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途上のシャムロック  作者: 納戸
箱庭の黄昏
53/96

   3

 戦闘の終わりの僅かな静寂が、屋敷の前を支配していた。


(こんなもんじゃねえ)


 ジェラルドがなんと言おうと、先ほどの戦いは明らかに、アーシスの知る黒髪の青年の動きよりも鈍くくすんでいた。

 こんなものじゃない。ヨクリの力も——そして、アーシス自身も。

 男に見抜かれた諦念に、負傷を押して放った青年の最後の一閃が火を灯し、ない交ぜになって燻る。

 心がひとりでにアーシスを突き動かし、じゃり、と両手で泥を握りしめた。


 整然と待機する外套の集団。

 朝靄と、時折吹く風の音。集団を率いる男を中心に迸る異様な気配。

 仰向けに横たわるアーシスの友へ向かって静かに男は歩き出した。

 黒髪の青年はぴくりともしない。もとより重傷といってよいほどの怪我を負っていたのだ。青年の体はもはや限界に達していた。


 アーシスはうつ伏せから必死にもがいて立ち上がろうとする。だが、図術を食らった両足が痛みで動かない。それでも腕と胴の筋を使って半身を持ち上げ、ジェラルドを睨んだ。背を向けているはずの男は、まるではっきりとその動き見ているように忠告する。


「やめとけ。その足はしばらくは使い物にならねえよ」


 そして、とうとうヨクリの側まで近寄って、未だ黒い波動が揺らめく断罪剣を突きつけた。


「殺すぜ。こいつは生かしておくと厄介そうだ」

「やめろ……」


 制止は、獣の唸り声に似ていた。

 アーシスの背後、屋敷の入り口のタルシンは動かないのか動けないのか、なにかをする様子はなかった。

 剣が陽光を反射し、アーシスの視界を遮ったとき。

 パン、と乾いた、とても大きな音が鳴り響いた。


 残響が消えるより前にアーシスがそのほうを見ると、金髪の暗殺者が腕を天に伸ばし、煙を吹いた古物を上に向けていた。下ろした左腕の裾からは腕輪がちらと見える。


「そこまで」


 ジェラルドは剣をヨクリに突きつけたまま右足を引いて半身になり、肩越しにミリアを見据える。その所作に幼い外見に対する油断は全くない。

 入り口までの通路の両脇に並ぶ集団が一斉に引具を構えるが、ミリアは何食わぬ顔でゆっくり歩み寄った。


「古物か。なにもんだてめえ」


 業者どころか、貴族でさえ入手することが難しい古物を持っているということ、入手経路、また、未知に臆せず自在に操る少女の技量をジェラルドはただの一見だけで察し、端的に発した。


「あたしのことはいいよ」


 しかしミリアは質問を無視して、


「それより、その人を斬ったらたぶん面倒なことになるからおすすめしないよ」


 左手をひらひらさせながら言う。わずかな期間ではあるが、普段のミリアを知っているアーシスにはその仕草が芝居がかって見えた。


「ステイレル家のキリヤと仲がいいから」

「ハッタリだな。姓無しにそんな大層な知り合いがいるか」

「かどうか、実は知ってるんじゃない?」


 駆け引きのようなやりとりが続いたが、次の声でそれは中断される。


「まあ、時間切れだよ」


 ミリアは顎をしゃくって呆然と立ち尽くすタルシン——扉の方を示した。ジェラルドはふんと小さく鼻を鳴らして、仰向けに横たわる青年から剣線を外し、波動を振り払うように横薙ぎした。

