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霞んだ視界に、寝具の縁と、古びた床が見えた。
ヨクリは再び、目を覚ました。寝かされた体に薄布一枚が掛けられている。出し抜けに寒さを感じるが、しかし体の感覚が明らかにおかしかった。透明な薄い膜で覆われているように、寝具に触れた感触が鈍っている。
滅多にない、激しい負傷の残る目覚めだった。喉がからからで、ヨクリが首をもたげようとしたとき、頭上から声が聞こえた。
「よう」
姿を見ずともわかる、茶髪の男。ヨクリは起き上がろうとして——代わりに呻いた。
「寝てろ。お前の背中は相当ひどいことになってる。療管送り決定だ馬鹿野郎」
背中全体を刃物でえぐられ続けているような、前回とは比べ物にならない激痛に襲われていた。痛みが引くまで歯を食いしばって耐えながら、頭の隅で今うつ伏せに寝かせられていること、上衣は全て着ておらず、代わりに包帯が巻いてあることを把握する。
どれだけの時間耐え忍んでいたかわからなかったが、若干痛みが和らぐ。なんとか首だけを動かしてアーシスのほうを見ると、ヨクリよりは軽傷のようだった。意識の回復を見た茶髪の男のほっとしたような表情は、しかしどこか虚ろだった。
「治、療は、君が?」
患部に障らないようにおそるおそる発声した。そのとき、開け放たれたままの扉の奥から、かちゃかちゃと音を立てながら金髪の少女が顔を見せる。
「それはあたし」
答えながら室内に入り、ヨクリのそばまで寄って来て水差しをヨクリの口元に持ってくる。ヨクリがされるがままに咥えてなかを飲み干したのを見届けたあと、金髪の少女は逆に質問してくる。
「意識は? 頭は痛む?」
「大丈夫、みたいだ」
起き抜けと背中の痛みで万全の精神とは言い難かったが、鈍い顎の痛みのほかは、首から上の違和感はないように思えた。ヨクリの返答を受け、ミリアは経過を予想する。
「なら、血も吐いてないし背中が原因かな。かなり傷んだみたいだから体が無理やりに休ませたんでしょ」
「とりあえずは、心配なさそうだな」
「内臓が平気だったのがよかったね」
口々にヨクリの無事を言う。ミリアは卓上に置いたいくつかの陶器と、中に入ったものを準備してそのうちの一つを再びヨクリへ向けた。
「これも飲んで。おいしくないけど、痛み止め」
差し出された薬器にはすり潰され、半固形化した緑色の液体が溜まっている。鼻先に持ってきただけで味の想像が容易につくほど強烈な匂いを漂わせていたが、飲み干す。青苦さに噎せて二度ほど咳き込みながらも空にした。
「ここはいい森だね。薬になるのもたくさん生えてた」
「……助かった」
集落の周囲に自生している薬草を摘み、調合したのはどうやらミリアらしかった。礼を言われたのが意外だったのか、ミリアは目を丸くして、
「いいよ。あたしはほとんど見てただけだしね」
「あれから、どうなった。今は、いつだ。俺はどれくらい……」
「お前が起きるまで三日かかった。もう夜だ」
顔を持ち上げると、天井の吊り蝋燭の炎が揺れている。アーシスが答え、ミリアが補足するようにあとを継いだ。
「正確には、何度か痛みで起きて、また気絶の繰り返しみたいな感じ。覚えてる?」
「いや……」
「だろうね」
しばらくすると、痛みが引いた、というよりは、起き抜けの触覚の鈍りが増してきたように感じる。強化図術を使ったときとちょうど真逆の感覚。これならと思い身を起こすヨクリに、ミリアが忠告をする。
「飲ませたのは半分毒みたいなもので、治ってるわけじゃないからね」
「ああ」
そんな都合のいい薬があるとはヨクリも当然思っていない。患部の治癒ではなく、全身の感覚を鈍らせているだけなのだろうということは推察できた。だが痛みが希薄になり、思考が回転してゆく。
「経緯を、説明してくれ」
「だいたい、もうわかってると思うけど」
ミリアの言う通り、アーシスの表情をみた瞬間からヨクリにはある程度察しがついていた。それでも、それは予測であって、完全ではない。
茶髪の男を仰ぎ見る。
無言で促すと、アーシスが一つ深呼吸してから、ヨクリがジェラルドの一撃で気を失ったあと、何が起こったのか説明を始めた。
■
——そして、アーシスの言葉が切れたあとをミリアが引き継いだ。
「アーシスは足やられてたからあたしと、それからもう一人でヨクリをここまで運んだんだ」
