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ヨクリは自身の力の及ばない、途方もない激流に翻弄されていることをやっと自覚した。
クラウスの帰宅でヨクリの役目は終わり、ようやくファイン邸から離れられると考えていたが、真っ先に引き止めたのはマルスではなくクラウスだった。ツェリッシュ家の二人もそれを訝るどころか歓迎するようなそぶりを見せる始末である。到底ヨクリの敵う状況になかった。
ずるずると滞在が伸び、味など碌にわからない夕餉を振舞われ、夜も更けて、結局プリメラとベルフーレが帰宅の馬車に乗り込む所まで時間が経っていた。
そうして初めて案内されたのは屋敷の二階、クラウスの部屋。清掃は行き届いているが、しかし物が多く雑然とした室内。その混沌を、部屋そのものの広さで補ったような様相である。中央の小さな卓に二つ椅子が置かれており、ヨクリはそこへ促される。
窓の外から差し込む月明かりと燭台に照らされたクラウスの長く大きな影が、炎の揺らめきを追った。
「まあ、かけてくれたまえ」
言いながら、クラウス自身が淹れた茶が互いの側に置かれた。しかし、ヨクリはそれには手をつけず、図術士の顔を見る。クラウスは一度愉快そうに口角を上げ、
「そうだな。私ときみは旧交を温める仲でもない」
淹れるのは得意なのだがな、と言ったあと笑みをおさめて、ヨクリの目を見据えた。
「————君に、頼みたいことがある」
それがとても重要かつ、内密な話であることをヨクリは予想していた。マルスにも話を通さず、使用人さえ立ち入らせなかったからである。
ヨクリはその言葉を咀嚼したあと、身構えた。
「俺に、何をさせるつもりなんですか」
「そう構えんでくれ。業者としての君に頼みたい、いたって普通の依頼だ」
ならばなぜマルスに席を外させたのかとヨクリは少し考えてから、情報の補完のために続きを待った。
「サンエイクへは行ったことがあるかね」
なんの話だと訝りながらも、質問に素直に答える。
「……何度か」
基礎校を出てから数年間の転々とした業者生活においても、サンエイクは立ち寄ったことがある。砂漠にそびえる管理塔と、はるか昔にチャコ砂漠付近で栄えていたスローシュ大陸南部の文化を未だ色濃く反映させる町並み。
「ひどい有様だったろう」
業者としての意見しかヨクリは持っていなかったが、以前訪れたときの街の環境は良いとはとても言えず、長居をしたくない場所だったのを鮮明に覚えている。
「……それでも、彼らはそこに住むしかない」
肯定しつつも、ヨクリは現状を危惧していることをほのめかした。
「君の言う通りだ。だからこその依頼だな」
クラウスは書類をヨクリのほうへ差し出した。厚みのある資料を読むのには時間がかかったが、クラウスは急かさずに静かにそれを待った。
しばし紙をめくる音が響いたあと、それらを全て読み終えたヨクリは驚きを全く隠せない声をあげていた。
「————上級魔獣」
「そうだ」
「本当に、クラウス様がこれを」
「ツェリッシュ様と共同だがな。君もどうかね」
クラウスは昼下がりに茶でも誘うような気軽さでヨクリへと持ちかけた。当然だがヨクリは上級魔獣を目にしたことはない。そもそも、生涯を通してそれと対峙したことがある人間は図術技法の発展目覚ましいランウェイル国内においてもごくごくわずかだった。
ヨクリの動揺を尻目にクラウスは続ける。
「正直なところを言おう。腕利きの業者が一人でも多く欲しい」
ヨクリは即答を避け、不足しているものを補おうと会話の続行を試みた。
「国軍や貴族たちは動かないんですか」
ヨクリが訊ねると、クラウスはその二つに簡潔に答える。
「国軍はリヴァ海警邏や旧シャニール常駐軍などで逼迫されていて裂ける人員はない。貴族はまず承認が得られんさ」
その真偽を確かめるすべをヨクリは持ち合わせていなかった。
「どこも我が身が可愛いものだよ。勝ち目の薄い戦に子供を送る親はいない」
それほどまでに、利益に見合わない——あるいは、それ自体が成功しない危険が伴っているということだろう。だからこそヨクリは直截的に訊いていた。
「勝てるんですか」
「難しい、と言わざるを得ないな。だが、声をかけた具者たちはいずれも一線で活躍する者たちばかりだ。彼らが正しく機能すれば、あるいは」
