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また一つの大きな決意を胸へ刻んだあと、ヨクリは指示通り主戦場の中央へと向かった。小雨を振り払い、ただ夜闇のうちをひた走る。見据えた方角から届いてくる主戦場の激しい音とは別に、他の方角、いくつかの場所で同じ種類の小さな音が聞こえてくる。小規模な戦闘が散発的に起こっているようだった。
そして最後の辻を曲がり、指示された地点へと到達すると——。
その光景は筆舌に尽くし難い凄まじい有様だった。
自治区のなかでもひときわ大きな広場。ヨクリとは別の、一番広い通りから断続的に戦闘へ参加してくる両軍の具者たち。
図術起動の破砕音、それによって破壊された建造物。主戦場と隣接するまだ無事な建物の中からも悲鳴や戦闘音が響いてくる。雨と血と泥に塗れ、なお剣を振るい続けている。
ひしめき合う具者。理性を失った、戦うものたち。ただ目の前の敵を斬り伏せんとする以外はおよそ自我というものが消え去ってしまったような。——どちらの側の人間も。
そしてその中にひとたび飛び込めばヨクリも例外なくその色に染まるだろうということは考えなくてもわかることだった。正気の人間なら尻込みして引き返すほど、激しい戦場の中心。
しかし、ヨクリは自身でその賽を投げたあとだった。出目を見てから決めることはできない。その考え自体がすでに正気ではないことにもヨクリは気づいていた。
(獣の国、か)
直前のやりとりで揶揄した、ヨクリが命を奪った者の言葉が脳裏に宿った。その言葉が正しいことを、この光景が証明してしまっていた。
これ以上なにかを考える前に、ヨクリは一度深呼吸してから駆け出していた。
■
激しく切り結ぶ剣戟の音と図術の破砕音。血煙昇るこの場所でとりわけ目立ったのは、試験的に用いられたランウェイル側の最新引具の性能だった。引具がちかっと光ったかと思うと、紋陣の中央から伸びたエーテルの光線があらゆるものを両断する。従来の引具とは異なり、擬似的に作り出した術の効果によって対象を攻撃するのではなく、エーテルそのものの物体に干渉する性質を利用している。
しかし引具の性能、具者の練度ともに圧倒的に上回るランウェイル側だったが、戦場は膠着したまま激しさを増してゆく。シャニール人たちは最後の一人になるまで戦うような捨て身の姿勢だった。気迫と悲鳴とが入り混じる音とシャニール人の狂気にランウェイルの具者も引きずられるように飲み込まれてゆく。
ひずみがひずみを呼び、場を包む熱気を肥大させる。
山ほどの大きさの獣の唸り声にも似た戦場の赤黒い気配は、全ての色を塗りつぶしていた。
ヨクリが決心して加わった主戦場の南東自治区中央は、まさにこのとき混沌と狂乱の頂点を極めていた。
ほんの一瞬だけ我に返ったとき、視界の端にガルザマが言っていた“騙され部隊”の一団が見えた。戦いの前の半分程度まで数を減らし、そこで技も戦術もない、滅茶苦茶な戦いを繰り広げていた。
必死だった。気力のみでそこに立っている。でもそれでいいとヨクリはどこかで思った。同じなのだ。技量も経験も、今はいらえを返さない。
ヨクリと同じように与えられたことへ身を投げる少年少女に、ヨクリはどこかで親近感を覚えていた。それが今この場限りのかりそめのものであったとしても。
戦う前に考えていたようなこの戦いの意義さえも、今ここで剣を振るう理由ではなかった。心のうちの熱の塊が衝動となって、ただ体を突き動かしていた。
最も近い四人が背中合わせに、その固まりを戦場に目の広い網のように配置。護印を行わない具者たちが集団戦闘の際にとる、網四方と呼ばれるシャニール戦時中に開発された陣形。ヨクリらランウェイル側の具者はその指示を徹底し、外套以外でも、この陣形をとることで敵と味方をはっきりと区別することができていたため背後からの奇襲や同士討ちを防ぎつつ、個々の突破力を存分に生かすことができた。
この瞬間瞬間は、集中したときに感じる狭窄的な感覚も氷のような温度もない。濁流のように流れてくる、おびただしい量の“感知”の情報を咀嚼する間もなくただひたすらに反応する。
