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途上のシャムロック  作者: 納戸
黒血に響く凱歌
57/96

一話 霧中の指針



 部屋の外から小さな物音が聞こえ、かたかたと、入り口の扉を幾度か揺らした。書物や無骨な器具などが整頓されずに散らかった雑然とした室内。薄闇のなか、寝台の膨らみがもぞもぞと動いた。毛布からすぽりと、夜にもくっきりと映える金髪が顔をのぞかせる。利発そうな瞳は寝起きのまぶたに細められ、眉尻は気温の低さによって下がっていた。


 夜更けに目を覚ましたまだ幼いマルスは、暖かな寝台から抜け出して靴を履き、椅子にかけてあった上着を羽織って部屋をでた。まぶたを擦りながら廊下を伝って階段を降り、勝手口で水を飲む。家の中は静まり返っていて、誰も起きてはいないようだった。寝つきが悪いというよりは、なぜか今宵は胸がざわざわして、それが気になって仕方がなかった。


 いくつもある窓から、青白い光がさしこんでいる。静謐で、幻想的な色だった。普段は意識していなかったが、少年は、この色はみたことがなかった。


(エーテルの色みたいだ)


 再び入眠を試みようと二階の部屋に向かう途中、廊下を流れる風を感じてそのほうへ向かう。露台の扉が開かれていて、月明かりに佇む影があった。影はじっと空を見上げたまま、少年にも気づいていない。少年が歩みを進めると、影の正体が露わになる。その姿は、少年の大好きな人だった。父や母も胸を張って誇る、少年の家を率い道しるべとなる主。国中に名の知れた、クラウス・ファインである。