客観的すぎる言い分にヨクリが口を開こうとした瞬間、クラウスは苦笑まじりに、
「私も同行するから、勝ってもらわねば困るがね」
その言葉にヨクリはとっさに声をあげた。
「クラウス様も前線へ?」
「現地のエーテル濃度を確かめねばならん。推定ではそれほど高くないはずだが、こればかりは近づいてみないとわからんことも多いのだよ」
対魔獣なら戦力にもなるしな、と軽くいうクラウスだが、ヨクリは驚きを隠せなかった。まさかクラウスほどの人物が業者に混じって行動するなど思いもよらなかったからである。
「まあ、この話はさて置こう。————次の話のほうが期限が差し迫っているからな」
クラウスは一度話を閉めてから、別の議題へと移した。
「もう一つ喫緊の、依頼というには少々毛色の違う話がある」
なるほど、とヨクリは得心した。確かに一つとは言っていない。おそらくマルスを通さなかったのは次の話が理由だろうと洞察を深める。
そして、クラウスの纏っていた空気がわずかに緊張したのをヨクリは敏感に察知して続きを待った。
「首都のシャニール人」
なにが起きているのか、詳細をクラウスはヨクリに話さず省いた。ヨクリの身の上から推理して、すでに知っていることだと考えたのだろう。
だがヨクリは面食らった。その話題が出るとはつゆほども思っていなかったからだ。おそらく、フィリルの体質に関するなにがしかや、あるいはそれに準ずる要請だとおぼろげに予想していたのだ。
「彼らの行動を牽制するための攻勢が近々行われる。君には是非参加して欲しい」
ヨクリの全身は、雷に打たれたように固まった。
言葉の意味を飲み込むのに時間を要した理由が、ヨクリ自身にも判然としなかった。ただただ、強い衝撃を受けていた。そしてようやく、絞り出すように言葉を返す。
「シャニール人を、殺せと」
「そうだ」
図術士は固く頷いた。否定の余地を残さない強い態度だった。クラウスは立ち上がり、部屋の奥にある仕事机から紙を一枚抜き出して、ヨクリに差し出した。
「……これが、シャニール人によって斬られた要人の一覧だ。ここ一月でな」
漠々とした思考のまま、紙の上の文字を目で追う。ヨクリも名を聞いたことがある商会の上役や上級貴族の当主など、確かに国としても無視できない規模の被害が出ていた。
「目標を殺せさえすれば、その近くになんの関わりもない民が居ようとも奴らは御構い無しだ。……最近はとくにむごい」
クラウスは資料を検分するのを横目で見ながら続け、
「上の人間はまだ散発的なものだと思っているが、これはもう教会や貴族だけの目論見ではない。首都に流入しているシャニール人の数が多すぎる。どう考えてもシャニール人側が自発的に行動し、さらに彼らに協力するランウェイル側の組織がなければありえない」
クラウスは言葉を切って、ヨクリの想像をはるかに越える推論を展開する。
「……十一年かけて、その狼の牙を研いでいたのだ。我々が戦後の処理やシャニール領内のエーテル利権を巡り地内で争っているあいだ、シャニール人はずっと戦い続けてきた。こちらの勢力を取り込んで。——彼らの戦争は終わってはいない」
ヨクリの動揺を知ってか知らずか、畳み掛けるようにクラウスは続ける。
「今のこの国の体制を憎んでいるのは分かり易い弾圧を受けているシャニール人だけではない」
さらに継いで、
「海路を解放し、商いを再開したい者。争いを起こして引具開発の資金を得たい者。傷ついた者に甘言を弄して己が信徒としたい者。————国王に成り替わり、ランウェイルを長らく支配してきた六大貴族と、彼らの作った悪しき伝統に反旗を翻す者」
諸問題を列挙していき、最後に確信へと迫った。
「それらの欲望と憎悪を孕んだ思惑が、大きなうねりになりつつある」
しばしのあいだ、会話が途切れる。その意図するところが一体なんなのか、ヨクリにはもうわかっていた。
「戦が、始まるんですか」
自身の口から出た言葉に、ヨクリは震えた。そして、遅まきにまた気づく。ここ数日に浴びた敵意に付随するざわめき。なぜ、ずっと前から受け続けてきた排他的な感情が、居ても立っても居られないくらいの焦燥感を生んでいたのか。
断片的な情報から論理を組み立てるよりも前に、ヨクリ自身が、争いの気配を肌で感じていたのだ。
クラウスは、ヨクリの言葉と内心を肯定した。
