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途上のシャムロック  作者: 納戸
黒血に響く凱歌
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四話 此方の終わり

 ひときわ大きな一発の着弾音が聞こえてきて、そこから戦況が動いた。中央のシャニール人たちの意識が戦い以外の別へと向き始めたとき、瞬く間にランウェイル側の勢いが膨れ上がったからである。

 言い換えるなら、シャニール兵の心が戦い以外のところへとうつった結果、気力で持って技量の差を補っていたその重要な糸が切れ、彼我の戦力差が明確に出始めたと言う方が正解だろうか。


 その後戦場は終息へ向かい、もはや辺りは瓦礫と死体、そして破壊の痕跡とくゆる土煙のはざまに二の足で立つランウェイル側の具者のみだった。

 結局は自治区で起こったほとんど全ての戦いと同じようにこの戦場の勝者はランウェイルとなっていた。


 降っていた雨で燻った炎と血と汗、死臭。土の匂い。それらが渾然一体となってあたりを漂っている。

 戦場跡のちょうど中央付近で、ヨクリは我に返った。


(終わった……のか……)


 雨は止み、雲は薄くなっていた。ちらと見える星々の煌めき。気がつくと肩で息をしていた。

 あたりを見渡すと、同じように自失から目覚めたように立ち尽くす、引具を携えた者たち。夜闇でもわかるほど、元来白かったそれは血染めの外套へとすり替わっていた。


 目線を落とすと同じように鮮血にまみれた外套を纏った体が映る。ヨクリは腰や関節を回したり、目視で確かめたりして負傷具合を確認する。躱し切れなかった細かな傷はあるものの、まだ戦闘を続行できる。ヨクリは自身をそう診断した。


(このあとは……?)


 次の指示を受け取っていない。ヨクリは霞みがかった頭でしばし思考したあと、歩き出した。向かう先は大きな着弾の音が聞こえた方角。有力なシャニール人の会合場所。


 何人斬ったのか、その相手の年齢や性別。ヨクリは一切を考えないようにした。足元に横たわる数え切れない死体。破壊された建物。戦闘前の風景は変貌しすぎてあてにならないので、かすかに見える星を頼りに方角を定めひた歩く。


 目的地まで半ばを過ぎたあたりで、ヨクリの前方からやってくる影があった。にわかに緊張が走ったが、手をあげながら近づいてくるのは見知った姿だった。


「よ、こんなところにいたのか。探しちゃったぜ姓無しちゃん」

「……ガルザマさんか」


 全く戦場に似つかわしくない、世間話でもするような声音で語りかけてきたのはガルザマである。


「全然平気そうだ。俺と引き分けただけのことはあるね」


 側から見れば返り血なのか自身の流血なのかわからないはずだが、ガルザマの判断は的確だった。確かにヨクリは未だ重傷を負っていない。


「さって、残りも一通り倒すぜ。今度は俺と一緒に動こう」


 生き残りや逃亡者も逃さず無力化するということだった。ヨクリは虚ろになりがちな瞳を、意識的に定めるようにする。無数の死に引っ張られるわけにはいかない。少なくとも今は。

 ガルザマはしばしヨクリの顔を観察してから、


「顔、変わったね。なるほど、ウォルさんはこのことを言ってたってわけか」


 ヨクリにとっては、ガルザマの言ったことでさえどうでもいいことだった。だから、その言葉には答えなかった。


「……行こう」


 代わりにガルザマを促して、先導させる。


 道を歩いていると、通りのいくつかが火をつけられ、破壊された建造物で封鎖されていることがわかる。相手を分断し、有力者を封じ込める作戦だったようだ。

 息をつけるときがようやくきていることにヨクリは気づいていたが、薄膜がまとわりつくようにわずかに感じる疲労も、体の端々が伝えてくる小さな痛みも、進む歩みを止める理由にはならなかった。


 それが大きく変容した心と、それに順応するために必要な時間だったとしても。


 辻の向こうから、霞む二つの人影が見えた。雨後の細かな雨粒は砂煙と混じり、霧のようにあたりを漂っている。ガルザマが表情をわずかに締めたのとヨクリが刀の切っ先を向けたのはほとんど同時だった。

 ランウェイルでもごく稀なくらい大柄な影と、隣に比べて華奢な影。こちらが気づいたのと同様に向こうも気取っているはずだが、足取りはゆっくりと向かってくる。


 薄靄の向こう側から徐々に輪郭が現れてゆく。背の低いほうは伝統的な裾の広いシャニール式の上衣。大柄な男は、とりわけ背負った大刀が目を引く。

 両者とも常人ならざる雰囲気を醸していた。爛々と輝くどう猛な瞳と大刀の男と、その特徴的な大男とはともすれば見劣りする細い印象の男。目深に被っているのは装飾の施された美しい編み笠、その下からは肩ほどまでで切りそろえられた黒髪が伸びている。