 でも、横顔はどこか上の空で、普段温和な面しか見せない伯父は、少年の知らない表情をしていた。少しだけ不安になって、音を立てて近寄る。


「なにをしているんですか?」


 少年が声をかけると、


「すまないなマルス、起こしてしまったかな」


 と頬を緩める。一転してあたたかな笑みだった。名を呼ばれた少年は首をふるふると横に振って否定した。


「いいえ」


 ほう、と白い息を吐いて、衣服の胸元を右手でぎゅっと握った。


「なぜか今日は、胸がざわざわするんです」


 クラウスはそれを見て、とても嬉しそうに顔を綻ばせ、


「——やはりきみには、素養があるな。ほら、見上げてごらんなさい」


 マルスから視線を外し、先ほどと同じように天を仰いだ。

 伯父の言う通りに少年が夜空を見上げると、満ちた月は冴えるような青い色に輝いていた。普段見るそれよりも大きく感じられ、今にも落ちてきそうなほどに思える。

 呼吸を忘れるほどに、美しい光景だった。


「今年の、この時期にしか見られない」

「蒼い月だ……」


 少年の読んだ数多くの書物の中に、今空に浮かぶ蒼色の月に関する記述があった。聖樹書の予言の項。

 よくよく全体を眺めると広大な屋敷の向こう側に、空とは対照的な暖色の街明かりがぽつぽつと見える。夜更けまで起きて、同じように月を眺めている人々のしるし。


「”千の月ののち、世界は閉じ、再び開かれる”」


 白き獣の審判。巡る世界の予言。伯父の言葉に、文の一節の、印象に残っていた部分をとっさに思い出す。

 こうして思ったことを口にすると端的にクラウスが返答するというやりとりが、少年はとても好きだった。優しく導かれるような思考の回転が心地よかった。


 少年がその神秘的な輝きを忘れぬように目に焼き付けていると、隣の伯父が静かに口を開いた。


「ファインの悲願だ」


 重く響いたクラウスの言葉は続く。


「私も、あそこへ行きたい」


 伯父の視線の先は、青白い光が夜空を切り裂き輝いている。彼方へ浮かぶ未知の象徴。ファイン家の掲げる目標を少年は初めて知った。


「月にですか?」

「ああ」


 二つ返事をするクラウスに、少年は問いを重ねる。


「月にはなにがあるんですか?」

「私もそれが知りたいのだよ」


 マルスは驚いた。伯父に物を訊ねて答えが返ってこなかったことなど、記憶にはなかったからだ。弾かれたようにクラウスの顔を見て、また訊いた。


「伯父上にも、わからないんですか?」


 少年の言葉を不快に思うどころか、小さないたずらがうまくいったときの子どもみたいに、にやりと笑った。


「そうだ」


 時折、生まれて初めて世界地図を見たときの憧憬が隠せず漏れたような、こんな顔をする。


「まだこの世界は完全ではない」


 少年にはそれが聖樹書の比喩なのかどうかを判断することさえできなかったが、言葉が伝えてくる心の奥を痺れさせる甘い感覚だけははっきりと感じ取る。


「月に行けば、それが」


 興奮に顔を紅潮させて吐息混じりに言うと、伯父が訊ねる。


「君も行きたいかね?」

「はい!」


 大きく二つ返事をする。少年の生まれ育ったファイン家の悲願。歴代の先祖が刻んでいった轍。その後塵の中を進むのに、なんのためらいがあろうというのか。

 もしもその悲願を自分が成し遂げられたなら、それはどんなに素晴らしいことだろうか。少年の心は、その未知に沸き立ち震えた。


「そうか」


 クラウスは眩しそうに目を細め、少年の頭を優しく撫でた。細く骨っぽい感触は、意外にもちょっと荒っぽく滑るがその感覚も、自分と同じ目線になってくれているみたいでマルスはやっぱり好きだった。


「もっともっと、たくさんのことを知りたいです。伯父上のように」

「ならばまずは、我々の責務を果たさねばな」


 ファイン家は、その図術知識を人々のために応用し、あるいはさらに研究を重ねて調査することで国へ貢献してきた。そして少年もまた、その血を継いでいる。脈々と続くファインの考えに殉じることに一片の不満もなかった。


「——マルス。どんなときでも、知の神(カルナ)の甘言に惑わされてはいけない。一度乗ってしまえば、もう我々はカルナの奴隷だ」


 聖樹書を引用した箴言も、ただ知識や文字の並びから引っ張ってくるのではなく、胸にずしりと響く、経験に基づいた実感を伴っていた。


 しばらく話をしていたが、ぽつぽつと、遠くの光がまばらに消えていく。マルスは頑張ってあくびを嚙み殺し、昼よりも重さを増したまぶたをぱちぱちとまばたきをして開いていたが、当然というか、聡明な伯父には隠せなかった。


「さあ、今夜はもう寝なさい。明日また、面白い話をしよう」


 最初の言葉に少しだけがっかりして、最後の言葉にまたマルスは喜んだ。


「約束ですよ!」


 やはり伯父の話はマルスの好奇心を擽ってやまない。未知にどきどきと高鳴る胸は抑えようもなかったが、でも心地よい眠りにつける確信が少年にはあった。毛布を被って、その先になにがあるのか夢想し、やがてまどろみの底に沈んで行く。寝る前の儀式のような一連の流れが一日の終わりの楽しみだった。

 返事をして、ぱたぱたと来た道を引き返す。


 ——そうして背を向け、自室へと戻った少年は気がつかなかった。


 再び静寂に包まれた露台に佇む敬愛する伯父の変容に。深く刻まれた顔の皺と、激しい後悔に苛まれた言葉に。


「……私は、私は友になるべきだったのかもしれない」


 骨ばった拳が固く握りしめられる。


「——奴隷ではなく、友に」


 膿んだ熱を孕んだ声は、蒼い月の浮かぶ寒空に溶けて消えた。







 閑散とした、しかし全ての建物が調和し、そこに住む者の身分そのものであるかのように見事な建築様式の施された街並み。家々に施された装飾も華美が行き過ぎず、また質素になりすぎない絶妙の領域を保ったままに、威厳とともに広がっている。


 国内でも最大の、有閑階級が暮らす大貴族街。その知識や力、利権によって地位が約束され、各分野にその名を轟かせる貴族だけが土地を持つ一画。

 大貴族の技術の精髄をその余暇で表現したように、対称性を有しているのは建築物だけではなく、通りや区画も見事に整然と設計されていた。


 さらにその大貴族街のなかに、ある種の異質さを持っている建物があった。他の建築物は材質そのものの持つ固有色を殺しすぎない程度の塗料しか施されてはいないが、その建物と周囲だけは緑に染まっている。周りに草木が植えられ、仄かな緑に全体が塗装されている。

 真南に荘厳なるヴァース王城を望み、周囲を大貴族そのものが控えているように街並みが佇む。


 首都フェリアルミス大貴族街、北翠宮。


 年に数度使われるだけのこの見事な離宮は、そのある種異様な外観が表すように、国の重要な方針を決定する十二都市総議会とは別の、大貴族六家の当主が会合するためだけに存在していた。