「————おそらく、そうなるだろう。今度は他国相手ではなく、ランウェイルの民同士が傷つけ合う戦だ。それも自国内部で」
印象的な表情だった。それは、数多の血と泥を見た者にしかできない複雑な面持ちだった。
「憂えは断たねばならぬ」
そしてクラウスは再び先に述べた問題へと振り返った。
「内偵の結果、とうとう奴らの首魁が会する場所と時刻を突き止めた。私たちはこれを叩く」
未だヨクリの疑問は尽きなかった。情報の奔流に飲み込まれながらも、重たい口を開いた。
「なぜ」
震えそうな声音を抑えつけるように努めて、
「なぜあなたが、なぜ俺にそんな依頼をするんです」
とっさに出たのはそんな問いだった。クラウスはすぐには答えず、カップを手にとって一口啜った。
「端的に説明するのはとても難しいが」
そう前置きして、
「ファイン家の没落の理由は、知っているね」
「はい」
ヨクリが頷いたのを見て、順を追って話し始める。
「戦後シャニール人をランウェイルへ併呑させたのは、我々ハト派……いや、これは正確ではないな」
ほんのわずか、自嘲気味に口元を歪めてから、
「印された旗を振り翳した統一された思想のもとではなく、私は、私の意志で持って彼らや、君を招き入れるよう行動した。許されたかったからだ」
最後の言葉についてヨクリが訊ねるよりも前に、クラウスは続けた。
「だが、昔の私の行動が今ランウェイルを混沌に陥れているのだとしたら、私はその行いに対して再び同じように償いをしなければならない。それが私の戦う理由だ。そして」
クラウスの瞳に力が宿るのをヨクリは感じた。フィリルについての糾弾を跳ね除けた無機質な力とは違う、熱と感情のこもったまなざしだった。
「君を戦いへ誘う理由もまた、君がその血を引いている人間だからだ」
ざわつく心を押し付けて、客観的に判断しようとヨクリは努めた。そうすると、やはり腑に落ちない。それをそのまま口に乗せる。
「……むしろ、逆なのでは。シャニール人を殺すのに、シャニール人を使う理由のほうが、俺にはわかりません。……この国では」
「君が“シャニール人でありながら、ランウェイル人だから”だ」
ヨクリの口上を遮って、クラウスははっきりと告げた。
「君がマルスと友人になったのは、ステイレル卿に信を置き、置かれたのは。……エイルーン嬢に心を砕いたのはなぜだね」
突きつけるように重ねられた言葉に、ヨクリは息を詰めた。千々に乱れるヨクリの胸中を代弁するように、クラウスはその答えを言う。
「それは君がランウェイル人だからだよ。……この国に、ランウェイルに居場所を求めた結果だ」
さらに続けて、
「君の今の有りようは、私がかつて悔い、そして願った結果とほとんど相違ない。私のあのときの決断全てが過ちではないと、君が言ってくれているんだ」
聞いたことがない、優しい色をした声音だった。その表情は、ヨクリがクラウスに抱いているわだかまりを少しのあいだ忘れさせるような、清々しい笑みだった。
「それが、理由の全てだ」
そこに嘘はないようにヨクリには思えた。むしろ、クラウス自身が胸に秘めてきた感情を初めて人に話したような印象さえ与えていた。
「もちろん、今の蛮行がシャニール人の全てだとは私も思わない。しかしだからこそ、君が声なきシャニール人の尖兵となって、彼らを正す戦いへ加わってくれるのなら、と」
だがそれさえも、ヨクリを深い霧の中へと追いやる。ヨクリの心のうちにある歪に揺らいでいた図術士の像を正しく修正させるには、どうしてもぬぐいきれない隔意があったからだ。その堪え難い隘路から逃げるようにヨクリは返答を躱そうとする。
「……本当に、そのシャニール人たちはこの国に害意を持っているのですか」
「事実だ」
弱さを潰す冷たさを秘めた声音でクラウスは断言した。そして、
「君が私に信を置くことができないのは承知しているつもりだ。だが、もしわずかでもこの件について前
向きに検討してくれると言うのであれば」
言葉を切って、
「更に今の君が望む情報を、提供しよう。————ジェラルド・ジェールの情報を」
告げられたのはヨクリの現状を把握しているかのような提案だった。
逃れようのない岐路に立たされている正しい人々を見た。その現実がヨクリを動かし、ジェラルドを追うことを決めさせた。だが、奇しくも同じ現実がその歩みを惑わせる。自身にはどうすることもできない、シャニール人という血のしがらみ。
