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途上のシャムロック  作者: 納戸
箱庭の黄昏
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六話 揺籃の誓い

 アーシスがこの喪失感を味わうのは初めてではなかった。そして、遠い昔に寄る辺を失ったときはどうしていたのか。茶髪の男は過去を振り返っていた。


 二人の最後を、アーシスは今でも鮮明に覚えている。シャニール戦争末期、極大化した戦線に国中が慄いていた頃である。

 暖炉の火に照らされ、破顔した美丈夫と、曙光がさす家の戸口から振り返る女性。


「この戦いで名をあげれば、貴族にとりたてて貰えるかもしれない。お前たちに楽をさせてやれる」

「すぐに帰ってくるから、それまでイリシエを頼むわね」


 それぞれ、父と母の言葉だった。


 自身の両親が遅くとも半月後には戻ってくると思っていた少年は、半月が経ち、さらに一週、そして一月が過ぎると、いよいよ焦燥を覚えた。母が一向に戻ってこないばかりか、なんの便りもなかったからである。

 買い置きしてくれていた備蓄も底を尽き、とうとう齢十三のアーシスは途方にくれた。自身だけならばまだよかったが、同じく残された妹はまだ四つで、少年が面倒を見ないと生きてはいけなかったからである。


 国がまさしく戦火の只中であったということは、幼いアーシスにもわかっていた。北方にあるこの円形都市は、時期を問わず雪がちらつく。白々とした街路。まことしやかに囁かれていた、戦争はすぐに終わるという有識者の予想は大きく外れ、ひょっとすると国土の中枢まで攻め入ってくるかもしれないという不安を背景に東の戦火から逃れた人々でごった返しており、木製の車輪が擦れる音と、手押し車を押す人々で満ちていた。皆余裕がなく、やれ肩がぶつかっただの、道を譲れだのというような怒声を撒き散らすか、あるいは覇気のない、沈痛とした面持ちで歩くばかりであった。

 活気のある若者は少年の父親と同様に、剣を携え東へと向かっていた。母親のような、基礎校を出ておらず引具の扱えない者も、物資の輸送や現地の戦闘以外の人員として駆り出されていた。


 食料が底を尽きると、家に用意されていた金で商店へ赴いたが、どこも品薄だった。都市内の方々を駆け回ってなんとか手に入れたが、次は金がみるみる減ってゆく。

 金商は、やたらと裕福そうな人々で溢れかえっていた。長い列だった。両親が戻ってくるまで、なんとか食べていけるだけの金を借りようと努力したが、取り合ってはもらえなかった。だが、代わりに同情したのか、受付の女が配給のことを知らせてくれた。

 配給の、また長い列に潜り込んで、食べ物を待った。だが、どの列も貴族が優先され、アーシスのような子供は置き去りにされたままその日の配給が締め切られることもままあった。


 四日だったか、五日だったか、あるいは一週だったか。妹の食べ物を優先し、アーシスは痩せこけていた。粗末な麵麭と水と豆だけの汁物を囲んだ食卓で、妹が言った。


「だいじょうぶなの? おにいちゃん」

「お前は何も心配しなくていい」


 四歳の子供でもわかるほど、少年たちの状況は逼迫していた。安心させるように少年が答えると、妹はいとけない仕草で「そうじゃない」と首を大きく横に振った。


「おにいちゃんが、たおれちゃう」


 アーシスは、拳を握りしめた。アーシスがイリシエを想うように、妹もまた、自分のことを想ってくれている。ならば妹は自分が守らなければならないと、決意した。なにを引き換えにしようとも。


 そして、次の日からアーシスは路上で叫んだ。なりふり構わずすがった。靴磨きでも煙突掃除でもなんでもいい、仕事をするから雇ってくれと。声が枯れるまで道ゆく人々に懇願していた。

 来る日も来る日も、場所を変えては頼み続けた。しかし、中流層の平民にも少年を雇用するだけの余裕はなかったし、時折通りを行く裕福な貴族の視線はその物乞いのような光景には冷ややかだった。


 わずかな希望が絶望に変わろうとしていた頃、少年に話かける影があった。


「仕事を探してんのか? ……良い仕事があるぜ」

「なんでもする」


 アーシスは一も二もなく頷く。 


 そうして連れてこられた場所は、都市の周りを囲う遮壁のきわだった。原因は少年の預かり知るところではなかったが、大きな穴が空いていた。そこにはアーシスと、アーシスを連れてきた影だけではなく、まさに少年のような食い扶持に困った子供たちが何人も居て、壁の修繕に務めていた。すぐにアーシスもその作業に加わる。


