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途上のシャムロック  作者: 納戸
黒血に響く凱歌
59/96

   3

 下月 芽の十六日。

 照らす陽光は日に日に柔らかくなり、聖峰フェノールの雪解けが裾野を降りてリンドの金路を満たす。穏やかな風に人々が防寒の外套を手放し、身軽になった頃。


 リンド都市外。レンワイスへ向かう途中の三つめの拠点にそこはあった。

 ”離塔”の周囲に点在する諸施設からやや離れた、安全面で言えば魔獣の襲撃のおそれがある場所。林に囲まれた寄合所のような外観は苔やツタが生え伸び古びており、普段は手入れどころか全く使用されていないということがわかる。木々が目隠しの役割をしており、隠匿性の高い施設として作られたようにも思える、盗賊のねぐらのような建物。


 都市内の一般的な依頼管理所の待合室と比べると、三倍ほどの広さがあった。室内は六組の長椅子と長机が置かれるだけであり、そこに集っていたのは物々しさのなかに、ぴんと一つ透き通った気配をまとった人間たちであった。

 自信や余裕。若々しい輝きに相反するような、何気ない所作のなかに潜む洗練された完成度。その共通する研ぎ澄まされた空気が、統一感のない集団をまとめ上げている。


 一つの椅子に五、六名ほどの人間が座っている。合わせて三十人程度。

 しばらくのあいだ何事も起きる気配がなかったが、ひりついた苛立ちはなかった。この後なにが始まるのかは判然としていなかったが、各々その時刻を待っているようだった。

 しかし、ややもせず気づき、そして小さな話し声があちこちから聞こえてくるようになる。


「おい、血鎖のガダと大剣のトールキンだぜ」

「鷹のアーシスもいやがるな」


 男はさらに後ろに親指をやって、気取られないように合図する。


「”断らない女”だ」

「うお、マジじゃねーか。こりゃいよいよだな……って、よく見ろ周り。やべーぞ」


 奥から数えて三つめ、右寄りの位置で微笑を浮かべた女がいた。薄紅色の肩までの髪と、人目を惹く目鼻立ち。しかし、目立つのは女の秀麗さだけではなかった。

 施療院の認可紋が大きく刺繍された帽子と背嚢に、下に着込む、意匠の凝った洒落た衣服を隠すような神樹の前掛け。その装いはまさしく滅多にいない、”治癒者”の証である。


 女は声に知らぬそぶりを見せていたが、その実気がついていた。微笑みをたたえつつも、周囲に気を張っている。だが、噂の的になっているのは名が聞こえた者や、薄紅髪の女だけではなかった。

 女の周り——というよりは、よくよく見ていると室内のほぼ全員がめいめいに人を見ては同じようなやりとりをしている。そのほとんどが、自分が噂されているなどとは思っていない。

 ここにいる全員が、依頼の達成を重ねていき、本人のあずかり知らぬまま自身が活動する都市の外にまでその通り名が広まっていった業者たち。つまりこの先、国の中軸を担ってゆく若き業者であったのだ。

 一番の年輩者が血鎖と呼ばれたガダと言う四十手前ほどの年齢の男であり、他は二、三十代の若年で占められている。


 業者たちの話す声量や立ち居振る舞いに現れる少しの興奮が部屋の気配を彩っていったが、自発的に静まってゆく。各々が、なぜ高名な若い業者ばかりが集められたのか、その理由を考え始めたからである。

 室内の幾人かは、理由に行き当たっていた。あらかじめ情報を集めていたものと、この場の状況と情報を正しく把握し、思考を深く潜り込ませてある程度の推測をつけたものである。

 なかでも、直近の依頼で顔を合わせていることに気づいた幾人かの業者がいた。そして、さらに室内の相関図を俯瞰し、その固まりが複数あることに気づいた数名の業者。


(でも、私には関係ありません)


 依頼主が誰で、いつ、どんな内容の依頼であろうと。誰と組もうと、誘われようと。女は常にそうだった。

だから”断らない女”などという少しばかり外聞の悪い渾名がついたのだ。


(たまに変な勘違いをされる殿方がいらっしゃるのだけは、困りものといえば困りものですけれど)