 ヨクリらをみとめた男はゆるく腕をあげ笠を脱ぐと、男の様相が露わになる。

 齢の頃を読み取れない怜悧な目鼻立ちは一見すると女人にも見まごうような優男である。しかし、ヨクリは確信していた。その確信を声に出して突きつける。


「あなたが一連の反乱を率いているのか」

「どうして、そう思われるのです」


 華奢な男の問いにヨクリは答えなかった。だが、ヨクリは知っていた。凶暴性は人を惹きつけるには至らないということを。だからこの気配を纏っている二人の男のうち、どちらが格上なのかの判断をつけていた。そして今この場で慌てふためく様子を見せないのは“そういう立場の人間”であるから、ということだ。また、男の格好は書物でみた、旧シャニールの高位の文官が着用するそれと酷似している。隠遁生活を送っているはずのシャニール人であるにもかかわらず身分を示すようにその格好を継続しているにはそれなりの理由があるはずだった。


 さらに言うならば、発せられた声に覇が宿っていた。生まれ落ちたそのときから人を従えることを宿命づけられた人間の持つ才覚の一端。

 この狂乱の最中にあって、全く戦場に似つかわしくない出で立ちは逆に異常だった。腰元に小剣の一本すら帯びていない。おそらくは逃走用の引具であろう、裾の広い上衣から覗かせる手首に簡素な腕輪があるのみであった。


『……おや?』


 男の目線がヨクリの髪へ移って、同胞であることに気づいて祖国の言葉で反芻するようなそぶりをみせる。


『なぜ————いや』


 おそらく一つの誓いを立てる前に起こった一連の出来事と同じように男はヨクリへ問おうとして、途中で頭を振った。そして、今度は“再び相手の国の言葉”で、


「成程。あなたはそちら側の立場ですか」

「…………」


 男の聡明さを窺わせる端的な言葉にヨクリは答えなかった。その代わりに刀の柄を両手でぐっと握り、切っ先を男へ合わせ直した。


「通して欲しいのですが、困りましたね……」

『見た所そこそこやりそうだが、まあ斬って捨てるにゃ問題ねえな』


 ヨクリらを見下ろす大刀の男がそう分析して笠の男に答える。


『少しだけ話をします』

『好きにしろよ』


 くあぁ、とおおきなあくびをついて、大刀の男は腕組み静観した。笠の男は一歩前へでて、ヨクリをひたと見据える。


 ヨクリは、たぶんこの会話にも意味はない————自身の言葉に力はないのだろうと、ある意味で達観した心持ちで笠の男と視線を合わせた。それでもヨクリにその姿勢を作らせたのは、やはり男の持つ独特の気配が原因だろうということにもヨクリは気づいていた。

 笠の男はヨクリの様子を観察したあと一歩前へでて、ヨクリへと話しかけた。


「どうして貴方がそちら側に立っているのか、後学のために是非お聞かせください」

「……この国に生きる民として、俺にできることをしているだけだ」


 男の質問にヨクリはそう答えて、声が上擦らないように必死に努めながら続ける。


「確かに恨んでいないわけじゃない。それでもこの国から受けた恩恵もあるんだ。——たくさん。だから、この行いを看過することはできない」

「なるほど。よくわかりました」


 ヨクリの主張に笠の男は深く頷いたあと、


「ならば」


 とヨクリをひたと見据えて、


「他のシャニール人は貴方ほど恵まれた環境に身を置いていたわけではないのかもしれないと、考えたことはありませんか?」


 男の言葉に、ヨクリはぎくりとした。


「戦で家を焼かれ、この地で跪きながら、それでも歯を食いしばって日々過ごす同胞を思いやったことはありませんか? 戦後送られた学び舎においても迫害され、正しい人に巡り会えず、正しい教育を受けられなかったのかもしれないと、その立場に立ったことはありませんか?」


 気づいていなかったわけでも、考えなかったわけでもない。それでも、面と向かって発せられた他者の声はヨクリの胸に深く突き刺さる。


「そしてこの国にも————この国の民ですら、現状を良しとせず我々と思想を寄り添わせる人々がいるとしても?」


 男の静かな一つ一つの問いかけが、ヨクリの決意を削り取っていく。

 それでも、それでもと、ヨクリは自分に言い聞かせるように強く念じて、男の言葉に心を曲げずに切り返した。


「だからと言って、今ある秩序や、正しい変革の方法を無視して人々に思想を押し付けていい理由にはならない。————多くの血が流れているんだ」


 笠の男は淡々と、狂気の片鱗を感じさせる反論をする。


「血を流さずに為された変革など脆く儚いものです。なによりこの国もまた、我々の国の無辜の民に血を流させたではありませんか。その償いを求めることになんの不思議もないとは思いませんか」


