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途上のシャムロック  作者: 納戸
黒血に響く凱歌
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   2

 移動の間に薄く伸びていたばかりの雲は厚みを増し、空を覆い尽くしていた。指示されていた侵入経路を辿り、目標付近に到着する。

 風も強く吹いていた。戦闘行動を阻害させぬように股上よりも少し短い、識別用に配られた白い外套の裾がばさばさとはためいている。


 シャニール人自治区は、基本的な建造物の構造はランウェイルの様式に法っていたが立てかけられた看板はシャニールで使われるミユニ文字で書かれ、装飾やはためく布もシャニール文化に染まったものだった。それらが所狭しと林立し一つの迷宮のような様相を呈している。また、継ぎ足しや新しく作られた建物も多く見受けられ、それらはシャニール人が手がけた家々であった。それぞれの粗悪な素材から中流層では使われなくなった廃材によって建てられていることがわかる。だが建築構造自体は高い技術をうかがわせていた。


 この地点にたどり着くより少し前から戦闘は始まっているようで、自治区中央の方角から剣戟の音と図術の起動音がかすかに聞こえてくる。

 事前に伝えられたこの場所は馬車同士がすれ違えるほどの幅の一本の通りで、想像する中央の様相とは裏腹に、恐ろしいほどひとけがなかった。


 もともとこの場所に住んでいたシャニール人たちは事前に調査し、直前に避難させたらしい。ヨクリは深く問わなかったが、かなり手荒な真似をしなければ動かすことはできなかっただろう。計画自体が相手側に漏れる可能性を潰しつつ人的な被害を防ぐ、綱渡りのような作戦だった。

 そのできうる限りシャニール人の非戦闘民へ配慮した作戦を耳にしたとき、ヨクリは正直に言って驚いたが、よくよく考えれば、人倫に悖る行いをランウェイル側が行えばそれを理由に反体制側が勢いづかねない。妥当といえば妥当だった。


 引具を起動し、全意識を集中させる。間もなくだろうとヨクリは直感していた。そのとき、ぽつぽつと雨粒が顔に当たった。雨が降り出してきた。


(来た)


 ヨクリの感覚を肯定するように遠くの辻の裏から複数の人の気配がした。直後、荒々しい足音が複数聞こえてきて、その全容が露わになる。

 角を曲がり、通りの前方からヨクリのいる方へひた走っているのは黒い外套に身を包んだ四人の男たちだった。それぞれ抜き身の刀を携えている。


『くそっ! ランウェイルの鬼どもめ!!』

『一刻も早くリマニ様へ知らせねばならん! 急げ!』


 その集団の行く手を阻むように、ヨクリは道の真ん中に立った。


 慌てた様子で走る一団はヨクリの姿をみとめて、徐々に減速したあと足をとめた。そして一つ風が吹いたころ、ヨクリはゆっくりと刀を抜いて、その一団にひたりと切っ先をあわせた。


『——その血をなんだと思っている!!』


 一拍遅れて怒号がヨクリへと向けられた。殺気立った様子を表すように、一団の装着している武具が擦れ鳴り響く。

 ヨクリは浅く息をついてから、


「きみたちこそ、ここがどこなのかわかっているのか」


 あえてランウェイル語で話しかけた。その佇まい、構えた剣の気配から、ヨクリへ怒りを向けたシャニール人は基礎校で一通りの教養を習得していると察していたからだ。


「聞こえているんだろう」


 重ねてそう言うと、怒りを向けた男は他の三人を手で制して、剣先を下げた。言葉を交わす気があるようで、ヨクリもまた同様にする。


「我々の同胞である自覚がすこしでもあるのなら、そこをどいてもらおう」


 耳に入ったのは、いくばくかの冷静さを取り戻したランウェイル語だった。


「こんなことをして、なんになるっていうんだ」


 ヨクリは率直に話しかけた。


「なにになるだと?」


 無知な人間を嘲るように鼻で笑ってから、


「目を覚まさせるのだ。搾取され続ける同胞たちの。そして、この国の民の」


 ヨクリを威圧するように語り出す。


「我々の受けてきた屈辱と痛みを思い知らせる、そして祖国を取り戻す!」


 それは昏い熱量を秘めた、宣言に近い言葉だった。


(祖国はもう……)


