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途上のシャムロック  作者: 納戸
箱庭の黄昏
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五話 決意の先

 意識を取り戻すと、ぼやけた視界に広がったのは一室の天井だった。アーシスの家の、ヨクリが借りていた部屋である。

 寝具に横たえられていたようで、身を起こすと、すぐに背中に違和感があった。少し遅れてぴきっとつったような感覚と共に、


「……ぐっ」


 声が漏れでてしまうほどの激痛が走った。


 自分自身に図術を射ち放ち、その衝撃でもって挟撃をやりすごせたが、もう二度ととりたくない手段だった。視界に映った左手の人差し指、中指、薬指の三本の、爪がはがれかけていて血と泥で固まっている。図術の衝撃を殺すために闇雲に地面を引っ掻いたことが原因だろうと推察した。


 腹に力を溜めて気合を入れ起き上がった。引き攣るような激痛を堪え、背筋を伸ばす。胸を張り両肩で背筋をほぐすように運動させる。


(大丈夫、まだ戦える)


 わずかに痛みが和らぎ、ヨクリはそう判断した。


(どれくらい経ったんだ……? そもそも、俺はどうやって)


 考え始めるよりも先に、唐突に、鮮血を思い出した。

 強烈な青い光の先の、破壊された果樹園。

 声に駆けつけた茶髪の男。何があったか問い、答えられなかったヨクリ。ただ呆然と少年の半身を両腕で支え、傍らにはウェルの腕から先。


 全てを理解したように俯いたアーシスの表情を最後、もう思い出せなかった。果たして痛みか、眼前の光景による衝撃か、そこでヨクリの意識は途切れたようだった。


 先刻まで着用していた、ヨクリの上衣が椅子にかけられていた。——それはヨクリ自身のものではない、血に染まっていた。


 ふつふつと、ヨクリのうちが熱くなっていく。

 なんだこれはと、こんなことがあるのかと。一体彼らがなにをしたのかと。

 そこでヨクリは自分がどれだけ世界から目を背けて生きてきたかということを痛感する。


 きっとこうした理不尽な出来事はランウェイルの各地で起こっていて、ヨクリはそれを見ようとしていなかっただけなのだ。自身がシャニール人として蔑視されていたにもかかわらず。それどころか、まるで全ての理由なき弾圧や迫害は、シャニール人にのみ向けられているのだと思い込もうとしていたかのように。


 迫害という名のついた箱庭には、ヨクリたちだけが押し込められていたわけではなかった。


 顔を伏せ、拳を握りしめた。鮮烈な怒りと薄汚い罪悪感に、なにも考えられなかった。ただ、体の痛みを振り払い突き動かされるように立ち上がり、傍らの引具を手に、部屋の外へ足を運ぼうとしたとき。


「どこいくの?」


 声にヨクリはぎくりとした。その主は、気配をたち、開け放たれている入り口の戸当たりにもたれ掛かっていた、金髪の暗殺者だった。


「お前……」

「これ、もう終わりでしょ」


 戸惑い、声を漏らしたヨクリに、ミリアは色のない顔でそう告げた。


「十分義理は果たしたじゃん。このまま首突っ込んだら、背中のそれだけじゃすまない」


 ヨクリの心をざわつかせる口元の緩やかな弧が、今はひそめられていた。


「自分じゃ見えないかもだけど、ひどい色になってる」


 これまでの言動や態度からはおよそ考えられないが、いたってヨクリを心配している言葉と表情だった。

一度瞑目し、そして瞼を開いたヨクリはミリアをはっきりと見据えて、


「そうか」


 淡白な応答とは対照的な、決意めいたその表情にミリアは眉をひそめた。


「……なにそれ」


 ほんのわずかに震えた疑問は、ヨクリの凪いだ水面のような静かな態度と応答を受けた金髪の暗殺者が見せた、極めて珍しい感情の波だった。


「わかってないことないよね。どう考えたって、引き時だよ。三人も斬られてさ。こんなこと、生きてたらいくらだってある」


 その長広舌はやはり本気の色だった。そして、その内容でもう一人の仲間も死んだことをヨクリは悟った。


「それに、今更ヨクリが出ていってなんになるっていうの。もうなにもできないよ」


 フィリルの時とは違う。”そいつ”のことが知りたいわけでも、ヨクリが出向いて状況が改善するわけでもなかった。言い換えるなら、そこを目指すことに、なんの目的もない。


「そうだな。そうかもしれない」


 ヨクリは小さく頷いたあと、大きく息を吸った。


「でも、ここで引いてなにになるんだ? 俺はこれからずっとこんなことが自分の周りで起こったら、潮時だけを見定めて、あとのことは知らないと言うのか? ……そんなのはごめんだ」