外套が白かそうではないか。名も知らぬ隣の味方がヨクリを助け、またヨクリもそいつの隙を埋めるために足をさばき、剣を振るう。返り血で白の外套が染まってゆく。衝動に突き動かされ、熱の塊を吐き出すように発した咆哮は、雷鳴によってかき消される。
頬を打つ雨粒や奏でられる命脈を立つ様々な音色に引きずられないように、ただめまぐるしく変わる眼前の相手の所作のみに集中していた。
濡れた地面に足を取られぬように瓦礫の残骸ごと強く足を踏み抜き、敵を一人残らず退けるまで、止まることなく戦い続けていた。
みしりという小さな木彫りが歪んで砕ける音や、その踏みつけたものが、シャニール人が祈る神の偶像だということにも、ヨクリは気がつかなかった。
■
六名の集団が通りを歩いていた。一様に刀を携え、周りを油断なく警戒している。
月明かりは見えず空は黒雲に包まれ、少しの雨が衣服を湿らせる。しかし陰鬱な天候とは裏腹に、クシノカの胸は高鳴っていた。
この会合が成功すればまた何かが動き出す。そういう高揚感と陶酔感があった。四方へ散り散りになった有力者たちがやっとこの場に集い、簒奪された国を取り戻す実効的な話し合いが持たれているのだ。例え身を刻まれ、小さな肉の一片となっても悪鬼どもから会場を死守する。心身を充実させる決意に漲っていた。
『一刻も早く中央へ急ぎ、持ちこたえさせねば』
『敵はどこからくるかわからん。注意しつつ進むぞ』
クシノカへ語りかける左右の二人。そしてその助言を裏付けるかのように、前方から音もなく揺らめく影がいつの間にか現れていた。その不気味さに無意識に恐怖したのか、後ろを振り返ると今度は戦鎚を担いだ大柄な女が来た道を塞いでいる。
クシノカがどう対処すべきか逡巡しようとしたとき、
『挟撃か』
『それにしたって二人とは舐められたものだ』
端的に言葉を交わした、前を歩いていたハシマとサイオは先の戦争で生き残った古強者だった。落ち着いた様子に頼もしさを覚え、クシノカもこちらの優位を疑いもしていなかった。
————次の瞬間までは。
あっという間だった。ひゅるる、という音がかすかに聞こえて、クシノカの左右の二人の首がすっ飛んだ。
視界の奥で両手を広げた小さな影の袖の先、手の甲から僅かに発光する糸が3本ずつ伸びていた。翡翠がかった青の液体——エーテルで構成された糸は、血を吸っててらてらと凄惨に輝いている。実際には液体のように振舞うことなく固定されているらしく、ちょうど糸繰車がからからと回るように影の籠手が糸を巻き上げ、刮ぎ取られた血で両手が染まる。
全く未知の攻撃に一同は目を見開いて一瞬硬直してから、
『距離をとれ! 術だ!』
ハシマが叫んで、サイオが即応する。続いてクシノカも紋陣を起動させた。さらにもう一人、計四発の干渉図術が打ち出される。しかし、それをみた小さな影は両腕を交差させながら高く掲げ、払うように振り下ろすと、青い線が高速で射出される。
両手から三本、計六本の青い糸が有機的にうごめいて、中空で網状に重なったかと思うと、空間を包む皮膜のように姿を変えた。打ち出された二発の氷錐はその膜に衝突した途端、そっくり“盾”に阻まれたように消失する。
全ての術を飲み込むと泡の一つ一つが破裂するように膜は消え失せ、再び糸へと姿を変えていた。そして女が手を引き戻す動作に合わせ、ゆっくりと宙を舞う。
『なんだ、あれは!?』
『わからぬ、だが向こうの女は危険だ!』
攻防一体の脅威にたじろいで、中心の二人は目標を後方の女へと変更する。
言葉は通じずとも意図を悟ったのか、その大柄な女は高笑いしたあと呟いた。
「こっちのほうが楽そうってか、お生憎様」
両腕高くあげ、長大な戦鎚を竜巻のように振り回してから、一気に地へ振り下ろす。と同時に衝突の寸前、戦鎚と地面の間が紋陣の光に包まれたあと、文字通り地を揺らす轟音とともに、クシノカらを目指すように蜘蛛の巣状に大地が大きく裂けた。
衝撃に足を取られ、体勢を崩したサイオに恐ろしい速度で接近する女。あっと思った時には戦鎚を振り抜かれ、何かがひしゃげる嫌な音とともにサイオは崩折れていた。クシノカが地面を見ると顔のない死体が一つ転がっていた。
『——よくもサイオを!!』
怒気を噴出させ、戦鎚の女と切り結ぶハシマ。さすが戦争をくぐり抜けてきただけあって、打ち合いでは引けを取っていない。