 ただ一つの入り口は三方に別れ、左右に勝手場などの事務室がおかれ、中央に立食や大規模な会合を行うための大広間。そのさらに奥、吹き抜けの柱廊の先にある、北翠宮の最奥は六連星(むつらぼし)の間と呼ばれていた。


 真紅の絨毯に、六つの椅子が置かれた円卓。ただそれだけの部屋。

 まさに今、その椅子が全て埋まっていた。


 六人のうち一人が女性。二人は軍服を着用し、四人は各家を象徴する貴族服姿である。国内でも高位の人間のみによって構成された集団の特徴をなぞらえ、それぞれが印象的な髪の色を持っていた。


「……確かに、特にここ半年のシャニールは目に余る」


 入り口から見て正面奥の椅子が声を発した。甘く低い声音。内包する覇気が滲み出たような見事な金髪の男。彫像のように整った顔は、年齢を想像させない美しさをもっていた。


 最も優れた貴族は誰かという質問を不特定多数の市井の民に投げたなら、おそらくこの男の名前が一番多く挙がるであろう。

 ジルヴェール家当主にして、首都フェリアルミスの議長を兼任するイルハースト・G・ジルヴェール。国内の貴族の中で過去から現在に至るまで最もランウェイルに貢献し続けた、脈々と続く古名家。


「……アルルーの進捗はどうなっている、ツェリッシュ」


 声の真正面、入り口側。男と同じ金髪の、国内一、世界でも指折りの大富豪が名指しされる。


 ロシ・J・ツェリッシュ。壮年と思しき皺の数だったが、若々しさを漲らせた眼光の輝きは少年のようだった。ツェリッシュの権勢は当主が歳を取るごとに、衰えるどころかますます大きくなっている。


「旧シャニール領管理塔の四分の三は建設が完了しております。しかしながら、遮壁、上下水やエーテルの配備、植民においてはジルヴェール閣下のおよそ満足のいく結果には至っておりませぬ」


 表向きは粛々と従うシャニール人だったが、シャニール人同士は裏で繋がり合い、建設作業自体を遅らせている節があった。植民においても同様に遅々として進まない。

 団結する民族性。ランウェイルよりは民の格差が平たかったという背景もある。特に、ランウェイル本土に流入したシャニール人の把握は困難を極めていた。

 都市間車道が引けないという、目を瞑るには大きすぎる問題もあった。戦争の爪痕は激しく、特にイスト渓谷などの旧国境付近の瓦礫の撤去や地理的原因もあり、とてもではないがイヴェールとの交通網を整理することが現状では行えない。辺り一帯の治安も悪化の一途を辿っている。


「もう十一年が経とうというのに」


 返答を聞いたジルヴェールが独りごちる。

 こと東の民の諸問題に至っては、ほとんど全てにおいて後手に回っていると認めざるを得ない。課題は山積していた。


「手遅れ」


 一同が声の主のほうを見た。


 ジルヴェールの左隣、無駄なく絞り込まれた肉体に軍服を纏う青髪の壮年。ゲルミス家当主、ヴァストである。


「なに?」


 言葉の真意を問う短い声に、


「戦後に申したはず。国民として引き入れるならば、早急に国の機構をシャニールに割き、彼らの風土に合わせながら移住を進めねばならぬと。先送りにした結果が現状」


 ゲルミスは抑揚なく告げる。


「もはや衝突は避けられん」


 それが大規模な内乱の可能性までをも示唆していることに気づかない者はいなかった。


「扇動者がいると? 確かに先の戦で全員を拿捕できたわけではないが」

「頭を潰しても、いずれまた同じことが起こりましょう。彼らはそういう民族でありますから」


 ツェリッシュと、その右隣の会話が始まる。三十代中頃。落ち着いた、緑がかった髪色の持ち主はローエマ家当主、ソドリム・H・ローエマ。細目を伏せ、優雅な所作で持論を展開する。


「しかし、ならば軍を旧本土へ差し向けますか? それは論外でしょう。諸外国に知れ渡ればスールズの付け入る大きな隙となりますことは、ここに集う皆重々承知のはず」


 ローエマに反応したのはツェリッシュではなく、斜向かいのゲルミスだった。青髪の男の端的な発言に、衝撃が走る。


「フェリアルミスを捨てる」 

「馬鹿な!!」


 ジルヴェールが席を立ち、大声で糾弾した。しかし、ゲルミスは微動だにせず続ける。


「そもそもシャニールだけの問題ではない。利用する貴族、教会。種々の思惑が大きなうねりをランウェイルにもたらしている。波紋をかき消せるのは、より大きな波紋のほかにはない」