 昨夜積もった、石のように硬くなった雪をかく作業からはじまり、明け方から凍てつく夜まで、皆が黙々と働いていた。得られるのは、一日にアーシスとイリシエがぎりぎり生活していけるだけのわずかな金であったが、生きていけるならアーシスは構わなかった。


 しかし、それだけではすまなかった。


 作業に従事してから一週も経たないうちに、壁の修繕は絶対に完了しないとアーシスは気づいた。なぜなら、その場の誰もが壁の仕組みを知らず、なおかつ指示する人間がおらず、材料も日によってまちまちだったからである。

 見通しの立たぬまま終わらないだけならまだよかった。問題は、石材だったり木材だったりを組み立てても、別の箇所が倒壊し、そこで怪我人が発生することであった。しかし、哀れな子供を誰一人救おうとしていなかった。そもそも、日の作業が終わる夜更けまで、大人はこない。


 怪我人に駆け寄って、なけなしの衣服の裾を裂いて患部を縛り、出血を食い止めながらアーシスは思った。もうこの子供は働くことができなくなったということと、自分がこうなるわけにはいかない、ということを。


 困難はさらに続いた。


 その日は雪がしんしんと降っていて、皆、かじかんだ手を吐息で温めながら作業に従事していた。木枯らしというにはあまりに冷たい風の音に、鬱々とした様相であった。ただ今日を凌げば明日がやってくる。皆、口には出さないがそう考えていたはずだったろう。現にアーシスも、夜更けまで耐えれば妹の待つ暖かい家に帰れる。そういうふうに思っていた。


 日々の苦悩を騙して働き、気力がすり減っていく。疲労と寒さで、音もなく忍び寄るものに、誰も気づかなかった。


 アーシスが積み荷の雪を払って丸太を抱えていたとき、一番外側から、絶叫が聞こえた。何事かと、一様にそのほうを向くと、白い雪に不気味に映える鮮血があった。

 倒れ込んだ血まみれの子供に覆いかぶさる多くの姿。


 ——穴の向こうから、侵入してきた”獣”である。


 アーシスも含め、皆が凍ったように固まっていた。景色に溶け込む白いけむくじゃらのそいつらは唸りながら子供に群がり、絶叫が徐々に小さくなる。とうとう獰猛な息遣いだけが支配するようになると、一匹の獣が子供の腹のあたりから何かを咥えて、引っ張りだしていた。

 遠目からは、赤い紐のようなかたち。それは、襲われていた子供の腹わただった。獣の動きに合わせてずるりとこぼれ出ているさまを皆はただ眺めるだけだった。


 そして、その不自然な静寂は恐怖によって解放される。


 アーシスの右側にいる子供の一人が一歩後ずさったあと、尻餅をついた。それを皮切りに、あたり一帯を揺らすような悲鳴が轟いて、雪を踏み駆ける音が続く。周囲は激しい混迷に包まれ始めようとしていた。


 直後、多くの影が付近の家屋からゆらりと、陽炎のように現れる。アーシスに仕事を紹介した、あの影たちである。

 だが、影たちは都市の方向を塞ぎ、ただ見つめるのみだった。


 アーシスは直感した。この場所からは逃げられない、と。


 影の出で立ちの異様さが、水を打ったように静けさを取り戻させた。アーシスが見渡すと、別の子供がまた襲われている。そのけむくじゃらはよほど飢えていたようで、夢中で子供の腹に食いついていた。


 さり、とひとりでに力のこもった足に雪が擦れる。獣は気づかない。

 右手で持った木材の形を整える小刀が、熱を帯びていた。

 風雪の冷たさの中、くっきりと疼くように全身を急かす。今ならやれると思った。

 血まみれの子供を憐れんではいなかった。皆を傷つける存在が許せないという正義感もなかった。

 誰のためでもない、ただ自分が生き残るために、アーシスは駆け出した。





 戦況が急転し、どうやら戦争が終わりに近づいているらしいということは、行き交う人の話から知ることができた。

 その頃アーシスは壁の補修から影の連中に付き従って命令をこなす職務についていた。言われるままに引具を持たされ、ほとんど訓練と呼べる準備もなく壁の外の獣たちの狩りをさせられた。

 壁の小さな騒動の際に見繕われた子供はアーシス以外にも六名ほど居たが、二人は初触を終えることなく実戦に駆り出され命を落とし、もう一人はなんの因果もなく、ただ単純に獣に殺された。


 アーシスが生き残ることができたのは他の子供よりも大柄だったことと、初触の終わりがはやかったこと、そして引具を用いた戦闘の要点を掴むのがうまかったからである。

 もっと平たく言うなら、具者としての才能があったのだ。


 そして、それらを乗り越えたあとで、アーシスらについた影があった。その男は仕事を探していたときに声をかけてきた影だった。たぶん、前の段階は選別だったのだろう。アーシスらはその試験を突破したのだ。 影は常に目深に外套を羽織っており、わかったのは野趣溢れる口元と、粗雑だがどこか染み渡る低い声のみだった。