 元来男の持っているであろう優しさや温情はどこまでも片道で、その眼差しが極めて正常なのがヨクリには恐ろしかった。得体の知れない恐怖を振り払うように、ヨクリは強く非難する。


「勝手な言い分だ……!」

「そうかもしれません。しかし、まだその償いは果たされてはいません。ならばどうして、彼らの激情を止めることができましょうか」


 ヨクリはその言葉を飲み込むのに少々の時間を要した。


(つまりそれは、勝つまでやめるつもりがないってことなのか……)


 ならば、戦後に取り決めた法はどこへいった。そのときに多大に支払われた人命や感情はどこへいった。なんの意味があった。————どんな理屈を並べても、ヨクリにはそれが許せなかった。


「償いだって……?」


 ヨクリは怒りをもって聞き返し、吐き出すように叫んだ。


「戦争は終わった。ランウェイルはすでに償った。犠牲を払ったのはあなたたちじゃない……!」

「おっしゃる通りです。ですが、その犠牲は」


 その先は言わせまいと、ヨクリは強く遮った。


「俺のことではない!」

「——成程」


 ヨクリの奥に潜んだ主張を見抜いたような正確な視線だった。その後瞳に宿ったものは、諦観だった。相容れぬ思想を見出した、言葉を用いることへの諦め。


「残念です」


 男はヨクリの予想を裏切り、本当に悲しそうに俯いた。その光景が、ヨクリの心を激しくざわつかせる。笠の男は半身気味に足をひいてから隣の男へ、


『後は任せます』

『構わねえのか?』

『構いません』


 言い切って、男は再び笠を被り背を向ける。その瞬間、大刀の男の瞳に宿るどう猛な輝きが一層強まった。


「だそうだ。悪く思うなよ」


 ごきり、と首を鳴らしながら大刀の男は言い放つ。体の芯、骨の髄まで震わせるような声音は、男が自身の力、それが生み出す威でもって人を屈服させてきたなによりの証だった。


「……なにを」


 ヨクリが小さく返すと、


「俺様と出会っちまったことを、だ」


 笑いながら、無造作に一歩詰め寄る。

 隣のガルザマが、こりゃ大外れを引いたなと小さくぼやいて、


「まずいぜ姓無しちゃん、この大男、相当できる」

「わかっている」


 ガルザマが察したのと同様に、ヨクリもその佇まいでおおよその技量を掴んでいた。ヨクリよりもはるかに格上の相手であることはほとんど間違いなかった。


「でも、あの男を追わないといけない。……いけないんだ」

「本気で言ってんの?」


 短く息を吐いて、ヨクリは左手の拳を握りしめる。


(あの男が争乱の中心にいるのなら。俺がこの国に生きるシャニール人なら、俺は)


 勝ち目が薄いのはわかっていた。でもそれが剣を引く理由にはならない。剣を掲げることを決めたのなら————


(————どんな相手だろうと、剣を掲げ続けろ)


 ヨクリは目を見開き、強い決意で持って恐怖をねじ伏せる。


「さぁて、ちょっと遊んでやるか」

『承知しているとは思いますが、早めに戻ってきてください』

『うるせえな、わぁってるよ』


 そうやりとりしてから笠の男は歩き出した。その背を覆い姿を隠すように、一直線に立った大刀の男。


 大刀の男のシャニール人らしからぬ身長はヨクリが今まで出会ってきた人間のなかで最も高かった。シャニールの伝統的な衣服とは異なる、脹脛まで隠すほどの長さの黒の外套、ランウェイル製の軍靴。白髪混じりの黒の短髪。顔からせり上がった鼻や耳先につけられた傷跡は、男が激しい戦いを幾度も繰り広げ生き残ってきたことの証。


「二人まとめてかかってきていいぜ」


 強大な威圧感。撒き散らす恐怖に飲まれる前にヨクリは音もなく駆け出した。男が背負った大刀の柄に手を伸ばすよりも先に一瞬で間合いを詰め、先制攻撃を試みる。

 しかし、横薙ぎの一閃は身を翻して背を向けた男の大刀の鞘に弾かれる。追撃よりも後退を選んだヨクリは金属質の感触に遮られた瞬間に後方へ大きく跳躍して間合いを広くとっていた。


「はええなぁ! いいぜおい!!」


 肩越しに笑いながら男は言ったあとに、剥がすように大刀を抜いた。ヨクリの身の丈ほどもある分厚い刃が邪悪に輝いた。


(身のこなしもただものじゃない)


 総毛立つ、強敵と対峙したときの感覚がヨクリの身を包み込む。男は低い声で、


「——あぁ。一応名乗っておくか……とはいっても俺様に名なんて大層なものはねえんだがな」


 抜いた大刀を肩に担ぎ、ヨクリへひたと鋭い目を向ける。


「凶狼なんて好き勝手に呼ばれちゃいる。お前らも好きに呼べ」

「マジかよ……」


 後方のガルザマが呟いた。まさしくこの短剣使いがヨクリと取り違えた“凶狼”は、目の前の男だった。大刀を携えた大柄な男という特徴も一致する。そしてその身に秘めた力が、尋常ではない呼び名を信じさせた。