「確かに。まあジルヴェール殿には身を切っていただくことにはなるが。——俺はゲルミスに同意しよう」


 青髪の男に同調したのは、その領土を象徴するかのような雪の色に溶ける白髪の映える不惑手前の屈強な男だった。


 北方を守護し、リヴァの海に浮かぶ図術船団を率いるのはディンケル・W・ユラジェリー。ゲルミスと似た軍服は、海上を主戦場とする軍のものであり、左右二本ずつの見事な鞘に納まった剣が腰に鎮座している。貴族では珍しいタラント式武術の達人であり、権謀術数に長け、また六大貴族一の武闘派であるユラジェリー家当主。


 こうなると、窮地に立たされたのはジルヴェール家である。首都フェリアルミスの議長を兼任するジルヴェールにとって、首都が混沌の坩堝と化すのは最も避けたい事態だった。


「どの口でそれを……」


 ジルヴェールがとうとう怒りを露わにユラジェリーへ詰め寄ろうとしたとき、


「今日はやけによく喋るな、ゲルミス」


 黙して静観していたジルヴェール右隣の紅一点、ステイレル家当主カレゼアが唐突に口を開いた。それは青髪の男を揶揄したというよりは、金髪の貴族の次の口上を遮るかのような間であった。


 そう、ユラジェリーを除く五つの家の当主は、首都の騒動に関し、ユラジェリーが裏で糸を引いていることに気がついている。だが、ここで詰問するには諸々の証拠を集めねばならなかった。確証なしにユラジェリーを吊るしあげたならば、話はおそらくまとまるどころかいたずらに時間を浪費することになる。そして今回の会合は、それが目的ではない。


「私はどちらでも構わんさ。ただ、確かに我々は決めねばならん。火種はあまりに大きくなりすぎた。このまま捨ておけば多くの首都の民の血が流れることになる。それは私の望むところではない」


 言外に、ここに集う皆が、異なる思惑はあれど、民を思う気持ちは同じだと確信しているような女の言葉に同調するように発言の少ないローエマがあとを継いだ。


「一刻も早く、少なくとも要人は首都から退避させたほうがよいというのはこの場にいる誰もが賛成するはずでしょう」


 しかし、ジルヴェールはやはり食い下がった。


「陛下は。まさか畏れ多くも陛下へ玉座を移り願うとでも言うつもりか」

「陛下にはお残りいただく」


 ゲルミスの言葉に、一瞬の静寂が訪れた。そして、円卓を両の拳で力強く叩きながら、ジルヴェールは怒鳴り声をあげた。


「それこそ奸賊の思う壺ではないのか!!」

「——そのために私がいる」


 烈火のような怒りと対照的な静かな声音が遮り、圧倒的な威圧感が室内を満たしていった。大貴族の激情が治りはしないものの、しかし五人は知っているのだ。この男が真を持ってなにかを為そうとしたならば、手法はどうあれ、それは必ず達成されると言うことを。旧シャニール領アルルー市街戦においての無慈悲な撃攘で証明されていた。


「貴公が事態を収拾させると?」


 ローエマの問いに、ゲルミスがゆっくりと口を開こうとした瞬間、今度はツェリッシュがそれを止める。


「その前に、もう一つの問題について良いですかな」

「これ以上の問題がどこにある!」


 ジルヴェールの怒鳴り声は、続く言葉で沈静化する。


「——サンエイクについて」

「……あの都か」


 落日都市と噂される、砂都サンエイク。南部の血を引く浅黒い肌のランウェイル人がほとんどである。サンエイクの財政難はまったく好転せず逼迫し、ここ十年の間に人口は激減していた。国の南西部、チャコ砂漠に建設された円形都市。


 フェリアルミス、ハスクル、エリサイを除く各都市は、三番目に建設されたレンワイスを参考に設計された。しかしことサンエイクにおいては砂漠の過酷な環境に晒された都市機能の劣化が激しかった。改良や建て替えの予算が捻出できる状況ではない。