 ヨクリは声には出さずに目を閉じたあと、再び開いて、


「それで、関係のない人を傷つけてもいいのか」

「無関係の人間など、いない」


 男は即答して、憤懣遣るかたない思いをヨクリへぶつけた。


「俺たちは自由に店を出すことさえできない!! 人目を気にせず飯を食う場所を惨めに探さなければならない!! それはお前のいう無関係の人間が俺たちに仕向けたことだ!」


 覚えがないとは言わせんぞとヨクリを睨みつけながら、


「貴様はそれでもこの有りようが正しいと言うのか!!」


 その問いに、ヨクリはやはり静かに答えた。


「……いいや、この国は間違っている。歪んでいる」


 ともすれば誰にも言ったことがないようなことを、ヨクリは今はっきりと口にしていた。

 貴族が構造と知識を支配し絶対的な力を持ち、他国を次々と飲み込んで他民族を隷属し弾圧している。ときには自国民でさえ、その歪んだ仕組みの生贄にされていて、頂から見下ろす者たちはそれを知りながら許容している。


 しかし、それでも。


「————だが、君たちも間違っている」


 継いだヨクリの言葉に、男は激しく怒り、叫ぶように叩きつけた。


「どこが間違っている! この国は(けだもの)の国だ! 簒奪された国を取り戻そうということのなにが間違っている!?」

 激情に任せた声にも、ヨクリは動じなかった。それはもうヨクリのなかでは決着がついていることで、そのことを覚悟してここへきたからだ。


「確かに俺はこの国に、思い出を奪われたよ」


 記憶のことも。自身の価値も。確かに当時は恨んでいた。今もその全てを飲み込んで消化できているわけではない。

 それでも。そのあとにヨクリが歯を食いしばって、手に入れたものが確かにある。

 シャニールという滅んだ国ではなく、ランウェイルという今踏みしめている大地の上で。


「——今度は君たちが、俺から居場所を奪うのか」


 静かな面持ちを塗り替え、ヨクリは眉を吊り上げた。


「俺の他にも、この国に根を降ろして生きているシャニール人は、きっとたくさんいる。彼らの想いは捨て置くのか。そうやって造った国で君が蔑まれてきたように、彼らを蔑むのか。同じ口で、同じ剣で」


 男が反応するよりも前に、ヨクリは眉宇に力を込め、強い口調で言い切った。


「————そんなことはさせない。絶対に」


 全てのシャニール人が、ランウェイル人の流血を望んでいると考えている眼前のこいつらに、ヨクリは吐き気がするほどの嫌悪を覚えていた。

 虐げられている全ての代弁者になったつもりなのかと。

 何様なんだと。


 雲から降り出した雨粒はいつしか強まり、小雨に変わっていた。


『獣の飼い犬め』


 ヨクリの言葉を意に介さず、唾を吐き捨てるように男はヨクリを侮蔑して、隣の連中に手で合図した。散開する他の三人をみて、議論の余地はもうないという無言の意思表示をヨクリは受け取った。一人がヨクリの背後を取るように回り込む。


(なぜなんだ、なぜ)


 ヨクリは諦めの混じった疑問を心の内で呟いて刀を構え直した。ヨクリにとって不利になる陣形が組み上がっていくのを、しかしヨクリは静観したままただ真っ直ぐに青眼を保っていた。


(斬るのか、俺は。彼らを)