「そんじゃ行くぜ。——簡単にくたばるんじゃねえぞ」


 大刀を担いだそのままの体勢で、ヨクリへと詰め寄った。地面を揺らしたと錯覚させるような強烈な踏み込みとともに、振りかぶりざまに左手を柄へ、両手で持って繰り出した剣撃。

 その瞬きよりもはるかに短い時間のなかで、ヨクリは悟ってしまっていた。


(受けられない————)


 シャニール人らしからぬ上背とヨクリの背丈よりも長い大刀、図術制御の絶妙さ、そしておそるべき剣速。まともに切り結んでどうこうなる相手ではなかった。

 極限まで圧縮された暴力を、洗練された直線に転換するような。凶狼の斬撃は死の危険よりも前にただただ強烈な恐怖を感じさせる。


 これまで培ってきた修練よりも、もたらされる感情からくる反射でその大刀を躱すと一拍遅れて烈風のような剣圧がヨクリの頬をなぶった。戦慄に気圧される前にヨクリの体は動いていた。回避の体勢そのままに、刀を振り上げ上段から斬りかかる。

 度重なる修練によって体に記憶された剣閃は受けの構えへ移っていた凶狼の大刀に阻まれ、甲高い金属音を立てた。


「ほう?」


 ぐっとお互い斬り結ぶ。鍔迫り合いはつかの間、みるみるうちにヨクリの体が後退しはじめる。地面を力一杯踏みしめるが、ざりざりと土を削りながら力任せに押されていく。比喩などではなく、背の高さと筋量の差から生まれた錯覚は全てを飲み込む暗闇に引きずり込まれるような感覚をヨクリへ与える。


(ぐっ……)


 こらえきれずに、一瞬だけで大刀を押しのけるように渾身の力を込めると、その反動を利用してヨクリは跳躍し大きく飛びすさっていた。見越したように凶狼がその距離を再び縮めようと斬りかかってくる。


(だめだ——)


 負の感情とは真逆に、ヨクリは着地の直後に無意識に距離を詰めた。大きく踏み込んで、凶狼の大刀をかいくぐる。すると今度は眼前の大男が引いた。ヨクリにとって有利な間合いはその距離だったからである。それをきっかけに、必殺の一撃を繰り出せる間合いの取り合いが断続的に響く金属音を引き連れて始まった。


 ————その一連の攻防が、ヨクリにとって経験したことのない恐ろしい間の速さで連続した。もはや思考する暇もなく、ほとんど全ての攻撃、そしてそれが生み出す状況に反射的に対応せざるを得なかった。


 この男を体現する言葉があるとするなら、それはまさしく豪傑にほかならないとヨクリは思った。繰り出される剣には一切迷いがなく、しかしそれでいてその男の感情が全て乗っている。攻撃や動作の全てが無機質だったゲルミスとも異なる感触。ただひたすらに強敵だけを求めるような情熱。慈悲はなく、相対する者の技量を斟酌しない、凄まじい膂力と技術を最大に振るう。


 嵐のような攻撃だった。研ぎ澄まされた一太刀一太刀に即応するたび、気力を削ぎ取られるような疲労感をヨクリへもたらしていた。


 そして切り結び、生還するごとに生まれる一つの感情があった。

 攻撃は見えている。躱せる。以前よりも明らかにヨクリの技量は上がっている。しかしだからこそ痛感してしまう。これまで出会ってきた本当の強者————目の前の脅威の男やヴァスト・ゲルミス、ジェラルド・ジェールといった具者たちには及んでいないことを。


 その邪念のような暗い感情を振り払うように、無理やり思考に徹しようとヨクリは内心で自身へ訊ねていた。


(どう切り崩せばいい……?)


 度重なる戦闘でエーテルの残量も心もとない。干渉図術を打つだけの残りはまだあるが、躱されたら形勢はますます不利になる。


 ヨクリは必死に頭を回すが、しかしそのかんに凶狼は間合いを詰めてくる。

 再び隙を作らせようとヨクリが懐深くへ潜り込むと、次は同じようにはいかなかった。凶狼の膝頭がヨクリの腹部深くへめり込み、蹴り抜かれる。————これを誘い出すために敢えて乗っていたのだろう。

 しかしその直前にそれを“視た”ヨクリは腹に力を込めて後ろに跳び退り、蹴りの威力を緩和させていた。が、ヨクリが予測した攻撃への対処に最善を尽くしても、体格差と凶狼が持つ力にヨクリの体は吹っ飛んで、後方に積み上げられていた木箱の山に激突して大きく乾いた音を立てた。