ミリアは思い出そうとするそぶりをみせながら、
「なんていったっけ、彼は下で料理中」
階下からいい匂いが漂ってきていたのはそういうことで、ミリアの言っているタルシンだろうとヨクリは推察した。
「怪我人だらけで、あたし料理できないしねぇ。食欲はある?」
ヨクリは首を縦に振って、
「イリシエや、ほかの集落のみんなは?」
「全員都市に移動したよ。だいたいがリンドで、ちょいちょい他の都市にも行ったみたいだけど」
ひとまず、そこでヨクリの疑問のほとんどは解消された。自然と室内の音は途切れ、静けさが支配していく。耳に身を委ねて思考に没頭しようとしたとき、低く沈んだ声が聞こえた。
「……悪かったな」
ヨクリはゆっくりと顔をあげた。うつむき、前髪に隠されたアーシスの表情は見えない。
なぜ君が謝る、とヨクリは思った。力になれなかったのはヨクリのほうだった。
「なにもできなかった。お前の必死も、皆の命も、オレが無駄にした」
静かに、しかし吐き出すように茶髪の男はヨクリに言う。
慰めの言葉をヨクリは持っていなかったし、かけるつもりもなかった。辛勝どころか負け続けのこれまでだったから、そういう精神に苛まれたときに望まれているのはもっと別の言葉だということをヨクリはよく知っていた。それを迷わず言葉にする。
「あいつの目的は、結局なんだったんだ」
訊ねたヨクリに、アーシスはわずかに顔をあげて目を伏せたあと、
「……だから、この村とオヤジを……」
「そうじゃない」
暗い音をヨクリは遮って、
「その結果やつが得るものはなんだ。エイネア様を手駒に加えて、ジェラルドはいったい何をする気なんだ」
アーシスが体に力を込めたのが、ヨクリにはわかった。
「……それがなんだって、もうお前には関係ねえだろ」
声音は震えていた。
「お前がもう、そんなことする必要ねえんだ!」
やり場のない怒りなのか、それとも真にヨクリを案じてのことなのかはヨクリに判断できなかったが、大きな声だった。
「……もう十分だって」
最後に絞り出したその言葉に、ミリアから聞いたよとヨクリは思い、しかし口には出さなかった。
——ジェラルドに挑む前、すでに決意していたのだ。この戦いが終わったあとのことも。
「アーシス」
友の名を呼んでから、しばらくのあいだ二の句を継がなかった。アーシスがヨクリと目を合わせるまでじっと待っていたからである。
色のない瞳だった。その瞳に映る自身の姿を見据えながら、ヨクリは滔々と語り始める。
「……最後、ウェルさんと言い争いになりかけたんだ」
森が極光に染まる直前。
ウェルとの言い争いは、もう二度と行われることはない。
「彼の最後の言葉を、俺は聞けなかった。聞けなかったんだよ」
ヨクリはウェルのことが好きだったわけではない。友好的な関係を結ぼうと望んでいたわけでもない。でも、さらに険悪な関係になることも、なにかのきっかけで友になることも、もうないのだ。
「……ラッセとは約束をした。もう果たせなくなってしまった」
村にいるあいだは、戦い方を教える約束をした。剣の腕があがったら、新しい引具を買う約束をした。ラッセにはたくさんの可能性があった。
それらは全て失われてしまった。
出会う落命に、もしの可能性を考えるのはキリがない。
それを想うことは無意味だと、ヨクリが業者を始めてから決めた自分への法を、ヨクリは初めて破った。
ヨクリが見ようとしなかった、逃げてきた、ヨクリよりも弱く儚い命がこの国に確実に存在するという事実と向き合っていれば、失われなかったかもしれないのだ。
「俺が、俺たちがきっと、ずっと考えなくちゃいけないことだったんだ」
決して強要することはできないけれど、たぶん、アーシスも同じことを思っているという直感がヨクリにはあった。
代わりに、自身がどう選択するかを告げる。
「だから、俺は追うよ」
そして、
「それに……」
言い淀んだヨクリの真剣な表情の中に、怒りの延長線上にあるごくわずかの、狂気と闇が顔を覗かせる。
「あの女は——テリスは俺たち業者の越えてはいけないところを踏み越えた」
同じ依頼を受けた以上、そのあいだは背中を預ける味方である。様々な背景を持つ人間の坩堝。混沌として、また自由で縛られない業者が共有する数少ない不文律。ヨクリの培ってきた業者としての矜持が、それを己の利のために蔑ろにした者に罰を与えろと、激しく訴えかけてくる。