 微笑を崩さず、美しく膨らんだ衣服の胸元と膝上までの長さの下衣を上品に整えて、部屋の様子を眺めながらそう心中でため息をつく。


 顔見知りや同じ派閥の人間が身内にささやく小さな密談も落ち着いたころ、部屋の後方から軋んだ木と金属の音が響いて、一つしかない扉が開かれた。

 業者たちが一様に振り向くと、差し込む陽光から幾人かの影が見えてくる。

 その立ち居振る舞いは、来訪を知っているはずのこの部屋の全員を、当然のように竦ませる。


 六大貴族、ツェリッシュの当主。

 そして、その大金商のそばに控える影が五つ。

 虫も殺せぬような穏やかな装いの見目麗しい淑女と、当主の才覚を継いだような勝気の瞳を湛えた、扇を持つ少女。そのツェリッシュ直系の娘二人に、”図術士”ファインと、その甥マルス。

 さらに南部の血を引く浅黒い肌をした屈強な男。


 計六名が部屋の一番奥、段差一つ高い壇上へとあがる。そのうちの一人が振り返って、一歩前に出る。ひらりと貴族服の裾が舞い、上質な光沢を放った。


「——さて」


 柔和そうな顔立ちとは裏腹の、底知れぬ覇気を纏った壮年の男である。


「皆も知っていると思うが、一応自己紹介をしておこう。私はロシ・J・ツェリッシュ。ツェリッシュ家当主である」


 その途端、全員が一同に席を立ち薄汚れた床へと跪くと、地鳴りのような各々の武具の擦れる音がいちどきに鳴り響く。しかし、それを苦笑いで眺めながら、


「ああ、楽にしてくれて構わないよ。確かに私は六大貴族と呼ばれる家の当主だが、諸君らにかなり近しい立ち位置だと思っているからね」


 一度目の声には集団は微動だにしなかった。


「さ、席へついて。私がここにきたのは諸君らに威を見せるわけではない。そんなつまらないことをするために君たちを集めたわけでもない」


 ロシの二度目の呼びかけに、今度はその場の全員が応じる。再び整然とした、しかし先ほどよりやや小さな音が部屋中を埋め尽くす。一言の相談もせずに一同の息がぴったりとあった対応になったのは、各々が貴族への接し方を知っているからだった。


「どうか自由にしてくれ。そして普段通りの君たちを私に見せてくれ。私語も大いに結構。むしろこの場に限ってはそれを無礼だと思うことを禁じたいくらいだ」


 冗談混じりの笑みを見せ、


「疑問質問等も遠慮せずに挙手してくれ。その都度答えよう」


 挨拶を終え、締めくくってから本題に入り始める。


「詳しい話を始める前に」


 ロシは業者たちの顔を記憶に留めるかのようにゆっくりと見渡してから言った。ここにいる業者たちもまた、その男の一挙手一投足を見逃さぬ真剣な目を送っていた。国の経済の重鎮ツェリッシュは新聞や雑誌などによく取りあげられその顔を肖像画などで見知っているが、直に面会する機会などほぼない。