 背中を強く打ち据え、呼吸が詰まる。ただ一発の膝蹴りで、いつの間にか背後にあった建物の軒下まで追いやられたことがわかった。衝突の残滓によってぱらぱらと散る砂埃や木片。しかしそれらに構ってはいられなかった。立ち上がれないほどの衝撃ではない。顔をあげた瞬間、ヨクリの想像を肯定するように顔面めがけて刃が迫り来る。


 体ごと横に回避して転がるように距離を取り、ようやく姿勢を戻すと、息もつかせぬ二撃目が襲いかかって来た。

 跼み気味に、手近にあった丈夫そうな柱を盾にして飛び退るが、凶狼は構わず腕を振り抜いた。

 木材でできた柱がいともたやすく両断され、建物のいびつにせり出していた構造部がぐにゃりと歪む。


(まずい)


 颶風のごとき刃を躱した勢いそのまま二度後方へ跳躍すると、変形した結合部ががらがらと崩れだし、次の瞬間一気に崩落した。向こう側の凶狼の影が降り注ぐ瓦礫と土煙に遮られ、見えなくなる。崩落からさらに距離をとったあと、次にどう動くべきなのかヨクリが判断に迷ったそのとき、


「ちょいちょい! こっちこっち!」


 立ち込めた煙に紛れ、不明瞭な視界のなかでガルザマの声がする。そっちへヨクリは駆け出した。瓦礫の影、死角へと誘導され、ヨクリは肩で息をする。大きく吸い込むと砂煙でむせ返りそうになるが、それよりも体は空気を求めているようだった。


 ガルザマはヨクリの様子をみて、ぼりぼりと頭を掻きながら、


「いや勝負になってないって、これ」

「……そうだね」


 ヨクリは切れ切れに頷いたあと、肩で息をしながら、静観していたガルザマへと語りかける。


「長くは保たない……きみは後ろに戻って、ウォルナルフさんでも誰でもいい、追っ手を出すように伝えてくれ」


 あと数合。たった数合打ち合えばヨクリのほうの糸が切れるだろうとヨクリは極めて冷静に戦況を判断していた。それでも引けない。

 ヨクリの内心を見透かすような疑問をガルザマはぶつけた。


「なんで姓無しちゃんがそんな必死になるのさ……どうして逃げねえのよ。あんな化け物相手だったら、とんずらこいたって誰も文句言わねえよ」


 その通りだとヨクリも思った。整ってきた息に呼応するように、思考もはっきりとしていく。


「……彼らを放っておけば、いずれもっとたくさんの、この国の人の血が流れると思う」


 顎に滴り落ちる汗を手の甲でぬぐいながら、ヨクリははっきりと答えていた。


「死んじまったら元も子もないっしょ?」


 いつかどこかで、金髪の暗殺者が言ったような台詞だった。ヨクリも以前ならその意見に同意していたし、今の自分を昔の自分が見たらきっと詰るのだろうなと思う。


「わかっている……でも!」


 ガルザマを納得させる意味も、その義務もヨクリにはなかった。ただ、誰かに言わずにはいられなかっただけなのかもしれない。しかし、そのさまをガルザマは真剣なまなざしで眺めていた。

 しばしヨクリの目をみてから、ガルザマは唐突にヨクリから顔を背けた。少しの間があってから、小さくヨクリへと、


「……俺と二人なら、あいつ、どうにかできねえかな?」


 順手に持っていた対の短剣を、両方くるりと手の内で回転させ、逆手に持ち替えてガルザマは言った。ヨクリは思いがけないガルザマの言葉に、弾かれたようにその表情を見る。


「……手を、貸してくれるのか?」


 ガルザマは答えなかった。ヨクリは大きく頭を振ってガルザマの疑問に答えるように努めた。この男の圧倒的な速さと技量。それにヨクリの具者としての能力を合わせたならば。


「……できる。きみと俺なら、太刀打ちできると思う」


 ヨクリは強く感じた確信でもって、ガルザマにはっきりと言った。


「へっ」


 ガルザマは小気味好く笑って、


「よっしゃじゃあやるか、ヨクリちゃん」

「……わかった。頼むよ」


 ヨクリへの呼び方が変わったことに気づいて、ヨクリはようやく薄く笑ってから、刀を構え直す。そしてその感情の弛緩は、技量差から生まれる焦りから解放させた。本当の冷静さを取り戻したヨクリは戦況を分析し始める。主観を排除してあたりを見渡した。これまでの攻防、現在の状況。頭の中が高速に回転するように、思考が研ぎ澄まされていく。


(この立ち込めている煙はつかえる)