しかし、クシノカは我を忘れて、何かにすがるように物言わぬサイオを見る。それはすぐに訪れる自分の未来の姿だと悟らせるのに十分すぎる一連の光景だった。
直前の陶酔感は消し飛んで、クシノカは一歩後ずさっていた。再び視線をハシマへ戻すと、大柄な女は距離を取り、展開紋陣を起動させているところだった。ハシマが“盾”を作り出すのにも構わず、そのまま“動”の体勢にはいり、紋陣が起動する。
次の瞬間に起こったことをクシノカは理解できなかった。
女が起動した紋陣だけ砕け散り、術が現出しない。不発に終わったかのように見えたが、その直後ハシマの前方に敷陣が入れ替わるように出現。
同じように敷陣も砕け散ると、肉と骨を押しつぶす確かな衝撃音と、体を曲げて頽れるハシマ。
クシノカは、また後ずさる。そしてはたと残りが自身一人になったことに気づいた時には、クシノカは振り返り、駆け出していた。
「逃さない」
外套の女は呟いて、膝を折り両手を地面へつけた。エーテルの糸は潜るように地中へ伸びてゆき————
————気がつくと、6本の不気味な糸がクシノカの目の前にあった。
■
いくつかの戦闘を経て、ようやく二人は息をついていた。外套の女はエーテルの糸を両方の籠手で巻き上げて格納し、外套の裾で血まみれの手を拭ってからあたりを見渡したあと大柄な女に語りかける。
「あらかた片付いたわね」
長い茶髪は高い位置で一つに括られ、用意された外套の前は、捲り上げられるように完全に開いている。この時期には薄着過ぎるくらい、日焼けした肌を隠さない軽装。三十前後の年齢だろうか。自信と気力に満ち満ちた表情は、幾度かの連戦のあとではあるが疲れの色が全くなかった。天幕の中にいたうちの一人、マルゴットという名の女だった。
「こんなもんだろう。連中も意外と粘るね。肩慣らしにはなった」
戦鎚をひび割れた地面につきたて、上機嫌そうに答える。
「火つけて回ってるのはうちらじゃあないね」
「そうね」
モニカらを含めた天幕に集められた具者ではない。おそらくは別働隊の破壊工作だろう。シャニール人側が自らの住居に火をつけるとは考えにくいからだ。
モニカとマルゴットは力の特に強い反体制側の小隊を強襲し、無力化する役目を担っていた。先ほど撃破した六名が、事前に伝えられていた最後の小隊である。
予定の全てをこなし終えたモニカにとって意外だったのは、先ほどのようなシャニール人のみで構成された隊よりもランウェイル人も混じったそれのほうが手強かったという事実である。組織というのは異物が混じると脆弱になるはずだが、やはりというべきかランウェイル人のほうが練度が高い。
「中央はえらいことになってそうだし、こりゃあ本気だね」
「ツェリッシュ家が先導しているんだもの。成果をださなきゃ嘘でしょう」
事前の調査——戦闘能力の高い、障害となりうる個人名まで調べ上げられた綿密な情報と、過剰ともとれる戦力の投入だったが、それでも予想より敵の抵抗が激しいのは相手もまた本気だということだろう。
「しかしアンタのそれ、すごいねぇ。アタシにゃさっぱりわからんよ」
「貴女のさっきの術もね。あれはなに?」
モニカが自身の説明はせずに逆に疑問を投げかけると、マルゴットは対照的に得意げに返答する。
「“伝達”の中継だよ。同調させた手前の空気を加速させて、敷陣に撃ったのさ。そいつがさらに加速しながら角度をかえて“盾”の下から腹をぶん殴ったって寸法」
具者の中でも扱えるものが少ない敷陣を用い、さらに応用させた高度な図術技法だった。“伝達”という特殊な干渉図術の性質を遺憾無く使いこなしている。
表に出さず感心したのち、モニカは地面に倒れている死体と、そして煙を上げ煌々と燃えはじめている自治区を見て、独り言つように呟いた。
「……そりゃ、必死にもなるか」
「同情はするけどねぇ」
嘯くように戦鎚の女がそれに反応する。確かに、と内心で同意してから次の予定について話を始める。
「連絡役がそろそろ来る頃よね」
「そうだね、ガルザマとか言ったっけ……っと、きたきた」