「——錚々たる顔ぶれだと思っただろう。私やファイン卿ではなく、君たちのことだ」


 ロシの言う通り、大貴族の到着から遡ること四半刻ほど、室内はざわめきに満ちていた。


「全員の実力を見越した上で、集めさせてもらった。聡明な諸君は薄々察していると思うが、もちろん遊びでもなんでもない」


 客観的に見て並の治安維持隊より優れた者たちが集っているのは疑うべくもない。ただごとであるならば、行き過ぎな戦力。


「ある依頼を頼みたい。君たち全員に」


 ぴりりとした緊張が室内を駆け巡る。ここからの一言足りとも聴き漏らさぬ構えは、業者最大の敬意の現れである。

 その張り詰めた空気は、少しのあいだ続いた。

 そしてまさに緊張の糸が切れる直前に、ツェリッシュ家当主は口を開く。


「——覇王の遺獣」


 特徴のある呼称で、その目的を明かした。


「そのうちの一つを、諸君らに摘んでほしいのだ」


 部屋の空気が再び変わる。 


 その男はランウェイルを飛び越え世界中で、いくつもの名で知られていた。

 覇王。大賢者。悪魔の創始者。


 ——一斉蜂起の首魁。


 そう、当時世界中に牙を向いた、伝説の男である。

 その男が遺した”獣”とは、とどのつまりただの魔獣ではなかった。他の魔獣と一線を画する存在。強大な畏怖の象徴。ロシの比喩は、正確に室内全員へ伝わった。


「上級の……」

「討伐だって……?」


 室内の誰とも知れぬ二人が驚きの声を漏らした。だがさすがというべきか、動揺が表面化したのはその程度で、皆が表情を変えない。

 薄紅髪の女もそうだったが、おそらくほとんどが想像していたのだろう。六大貴族がこの腕利きばかりに招集をかけた時点で、生半な話ではないことくらいの推察は容易にできる。


 上級魔獣。下級と中級の脅威の差も一線を画しているが、中級と上級のそれは海よりも深い隔たりがある。確認されている上級と判断された全ての魔獣は桁外れの生命力を誇り、体長もそれに応じて巨大になっている。

 周囲の環境によって獲得した個性を伸ばし、あるいは掛け合わせて作られた魔獣たちは図術的処置を施されている。だが、その戦闘力はそのものが持つ生来の能力から逸脱しない。

 しかし上級は、”覇王”の精髄と表現されるほどの技術によって”エーテルに干渉する能力”を得ていた。言い換えるなら、この世界で図術と呼ばれている技法を使い、そしてそれを扱える知性があるということに他ならない。それぞれ固有の性質を持ち、他の上級魔獣からある個体を類推することも難しい。


 実際に上級魔獣と戦闘した場合どうなるか、というのを説明した、基礎校の教書に記載されている有名な例がある。

 遡ることおよそ八十年前、章紋歴四百四年。スローシュ大陸西方のケルビエ、ギネ間を跨ぐピューリ湿地の惨戦。上等校卒業資格を持つ百人あまりで構成されたその部隊が上級魔獣の討伐を完遂するまでにおよそ半年を要し、半数以上が戦死した。これまで培ってきた魔獣への対処法はことごとく通用せず、湿地の主は性質の全容を掴ませるまでに二十名あまり、絶命するまでに三十名あまりの命を吸ったという。


 話の続きを想定した沈黙を破ったのは、ロシではなく、一人の男だった。


 ガダ・ガエン。派閥”血鎖”の長にして、熟練の具者である。文句なくここにいる業者のなかで最年長の男。

 茶の短髪に豊かなあごひげ。女からは背しか伺えぬが、鍛え抜かれた筋がそう高くはない身長をより大きく写した。


「場所はどこなんですかい」


 口調こそ礼を払っているものの六大貴族相手にも物怖じしない態度。熟練の具者はロシの前言が真実であると見抜いていたのだろう。

 ガダの質問を受けてロシが隣に目配せする。一歩前へ出たのは”図術士”クラウス・ファインである。


「サンエイク北東。セルゲイ巨大森」


 そこが”どういう場所なのか”壮年の男は問わなかった。だが、代わりに別の情報を端的に訊ねる。


「”いつから”区域なんですかい」

「百三十五年前から」


 クラウスの即答に、にわかに室内がざわめいた。今度は、約半数が。この話の全容をようやく掴みはじめたからである。


「嘘だろ……」


 ランウェイル国が定めた一定以上の危険がある領域が国内には点々と存在しており、不定期に各円形都市が調査具者隊を派遣し、判断が行われている。


 ”指定区域”。”魔獣”の量や質が土地の許容量を超えていると、その判定が下される。中級だけではなく、下級の”魔獣”でも厄介な特性を持っていたり、発生する時期や場所によっては指定区域に認定されることもある。そしてその逆、どんなに具者にとって有利な時期地形であったとしても”区域”認定が降りることがある。その条件が、上級魔獣の行動範囲内である。


