三話 蹇達の行進
深い眠りからたやすく覚醒したのは、胸がざわめいたからだと目が覚めてから気がついた。夜更けにもかかわらず、再び睡魔が訪れるような気配はなかった。もうじき一月になろうかという、新しい寮での生活。柱で連結され、二段になっている寝具の下段で少女はゆっくりと上体を起こした。上の主——同室の貴族が部屋を開けていることは起きた瞬間の空気でわかっていた。
——似ている。
青髪の少女はそう直感した。胸の内でかすかに、しかし確実に聞こえてくる雑音のようなさざめき。それは一月前あの青年に出会ったときに感じた、なにかが起こるような予兆だった。
緩慢に闇に包まれた室内を見回すと、閉じられた入り口の扉から光が細く漏れていた。さらに、フィリルの気を引いたのは窓の外だった。
(月明かり、ではありません)
日暮れまでは薄くかかるほどだった雲。それが眠りのうちに空を覆い尽くしている。そして、その雲をうっすらと照らす光は赤く、原因はその下——フェリアルミスの街だということがわかった。おそらく分校からの距離はかなり遠い。少女は寝間着のまま靴を履いて窓辺に近づいた。
鍵を外して枠に指をかけ持ち上げると、冷たい風と運ばれてくる小さな水滴が肌を撫でる。小雨よりも、その尋常ではない様相を伝えてくるものがあった。
音である。それは耳をそばだてると聞き取れる、戦いの音だった。時間帯を配慮するよりも前に、それが修練や演習ではないことを少女は直感していた。人と人とが命をやり取りする破壊の音。
机の上にあった、記名が必要な書類とともに送られてきた紙が風でかさりと揺れ、フィリルはそれが飛ばされないようにそっと押さえてから丁寧にたたむと、引き出しへとしまい込んだ。それは少女へ届けられてから、何度か読み返した手紙だった。簡単な近況と、フィリル自身へ向けた、おそらくはとりとめのない質問が綴られていた。
夜風の冷たさに、ほとんど無意識で壁掛けに掛けられている首巻きを手に取ってからふと思い当たる。その首巻きが、手紙と同じであの青年から贈られたものだったからだ。
(シャニール人自治区)
雲の様子を見た少女の感覚では、方角と距離がおおよそ当たっていた。青年は自治区に根を下ろしているわけではない。それでもその想像はフィリルのうちになにかの痕跡を残した。
(どうして、でも)
ただ血が同じというだけなのに、勝手に結びつけてしまう。関わりがないはずなのに。
考えてもわからないような気がして、フィリルは思考を中断した。一瞬の心のゆらぎをなかったことのように無視できたのは、その一連の所作を少女は得意としていたからだった。
そして別の方向から考える。この時間に部屋の外の明かりが点いているのは、今の少女の気がかりと関係がありそうだ。
少女は静かに扉を開け、部屋の外へと出る。廊下の壁に備え付けられている等間隔の燭台を頼りに、学生同士が使う談話室へと向かった。部屋の外、廊下に居ても漏れ伝わってくる声量はそこそこの人間が今使用していることを窺わせる。
両開きの扉の片側を小さく開け、中の様子を一度確かめたあと、その隙間を縫うようにするりと入室する。
質実ながらもところどころに拘りを見せる調和のとれた内装。各階に備え付けられた談話室は、その階の半分とはいかないまでも、かなりの人数が一度に使える広さを有していた。
改めて室内を見渡すと熱心に話し込む学徒の集団がいくつかあった。そのうちの一つ、フィリルが見知った姿を認識したのとほぼ同時に、その姿が反応する。
「あ、リルさん起こしちゃいました?」
「いいえ」
フィリルの名前を縮めた愛称で、その少女は言った。
「寝つき悪いっすもんね。すみません」
「いいえ」
同室の同窓との夜につい最近まで慣れなかったのは事実だったが、あえて言う必要もないとフィリルは判断した。