 ヨクリはもう一度自身に問いかけた。そう心に決めていたはずなのに、直前になってヨクリの頭は念を押すように語りかけてくる。

 ヨクリの正面に放射状に広がる三人、背後の一人。ヨクリから見て右手の男が、引具を起動し、携えた刀を振りかぶりながらヨクリへ駆け寄ってくる。


(俺は————)


 白刃が眼前に迫り来る。微かに反射した刀身に自身の顔が映っているのがはっきりと見えた。

 続くはずだった言葉は、刃と血に変換される。


 下から上へ打ち払い、手首を返して袈裟懸けに斬りつけていた。直後どしゃあ、と水気のある音を立てて、斬った相手は倒れこむ。一拍にも満たないあいだの出来事だった。

 血だまりはみるみる広がっていき、ヨクリはうつむきがちにそれを見た。


 ————魂の一部が削り取られ、消え失せていく感覚があった。それは、同じ血の流れる民族へはっきりと別れを告げた瞬間だった。他のシャニール人と関わろうとしなかったヨクリにも、拠り所のような郷愁と憧憬は自我の奥底に確かに根を下ろしていたのだ。

 それを痛感したのは、失ったあとだった。


(俺は……)


 斬り捨てる直前に何を思ったのか、続く言葉がなんだったのか、ヨクリはもう思い出せなかった。

 代わりに、顔をあげて残りの動きを注視するように見据えた。残りの者たちは再び陣形を立て直して、また一人がヨクリへと突進してくる。一人と鍔迫り合いをしている隙を、囲んだ他のものが一気に襲いかかる戦術だろうと、ヨクリは一人目を斬る前にはもう見抜いていた。


(それじゃだめだ……)


 その連携や構えを見て、剣を受ければいやでもわかってしまう。このシャニール人たちは本当に、この国に憎悪しか抱いていないということを。そうでないなら————


(————そうでないなら、どうしてこんなに)


 少し体を半身にするだけでその太刀を躱せてしまう。返す刀で、ヨクリはたやすく二人目の首を飛ばした。

たったそれだけで、残りの二人は凍りついたように硬直した。


(なにも学んでいないのか、なにも)


 ただ怒り、恨みを募らせる日々を過ごしてきたのか。学ぼうとはしなかったのか。この国の優れた技術や、知識を。そのどうしようもない事実が、悲しみと怒りとを生んでヨクリの心を埋め尽くす。

 そして祖国の剣術さえも。一団の所作はヨクリの記憶のなかにある同胞の友人のそれよりも、はるかに見劣りしていた。なぜ、どうしてと頭の片隅の小さなところがひたすらに叫んでいる。


『こいつ、強いぞ! どうする!』

(違う)


 聞こえてきたシャニール語に、ヨクリは虚しく胸中で答えていた。技量の差を感じた一団はしかし引くことができないのか、わずかな戸惑いののちに、再びヨクリへと剣を向ける。ヨクリはそれでも情けをかける気はなかった。


 ————そしてまた、背後に回っていた一人と打ち合い、たやすく命を奪っていった。完全に目論見が瓦解した集団にはもう、ヨクリに立ち向かえるだけの戦力も気力もなかったはずだが、残りの一人は裂帛の気合を腹の底から振り絞りながら、それでも剣を引かなかった。


 そして最後の一人、直前に会話をしていた男へ意識が完全に移ったとき、急に自我を取り戻したように視界の全てが精緻にヨクリへと流れてくる。

 数合の打ち合い、反動を立て直し刃を振り上げるヨクリ、躱そうとする男。手首を回して切っ先の軌道を胴体へと追尾させる。

 熱い吐息がヨクリの右頬をなぶった。致命の瞬間と、そして、諦観と憤怒をないまぜにした男の表情を時が止まったようにヨクリへその光景を焼き付けさせた。


 懐深く潜り込んで男の腹部へと刃を沈み込ませたとき、思わずにはいられなかった。なんのために言葉を交わしたのだろうと。はじめからこうなるならば————結局力でもって相手の意志や信念を踏みにじるのならば、先刻までの感情はいったいなんの意味があったのだろうと。