 ガダが訊ねたのは、”指定区域”に認定されてからどのくらいの期間が経過しているか、ということだった。基本的に区域認定された土地には具者の立ち入りがほとんどない。それはつまり、指定されてから長ければ長いほど人の出入りが少ないということであり、もっと言えば今回の目標である上級魔獣以外にどんな魔獣が生息しているのか、その量はどのくらいなのか判断しにくくなる。


 二つの条件から、予想よりもはるかに厄介な依頼であると誰もが思う。そしてまた、次に頭に浮かぶのはなんのために、という謎である。各都市は言わずもがな、非合法の集落でさえ”区域”の影響の及ばない場所に作られており、加えて管理塔の優れた防衛機構ゆえランウェイルと言う国は遺獣の脅威からは遠ざけられている。都市機能の充実していない他国へ討伐隊が派遣されることはあったが、平たく言えば、ランウェイルに生息する上級魔獣においては特別な理由がない限り討伐する必要がないのだ。


 その問いはおそらくすぐに解消されるはずだった。まず間違いなくロシが説明するはずだったからだ。


「もちろん、この依頼に見合った報酬は用意しているつもりだ。だが、諸君らはそれだけでは納得しないだろう」


 全員の思考を読んだかのようなロシの言葉。


「なぜ”遺獣”を討滅せねばならぬのか。その訳は、私よりも彼から説明してもらったほうがいい」


 大貴族が一歩下がり目配せすると、一人の男が一礼をとったあと、代わるように前に出る。


 ロシ、クラウスに続いて発言したのは壇上でひときわ高い長身を誇る屈強な男だった。

 中央、北部のランウェイル人とは異なる浅黒い肌は、はるか南東のトリニア大陸に住む人種と近縁である。そして、サンエイクは南部の民が人口のほとんどを占めていた。


「私の名はジャハ。ジャハ・フィストロイ」


 わずかに空気が弛緩したのは発言をはじめた男——ジャハを侮ったわけではなく、それほど六大貴族の圧力は大きかったからである。


「……貴君らと変わらぬ身分であるにも関わらず、壇上からの言葉を許してほしい」


 その男の内面が滲み出ているような、静かで耳通りのよい声だった。南部の訛りが全くないところに、男の生まれた家が施した高い教育を思わせた。


「……サンエイク議長ホザル・フィストロイは私の父だ。ホザルに代わってツェリッシュ様の食客をさせていただいている」


 簡単に身の上を説明して、


「そして、貴君らとともに”獣”狩りに臨むつもりだ」


 全容が、おぼろげに見えてくる。


(落日の都の使者、ということですね)


 女はまとまった思考から導かれた、サンエイクの蔑称を心中で呟いた。

 すでに都市機能の劣化を発端とした財政難は明るみに出ていた。長い年月を経て堆積した砂塵の影響。広大なチャコ砂漠に生息する魔獣は”狗”や”長耳”などの一般的な魔獣とは違い、種ごとに特別な対応が必要で、特性を知らずに挑んだ業者の致死率が非常に高い。また、中央の温暖な気候とは一戦を画した過酷な環境に適応できる人間も少なく、あの砂漠の都に拠点を置く業者は国内全体の業者の数と比較すると桁が一つ少なかった。それほどサンエイクに対する人々の評価は低迷している。

 それでも、そこに暮らす人々は易々と住み慣れた土地を離れることができない。繋がりがあり、営みがあるからだ。また、軽々しく転居できるほど円形都市の居住登録変更は易しくない。


「知っての通り、我らが砂の都サンエイクは近年から状況が思わしくない。父が心を砕くなか、希望を運んで来てくださったのが、ここにおわすツェリッシュ様とファイン様だ」


 落ち着いた音の中に込められた深い敬意がその言葉にはあった。


「かの巨大樹の生い茂る森に蠢く魔獣を撃滅し、そこにあるエーテルの海を確保できればサンエイクにも活路が見出せる、と」


 内容を噛み砕くだけの間が開いたあと、再び業者側から、今度は高い女の声があがる。


「エーテルの海があるのは本当なんですかぁ?」


 薄手の上衣に、股下で別れた短下衣という軽装と、左肩から手首までの軽鎧。後ろで二つ括られた短めの髪の毛の上には格子柄の討ち帽子。女の座席右脇は、その細身からは運ぶ姿が想像もつかないまるまる一人分あろうかという大荷物があった。側に寄り添う畳まれた大きな複合弓が告げているように、中は確認するまでもなく女の使う武器——大量の矢が鞄の脇から飛び出ている。