 意図せず作り出された環境だったが、夜闇からさらに不明瞭になった視界と瓦礫まみれの足場はヨクリにとって有利な地形へと変貌していた。

 なぜなら凶狼は干渉図術を使ってはいないからだ。ヨクリの根拠は二つあった。

 一つ目はヨクリのような格下相手であっても、おそらく全力をもって挑んでいるということ。つまり、出し惜しみはしていない。そしてもう一つの大きな理由が、多人数の戦闘下に置ける独特のまとわりつくような重たい気配がない、ということだ。つまり最低でも支配領域同士の抵抗が発生していない。凶狼の傲岸不遜な態度から、奥の手をとっておくような人間には見えなかった。


 ————だから、奇襲は少なくとも何らかの結果に繋がる。

 考えをガルザマに耳打ちすると、ガルザマはそれで行こうと頷いた。小声で打ち合わせ、そのあとは迅速だった。


 ヨクリは“感知”を起動。砂煙に覆われた一帯から、凶狼の影を見つけ出す。霞みがかった視界には頼らずに、ただ携えた引具に身を預けるようにヨクリの意識は切り替わっていた。崩れそうな足元の瓦礫を迷わず回避し、刀を脇構えに疾駆する。

 そしてその距離で、足を止めることなく抜き打つようにしてその背中を斬り払った。

 ————しかし、背後からの攻撃は、後ろに目でもついているかのようにあっさりかわされる。


「ぬおっ」


 見せつけられた達人然とした回避とは裏腹に、凶狼の不意を突かれた驚きの声があがった。


「そうくるか————!」


 凶狼はヨクリの動きに合わせて、大刀を振りかぶった。


(いや、まだ終わりじゃない!)


 まがまがしい視線が追い抜いたヨクリを捉えたとき、さらにヨクリの強襲した位置から短剣使いがその男の最高速度で音もなく迫り来る。まさしくヨクリの作り出した凶狼の虚を突く絶妙の間。


「これで!」


 稲光のような右手の短剣の軌跡は、ようやく大刀の男へ傷を負わせる一撃になった。

 短剣は左腕の前腕へ深く沈み込んで分厚い外套ごと肉をえぐり、凶狼は大きく眉を吊り上げた。ガルザマはそのまま駆け抜け、ヨクリの隣で止まると、ヨクリとガルザマは息を合わせたように、同時に後方へ跳躍、大きく距離を取る。


「わりいヨクリちゃん、首の位置が高すぎた」

「いいや、十分だ……!」


 効果はあるはずだ。あの大刀を片手で振るのは強化図術をもってしても相当の力がいるはず。しばし凶狼の出方を窺うように、油断なく各々の引具を構える。

 以前からずっと一緒に戦ってきたような、呼吸の合った綻びのない連携。それだけでヨクリにとてつもない安心感をもたらす。

 未だ周囲に立ち込める砂煙の中、反撃を受けた凶狼は小さく肩を揺らして、


「ふっ……」


 わずかに鼻を鳴らしたあと、


「わははははは!!」


 朧月を背に、その笑い声は辺り一帯に響き渡った。気迫とともに放たれた、周囲すべてを震わせるような大声。


「いいぜ、お前ら、最高だ」


 心底愉快そうに凶狼は牙を向いて、


「楽しくなりそうじゃあねえか!!」


 高らかに叫んだ。

 だが、その圧倒的な威圧感をほとばしらせる男の気配にも、ヨクリはもう動じなかった。それほどまでに隣の男が頼もしい。それはヨクリへ外部から当てられて高ぶる戦場の昂りとは異なる、純粋に目の前の強敵へ自身の技量が通用するのかどうか試せるという、心の底から湧き立つような高揚感さえもたらしていた。


(彼となら、十分戦える)


 戦意を失わないヨクリの顔を見て、凶狼は一転して静かに言った。


「そう、その目だ。俺様はその目が見たかった。……加減していたつもりは毛ほどもねえが、やっぱ侮ってたぜ」


 柄頭から剥がした左腕を体の前へ持ってくる。少なくない出血がぼたぼたと流れ、地面に染みを作った。


「この死ぬか生きるかの感覚がたまらねぇのよ。……久方ぶりで胸が張り裂けそうだ」


 深手を負っているにもかかわらず、凶狼は笑みを浮かべ、ガルザマを加えた二対一の構図で、戦闘が再開された。


 散開すると、ガルザマはジェラルド・ジェールも使っていた“創礫”を繰り出す。だが干渉図術の制御は接近戦ほど得意ではないのか、ジェラルドのほうが精度は高いようにヨクリには思えた。

 それは攻撃と言うより凶狼の足元目掛けて放たれた。瓦礫を変形させて足場を不安定にする目的だろう。ヨクリも“創礫”に“旋衝”を合わせるが、まるで創礫によって変えられた足場を予測しているかのように、最も頑丈な部分へ足を運び、更に逆巻く空気の塊をも豪快に飛びすさってやり過ごしていた。


 ヨクリの推察通り、手傷を負った今でも干渉図術を使う気配はない。しかしどういうわけか、図術による攻撃を巧みに躱し、反撃までしてくる。ヨクリにとっては曲芸じみた、とうてい真似することができない技術に思えてならなかった。