 強大な力が拡散し、火の粉のように小さくなってゆく。男の携えた断罪剣の周囲に取り巻いていた黒い波動が薄れ、徐々に正常な状態に戻る。

 そうやって現実感のない術がようやく停止したとき、アーシスの背後から音が聞こえた。


 ——屋敷の扉が、開かれたのだ。


「よう、久しぶりだなジジイ」


 ジェラルドは口の端をあげながら、語りかける。そして、屋敷のほう——エイネアの元へ歩み寄った。もう、アーシスのことは視界にいれていなかった。

 ゆっくりとした足音と、アーシスのよく知る低く穏やかな——今はこわばった緊張感のある声音が聞こえてくる。


「十一年ぶり、でしょうか」

「さあな。忘れちまったぜ」


 エイネア・ヴィシスその人である。アーシスは唇をきつく噛んだ。エイネアが姿を見せたということは、状況はもう、次の段階に移っていたからである。


「なぜ、このようなことを」

「てめえが一番よくわかってるはずだ」


 男は言葉を切って、


「だから出てきた。そうだろ」


 エイネアは黙したままだった。ジェラルドは屋敷から背を向け、少し歩いた。そして落ちていた革帯を拾って、


「むしろ俺のほうが訊きてぇな。十年以上もこんなくだらねえことをしてやがったのか?」


 抜き身の剣に乱雑に巻きつけながら質問を返し、さらに追い討ちする。


「笑えねえよ。まさか贖罪のつもりじゃねえだろうな」


 男の言葉に、父がわりの貴族は拳を握りしめた。


 二人だけで話をしているのも、なんの話をしているのかわからないのも、アーシスには耐え難かった。

 そして一方で、その背をアーシスは眺めながら思う。

 エイネアがアーシスと出会ってからしてきたことは、くだらないことなのか。

 ——なにも言い返せないほど、誰にも胸を張れない、取るに足らない行いだったのか。アーシスはたぶん、一言でもいいから言い返して欲しかったのだ。


「てめえと俺はもう真っ当に生きる資格はねえはずだ」

「……」


 長い沈黙は、おそらく葛藤の証だった。冷たい泥がアーシスの体温を奪っていく。そしてまた灯された心の炎も、同じように熱を失ってゆく。

 壮年の貴族は黙したまま視線を落とし、意識を失っているヨクリを見て、足を引き、肩越しに己の息子とも言える男——アーシスを一度見た。

 その表情で、アーシスは全てを悟らされる。


「どうして」


 疑問は激情に惑わされ、口をついて出たのはあやふやな問いだった。


「……すみません」


 それはなんの謝罪だと、そして、エイネアに頭を下げさせるために問うたわけではないと、アーシスの心は震えた。


「集落は、レミンはどうなるんだ」

「……」


 答えないエイネアに、アーシスはついに声を荒らげる。


「オヤジ!」

「……都市へ向かった住民の住まいや働き口は、なんとか手配しました。私がいなくなっても、困らぬように」

「なんだよそれ……」


 滔々とした説明は、アーシスが心のうちで望んでいた答えとは違っていた。


「オレは! そんな言葉が訊きたいんじゃねえ!」


 なにか手を打っているはずだった。アーシスの知る白髪の貴族はそういう人間だったからである。だが、言の葉が継がれることはなかった。

 喪失感がそろそろと忍び寄ってくる。全てをぶち壊す耳障りな声も。


「もういいだろ。諦めろ小僧」

「てめえと喋ってんじゃねえんだ!」


 割って入った男に、激昂を隠さずに悪態をつくアーシス。

 その態度にジェラルドは大きくため息をついたあと出し抜けに近づいて、地に伏すアーシスの頭を蹴り抜いた。


「ぐっ……」

「聞き分けのねえガキだ」


 呻くアーシスに呆れたように言い放ち、もう二度蹴ってから、


「いいか、これが現実だ。てめえはそうやって虫みてえにうずくまることしかできねえ。これからもな」

「やめてください!」


 その暴挙にエイネアがついに感情をむき出しにする。中断されたジェラルドはアーシスから興味を失ったように視線を切って、緩慢な動作で白髪の男の顔をうかがった。それは最後の、無言の威圧だった。


「貴方の、望み通りにします。……もうこれ以上、ここで血を流すのはやめていただきたい」

「そうか」


 抑揚のない声だった。疲労とも安堵ともつかないため息を一度ついたあと、


「野郎ども、引き上げだ」


 事態を見守っていたジェラルドの配下たちは、その言葉に迅速に動いた。引具を納め負傷者を回収し、素早く隊を整えてゆく。幾度となく行われた調練をにじませる。耳障りなほど整った光景と音だった。

 全てが終わり、ジェラルドが隊を撤収させ、そのあとに男とエイネアも続いた。整然とした撤収の光景に現実感はなかった。


 ジェラルドはその間こちらの誰も一瞥することはなく、そして最後尾のエイネアも振り返らなかった。

 その姿が、遠ざかっていく。


「なぜだ……」


 渾身の力で、アーシスは再び身を起こす。奥歯が砕けそうなほど強く歯を食いしばり、足の痛みをこらえてとうとう立ち上がった。


「なぜ、何も言わねえ……」


 ふらつく体を必死に制御して、大声で喚いた。


「待てよ、待てぇぇぇぇ!!」


 振り絞った声にも、眼界で小さくなる貴族たちが歩みを緩めることはなかった。ついにアーシスは一歩、二歩とそのあとを追い始める。痛みを堪えながらの速度は子供よりも遅かった。


「アーシスさん……」


 痛ましげに気遣うような背後の声や体の痛みも構わず、徐々に速度をあげながら追いすがる。

 ——だが、その歩みは唐突に遮られた。


 激しい感情に支配されていたアーシスは金髪の暗殺者の横を通り過ぎたのにも気がつかなかった。後ろから腕を掴んで止めたのは、まさしくそのミリアだった。構わず振りほどこうと肩を揺すったが、予想よりも握力は強く、手は外れない。


「やめなよ、アーシス。今そんなに動いたら、足悪くしちゃうよ」

「離せっ! オレは!」


 怒りを隠さず、アーシスはミリアのほうに振り向いて怒鳴った。だが、金髪の暗殺者はその形相にも動じなかった。


「——ヨクリを、このままにしておくの? ……誰のための傷なの?」


 静謐な瞳に射抜かれる。

 ミリアの声は平坦だったが、なぜかよく響く音でその言葉はアーシスに伝わった。拘束から逃れようともがいていた力が、するりと抜けていく。

 未だ地に倒れ込み泥の中で目を覚まさない黒髪の青年の姿を、アーシスはようやくきちんと認識した。


 ——自分だけの戦いだと思っていた。だが、そうだとするならば、尽力した友は。

 頭を強く殴られたような感覚は、これまでアーシスがゆっくり育ててきた、誇りそのものだった。

 今、全てを無視してエイネアを追うことは、培ってきた業者としての誇りが許さなかった。

 急速に現実感を伴って、怒りとは別の感情が去来する。


「負けだよ、アーシスの。……あたしたちの」


 告げられた言葉に、全身の力が抜けた。膝から崩れ落ち、両手を地につける。


「……オレは……」


 まるで、全てを失ったような喪失感と、混迷がアーシスの心を苛んでゆく。

 口から漏れ出た声を、どこか遠くで聞いているような錯覚があった。


「オレはこれから、どうすりゃいい……?」


 その問いに答えられるものは、この場にはもういなかった。

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