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右脇腹から左胸元まで深く斬りつける。遅れてびっと衣服が開き、血が吹き出るさまをヨクリは明確にとらえた。一同は一拍置いて驚愕の表情に包まれる。
骸になりかけている男がくずおれたときには、その集団はこれまで培ってきた調練の成果を感じさせるように各々が引具を取り出し、構える。だがヨクリは次の行動に移っていた。
左手を柄から離し、腰のポーチから薬品を指の股に挟み込み、足元に叩きつける。続いて体勢を低く保ちながら、再び刀を両手持ち、一番はやくに対応してきた相手の右足を斬り抜けるように両断した。力を制御できなくなったそいつは、二、三度体をよじらせて踏ん張ろうとしていたが右から転ぶように地面に吸い込まれる。背面へ振り返りながら刀を左から右に斬り上げ、倒れる直前に跳ね上がった引具を握っている右腕を斬り飛ばした。
二十人あまり。この集団のおおよその人数である。一呼吸のあいだに二人の戦闘能力を奪ったヨクリだったが、この奇襲ではこれが限界だった。
瞬く間に集団はヨクリから距離をとって、囲むように布陣を敷いていく。ヨクリはゆっくりと見渡し、館の方角へ正眼に構えた。
「ヨクリ!! ダメだ、来るんじゃねえ!!」
館の入り口の方向から聞こえたのは少し震えたようなアーシスの声だった。でもヨクリにはもう、茶髪の男の意向はどうでもよかった。
(こいつらを、断罪する)
正気を失っている感覚が、はっきりとヨクリにはあった。倒錯していると、頭の中の誰かが言う。
精神を激しく焼き尽くすような、憎しみのたぐいではなかった。おそらく、義務や使命感に近い感情。
そう、正気の沙汰ではない。でも、ほかにあの少年の、ラッセの血に報いる方法を知らなかった。
(ここで引いたら、今まで通りじゃいられない)
キリヤと再会する前に。フィリルに出会う前に。あの虚無の日々へと戻ってしまう。
だから。
じりじりと、敵の布陣がヨクリの後方まで広がっていく。取り囲まれるのは時間の問題だろう。だが、今のヨクリにはここから続く未来に起こるだろう出来事など、頭から消え去っていた。
(殺してやる)
ヨクリの瞳孔は開ききっていた。視界の端の変化を、展開した”感知”からの情報を、全て拾うかのごとく。
囲みの一番内側——ヨクリと距離の近かった三名が異変に気づき、そして苦しみ始めた。散布した毒が効いてきたのである。陣形が一瞬揺らいだあと、円がふた回りほど大きく広がるようにヨクリから距離をとった。
しかし、速度をもってヨクリに突っ込んでくる影が一つあった。ヨクリは油断なく構え、その相手の引具——大振りの手斧に刃を合わせる。
目深に被った外套が急停止によって暴かれた。
「よう、久しぶりだなぁおい」
短髪に大柄な背丈。骨ばった顎と無精髭のその男の顔に、ヨクリは見覚えがあった。
「てめえのことは知ってんだ、オレにその毒はきかねえ」
にたりと口元を歪める。
「オレからの贈り物は気に入ったか? クソ姓無し」
しゃがれ声で挑発するようにヨクリに語りかける男の名は、かつてキリヤが率いるレンワイス治安維持隊に捕縛される前の依頼をこなしたレナール・アボサイだった。
無意識のうちに直感めいた感覚があり、ヨクリは眼前の攻防に集中しつつも、意識の外の視野で探り、そして見つけた。——切り結んだレナールのその奥に、同じく外套に身を隠すテリスの姿があった。
そうか、こいつらがとヨクリは納得した。なにも疑わず、女を信用したのだ。この男が送ったあの背徳者を。
「邪魔だ」
ヨクリは端的に告げた。怒気は頂点を超越し、声音はもう平坦だった。
刃を冷静に滑らせ、相手の渾身の力みを感じたその瞬間、ヨクリは意図的に一瞬脱力する。ふっとヨクリの引具が斧頭の下方を滑り落ち、そのままの勢いで襲いかかろうとするレナールの斧。絶妙の間で、ヨクリは腕力だけでなく、全身のバネを利用して一気に腕を跳ね上げた。
けたたましい金属音。レナールの腕ごと上体が逸れる。驚愕の表情を開ききった瞳孔で見据えながら、一歩間合いを詰めて隙だらけになったレナールの側頭部を柄頭で強く打ち据え、腕を引き戻しながら肘をたたみ、右足を大きく上げて同じ箇所を跳躍気味に蹴り込んだ。
「がっ……」
ヨクリの首を刈るような蹴りの直撃で漏れた声音とともに、どしゃりとレナールが地面に叩きつけられる。そいつのことを一瞥すらせず前進、一気に駆ける。そしてその向こうで伏せていた顔をあげ、表情を恐怖に変えた女をヨクリは抜き去った。この女は気にかける必要がない。戦力の面で言えば。
だが——。
「君はあとで殺す。絶対に殺す。その血で償ってもらう」
去り際に歩を緩め、ヨクリは耳元で告げて再び速度を上げた。かちかち、と小さく鳴った震える歯の音の断片をヨクリは耳にした。
一連の間に相手の陣形はほとんど元の形を取り戻し、容易に突破はできないまで完成されていた。近接手、遠射手の二人一組がヨクリの攻撃範囲の外から包囲する。