 吐き捨てるように答えたヨクリに、ミリアはついに眉を釣り上げた。


「命より大事なものなんてない。ヨクリは前にうまくいったからって、思い上がってるだけだよ」


 ヨクリもミリアの言葉は自然で、全くその通りだと思ったし、事実ちらと考えていたことだった。だが、たぶん前回のことがあってもなくても、きっと今の選択はかわらないのではないかというのも同時に思ったことだった。


「為すことが問題じゃないんだ。命が一番大事だからと言って、命以外を軽んじて、他の全てを捨ててしまったら、その先にはなにがあるんだ?」


 その問いに、金髪の暗殺者はなにも答えることができなかった。自身の知識を披露するでもなく、皮肉や冗談で茶化すわけでもなく。それはともすれば、ミリアが初めて本当に押し黙った瞬間だったのかもしれない。


 青髪の少女のときよりももっと古い、鮮烈な蒼の光で染まった森の記憶。逃げ出したヨクリ自身。同郷の友人と、緋色の貴族からも。全て見ないふりをして逃げ出した先には、ただひたすらに命を繋ぐだけの怠惰が待っていた。


 ヨクリは知っていた。


「なにもない。……なにもないんだよ」


 そして、まさしく虚無のうちにいたヨクリが変わるきっかけをつくってくれたのは、紛れもなくあの快活な茶髪の青年だった。微力でも、その男の一助になるのなら、命を賭けるのになんの躊躇があろうというのだろうか。


「だから俺は行く」

「アーシスは、もう十分だって伝えろってあたしに言ったんだけど」

「……なおさらだよ」


 ヨクリは短く返したあと、話を打ち切って装備の確認を始めた。それきり、金髪の暗殺者が口を開くことはなかった。

 ミリアが付き合う必要も、義理もない。ヨクリはそう思った。


 なぜなら、これから行うのは負け戦だからだ。勝っても得られるものはない。勝利に有効な戦術や手段はもうない。それでも、わかっていても引けないことがある。


 ヨクリの心のうちはただ全て認めて、最善を尽くすのみであった。





 あたたかみと優しい静寂で満ちていた屋敷の前は様相を全く変貌させていた。

 美しい緑は屈強な戦靴で踏み荒らされ、時折訪れる村人の笑顔は、目深に被られた深緑色の無機質な外套の集団へとすり替わっている。


 金属の防具が擦れ合う物々しい音と、冷たく獲物を見据える狩人の視線。漂う朝霧と薄雲が寒空に舞い、陽光を隠した。


 屋敷の正面扉を守る番人のように、アーシスとタルシンは立っていた。そして、二人を取り囲むのは”リリスの右手”ジェラルド・ジェールと、その配下の者であった。


 集落に残っていた業者たちは、もう割りに合わないと都市へ引き返して行った。アーシス自身も、これ以上の死はもはや背負うことができなかった。結局集落に止まったのはタルシン一人だけであった。一番臆病だったその男はこう言った。ここで都市へ引き返したら、なんのために家を出たのかわからないと。その意地に、茶髪の男は折れざるをえなかった。

 

 ——自分にはかかわりのないことだと、どこかでそう思っていた。


 世界の仕組み、国の内情、貴族の思惑、市井の感情。アーシスは、アーシスもそのうちの一人であるとわかっていながらも、それは自身の精神次第でいかようにも捉えることができると感じ、生きてきた。だからアーシスは身分の差を気にかけないアーシスら兄妹の後見人のエイネアを心の底から尊敬できたし、あの黒髪の青年と友誼を結ぶこともできた。

 相対する人間の認否にかかわらず、その身にまとっている鎧の、さらに内側を見定められた。


 自分が揺らがない限り、続くと思っていた。


 だが、今回の件はアーシスの処世術とでもいうべき性質が一切通用しなかった。対話の(いとぐち)すらなく、ただ力のみをアーシスらに向け、蹂躙する。

 抗うことすらできず、波に飲み込まれるほかなかった。アーシスは、数多いる人間の一人でしかなかったのだ。


 思えば、アーシスに”暁鷹”を紹介したエイネアの計らいも、このことを見越していたのかもしれなかった。

 組織に入り、人の流れを感じ、世界と繋がっていると自覚する。

 ”暁鷹”は都市外の社会を都市へと繋ぎ、アーシスがもっと注意深く意識していれば、今起こっていることの片鱗をつかめていたのかもしれなかった。


 だが、全ては過ぎたことであった。もはやできることはほとんどなかった。それでも、アーシスはここから動くわけにはいかなかった。


 アーシスはじっと敵の動向を見た。


 長身のアーシスよりもさらに高い上背に、無駄なくついた筋肉。男の動向に注視していたアーシスはその落ち着いた立ち居振る舞いと鋭く攻撃的なまなこから、知性と凶性の両方を感じ取った。