 サンエイクを纏める議長のフィストロイは優れた治世者であったが、砂漠の環境や流通経路の確保は彼の手に余っていた。その状況は六家にも伝わっており、打開策を検討する会談も今回に限らず度々行われてきたのだ。平民だが貴族的視野を持つフィストロイの有能さゆえ、六家は協力に前向きではあったのが幸いであった。


「砂都について一つ、案がありまする」


 ツェリッシュの発言を遮る者は居なかった。一拍間を取ったあと、


「セルゲイ巨大森、ガラウを抜け、さらにフェリアルミスへ直通する一本の公路を引けば、ガラウの引具処理や流通が活発になりましょう」

「だが、あそこには」

「わかっております。しかし逆を言えば、急所であるセルゲイ巨大森を抑えることができればガラウやサンエイクで消費されるエーテル資源の確保にも手が打てます」


 ジルヴェールの先手を挫き、なお続けて提案する。


「そこまでいうからには、目処は立っているのであろうな?」


 ユラジェリーが試すように口角をあげたとき、扉を叩く音が室内に響き渡った。返答に間が空いたのは、原則として六大貴族のみが出席を許されたこの会合において、室外からの知らせが異例だったからだ。予定された会合の終了時間まではまだ時間があった。


「何者だ。何人たりとも入室は許されんぞ」


 その威を意図的に開放したような冷たい声音。だが、半ば無視するように、力強く、固く締まった両開きの扉から外の光が差し込んでくる。


「失礼いたします」


 禁を犯したのは、長い金髪の、眼鏡をかけた男だった。図術に長けたものが着用する白衣をなびかせ、闖入する。


 クラウス・ファイン。ファイン家当主の、国内でも三人しかいない”図術士”の称号を持つ男である。ファイン家の名声は地に落ちたものの、この男個人の持つ力とその影響力は未だ健在であった。

 六家に仇なす賊は各家の護衛が撃ち払う。あるとするなら六家に次ぐ力を持った家の者の来訪であろうが、そうではなかった。あるいは意外だったのかも知れない。


「痴れ者め!」

「失礼、と申し上げました」


 身が竦むような怒声を意に介さず、飄々と頭を下げ、クラウスは受け答える。


「貴様……」


 その無礼極まる言い回しにジルヴェールが眉間にしわを寄せ、眉を釣り上げる。次に行動したのはユラジェリーだった。長身を伸ばして音もなく立ち上がり、腰の剣を引き抜く。


「斬られる覚悟はあるんだろうな、ファイン」


 言いながら、ユラジェリーは切っ先を入り口に立つ男のほうへ突きつける。曇り一つない刀身が天井に吊られた集合灯の光を鋭く反射した。

 大貴族たちの威圧を一身に受けるクラウスは、ただ静かにその場に佇立するのみであった。


 意外にも、ユラジェリーを諌めたのは男の闖入にいち早く反応していたジルヴェールである。


「まあ待て。……貴様、なぜここへ来た。返答次第ではただでは済まさんぞ」


 その疑問に答えたのは当の図術士ではなく、一人微動だにしなかったツェリッシュだった。円卓に両肘をついて手を組み、ゆったりと口を開く。


「彼を呼んだのは私ですよ、ジルヴェール閣下、ユラジェリー軍長」


 全員が視線だけを声の主にやり、次に部屋に響いたのは女の声である。


「我々になんの断りもなしにか。ずいぶんと偉くなったものだな、ツェリッシュ」


 大富豪の軽挙に不快感を露わにしたのはジルヴェールやユラジェリーだけではなかった。紅一点、ステイレルもまた、それを隠さず苦言を呈する。しかしその貴族間の力関係を無視し、その男は六人に向かって宣言した。


「私が貴方がたを訪ねた理由をご説明致しましょう」


 言葉を切って、


「シャニール、そしてサンエイク。——二つの問題、私めにお任せください」


 足を引き、右手を胸元に大げさに頭を垂れながらそう告げた。ツェリッシュを除いた四人がその差はあれど驚愕の表情を浮かべるなか、ただ一人、青髪の大貴族だけは鋭く目を細めていた。