ターニャ・トラウト。六家ツェリッシュよりもはるかに歴史のある、高名な商家トラウト家の令嬢らしいが、フィリルはほとんど無知と言っていいほど貴族社会に疎かった。口数が多く話好きだが人の機微には敏く、会話下手のフィリルを時に誘導し、和やかな空気を率先して作ってくれている。人の好悪もまだよくわからないフィリルだったが、この少女の心根は優しく、やりやすい相手だということは感じていた。
「今南東のほうがすごいことになってるらしいっす」
フィリルの疑問とターニャ自身の行動を加味したように端的に言うと、
「シャニール人征伐に乗り出したってさ」
「とうとう、といった感じでもありますね」
口々にターニャの知人たちがフィリルへ付け加える。
「征伐?」
フィリルが小さく返答を返すと、快活そうな少女が眉尻を下げて言う。
「ずーっとシャニール人のせいで荒れてたからね。ようやく重い腰をあげたってことなんじゃないかなあ」
「でも、どこが征伐を指揮しているんでしょう? 軍? 維持隊?」
「いや、ツェリッシュ家が動いてるみたいっすね。新しい引具の検証も兼ねた、結構な戦力を入れてるらしいっす」
「さすがトラウト家のご令嬢」
「畏れ多いっすけど、まあ一応ツェリッシュ家とは同業っすからね」
言いつつも得意げに胸を張ったあと、
「……ベルフーレ様はどうなの?」
快活そうな少女の声量が小さくなっている。
「ツェリッシュ家の用事でしばらく休学するみたいっすね。それが今回の件となにか関わりがあるかどうかまではちょっとわかりません」
同い年の学友の中に六大貴族の末の娘ベルフーレも在籍しているというのは知らぬ人間がいないほど有名な話だった。上品な見た目に、極めて優秀な成績を修めている俊英だということも周知の事実である。ただの成り上がり者と大人の貴族たちはツェリッシュ家を影で謗るが、学び舎という閉塞された社会でそんなことを漏らせばたちまち噂になり、たやすく処断されることは想像に難くなかった。それほどまでに六大貴族とそれ以外とでは純然たる地位の差が存在する。
ターニャは思い出したように切り返した。
「うちだけじゃなく、武家もてんやわんやみたいっすねぇ」
その言葉に一人が答え、
「そういえばさっきベヘリット嬢が使いと話してた」
そこで一同は青髪の少女の顔を見る。フィリルは察することができずに、
「……?」
と、わずかに首を傾げた。なぜ思い当たらないのかと言いたげに、慌てた声音でターニャが一から説明する。
「いやいや、模擬戦でリルさんが叩きのめしたじゃないっすか。彼女がベヘリット家の長女様っすよ」
「ああ……」
言われてフィリルはようやく気づく。優れた成績を残した基礎校生が集められた貴族分校。入学の最初に行われた原則全員参加の大規模な模擬戦で、フィリルが二戦目に当たった相手がベヘリットだった。
「ああって……」
フィリルの単調な物言いに、なんとも言えない表情でターニャが脱力するように肩を落としたあと、こほんと咳払いして、
「リルさんあんまし興味なさげっすけど、あの戦いでみんな一目置いてるんすよ」
確かに手強い相手だったとフィリルは思い返していた。ほとんど同じ形状の引具を使う茶髪の青年や、黒髪の青年の戦闘速度を体感していなければ土をつけられていたかもしれない。
叩きのめすというほど戦闘の内容に開きがあったわけではないとフィリルは思っていたが、端から見た印象ではそうではないらしかった。
「リュミエラ・カロスと申します。以後お見知り置きを」
「マリー・ギリアム。あたしの家は正直大したことないから、気軽に接してくれると嬉しいな」
二人の自己紹介にフィリルは一度硬直したあと、
「フィリル・エイルーンです。よろしくお願いします」
と返した。マリーは笑顔で、
「知ってる知ってる。ターニャも言ってたけど、武闘派少女でもう有名だよ」
「そう、なんですか?」
「ベヘリット嬢は模擬戦で最後まで勝ち残る本命の一人だったからねえ。それがすぐにこけちゃったもんだからあの青髪は誰だーって」