「いいかガキども、よく聞け。てめえら持ってねえ負け犬にありがたい施しをしてる宣教師様がいたが、そんなやつはもういねえ。オレがぶっ殺したからな」


 平然と言い放ったあと続けて、


「なぜか。神なんていねえからだ。誰も何も信じるな。最後に信じられるのはてめえ自身だけだ」


 遮壁の子供たちが三人になったころに、初対面で言われた言葉だった。


「それから、オレを呼ぶときは”売人”と呼べ。この界隈じゃそう通ってる」


 アーシスが”売人”から学んだのは引具の使い方と、生き物の殺し方と、他者を頼らないことであった。もう一つ、自身を拾った組織の名。レムスといった。

 特に戦闘訓練は苛烈を極めた。三対一の、子供と売人の組手である。あとになって振り返ってみれば限界ぎりぎりのところまで手加減されていたが、当時は何度も血反吐を吐き、筋が毎日悲鳴を上げるほどの鍛錬だった。痛みでその場に気絶し、家に帰れない日もあった。


「ドブネズミを生で齧りたくなけりゃ歯ぁ食いしばれ。そうすりゃ少なくともてめえが食いっぱぐれることねえからよ」


 およそ激励とは呼べない励ましの言葉のもと、その鍛錬は毎日続けられた。

 だんだんと、”売人”のもとでレムスの思想に染まっていくと、もうアーシスの頭の中から両親のことはおぼろげになっていた。壁の修繕のころより倍になった給金で、絶えない生傷と濁りくすんだ瞳を案じてくれる妹と細々暮らしていければそれでよかった。


 一月だったか、あるいは二月だったか判然としなかったが、炎も凍てつかせそうな雪が柔らかくなった時期に、生活は唐突に終わりを告げた。

 なぜなら、”売人”から命じられた初の”特別な仕事”で、アーシスはしくじったからである。とある高名な貴族が、戦争の終結から少し経った頃この街に遊説のためにやってきた。その内容が戦後のシャニール人への待遇の向上を訴えるものだということを知ったのはかなり後になってからのことであったが、とにかくアーシスは、その貴族の殺しを命じられた。

 倫理や道徳はすっかり抜け落ち、人を殺すという命令の詳細を聞いたときにも心が動くことはなかった。

 襲撃の時間は夕刻。場所は大通りを一つ入った裏路地。そのときが滞在期間中に貴族が無防備になる唯一の機会だった。


 積まれた木箱と勝手口に取り付けられた(ひさし)。アーシスが庇の上に登ってうずくまり息を殺していると、大通りから、夕陽を背負って貴族がやってくる。顔は逆光でよく見えない。そいつが屋根を通り過ぎて、その細い首の裏が見えたとき、アーシスは引具の小剣を携え、一気に飛びかかった。


 殺ったと、そう思った。だが、凶刃が薄皮に食い込むよりも前に、回るように身を翻した貴族は回転の勢いをそのままに、逆にアーシスの首裏に何かを強く打ち込んだ。

 火花が散ったように灼熱が全身を襲う。体をしたたかに打ち付け、積まれた木箱がばらばらになる壊れた音が聞こえた。


 その強烈な痛みが、アーシスに失われた正常な感覚を思い出させた。


 ここでしくじったら、命があっても無事では済まない。貴族を狙ったということ、そしてレムスが失態を犯した者へどう処遇するかということ。さらに、妹の身にも危険が及ぶと言うこと。


 気づけばアーシスは手負いの獣のように吠えていた。肩で息をしながら貴族を睨み上げるが、その拍子に激痛が全身を駆け抜け、うずくまった。その隙に絶望する前に、頭上から静かな声がかかった。


「いかに都市機能が止まっているからといって、街中で子供に引具を使わせるとは」


 倒れ込んだ時に左腕を強く打ち、右手で庇いつつ貴族の顔を見た。


「……悲しい目です」


 位置が入れ替わり、日陰に入ってはっきりとわかる。憂えを帯びたまなざしだった。哀れむような、懺悔をするような。

 そして、


「貴方はなぜ、このようなことをしているのです」


 と問うた。アーシスは痛みに呼吸を荒らげながら、どうしてか素直に答えていた。


「生きていく、ためだ」


 その男は瞑目したあと、再びまぶたを開き、少年を見下ろして言葉で痛撃を浴びせる。


「人に誇れぬ生き方をして、生きると言うのですか」

「お前なんかになにがわかる!」


 少年が思うよりもはるかに激しい怒りが噴出し、それに任せてさらに詰め寄ろうとしたアーシスを止めたのは、エイネアの瞳だった。ただ、静かで穏やかな瞳だった。その瞳の意味を、アーシスは知っていた。