 ヨクリとガルザマは隙を作り、その隙を狙うという戦術を代わる代わる行なっていた。どちらが本命なのか悟られぬように。


 それらが幾度か行われ、この攻防では互角から動かないと見たのか、ガルザマを退けた凶狼は勢いそのままにヨクリへと斬りかかった。手傷を負ってから初めて見せる攻撃の意思。

 ほとんど覆い被されるように振り上げられた大刀を、今度は避けずに刃で払おうと下から斬りあげる。体感したことのない激しい衝撃が刀身から伝わり、ヨクリの足元まで貫いた。引具ごと圧し折られるかのような錯覚。危うく押し切られそうになり、意図的に両膝を落としつつ右手を柄から離し、生まれた一瞬の空間を使って即座に峰を手の腹で支え、再び足でしっかり踏みしめる。地面が沈むほどの怪力を一身に受け、剣撃を止めた両腕が痺れていた。


(この傷でこの力なのか……!) 


 今ならいけると踏んで迎撃に向かったヨクリだったが、全くの見込違いだった。刃を必死で押しとどめるヨクリの視界に、未だ生々しく流血する、深々と刻まれた男の左腕の傷が映りヨクリは戦慄した。剣を————ましてやあの大刀を握れるような状態ではないはずなのに。事実、先ほどよりも確実に斬撃の鋭さは落ちている。

 それでもしっかりと握りしめ、ヨクリら熟達した具者二人を相手に互角以上の立ち回りを見せており、ガルザマの速度帯にも平然と対応していた。焦りや恐怖とは別の、その技量に対する悔しさがヨクリのうちに生まれていた。ヨクリにはどうあがいても不可能な芸当だったからである。


「いい戦い方だ。が、甘いな」


 気を抜けば押し切られそうな力の差はまだ健在だった。その上で余裕を見せつけるようにヨクリへ牙を剥く。


「見抜いてる通りだ、俺様は飛び道具は使わねえ。だがお前らが使う術がなくたってわかるのさ。足運びの音、体の運びの音」


 凶狼の獣のような瞳の中に、必死に鍔迫り合いを成立させようと踏ん張っている自身の姿が見えた。


「それに目だ。おめえらの目の動きをみりゃ、どこが安全でどこがやべえのかくらい手に取るようにわかるぜ」


 はったりだ、とヨクリが内心で即座に否定したのは反骨心の表れだった。ヨクリとてキリヤとの戦いで同じようなことをしたが、緋色の少女と幾度も研鑽を繰り返したことで、ようやく見つけた癖などの、物言わず発する情報を受け止めて処理できるようになったのだ。初見の相手にそんなことができるわけがないと。


 しかしどこか冷静にその言葉から状況の変化を見出す。ヨクリらにとって不利な方向へ。

 砂埃が落ち着き始めている。感知に集中するあまり目の前の光景をおろそかにしていた。だから少し回復した視界によって目線の動きを読まれたのだ。


 ヨクリらにとって長引かせたくない要因が増える。この偶発的な目くらましがおさまるまでに決着をつけなければ、確実に不利になるだろう。その考えはおそらくガルザマも同意するはずだった。

 だが全く隙のない凶狼に二対一でも攻めあぐね、ヨクリらは機を逸し続けた。また、凶狼も二人へ致命傷を与えることができず、不気味な膠着状態が保たれていた。


 ————そしてちかりと、凶狼の携えた大刀が淡い光を反射した。


 永遠に続くような拮抗した戦況に、いつしか空が白み始めていたのだ。ヨクリはそれに気づいて、しかしもう一度集中の糸を締め直そうと眉宇に力を込めたとき、剣を引いたのは凶狼だった。

 同じようになにかのきっかけで集中が切れたわけではない。その眼光は未だ爛々と凶暴に輝いている。だから、おそらくは別の理由だった。そしてその理由は直後わかる。


「もうちょい遊びてえところだが、そうもいかねえ。時間切れだな」

「……逃すと、思うのか」


 肩で息をするヨクリがそれでも自恃を振り絞って言うが、凶狼は間のずれた答えを返した。


「そう言うなって。ケリつけねえのがすっきりしねえのは、俺様も同じだ」


 しかしその声音には、ヨクリとガルザマに対する侮辱の類は一切感じられなかった。むしろ後ろめたささえ窺わせるような。その印象を裏付けるかのように、


「お前らの名を聞いておこう」


 と、敬意を払うように訊ねた。


 ——ヨクリらは自然と短くそれに答えていた。それは戦いに身を置く人間が持つ矜持のようなもので、立場や人種を越える共感性だった。

 二人の反応に凶狼は満足そうに笑ったあと、


「ツラと名、覚えたぜ。……そんじゃ、次に俺様と戦り合うまで死ぬんじゃねえぞ」


 ヨクリのほうの背筋が凍ってしまうほど、凶狼はあっさりと背を向けて隙を晒した。


「待て……!」


 ヨクリは叫ぶが、凶狼は大刀を肩に担ぐと、一気に駆け出した。それを追従しようとしたヨクリの手を強く捕まえたのはガルザマだった。片方の短剣はすでに腰へ収められていた。