そして、集団の中の遠射手が紋陣を起動しようと引具を構えた瞬間、
「待て待てお前ら!」
突如、大声があたりに響いた。一様にそのほうを向くと、大柄な男がため息をつきながらこちらを睥睨していた。
よく通る声で、
「これ以上斬られたらかなわねえわ。陣をとけ」
命令すると、内容に関する動揺のひとかけすら見せずに、見事に統率された動きで円形だったヨクリの囲いがほどかれ、屋敷の入り口まで一本の道をつくるように二列に別れる。
狂気に身を委ねたヨクリに好機が訪れていた。とにかくより多くの犠牲を出そうと行動した結果である。
ヨクリは刀を携え、図術を解除せずにゆっくりと歩み寄った。
この男が、ジェラルド・ジェール。
脱力したような飄々とした佇まいとは裏腹に、一分の隙もみつからなかった。
「いい腕だな姓無し」
出し抜けにジェラルドはヨクリに告げた。
「それとジジイの手慰みもな。なかなか楽しかったぜ」
傍らで仰向けに倒されたままの茶髪の男にも、そう告げる。アーシスはヨクリを見て、眉をひそめた悲痛な表情をしていた。その奥に、勇気を奮い立たせながら屋敷の扉を守るように佇むタルシンの姿があった。ヨクリの胸に、なんとも言えない感情が去来する。
「ヨクリ……馬鹿野郎」
「アーシス」
ヨクリは一言だけ友人の名を呼んだあと、意識をジェラルドへ集中させていく。対する男はほんの一瞬だけ思案げに目を細めてから切り出す。
「さて……」
男の携えた右手の剣は流麗たる造りをしていた。切っ先が平たい、刺突ができないような構造。血を嫌い、神を尊ぶ聖なる剣。リリス教会の断罪剣である。
ヨクリに突きつけられてはおらず、切っ先が地へと下がったまま、ただ不気味に朝日を反射している。ヨクリはそれを見て無性に叫びたくなった。嘘を咎める糾弾の声を。
「てめえら、俺の元につけ。悪いようにはしねえ」
少しの間があった。ヨクリが自分のなかでその言葉を咀嚼するのに時間がかかったためである。しかしそれは返答についての思考ではない。なぜそんな台詞がでてくるのか、その意味を考えていったとき、ふつふつと沸く灼熱のような感情を抑えていたのが主な理由だった。
「ことわる」
だから、短く答えた。
「理由を聞こう」
男の表情は全てを悟っているようにも見受けられたが、意外にも食い下がった。ヨクリは即答する。
「お前はラッセたちを殺した」
ジェラルドはふっと鼻で笑う。
「たかが子供や野良犬どもが死んだくらいでなに言ってやがる」
まるでありきたりな言葉だった。一筋ヨクリの脳裏をよぎるのは、過去の自分のやってきたことだった。だが、ヨクリはどこか自分を高いところから見つめる視点で所詮他人事であると感じてしまうような錯覚を振り払い、感情を奮い立たせる。そして唸るように聞き返した。
「たかが? ……たかがだって?」
「お前も殺すだろ」
ヨクリの葛藤を見透かしたように端的に告げるジェラルド。金髪の暗殺者にも同じ言葉を言われた。ただ、今はもうヨクリは、靄がかっていながらも気持ちの整理がついていた。
「……そうだ、俺は、俺たちは人を殺す。でもはっきりしている、させなきゃならない線がある」
「てめえの裁量でか」
せせら笑うようにジェラルドは淡々と続ける。
「何様のつもりだ」
「黙れ!!」ヨクリは大声で怒りをあらわにした。今は自分に対する失望や不信感よりも、この男を否定しなければならなかった。
「……お前たちにどんな大義があるのかは知らない。でも、なんの罪もない人間を殺めて為すことを」
低く声音を震わせて、
「……ただの人殺しというんだ!!」
ジェラルドは一度俯いて、
「——じゃあ、死ぬか」
男が諦めたように小さく呟いた言葉は、とても現実感の伴わない、極限まで冷え切った温度を孕んでいた。
再び顔を上げた時には、音と同様に氷のように冷めた相貌がそこにあった。
「俺の首が欲しいんだろ? かかってこい。殺してやるよ」
兵を退かせたのは、己が一人でヨクリを相手取ったほうが被害が少ないからだろう。そして、これからの攻防で生き残るのはジェラルド自身であると、気配が告げていた。
佇まいから断続的に打ち付けられる高波のような気力。それは実体感を伴ってヨクリの肌に伝わり、剣を交えずともわかった。この男は強い。
ゆらりと構えをとる。貴族にはとても珍しい、ギレル式ではないその構え。ヨクリも荒れ狂う内面を具現化するように切っ先の延長線をジェラルドの首に据えた正眼に構えた。
「いい構えだ」
再びゆるい笑みを浮かべて、
「行くぜ」
ジェラルドが短く言ったあと一息に間合いを詰め繰り出した剣を、ヨクリは呼吸を溜めて刀で弾き返した。火花が散り、刹那遅れて澄んだ金属音が鳴り響く。その一合でヨクリは戦慄する。
剣が重い。
剣同士の打ち合いでこれほど強烈な衝撃を感じたことはなかった。全ての武器を含めても、ヴァスト・ゲルミスのほかには知らない。
相当な使い手であることはわかっていたが、これは——。
(キリヤよりも……!)