マリーの言葉を継ぐようにリュミエラが微笑む。
「エイルーン家も情報がほとんどありませんでしたから、皆遠巻きに貴女を眺めていました」
「謎の少女って感じだよ! ……で、戦い方は誰から習ったの?」
「……」
わくわく顔のマリーにフィリルはしばし逡巡してから、
「基礎校で」
「えー、秘密ってこと?」
口を尖らせる。
フィリル自身は話してもいいと思っていたが、考えを巡らせたとき、あの黒髪の青年はそれを渋るような気がして答えることができなかった。
返答のないフィリルに、
「まあいいや」
詮索されたくない様子に気を遣ったのか、もしくはどうしても解決したい疑問ではなかったのかわかりにくかったが、あっさりとマリーは話題を変えた。
「ベヘリット家に情報が行ってるくらいだから、偉い人たちも大変だよね。ジルヴェール家はなにか手を打ってるのかな?」
「どうなんすかね。今回の件はツェリッシュ家が一任されているみたいっすし。それに……」
答えたあとで、ターニャはなにか思い当たるところがあったのか、
「あんまり大きな声じゃ言えないすけど」
と三人へ小さく手招きして顔を寄せるように促した。二人がターニャのほうへ近づいて、一拍遅れてフィリルがそのようにすると、
「少なくともうちらトラウト家とか商人連中のあいだじゃ、十年前の戦争から結構自業自得って言われてはいるんすよ」
首を傾げながら、マリーが同じく声を絞って聞く。
「シャニール人を国民として扱ったってこと?」
「それについては賛否あるっすね。いくらランウェイルが世界一の大国とは言っても、敗戦からの棄民をないがしろにして諸外国への軋轢を高めていい理由にはならないっすし、一方で文化のかけ離れた民族を取り込むのは容易じゃないって意見もあるっす。私もどっちも正しい気がするっす。それは当時の時流が決めたみたいなところがあると」
また、エーテル関連用品や技術の輸出要求に対して徹底して流出を防ぐべきだと言う強硬路線を取っているのは戦前かららしく、これ以上外国からの圧力を増やしたくはないランウェイル上層部にとっては敗戦国の処遇にはある程度は寛容にならざるを得なかったらしい。
そういった事情を素早く、そして明快にターニャは答えて、
「そうじゃなく、十年前の戦争自体っすよ。実際シャニールと戦争をして、結果こうなることを予期できなかったのかと疑ったとき、どうも十分考えられる事態だったんじゃないかってことっす」
ぽそぽそと、非常によくまとまった考えを滔々と続ける。
「それこそ六大貴族やそれに準じる家くらい上の立場の方々が、実際の口実は建前にしておいて、もっと別の目論見で引き起こしたものなんじゃないかって。それで下の貴族や平民たちが割りを食うのもなんだかなあって」
年齢にそぐわぬ、俯瞰的に物事を見て評価するターニャ。今しがた披露した大商家の娘としての教養や知識は市井の同年代どころか大の大人と比較しても突出したものだったが、分校は各基礎校で優れた成績を誇る貴族が編入を許された教育機関である。ことここにおいてはターニャが特別というわけではなく、皆が家が持つ独自の哲学を身につけ、それを自身の考えや指針として定着できている。まさに将来国を担う人材といっても全く過言ではない人間たちが集められているのだ。また、各々の家の当主も分校へ送った我が子らがゆくゆくは家名を継ぐことを望んでいる。そして実際この広間においては学徒同士で家の垣根を越えた激論が交わされている光景が珍しくない。
ターニャは眉を下げてから、時間が止まったように微動だにしないフィリルへ声をかけた。フィリルが考え事をしているときの所作であることをターニャは知っていたからだ。
「どうかしたっすか? リルさん」
「いえ……」
訊ねられたフィリルは幾度か瞬きしたあとに少しだけ言いよどんでから、
「そういうことをわたしたちに話してしまってターニャさんは大丈夫なんでしょうか、と」