 遠距離用の干渉図術が発展している国内では珍しい、弓を扱う業者である。


(ニノン・カチュ。歳は確か二十一)


 薄紅の女はその弓使いを知っていた。

 ニノンの問いに答えたのは、やはり金髪の図術士である。


「”区域”周辺を調査して確認した。セルゲイ巨大森にエーテルの海がある可能性は非常に高い」

「ありがとうございまぁす」 


 場に似つかわしくない、間延びした声。女はよほどの大物か、あるいは恐ろしく世離れした性質の持ち主だと誰もが思ったに違いない。

 質疑が終わるが、しかし特に気分を害した様子はなく、静かなジャハの声が続いた。


「……まさしく最後の希望だ。数年伏せて来た事実があるが、父はもう——長くはないのだ」


 残る疑問である、なぜ今なのかという時期に対する説明がなされる。

 フィストロイ議長は病褥に伏したまま、政務を執り行っているというのはサンエイクの政に通じた人間であれば噂を耳に挟むことがあるくらいには公然の秘密であった。だが、たとえ周知の事実であったとしてもこうして親族から公の場で説明をすることの意味が業者たちにわからぬはずがなかった。


「セルゲイ巨大森を抜け、ガラウと首都へ続く公路を引かぬ限りはもう、サンエイクに道はない」


 ジャハの感情が無意識下で発現し、とうとう語調を強くする。


「ただ滅びを待つよりも、私は望みに賭けたい!」


 人の上に立つ資質を感じさせるような力のある言葉だった。そして、大きく息を吐いて再び吸い、ジャハは深く頭を下げた。


「——頼む。サンエイクを救ってくれ。……もうあの都を救えるのは、貴君らしかおらぬのだ……」


 その礼はとても長く続いた。男の必死の嘆願に、室内はしんと静まり返る。

 業者たちは測りかねているのだ。その願いがどういう性質を孕んでいるのかを。


 ——ここに集うほとんどの者は、ある種似たような資質を持っている。順風満帆とは行かないまでも、己の出来ることを見極め、研鑽を重ねていった結果このランウェイルという国においてその才覚を認められた者。

 貴族という巨大な力の外で、生まれも身分も性差もなく、己の才——戦闘能力だけで立ち回ってきた。言い換えるなら、自分の為にその力を使って生き抜いてきたのだ。

 ゆえに、ジャハの裏を読む。この男が何を目論んでいるのかを探っている。己が割りを食わぬように。


 ——違う。等しく本当は気づいているのだ。


 しかし、全く己の慮外の世界での出来事であると、そう思わなければこれまで生き抜いてこれなかった。そうであるから、男の行動原理を正しく認めてしまうことは、心のうちに潜む願ってはいけない願いを思い出してしまうことにほかならない。

 そう、気づいていなければこんな状況にはならない。もし一人でもただジャハの言葉を疑う者が居たならば、一も二もなく、この建物から背を向けて本来の居場所に戻っていなければおかしいのだ。

 いつか願った高みで。己の技で、剣で、己が定めた範囲を守るだけではなく——それをもっと広い世界で。熱い渇望と、身の程をわきまえろと、それを諌める相反する叫びが心中を渦巻いている。


 その葛藤を俯瞰で見る人間が部屋にいた。

 壇上の大貴族と図術士。

 それと、もう一人。


(——私には、関係ありません)


 同じ言葉を、再び心で呟く。

 女はそうだった。

 依頼は全て請ける。業者として、ずっとそうしてきたのだ。今回の途方もなく難度の高い話もまた、女の決めた鋼よりも硬い指針から逸脱するには至らない。


(でも、彼らはどうでしょうか)


