そう言い残して、クラウスは二人の前から姿を消した。そのかん、マルスは押し黙ったままだった。
部屋の主人が退出して、ヨクリとマルス二人きりになる。
長い沈黙が訪れた。それはヨクリにとって考えを整理するいい機会となった。そして、ヨクリは自分のために怒ってくれた友へ義理を果たそうと、行動の理由を説明することに決めた。
「……俺がクラウスさまの依頼を受けたのは」
と口火を切ろうとした。しかしそれをいや、と遮ったのは他でもないマルスだった。
「……僕は君じゃない。だから、君がなぜ叔父上に肩入れしてシャニール人の征伐に加わったのか聞くつもりもない」
金髪の青年は言葉を切って、
「ただ、これだけは覚えておいてほしい。僕と同じように、君をただ案じている人たちがいることを。エイルーン嬢だってそうだ」
フィリル。と、ヨクリは内心で少女の名を呼んでいた。
以前まではヨクリがどこで命を散らそうともそれまでだと、捨て鉢になれた。しかし今は違う。あの少女の行く末を見届けるまではヨクリは死ねない。肝に命じていたことだったが、またはっきりと自覚させてもらえたようで、ヨクリはそれが嬉しかった。
生をつなぐ確固たる理由があると。
「……ありがとう」
ヨクリはマルスの目を見て、一言呟いていた。口に出す前に様々な思考や感情によって捻じ曲げられる言葉とは違う、心の底から出た言葉だった。
そしてまた一方でこうも思う。ともに席を並べていたころのマルスは叔父を深く尊敬していた。ヨクリが齎したさまざまなことがきっかけで、マルスの心に楔を穿ってしまったのが悲しいと。たとえそれに言葉を尽くすことができなかったとしても。
ヨクリはその憧憬のような迷いを振り払い、話題を変えた。
「……そういえば、婚約はどうなんだ。うまく行きそうなのかい?」
「いや………まあ、そうだな」
歯切れ悪く言い淀むマルスに、ヨクリは思いつくことを言う。
「相手方が気に入らないとか」
すると、
「まさか!」
とマルスは大声をあげてそれを否定して、
「……そんな畏れ多いことは思っていないさ。ただ、叔父やロシ様の思惑が僕にはわからないからな」
青髪の少女の件からマルスはずっと自身の叔父の動向を探っていたようだった。警戒している人物が持ちかけてきた話に乗り気ではないという心情まではヨクリの想像の及ぶところである。
「プリメラ様も関係していそう、とか」
「いや。多分彼女は無関係だろう。裏表のないいい人だとも思う。それこそ僕には勿体無いくらいの女性だよ」
マルスが異性を評するのはなかなかに珍しく、ヨクリとしては少し突っ込んで訊いてみたかったが息をついてその感情を殺し、思考を本筋へと無理やり切り替える。
「……どうなんだい、実際のところ」
結局、遠ざけたはずのクラウスの話に自ら戻していた。
「ツテを辿って調べては見ているが、空振りばかりだな。叔父はなにを見ているんだろうか」
そしてヨクリはあることを思い出し、思案する。全ての答えに繋がるとは限らないが、シャニール人についてのクラウスの所感をヨクリは聞いていた。それを話すべきかどうか考え、この青年へ話すことを決めた。それが義理のような気がしたからだ。意を決し、静かに口を開く。
「……償いだと言っていたよ」
「償い……?」
ヨクリはクラウスの主張を、記憶をなぞるようにマルスへ伝えた。戦後ファイン家として行ったことと、因果の果ての現在の状況。少なくともすでに図術を用いた人体実験を行ってはいないこと。どこまでが本当でどこまでが嘘なのか判断できなかったとしても。それも含めて。
「そう、か」
マルスは聞き終わると瞑目し、なにかを考えるように目を伏せ俯く。その心情をヨクリに推し量ることはできなかった。だから、ただマルスの次の言葉を待った。
「シャニール戦争か」
小さく呟いてから、
「もっと手広く調べてみるよ。この情勢だから、少し慎重にな」
ヨクリはそれがいい、と頷いた。マルスも頷き返してから、また別のことをヨクリへ向けて言った。
「君も本当に気をつけてくれ」
未だシャニール人に対する緊張は続いている。だがヨクリはこれまでもその軋轢に触れぬよう常に気を配ってきていたつもりだった。だから、
「……慣れっこだよ」
と苦笑いする。しかし、
「いや、それもあるが、そうじゃない」
とマルスは半分を否定して、ヨクリへ考えを述べはじめた。
「今国中が反体制側と貴族との対立に揺れ動いている。その中心にはシャニール人がいて、そしてもっと大きな——六大貴族のような、円形都市や国そのものの運営に関与する人物も。叔父上もそうだ」
真剣なまなざしで、
「そしてシャニール人のなかには君も含まれているんだ。——君に接触してくる人間には気をつけろ」
まるでヨクリ自身が動乱の中心にいるかのような物言いに、さすがにヨクリは笑おうとして、しかしうまく作れずに言葉だけが先に出ていた。
「……大げさだよ」
「そう思っていると巻き込まれるぞ」
向けられた顔は、冗談を言っている表情ではなかった。マルスの言葉に、喉元に刃物を突きつけられたような感覚に襲われる。そして、レミン集落で金髪の暗殺者に言われたことを思い出した。六大貴族に関わる人間の末路を。
だからヨクリは素直に認識を改める。
「……わかった。気をつけておくよ」
「それが賢明だ。彼らや叔父の手の内を見るには、僕らにはまだ力が足りない。気をつけ過ぎるということはない」
「……ああ。わかった」
二度ヨクリはマルスへ頷いた。
そしてヨクリは青年へ別れを告げる。
「じゃあ、俺ももう行くよ」
次にマルスと会うのはサンエイクの依頼が終わったあとだろうか。内容が内容な上、書面には期限が記載されていなかったからそう簡単に終わる依頼ではないだろう。そして生還する可能性も他のそれよりもずっと少ない。そのことを考えるといろいろなことを振り返ってしまいそうになるが、どうにか思考を中断させて扉のほうへ顔を向けた。
「……ああ。無事を祈っている」
「うん。また」
振り返らずに片手をあげて応答し、部屋を出てファイン邸をあとにした。
ヨクリにとって大きな一つの依頼が終わり、そしてまた別の大きな依頼が、再び始まろうとしていた。