騙さずとも死者は出ていたなんて絶対に言わせない。
「相応の代償を払ってもらう」
暗い決意を滲ませる冥々とした光が、ヨクリの瞳孔に宿っていた。
言い終え、ざわついた心を抑えるようにしばし瞑目してから再び開く。アーシスは黙したままだった。
そして、それらを除外しても、さらにいくつかの気がかりもあった。
(あの紋陣が戦いよりも前に起動を始めていたのなら、ジェラルドは”多重起動”していたことになる)
紋陣を複数制御する”多重起動”は図術制御の高等技法であり、ヨクリには出来ないものの、男の技量を考えれば納得できないことはない。しかし。
(明らかに”創礫”とは性質の異なる別の術だった)
ヨクリの体を打ち据えた見えない攻撃は、”創礫”の紋陣を手動で組み替えてどうにかできる代物ではないと、それこそ図術に疎い人間でもわかるほどに異質であった。
そして、”多重起動”は”同じ”紋陣を複数制御する技法である。全く別の紋陣を同時に制御できる人間など、具者に限らず、学術院側の純粋な図術技師を含めても国内にはほとんどいないだろう。さらにいうならそれを戦闘の最中に、である。ヨクリとて、あのとき誰にでも容易に捌けるほど温い攻撃を加えていたわけではない。
もう一つ。
蒼い光に包まれたときに見た幻のような光景。
ヨクリは直感的に、それがヨクリ自身に大きく関わるものだと理解していた。
(あの光の奥が一体何だったのか、俺はたぶん知らなくちゃいけない)
見たものの記憶は失せていたが、なにかを見た経験をしたことは覚えている、不可思議な感覚だった。
そうやってヨクリが思考の海に身を沈めていると、廊下から階段を登る足音が聞こえ、タルシンが姿を見せた。
「ヨクリさん起きたんすね、よかった」
安堵の表情を見せながら言って、
「メシ、食えます? 準備したんすけど」
三日絶食していただけのことはあり、飢えをはっきりと感じていた。階下から漂ってくる匂いだけで腹がきりりと痛む。
「うん、ありがとう」
ヨクリが礼を言って肯定すると、青年は気を利かせて提案してくれる。
「ここまで持ってきましょうか?」
「いや、降りるよ。薬が効いているし、今の無理がどのくらいなのか把握したい」
レミンから、施療院のある最寄りの都市リンドまでの道のりに”獣”に襲われないとも限らない。引具を使えば体の痛みは低減される。だから、本当の限界がどこまでなのか知っておく必要があった。
腹に力を溜めて起き上がり、寝具の側にある靴を履く。腰は曲がるようだった。しかし、しっかりと立ち上がると背中の引きつりが大きくなったように感じる。
わずかにふらつくと、見かねたタルシンが手を貸してくれる。ヨクリの体を支えて、息を合わせてくれた。ヨクリはまた礼を言ってゆっくりと、まずは部屋の扉へ向かう。
■
ヨクリとタルシンが部屋を出たあと、ミリアがそのあとを追う。だが、扉の前で金髪の少女は立ち止まり、アーシスへ振り返った。ばらけた髪が宙に揺れ、灯を吸ってきらきらと輝く。
この少女もまた、アーシスになにか話があるようだった。
「あたしはね」
静かな声で、
「復讐なんて、贅沢だと思う」
はっきりと告げた。
「そんなことしたってお腹が膨れるわけじゃない。死んだやつや失ったものが戻るわけでもない」
淡々とした口調だった。だが、どこか実感を伴った重みを孕んでいた。言葉の意味を飲み込みながら、アーシスはミリアの表情を見据える。しかし真意を窺うよりも前にすぐに色を取り戻し、おどけた態度に早変わりする。
「ま、アーシスの好きにしたら」
そこまで言っておきながら、途端に突き放したミリアに、ため息交じりでアーシスは答えた。
「……ヨクリにも言ったが、お前にゃもう関係ねえだろ」
「そうでもないんだなー」
言葉の意図がどういうものか考えるよりもまえに、ごそごそと、イリシエから借りたままの服をまさぐって小さな、しかし丈夫な札を取り出してアーシスに見せた。
それはわずかに青銀色をした金属の板だった。表側の右隅にランウェイルの国章。文字と数字の彫りに、細かく砕かれた朱砂の結晶で墨入れされている。
「——実はまだ、あたしの仕事は終わってないから」
気落ちを忘れ、アーシスは呆気にとられる。それほど金髪の暗殺者が掲げた札は予想外で、そして貴重なものだったからだ。