 両親と同じ。妹と同じ。慈愛の眼差しだった。

 長い間貴族はなにも言わず、少年はなにも言えなかった。言葉はただ唇を震わせただけで音をなさない。その沈黙は少年のあずかり知らぬ無意識のうちで必死に保っていた、張り詰めていたものを、切る。


 からん、と携えた引具が路に落ち、乾いた音をたてた。


「……腹が、減るんだ。寒いんだ」


 自身の震えた声を耳にしたときにはもう、アーシスの両目から透明な雫がこぼれ落ちていた。冷え切った頬に、熱い線が引かれる。


「オレだけなら、いい……でも、妹がいる。……オレ、はあいつを……」


 死にかけの心が鼓動を取り戻して、ただ叫んでいた。

 貴族は少年の慟哭を受け止めて、


「ならば」


 言葉を切って、


「私と共に行きましょう」


 左腕を前に出し、掌をアーシスへ見せる。


「貴方が誇って生きられるように」


 焼けるような全身の痛みは、もうずっと遠くに感じられた。熱を帯びた心のままに荒っぽく涙を拭って、夕焼けの中差し伸ばされた手を、少年はとった。


 ——それが、エイネア・ヴィシスとアーシスの出会いだった。





 その貴族はアーシスとイリシエを保護したが、ただ住まわせるだけにはとどまらなかった。アーシスには、組織の情報を事細かに聞き出し、イリシエには使用人のもとで家事を見習わせた。

 また、特にアーシスはなぜかエイネアの側仕えのように身の回りのことをあれこれさせられ、その経験に比例するように知識が蓄えられていく。

 待遇はまるで違ったが、皮肉というべきか、”売人”の手足になっていた頃と同様に、時は射られた矢のような速さで過ぎ去っていった。それが両者とも学ぶことに必死だったからであるという事実に気づいたのはアーシスの体が成熟しきったあとのことだった。”売人”から教わったことも、エイネアに教わったことと同じようにアーシスの血肉となっていたのである。


 月日は流れ、レムスはエイネアら貴族の集団の手によって壊滅させられたことを知った。諸都市を回っていたエイネアの目的は遊説と、戦後の荒れた情勢を立て直すためだったらしい。そのなかには貧しく若い子供を攫うレムスの調査も含まれており、組織は見事に騙されたというわけだった。


 だが、想像よりもかなり多い人数の構成員のほとんどは壊滅時のいざこざで落命し、数少ない捕縛者も変死した。とりわけその後の”売人”の行方は全く掴めなかったそうだ。

 わずかな手がかりから得られたのはレムスは教会と内通していたということである。息のかかった宣教師が貧しい子供をみつくろい、レムスに報告して集めるという手口。

 一連の手口で戦闘奴隷として育て上げ、身元の割れない奴隷を欲しがる貴族に売りさばくのが目的だった。口で言うには憚られる裏の仕事をさせるのにはうってつけの人材である。


 そしてエイネアのもとで世話になってからちょうど一年が経過したころ、アーシスの両親の亡骸がみつかった。父親はアルルーの市街戦において無理に伸ばした戦線で、壊滅した部隊に配属されていた。母親は物資を運ぶ道中魔獣に襲われて命を落とした。

 それら全てが事実なのかどうかは定かではなかったが、戦のあとの命が軽いというのは少年にも直感的にわかっていた。おびただしい数の命の標を一つ一つ拾い上げて調べ上げるほどの時間を、この国の貴族は使わない。


 事実を告げられた妹は来る日も来る日も泣きはらしたが、なぜか、アーシスは妹を励ましながらも、両親の死を悼むより先に、そのことを告げてきた調査員の顔が忘れられなかった。

 おそらく数え切れないほどのそういう結末を見届けてきたのだろう、淡々とした口調と無表情。

 

 両親の訃報が決め手となり、アーシスら兄妹は正式にエイネアの庇護下に置かれることとなった。

 それが、両親を喪ったときに起きた出来事と、感じたことの全てだった。

 そして、流れる過去の中を見つめていくと。


 空腹の列を我が物顔で横入りする高貴な者を。

 冷たい路地で、肩を突き飛ばし罵声を浴びせる高貴な者を。

 雪と血に怯え、逃げた先で剣を携え佇む高貴な者を。

 両親の訃報を平然と告げた、高貴な者を。


 遠い昔にいつの間にか閉まっていた、アーシスがずっと見ないふりをしていた蓋が開かれていた。


 そう。アーシスは。

 ——アーシスは、貴族が憎かったのだ。

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