マルゴットが首を持ち上げ屋根の上を指さすと、近づいてきた細い影が二人を見下ろしていた。ややもせず軽々と飛び降りて、二人の目の前までやってくる。高低差を感じさせない、しなやかな動きだった。
「ご苦労様お二人さん」
「戦況は?」
「さすがに負けようがないね。まあ、今の所はだけどさ」
ガルザマは肩をすくめて答えてから、
「でも真ん中はウォルさんの予想より粘られてるっぽいな。まあさっさと倒しちゃうよりはいいんだけどさ」
モニカは二振りの小剣使いの言い回しに即座に生まれた考えを口に出すと、
「中央は囮ってこと?」
「そうそう」
あっけらかんと肯定して、次の指示を出す。
「今の所成功だから、君らは本命に向かっちゃって、天幕の中にいたあとの二人は先に待機してるから、合流頼むぜ」
首をやって方角を示す。マルゴットは頷いたあと内容を掘り下げた。
「あいよ。……そういや、あの姓無しは?」
「姓無しちゃんは中央。ちらっとみたらズバッとやってたわ」
「うへー……。あの中に混じるのはアタシはごめんだわ……」
「同感ね」
クラウス・ファインの直轄候補である、天幕に集められるほどの実力者のはずだが、なぜウォルナルフが黒髪の青年を陽動部隊の中央へ送ったのか理由は定かではなかった。信用を図るためだろうかとちらと考えてはみたが、声に出して詮索する気もモニカにはなかった。
「合流後は?」
「超でっかい合図があるからそれに合わせて突撃」
大雑把な指示だったが、モニカは小さく頷いた。
「了解」
■
ひときわ高い鐘楼の頂上。まさしくこの場所からなら、戦場全てを視界に納め、見渡すことができる。
横雨に濡れ黒く光る鐘のそばに男の影があった。男は細長い筒状の引具を操作し、
「火が熾り始めたか」
眼下にはぽつぽつと闇から浮かぶ赤い光が見えた。
「……じきに広がるだろう」
誰とも知れず呟く。男は引具に集中しつつも、下から近く気配を敏感に感じ取っていた、足音もなく登ってきて、ややもせず男の背後を取る。
それが誰なのか気配や足運びの癖で把握していた男は振り返らず語りかける。
「首尾はどうなっている?」
「手はず通り中央の戦場に戦力を引きつけたあと、会合場所とを完全に分断。周りは強えやつらで囲んであるし、あとは大物を獲るだけだぜ」
ガルザマに頷いて、ウォルナルフは引具を縦に構え直したあと、鐘楼の縁へ寝かせて、弩を構えるように水平にする。
「お、ウォルさんのアレが見れるのか」
短剣使いの弾む声には応じずに縁に引具の先端をかけると、紋陣が現出する。その向こうには、3階建のシャニール建築様式の建物があった。————今回の作戦の最終目標である。
中央に敵戦力を集中させ、ウォルナルフが遠距離から建物を直接強襲する。その周囲を熟達した具者が取り囲んで、有力な反ランウェイル指揮者たちを一人残らず殲滅する。そういう手筈だった。
ウォルナルフに課せられた使命は立案したこの作戦を成功させることだけだった。十年以上も前から変わらない、日常と言ってもいい一連の流れ。己が出した指示によって多くの命が散っていることに、もはや動揺はない。個人的な感傷を生み出す心のどこかは度重なる戦場によって擦り切れ、とうになくなってしまっていることもウォルナルフは自覚していた。
引具に指をかける。眼下のざわめき、風雨、呼吸や鼓動。全ての音が鮮明に聞こえ始め、やがて虚空へ失せていくように静まり返る。
そして、過去の自身が知らせたような、その絶妙の間で持って懸刀を引いた。
図術発動の完了とともに紋陣が消失し、建物の中央めがけて超高速で親指ほどの大きさの影が迫る。
————閃光と轟音。
小さな火の玉が一瞬光ったあと一気に炸裂し、激しい火柱を立てて建物が燃え上がった。そしてその炎めがけて、無数の人影が建物に殺到する。
「うっひょー!!」
音に負けない大声でガルザマは叫んだ。しかしウォルナルフは引具越しの派手な爆発やガルザマの気色ばんだ叫びに惑わされず、炎が上がる直前に建物から複数の影が引具を使って脱出しているのを目ざとく確認していた。
ウォルナルフは声を張り上げて、
「次の段階へ移行するぞ!」
「はいよー!!」
ガルザマは即応し、子供がはしゃぐように鐘楼を駆け下りていく。
ウォルナルフは一息ついたあと、雨の中でも周囲の建物へと燃え移る炎を眺めていた。