歯を食いしばり、一歩後方に跳躍して下がって、構え直す。ぐっと気迫を込め今度はヨクリがジェラルドとおなじように斬りかかった。
再び金属音が響いた。しかし、表情を凍らせたのはまたもヨクリのほうであった。全く本気には見えない何気ない払いで、たやすくヨクリの剣を捌いたのである。それも、片手持ちの剣で。
それでも、間髪いれずにヨクリは引具に意識を集中させた。
捌かれ行き場を失った力を制御しきれるようになる前の、ほんのわずかの時間で展開紋陣を現出させることができたのは、動揺をうまく受け入れられたからである。
ジェラルドもそれを受け、顔色一つ変えずに迎撃の紋陣を展開。生み出した紋陣の下方の地面が一人でに沈むように窪んでいき、合わせて紋陣の中央前方に収束する砂礫。
(”創礫”)
”氷錐”のように空中の水分——言い換えるなら、気体のエーテルを収束させて術に変換する仕組みよりも高度な、エーテル的結合の強い固体の物質を操作する図術。
ヨクリは術の性質を見極め、とっさに通常展開するつもりだった紋陣を利用し、”拡散”の発動に切り替えた。気体を利用した”旋衝”は、固体を利用した”創礫”にはエーテル的強度に劣り、術が突破されてしまうからである。
間合いより紋陣展開の精度、発動速度がものを言う図術の撃ち合いにおいても、ジェラルドはヨクリの所作を受けての後出しだったが、互いの術の発動はほとんど同時の間であった。
圧縮された風の波動と、無数の矢のように、横殴りに襲いかかる礫の雨が交錯した瞬間、ヨクリは屈むように身を翻した。
ヨクリの術は完全に殺され、礫の威力が優っていたからだ。回避しなければ直撃していた。
即座に体勢を立て直しながら、頭の中で互いの素早さは僅差だとヨクリは計算していたが、二度の攻防で明確に悟らされる。
ある項目においては僅差に。別の項目においては大きく。
そう。確実に、戦闘における全ての要素において、はっきりとジェラルドはヨクリを上回っていた。これほど明確に彼我の技量差を感じたのは、ともすればヨクリには初めてのことであった。
じりじりと、その差が目に見えてくる。
その後の幾度かの攻防にもなんとか食らいついていたヨクリであったが、とうとう刃を受け流されたあとの隙を突かれ、蹴りが背に直撃した。
激痛がヨクリの全身を駆け抜けた。足さばきで体勢を立て直し、素早く後方へ飛び退る。
冷や汗が滝のように流れ、止まらない。両腕が震えて切っ先が定まらなくなっていた。
直後の追撃に、ヨクリの反応ははっきりと一呼吸遅れた。万全の状態ならば躱せたはずの斬撃がヨクリの胸元をかすめる。
その次の動作は、ヨクリもはっきり意識できた。完全に、本能的に退いた自分を。
「動きが悪くなってきたな」
ぽたりと、ヨクリの顎先から汗がひとしずく落ちて地面に染みをつくった。
「そりゃ自分に術ぶっぱなしたんだ。療管に入らず一日二日でどうこうなるもんじゃねえ」
ジェラルドはヨクリに生じた隙とその原因をぴたりと言い当てた。
「確かにてめえは強い。だが、たとえ万全の状態だったとしても俺には勝てねえ」
ジェラルドの気配が強くなる。それは絶対に揺るがぬ自信のあらわれだった。
「てめえと俺とじゃ、経験が違う。”戦争”のな」
もはや結果の見えた勝敗の行方。突きつけられた言葉に、ヨクリは一月以上前の管理塔の上でのことを思い出していた。
(あのときと同じだ。ゲルミスのときと)
剣も術も通じない青髪の貴族。
(また同じように、なにもできずにやられるのか?)