「ツェリッシュ様の下、解決してご覧に入れましょう」

「図術屋が大風呂敷を広げるな!」


 ジルヴェールが強烈に叩きつけ、


「そもそも、貴様らハトが本土へ姓無しどもを招き入れたのが原因ではないのか!」

「返す言葉もございません」


 頭をさげたまま、クラウスが粛々と答える。だが、次の瞬間やおら首を持ち上げ、その男にしては珍しく声を張り上げ言葉を続けた。


「しかし! ——それゆえ、私がやらねばならぬのです」


 貴族としてではなく、クラウス・ファインという人間の信念が大貴族の覇気を凌ぐ。部屋にいる者は、それだけでその言葉に対する覚悟を感じ取り——


 ——そしてまた、他の思惑も存在していた。


 先の戦で軒並み傷ついた家の力がようやく癒えてきたところである。ここで勇み足をした結果己の家だけが兵力を落とし、他の家が利することになるのはおそらくここに集う六家全員が避けたい。

 問題は今回の議題二つだけではない。ゆくゆくは北の隣国スールズとの戦の可能性も見据えなければならないのだ。実のところジルヴェールを除いた五つの家にとって無視できない問題ではあるが、かといって進んで取り掛かる問題とも言えなかった。


 場の空気を察するかのように、ユラジェリーが口を開く。


「我々に向かってそれだけの大言。違えたときの覚悟はあるのだろうな」

「——はい」


 図術士の向ける、瞳の奥に潜む歓迎し難い感情を慮ることはなかったが、しかしその意向は尊重されることになる。


「ならば彼に任せて見ましょうか。どうです? 皆様」


 ローエマへの異論はなく、代わりに赤髪の貴族が念押しするように発言した。


「言わずともであろうが、”姓無し”どもに関しては、私は私の好きにさせてもらうぞ。ステイレルとしても首都の諸施設には少なくない責があるのでな」

「それはご最も」


 国の研究教育機関は、ステイレル家主導で運営されているものが多数存在し、さらに首都ともなれば、上等校や開設されたばかりの”分校”など、特に重要な施設が集まる。


 室内の全員がジルヴェールの様子を伺うが、男は拳を固く握ったまま発言しようとはしなかった。首都フェリアルミスはまさしく、暗雲立ち込め先の見えぬ様相になるということが決定したようなものだった。


「では、今日の議題について」


 動かないジルヴェールを尻目に、緑髪の貴族が終息の合図をする。普段であればこの場を取り仕切るのはジルヴェールであったが、その心中を察したローエマが役割を代わっていた。


「首都の隔離、そして諸貴族に表立った軽挙妄動を禁じる沙汰の通達、この二つはここにいる六家全員の総意とみてよろしいですな」


 後者に関しては大した効果は見込めない。ただ、なんの策も打たないよりは、という対処である。


「実際のところは、ひとまずゲルミス閣下とツェリッシュ卿、そしてファイン卿の辣腕が振るわれることを期待しましょう」


 ローエマは一同を眺めたのを見て、ツェリッシュが口を開き念押しをする。


「”もしもその通りに運んだのならば”、ガラウに車道を引くことについては、賛同いただけますな? ゲルミス閣下」


 ツェリッシュの問いに青髪の男は沈黙を持って返答した。それを肯定とみなし、満足そうにローエマが頷く。


「ならば、今回の会合はこれにて。近々また機会もありましょう」


 締めくくると、途端にジルヴェールは勢いよく立ち上がり、退出していった。激昂を抑えることができなかったというだけではおそらくない。六大貴族会合の如何によって取る選択を予め決めており、ジルヴェール家として迅速に行動しなければならないからである。


 そして、窮地の大貴族に憐れみや慈悲を向ける者はここには居ない。

 連綿と続くランウェイル国大幹部の繋がりは、時に実の血を分けた人間同士よりも固く、またある時は道を通るやせ細った野良犬に向けるそれよりも薄かった。


 今回の場合は後者である。彼の家の衰亡よりも個々の家の判断のほうが、国益に繋がるという判断に基づいた氷よりも冷たい、温度のない結果となる。


 渦巻く思惑のなかジルヴェールのあとにステイレルが続いたが、退出の際にすれ違った男に告げる。


「ツェリッシュ。——二度はないぞ」

「寛大な御心、痛み入ります、ステイレル公」


 六大貴族が各々の意向を擦り合わせることなく六大貴族足り得る理由。

 その定めを踏みにじる真似は、同じ六大貴族が許さない。ステイレルはそう忠告したのだ。

 大富豪と図術士はこうべを垂れ、格上の者を見送る。



 ——こうして、六大貴族の会合は幕を閉じた。





 位の高い者から退出し、六連星の間に最後に残ったのは大富豪と図術士であった。クラウスが両扉を開くと、冬の木枯らしに代わり、すっかり暖かくなった風が柱廊を吹き抜ける。すでに他五家の背は見えなかった。