 吹き付けていた強い風が収まると、集団から三歩踏み出たところでジェラルドは止まって、茶髪の男に告げた。


「小僧。俺はてめえなんざにはまるで興味がねえ」

「なに……?」


 アーシスは鋭く目を細めた。強襲者の長はアーシスの表情の変化を意に介さず、簡潔に告げる。


「ジジイを出せ。残った連中をバラされたくなけりゃあな」


 要求には答えず、代わりにうなるように問うたアーシス。


「てめえら、どうしてこんなことしやがる」

「答える義理はねえな」


 ジェラルドはすげなく返した。その様子に、アーシスは怒りを爆発させる。


「ざけんじゃねえ!! 村を、人を、果樹園をめちゃくちゃにしやがって、その上まだなにかするつもりなのか!」


 しばしの間があった。


「なにもわかってねえな」


 それは失望に似た声音だった。


「俺がやらずとも、いずれ誰かがやっただろうさ。——ここは安定している。そして安定の次には発展か衰退が必ずやってくる」


 一度切って、


「レミンが前者だとするなら、統治貴族じゃねえヴィシスが介入したこれ以上の社会形成は他の貴族が黙っちゃいない。時間の問題なんだよ」


 極めて冷静な言葉だった。だが、その言葉にもアーシスの心は萎えなかった。


「村がこうなったのは決まっていたことだとでも言うのか! ……死んだやつも! てめえらに殺されることが運命だったとでも言うのか!」

「そうだ」

「バカにするな!!」


 激しい感情の前にも、男は平静さを保っていた。


「バカになんてしてねえさ。この国はそう言う風にできている。そう言ってるだけだ。てめえも業者ならわかってんだろ? 貴族の決めたなんの意味もねえ決まりを守らなけりゃ、生きて行くことすらできねえ。そしてそれはてめえらに限った話でもねえ。貴族も、より強い貴族に(おもね)らなければ同じことだ。……くだらねぇ」


 長広舌ののち、皮肉っぽく口元を歪める。


「——だがそれがこの国だ」


 アーシスは言葉の代わりに拳を硬く握りしめ、一歩前へでた。ジェラルドはふん、と鼻を鳴らし、しかし上機嫌そうに応じた。


「まあいい、ジジイの面を拝むまでの前座だ。てめえの気のすむまで遊んでやるよ」


 ジェラルドの瞳が獰猛に瞬いた。首をならし、革帯に包まれた抜き身の剣を腰から外して右手に構えた。


「お前ら、手ぇ出すんじゃねえぞ。俺もなまってたところだからな」


 後ろの配下にそう告げ、革帯に包まれたままの剣をアーシスへ向け挑発するように上下に揺らす。


「アーシスさん、ダメっす!!」


 タルシンが叫ぶようにたしなめた。仮にアーシスがジェラルドを戦いで下せたとしても、とどめを刺すその直前で静観していた部下たちが黙っているはずがない。

 極めて冷静な忠告であったが、アーシスには届かなかった。


「黙ってろタルシン! ……ここで引くわけにはいかねえ、オレが引くわけには!!」


 自分に言い聞かせるように吠えたあと、強化図術を起動する。


「こいよ」


 男のその声よりもはやく、アーシスは一息に間合いを詰めて殴りかかった。顔面を狙った右の一発をジェラルドは半歩身を引いて回避、半瞬遅れて繰り出された左の一撃も無造作に下から振り上げた剣で手甲ごと弾き返す。


 アーシスの想定よりもはるかに強い衝撃に上体が反り返り、戻す直前にがら空きの腹部に蹴りが飛んできた。反射的に、体を起こそうとせず後ろに倒れこむように回避、ほとんど後方転回に近い形で体勢を立て直し、間合いを開けた。


 ジェラルドはアーシスの反応を見て満足そうに頷いたあと、両腕を下げた構えを解いた状態から突っ込んでくる。


(早ぇ……!!)