冷たい青銀の床に無様に倒される瞬間、最後に思った、負けたくないという単純な意思が、再びヨクリを突き動かした。
(——ごめんだ)
背中には激しい痛みのほか、筋の引き攣りがあった。だが、ヨクリは肉体の感覚を捨て去ろうと引具だけに意識を集中させた。狭窄し、周囲の音や景色が届かなくなる。ただあるのは、相対する男の姿のみ。
「ちっ」
そのヨクリの変容を感じ取ったのか、男は舌打ちする。心底不快そうな態度だった。
「……面倒くせえよ、お前」
言いながら、口元の笑みを消して剣を構え直した。男本来の構え、おそらくは本気の現れだった。
もはや肩をあげることは難しい。ならばとヨクリは右半身ぎみに構えると、左肩に峰を預け、刀を担ぐようにしてジェラルドを見据えた。
男の一挙手一投足を見逃さぬように精神を集中させる。
そしてジェラルドがざり、と右足を半歩前に出した瞬間、ヨクリは飛び出した。
瞬きよりも短い時間でジェラルドは即応し、同じように前進する。
有利な間合いの取り合いである。急速に縮まる両者の距離。
結果的に、見るものが見れば、”間合いの勝負においては”ヨクリが勝利した。だがヨクリの刃の間合いに入る直前、ジェラルドは急停止し、後方に重心を預けながら外套を翻してヨクリの視界を遮る。一度も引かなかったジェラルドが見せた回避行動に構わず、ヨクリは振り抜いた。ちかりと光の筋が走って、遅れてひゃう、という極めて鋭い風切り音が鳴り、外套を真っ二つにする。
——だが、間合いをごまかされ、ジェラルドの胴体へは届かなかった。
「その剣は受けられねえわ」
両断された外套が翻り、上体を逸らしたジェラルドの姿があらわになった。表情は真剣そのものであった。
まさしく全身全霊を込めた一太刀であったため、ヨクリの体は横薙ぎの終点、刃を振り切った体勢で硬直していた。
しかし、致命的な隙への追撃はなかった。激しい負傷を無視して無理に動いたことが原因の、強制的な呪縛のような筋の硬直から解かれ、なぜ、とヨクリが疑問を解消しようと男の姿を見た時——
——邪悪な気配がした。
ジェラルドの短髪が揺らめいている。吹き付ける風の影響ではない。引具から漏れ出す強烈なエーテルの濃度によって生じたものだ。
おぞましさすら漂う気配に身を貫かれながら、ヨクリは直感した。
なにかがくる。それも、ヨクリの知らない途轍もないなにかが。
大きく距離の開いた両者。ヨクリがなんらかの対応をしようと試みるよりも前に、ジェラルドが左拳を握り、手の甲を見せるように振り上げた。
「ヨクリ!!」
ジェラルドの後方、ヨクリから見て前方から、アーシスの声がした。必死な声が警告であると直感したその直後。
ヨクリの体は、宙に浮いていた。視界が、雲と、合間に見える青空で埋め尽くされる。
「がっ……」
首から上に、凄まじい衝撃と痛みが襲いかかった。顎を撃ち抜かれたのだとなんとか理解したのは、仰向けに地面に倒れ込んだ瞬間だった。
違う。ゲルミスの時のような、圧倒的な力によるものではない。間合いがあれだけ開いていたのだ。図術による攻撃としか考えられない。でも、紋陣が現出していない。しかも、顎に強烈に残っているのは明らかに男の拳による肉体的な攻撃を食らった感覚だった。なぜ。
視界がでたらめに歪み、ゆらめいている。何度も失敗しながらも、ようやくヨクリが首を持ち上げると、ジェラルドの右手に携えられた剣がこれまでのどの引具とも似つかない様相をしていた。
ヨクリの知る法則とは一線を画するよう現象。黒い波動がまとわりつくように断罪剣の周囲にほとばしっている。
「な……ん……」
疑問が独りでに漏れた。首の力が抜け、視界が地面と平行になる。
やっとわかった。
遠くの方に、男の引具と同じ色の、黒い線が見えた。かすかに湾曲し、炎のようにうごめいている。
——最初から、紋陣はあった。ヨクリらの戦っていたこの場所は、男の作り上げた巨大な紋陣の内部だったのだ。
(だめ、だ、落ちるな。まだ、勝、負は……)
「悪いな」
ジェラルドの発したその声を最後に、ヨクリは意識を手放した。