トラウト家の情報網を使って手に入れた情報や考察——つまりトラウト家とその周辺が同様の、ある意味で六代貴族批判的な価値観を持っているということを包み隠さず伝えたわけであるから、フィリルはそれが引き起こすターニャへの不利益が疑問だった。
「ふふ」
フィリルの考えに、今度はリュミエラが口元を抑えて笑う。フィリルが目を丸くしていると、ターニャは得意げな顔をして大仰に答えた。
「そこはほら、信頼の証ってことっすよ」
そうやって自身の心の内を明かすことで人脈を作り力を強めていったのか、というような推測を頭の内で立ててから、諸々腑に落ちたようにフィリルは頷いた。
「なるほど」
明晰なターニャはフィリルの考えをなんとなく察したのか、今度は苦虫をかみつぶしたように、
「いやな相槌っすね……」
「すみません」
フィリルが反射的に頭を下げると、
「冗談っすよ、冗談」
とターニャはゆるく笑ってから、
「まあ、正直に言っちゃいますとね」
その言葉で顔を引き締めた。まっすぐな眼差しだった。こういう顔はフィリルにも見覚えがある。自分を知ってほしいときの顔。包み隠さず心の内を打ち明けて、相手がどういう反応をするか試しているときの顔。
フィリルにとっては数少ない、心を置ける人たちが浮かべていた表情だった。フィリル自身をきちんと受け止めてくれる人たち。
「リルさんの言うことを考えないわけじゃないっすけど、二人やリルさんがそれを盾に私になにかするっていうのは性格的にも、家的にも可能性は低いっすからね」
そうやって貴族として、個人としての見解をターニャははっきりと述べていた。
そして、ひどいっすよね、と自嘲気味に笑ってから、
「でもこの国は、そういう国っすよ」
それは自身の意思で正しくランウェイルを見つめてきた言葉だった。
その微笑みの意味はフィリルにはわからなかったが、それでもフィリルはそれを見て、なぜか息が詰まる感覚を覚えずにはいられなかった。
「……ターニャさんほどの重責が私の家にあるわけではありませんが、それでもよくわかります」
リュミエラはたおやかにターニャの言葉を肯定した。ターニャは先ほどよりもいくばくかの前向きな輝きを携えて、
「今この場所は人間的に好きかそうじゃないかで人付き合いをしても許されるところっすしね」
「そうだね」
それは万感の思いが込められた相槌だった。
「っと」
ターニャは変わった空気を払拭するように声を上げてから、
「教官がたがこないのを見ると、予想よりもだいぶ混乱してるのかもしれないっすね」
「そうですね……起きている私たちがあまり言えませんけれど、もうこんな時間ですのに」
リュミエラがターニャに頷くと、マリーが付け加える。
「南東のほうは燃えてるらしいよ。戦闘の規模もここ最近じゃ一番大きいみたい」
議題が本筋へ戻ると心のうちの気がかりがまた鎌首をもたげてきて、フィリルは茫洋と窓の外のほうを見る。
「……リルさん?」
再びターニャがフィリルの様子に気づいてから、思い当たったようにフィリルへ二度言った。
「そういや、リルさんがこういう騒ぎに興味を持つのって初めてっすよね」
「そう、でしたか」
「自治区の近くに知り合いでもいるんすか?」
「いえ……」
否定するが、少女にしては珍しく、煮え切らない感情がそのまま口ごもるような声音になって現れた。
そう。ターニャの言う通り、知り合いがいるはずもない。そのことを考えてしまうのも、フィリルはどうしてなのかわからなかった。
思い浮かべる黒髪の青年は恩人だ。それでも、人種が同じというただそれだけでこうもたやすく連想してしまうのはどうしてなのか。心のうちがざわざわと騒ぎ出すのは、どうしてなのか。
いくら考えてもフィリルには解けなかったが、ただ、黒髪の青年が次にフィリルへと送ってくれる手紙が無事に手元へと届けられることを無意識に強く願い、再び窓辺へ目を向けていた。