「流石にこれ以上は無理だ、ヨクリちゃん」


 呼吸を整えながら、ガルザマは言った。


「……でも」


 ヨクリは食い下がるが、ガルザマははっきりと、


「結構な時間引きつけられたんだ。もう俺たちにできることはないって」


 そして、拳を握るヨクリを諭すように続ける。


「エーテルの残りも少ないっしょ。あとは他の連中に任せるしかないよ」


 ガルザマの判断は極めて正しかった。ヨクリはなにか合理的な反論を見出そうと頭を回すが、果たしてそれが叶うことはなかった。


「————」


 息をつめ、眉に力が入る。

 戦いの前の意志を貫けたのか、それともそうではないのかヨクリにはわからなかった。明確に勝利していたなら、それがはっきりとしたのだろうか。


 ただ、ヨクリは生き延びた。その事実だけは明確だった。


 浅く震えた呼吸のあと、刀の切っ先を下ろしてガルザマへゆっくりと頷いた。

 未だ昂ぶっていた心身を落ち着かせるために今度は意識的に深呼吸を一つして全ての感情を飲み下すと、ようやく周囲の状況が頭に入ってくる。大地を揺らすような戦のざわめきはおさまり、静寂を取り戻していた。倒壊しかけた家屋が砂礫を落とすぱらぱらという音。曙光を反射する水たまり。燻る煙をあげる遠くの戦場跡。

 どこからも、剣戟の音は聞こえてはこない。ヨクリはその実感を無意識に口に出していた。


「そうか……今回の戦いは、終わったのか」

「ああ。お疲れさん」


 そしてヨクリは隣の具者を見た。この青年のおかげで生き延びることができたといっても過言ではない。あのままヨクリ一人で戦っていたならば、遅からず命を奪われていたことは想像に難くなかった。

 ヨクリは礼をいう代わりに、別の言葉をガルザマへ語りかけていた。


「きみとは、また会えるようなきがする」

「奇遇だな。俺もそう言おうと思ってた」


 ガルザマは口角をあげ、ヨクリへ応答する。凶狼との共闘で互いの技量を知り、端々に滲む抱えた感情を知ったことで、奇妙な親昵感が二人の間で芽生えていた。


「またよろしく、ガルザマさん」

「ガルザマでいいよ。そんじゃね、ヨクリちゃん」


 礼を払うヨクリへガルザマは笑いかけ、手を上げて別れを告げた。ヨクリは立ち止まってその背を見送ったあと、破壊された自治区を歩き出した。


 漠々とした心持ちで帰路を辿り、自治区の終わりまで進んだあと、深く息をつき空を見上げる。あたりは徐々に明るくなってきていた。遠くの雲間から光が差し込んでいる。曙光が東から登って、未だ深い眠りのうちにいる人々に次の日を告げていた。


 そして歩みを一歩進め————立ち止まって半身になり、はっきりと振り向いた。

 視界に映るまだ学徒だったころに歩いた通りに並んでいた建物に似た、文化的な自治区の住居は破壊され、激しい交戦の跡となっていた。その奥に、いささかも揺るがぬ、深い青みがかった王城がただそれらを見下ろしている。

 柔らかい光に照らされる、戦いの跡。無数の瓦礫。無数の死体。破壊の光景に、胸がざわざわと揺れ始めていた。


 ヨクリはその、これまでの人生の中で一番長い夜を思い返していた。


 きっとヨクリが生まれ、いつか命が燃え尽きるまでのあいだで最も重要な出来事のうちの一つになるだろうと、ヨクリは烟る町並みを眺めながら確信していた。

 もうヨクリは同胞のもとへはいられない。戻ることもできない。

 戦いが始まる前に未だ眠る友へ語りかけた言葉が、ヨクリの心を深くえぐるように何度も頭の中でこだましていた。

 はっきりと自分の意思で自身の持ち物を手放したのだ。もう二度と取り返すことはできないものを。


 そうして過去のまほろばは過ぎ行き、その先にあるものは杳としてしれない。


 死の匂いと混じった霞を運びながら、冷たい風がヨクリの返り血と土埃で汚れた頬を撫でる。なにかが胸から込み上げてきて、凍える手先と唇を震わせる。叫びだしたくなるような感情の奔流だった。それでもヨクリは奥歯を噛み締めそれを堪えて、体を包む傷の痛みや疲労には構わずにただ町並みを眺めていた。


 ————決意と決別の戦いだった。

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