 だから、純粋にこの業者たちがどういう反応を見せるのか興味があった。やはり命をとるのか。それとも。

 しかし、女の期待は先延ばしにされることとなる。誰かが赤熱した沈黙を破るよりも前に、建物の外から気配がした。


 いち早く気づいたのは、精神の揺るがなかった薄紅髪の女、”血鎖”の統領、壇上のロシ、クラウス、ジャハ。遅れて、室内のほぼ全員がそれに気づく。

 さざめきの小ささから、おそらくは一人。壇上から声がかからないということは、その人物の往来を予想していないか、あるいは断定ができないから。

 業者たちの集中は、部屋全体を透き通った氷のような空気に変容させる。不逞の輩ただ一人なら、まさしくいとも簡単に処理できるだけの戦力差だった。

 外の気配は過たず建物入り口に向かい、そして扉の前で止まった。


 ゆっくりと扉が開かれる。

 陽光のなかはっきりと視認できるのは、全ての輝きを吸い尽くすような黒の装い。軋んだ音と共に姿をあらわしたのは、腰に異国の剣を下げた、黒髪黒目の青年だった。


 黒髪の青年——そのシャニール人は室内を見渡し、全ての瞳が己に向かうなかで壇上の六名を視認すると、素早く膝を折って跪いた。敵意のない仕草に一拍遅れて、室内の空気がほんのわずか弛緩する。


「ヨクリ……」


 声をあげたのは壇上の金髪の青年マルス・ファインであった。ツェリッシュはマルスを一瞥したあと、その血縁に目を向ける。


「彼がそうか」

「はい」


 クラウスの返答に、ロシは黙してしばし様子を伺っていた。すこしの間が空いて、じわじわと小さな話し声が業者の間から聞こえてくるようになる。

 それはめいめいの、断片的な青年への評価の声であった。ほとんどがその性格よりは性質——有能さを示唆するものであった。

 そして薄緋色の髪の女もまた、黒髪の青年を知っていた。


(ヨクリ。二十二歳。修学は基礎校イヴェール東。近接手。シャニールとランウェイルが入り混じった独特の剣術を使う次級の業者。好んで使用する干渉図術は”旋衝”と”感知”)


 最後に、その最も大きな特徴を思い浮かべる。


(——シャニール人) 


 シャニール人が、依頼で悪目立ちすることはあっても称賛されることは少ない。元々の国に蔓延している嫌悪感と、それから彼らの置かれた境遇がその才を発揮させにくくしている、ということが主な要因として挙げられる。基礎校での修学に、その嫌悪がさし障る場面は想像に難くない。

 そのシャニール人という括りのなかでこのヨクリという青年は異質と言ってよかった。不満や嫌悪を跳ね除けるだけの確かな実力を携えていたからである。

 業者のその反応が見たかったと言わんばかりに、徐々に小さくなってゆく声を締めるように、クラウスを一瞥したあとロシが発言を再開する。


「お気に入りと聞いてはいたが——なるほど、どうやら君にもここにくる資格があるらしい。歓迎しよう」


 クラウスと広間の反応両方を見届けてからロシはその青年を受け入れる。

 そしてまた、欠けていた役者が揃ったことで、薄紅髪の女は連想していた。——先日首都で起こった動乱を。


(シャニール人狩り)


 全ての依頼を請けてきた女の人脈は凄まじく、大抵の情報は容易に手に入る。ここにいる大貴族と図術士の繋がり、そして先日起きた首都のシャニール人襲撃は、まだ公開されていないものの、クラウスが指揮したという噂があった。さらに——。


(——クラウス様と、この青年の繋がり)


 知る者がごくわずかのその一連の事件でさえも、女の情報網は捉えていた。黒髪の青年と図術士に接点があること、そしてシャニール人狩りの際、ランウェイル側にただ一人、刀を携えたシャニール人がいたということ。


 根拠はまだあった。

 青年の身にまとう空気。明らかに違う。人種の差異ではない。数多の人間と知り合いになってきた女にはわかる。その凍てついた刃のような気配は、一線を越えたものがもつ独特の気力。

 黙したまま跪く青年が顔を上げる。


 薄紅の女の想像を肯定するように、信念の炎と、何かを捨てた者が宿す氷のような冷たさが綯い交ぜになった瞳はまさしく、全ての始まりを告げる色をたたえていた。

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