 男が落命する寸前、血を口の端に浮かべて、凄絶な笑みでヨクリへ言った。ランウェイル語ではなく、シャニールの言葉で。


 呪いあれ、と。


 ヨクリは瞑目して堪え、刃を引き抜くと、男が吐血して、その血が頬にぱた、と落ちた。ずるりと生気を失った体が濡れた地面にくずおれる。

 微かな息差しは雨音に消え、瞳から光が失せる。


 そうして吹き抜けた一陣の風のように、激しい剣戟は瞬く間に過ぎ去ってこの場には物言わぬ骸が四つと、ヨクリただ一人だけが取り残される。

 遠くから戦のさざめきが家々を飛び越え聞こえてくるが、小雨の降る音をはっきりと聞き取れるほどに、確かにこの場は静寂に包まれていた。


 血染めの刀の切っ先からぽたりと、一滴地面に垂れ落ちる。


 これまで起きたこと、その道のりから分かっていたつもりだった。正義や正道がまかり通っている国ではないということも、ヨクリがそれを胸に秘め続けてはいられない国だということも。でも、それでもほんのひとさじ程度しかなくても、万人がそれを正しいと認めることがあるとヨクリはまだどこかで信じていたのだ。


「ようやく、わかった」


 失ったものと引き換えに、ヨクリは自身のうちに一つの真理を見出したような気がしていた。


 ————ヨクリの抱いているもの、目指す場所に、意味など最初からなかった。


 ヨクリの心にじわじわと染み渡る一つの真理を投影するかのように、薄明かりに照らされた血の雫が濡れた地面に滲んでゆく。


「シュウや、キリヤのときも」


 二人の少女に追いつけるだけの力をつけていなければ、自然と関係は薄れていっただろう。


「フィリルのときも」


 獣を退けるだけの力さえなければ、そもそもキリヤが依頼を持ちかけてくることはなかっただろう。


「今まで出会ってきた人も、全部」


 きっとその者たちに必要だったのはヨクリの人柄や、発した言葉ではなかった。まず問われたのはヨクリの力だった。

 それが決して優れていたとは言わない。それでも、その時々に足りうる力を示せなければ、ヨクリの価値を証明することはできなかったのだ。


(贅沢だったんだ。キリヤのように民のために、国のために志を示すなんていうのは。俺にできること、俺がやるべきことは、ずっと目の前に横たわっていた)


 誰かが役目を終えればまた別の誰かがそこに座る。かけがえのない人間なんて世界にはほんの一握りしかいない。ヨクリは代替のきく人間の一人に過ぎない。国の中枢に深く関わるような、天に選ばれた人間ではない。キリヤのように。あるいはクラウスのように。


 晴れた霧の向こうにあったのは、ヨクリが期待していた誰もが羨むような特別なものではなかった。それでも、ヨクリにはきっとそれしか手に入れることはできないのだろう。諦観と失望は拭い去れない。けれど、明瞭になった視界の先に自身の両腕と、携えた剣を見ることはできる。それでいい、それで十分だとヨクリは素直に思った。


 ずっと胸に抱き続けてきた小さな想いを裏切ることになるかもしれないと、ヨクリはどこかで予感していた。それすらも全て捨てるかどうかは、まだわからないけれど。


 ヨクリは事切れた血塗れの同胞を見下ろした。


(こいつらの言葉は、もういらない)


 ゆっくりと目を閉じて、


(——あいつの、シュウの言葉さえも)


 それは、決別の決意だった。


(誰かのためじゃない)


 誰もいない場所で、ヨクリは抑揚のない声で、しかしはっきりと言った。それは、自身に向けての誓いだった。


「俺は俺の居場所を守るために、俺の力を使う。————誰にも邪魔はさせない」


 遠雷が、鳴り響いた。

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