 二人のあいだは、先ほどよりも砕けた空気に様変わりしている。それはわずかに緩和した表情のほか、所作や口調に現れていた。

 戦後急速に仲を縮めたロシとクラウスは、その繋がりを公の場でほとんど明かしたことがなかった。今回の会合は他に向けた喧伝も兼ねている。


「さすがに肝が冷えましたな」

「嘘をつけ。あの場の誰も君を斬ることができないことくらい、お見通しだったろう」


 飄々と口元を歪めたクラウスに、ロシは苦笑混じりに答える。

 図術士とは並みの人間に与えられる称号ではないのだ。一人一人が千金よりも高い価値を持つ。図術士にしかできないことが国にはある。

 長い柱廊を二人の足音が支配する。ロシ・ツェリッシュは半歩後ろの図術士へ向けて口を開いた。


「当面はユラジェリーの動向を警戒せねばなるまい」

「尻尾は?」

「見せなんだ。さすがに六家の——いや、ユラジェリー家当主なだけはある」


 言いかけ、訂正したロシ。かの家とは事実上の敵対関係と言って良かったが、その物言いは純粋な敬意を持った響きをしていた。

 首都のシャニール問題においての会談の際も、策謀を巡らせている様子を見せなかったが、事前に打たれたユラジェリーの対外政策が会合の行く末を決定づけていたのは事実だった。名目上は図術財産の流出を防ぐための、他国人の出入国制限。その効力が続いている限りは、首都の状況が他国の周知となるのに猶予があった。

 それゆえ、首都の諸問題に使う時間は見た目よりも多かったのだ。


「ローエマも、腹で何を考えているか読めん」

「ロシ様にもですか」

「今更持ち上げるな。——教会の手綱をどこまで握っているのやら」


 エリサイの議長ローエマ。白都と呼ばれるエリサイには、聖峰フェノールがあり、その山頂にはリリス教の聖地と聖堂がある。神子派と枢機卿派に大きく別れた教会の内情を鑑みて、ローエマがどちらに与しているのか、あるいは諍いを静観しているのか。——そもそもが秘密主義の教会である。


「ステイレルと睨み合うことにはならなかろうが。……ほぼ確約されているのがその程度ではな」


 言葉を切って、


「それにやはり、害なすシャニール人どももただ使われているだけではなかろう」

「ええ。分かっているだけでも、リマニ一派は探っているようで」

「ほう? 一体なにを」


「——狼の王の落胤」


 クラウスが答えると、ロシは思案するように口髭をなで付ける。


「本当にいるのかね」

「戦後の選別で紛れた可能性はありますな」

「つまりは再興か。……ふっ」


 それがどういう笑みなのか、クラウスには分かっていた。

 そしてロシは話題を変える。


「だが、本当に君はこれでよいのか。ゲルミスとは交流があったのではないのかね」

「もはや、道を違えました。私は私が築いた屍へのけじめをつけねばなりません。十一年前の」


 クラウスの答えに大きく頷いてから、


「そうだな。私も——」


 瞳孔が凶暴に瞬いた。


「——人の欲を満たすのには、もう飽いた」


 貴族としての覇気は疑うべくもなく感じさせてはいたが、しかしどこか柔和な印象のロシ・ツェリッシュという男。


「私の全身が、魂が言っている。今が絶好の好機である、と」


 剥き出しにされたツェリッシュの獰猛な面は、商売敵を無慈悲に、血の最後の一滴すらも搾り取ってきた。ただ一つの例外すらなく。


「成し遂げてみせるさ。六連星の頂き。——ジルヴェールの地位は、私が貰い受ける」


 胸に抱いた野心を、口角をあげながら言い放った。


「御心のままに、私が微力ながらお力添えいたします」


 当主同士で結ばれた密約。ツェリッシュとファインは、一蓮托生だった。


「行こう。更なる屍を踏み越えて」


 その先にある犠牲を受け入れる覚悟は、二人へ問うまでもなかった。すでに終わっているのだ。大地に産み落とされた魂が形を作るよりも前に。そうでなければ二人が今ここでこうしているはずもない。世界に定められた宿命。


 かかとを鳴らし外套を靡かせ、肩で風を切る。

 常にそうして来た。一度決めた選択は、竦み立ち止まることを許さない。

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