そして、ヨクリの背を押そうとするのもまた現実感のある言葉だった。
「————“業者”は報酬抜きで依頼を語れないだろうからな」
衝動に突き動かされるように口を開こうとした瞬間、クラウスは二つの返答を請わずにヨクリから背を
向けた。
「まずは六日後の十刻、フェリアルミス南東のアッザン拠点で君が来るのを待っているよ」
■
地に足のつけられない浮遊感のなか、ヨクリが向かったのはランウェイル東部の港湾都市イヴェールだった。ランウェイルとシャニールの人々や文化が混じり合った都市は、フェリアルミス近辺の内情を映してはいなかった。
時折すれ違う人々の表情には影がなく、未だ日常のさなかである。
(わかっているんだ。断るべきじゃないって)
クラウスからの二つの依頼。ヨクリにとっては両方とも、受けなければいけないと感じてはいた。
たとえどんな内容だったとしても。クラウスの技術でフィリルの生活が担保されている以上、接触を避けることはできない。ヨクリには少女を見届ける義務がある。だがヨクリが参加することで生じる不利益や、とくにヨクリ自身の明確な意志が存在する人斬り————シャニール人への攻勢に関しては大きな迷いが生じていたのだ。
ヨクリは、遥か彼方にある灯台の明かりを目指す、闇海に浮かぶ一隻の船のように、確かななにかを求めていた。
ランウェイルの石材や煉瓦を基調とした建築様式と、管理塔付近の最先端の図術技法に、シャニールの民族的な生活感が渾然一体となった街並みをヨクリはひた進み、目的の場所へ到着する。
緋色の貴族キリヤが手配した、共通の旧友が眠る施療院。
以前と全く変わらない様子でただ目を閉じる同胞の友人がそこにはいた。本当に時が止まっているような錯覚さえ覚えさせるほどに。
落陽が窓縁の影を落とす。
無意識とは言わないまでも、漠々とした思考でなぜシャニール人の友——シュウに面会しようと思ったのか。ヨクリは瞑目してひとしきり考えたあと、ゆっくりと目を開けて、
「俺は、どうしたらいいと思う?」
返ってくるはずのない声をヨクリは待ちながら、思い返していた。
あの日、少女がイヴェールの街並みを望んで語ったこと。その願いを、ほかでもないヨクリが潰してしまったこと。
シャニール人のために、国を変えたい。ヨクリはそれに、確かに頷きで答えたのだ。あのときヨクリが正しい道を選べていれば、今シュウと共にその意志へ邁進していたのだろうか。
(今、首都のシャニール人はまさしくそのために剣を振るっている。きっと、この現状を変えるために)
彼らと言葉を交えずとも、ヨクリ自身も同じ血を引いているがゆえに、どういう動機でシャニール人が暗躍しているのか手に取るようにわかっていた。
その思想は目の前に横たわる未だ目覚めぬ友人と同じ方向を向いている。
(でも——)
きっとあのときの少女の語った夢想は、この国で剣を掲げて屍を築き為すものではない。それもまた、ヨクリが確信していることだった。
シュウの顔を見たとき、ヨクリのうちに渦巻いていた霧が晴れていくのを感じていた。明瞭になった向こう側にある答えを、ヨクリは確かに見た。
そして。
ヨクリはゆっくりと俯いて、語りかけた。
「俺はもう、きみには、会いにこられないかもしれない」
声音は途切れ、震えていた。
憤怒や憂え、悲しみ、喜び。人間がもつあらゆる激情は時流がさらってゆき、あとにはそのほんのわずかの残滓だけが漂う荒野のみがただ広がる。
それでもその残滓が、止まぬ疼痛を引き連れひたすらに問うてくるのだ。
だから。
少女の代わりに、止めなければならない。でも、ヨクリには少女やキリヤのように、人の心を震わせる言葉を持ってはいない。
————ヨクリにできることは、ヨクリが止めようとする彼らと同じく、剣を掲げることだけだった。ただ一つ、それしかヨクリは持っていなかった。
だから。
(斬ろう。彼らを)
ヨクリの出した答えは、図術士の誘いに乗ることだった。
だがヨクリはまだ知らなかったか、あるいは時流にさらわれ、忘却の彼方に置き去りにしていたのだ。
寄せては返す波打ち際のような、たくさんの人間の意思がひしめき、叫ぶ場所を。その場所が内包する夥しい混沌を。
否応無しに変化させられる場所を。