 頭で考えるよりも早く、逃げずにさらに間合いを詰め、得意な距離に持ち込もうとするが、アーシスの前進を見たジェラルドは急停止しつつ速度を右方へ転回、流れるような動きで右回転の横薙ぎに変換する。


 その呼吸と間が絶妙だった。ちょうどアーシスへ背を向けたときは距離が遠く、斬撃の瞬間にはジェラルドの間合いであった。アーシスは一度右手甲で切っ先を弾き、さらに左でもって剣の腹を強く弾いた。はからずも、先ほどアーシスが繰り出した攻撃と同様の所作を防御に使わされる。だが、二撃をもってしてもジェラルドの隙をつくるには至らなかった。弾かれた剣は見とれるほど美しい軌跡を描き、次の攻撃に繋がろうとする。目視し、たまらず後方へ飛びすさった。


 アーシスが今まで見てきた使い手の中で、ここまで速い相手は黒髪の青年のほかには居なかった。しかし、無形からこの速度、そして緩急の巧みな使い分けはそのヨクリとてできるかどうかわからない。


 距離をとったアーシスは左手で腰の投刃を取り出し、宙に放って右手を振りかぶった。瞬間、中空を回転する投刃とアーシスの間に展開紋陣が現出、ジェラルドめがけて投刃が射出された。


 ”伝達”。物体の力を任意の方向へ伝え、増幅させる干渉図術である。生半可な盾や防具はやすやすと貫通する威力を誇る。しかし、アーシスはその直後驚愕することになった。


 アーシスの紋陣の展開とほとんど同じ間で、二人の距離のちょうど中間の地面に別の紋陣が浮かび上がり、射出された投刃が凄まじい速度でその上を過ぎようとしたとき、下の紋陣から噴出するように現れたものがあった。


 人間の身長ほどの高さの礫の壁である。


 転瞬、甲高い金属音と共に投刃は鈍角を描いてジェラルドの頭上を飛んでいき、アーシスの支配領域の外へ出ると、途端に曲線に転換して地面へ落下する。


 その干渉図術の名称や効力が不明だということに驚いたわけではない。投刃を、その”壁”で”弾いた”ということに震えたのだ。


 単純にそのまま壁を盾に防御したならばおそらく投刃は貫通し、軌道は変わらなかっただろう。しかしジェラルドは現出させた”壁”で、正確に”伝達”の制御下にある刃の腹を撃ち抜いたのだ。高速の物体を、武具ではなく図術でもって。


 技量に対しての動揺から我に返ったときには、ジェラルドは次の行動に移っていた。


出現させた壁の向こうで剣を覆っていた革帯を取り払い、壁に向かって横に一閃。その光の筋をアーシスは捉える。半瞬遅れて紋陣が展開され、起動と同時に両断された壁の上側が崩壊、変形し、無数の礫に姿を変えてアーシスに襲いかかった。


(やべえっ……!)


 とっさに”円盾”を張るが広範囲を防ぎきれず、致命傷は避けたものの、礫のいくつかがアーシスの足や腕に命中する。

 衝撃と痛みによろめいたアーシスに恐ろしい速度で詰め寄る影。一度目の胸元を狙った左切り上げは上半身を逸らして躱したが、二撃目の蹴りは直撃した。


 大きく後ろに吹っ飛ばされ、受け身をとることすらできなかった。地面に仰向けに倒され、息ができない。みぞおちを正確に撃ち抜かれたらしく、両の腕から力が抜ける。


「クソ甘ジジイにしちゃよくここまで育てたもんだ」


 ゆっくりと二歩ほどアーシスに近づいて、


「……だがダメだな」


 睥睨するジェラルドの表情は痛みと逆光でアーシスからは見えなかった。流麗な装飾の剣の切っ先をあーシスに向けたあと、口を開いた。


「てめえの目は死んでる」


 それは、


「勝つ気なんてハナからねえ目だ」


 ——痛みよりもはるかに大きな衝撃を伴った言葉だった。


 もがくように大地を引っ掻き、力の戻ってきた拳を握りしめる。

 まさに図星を突かれたことをアーシスは痛感する。両肘をたて、体を無理やり起こそうと体をよじらせ、遠くのジェラルドの配下が視界に入った時。


 その方向から、悲鳴が聞こえた。ゆっくりとジェラルドはそちらを向き、「ほう」と興味深そうな声をあげる。


 濃く漂っていた朝霧が晴れ、全容が見えた。


 人影の一角を切り崩し、こちらに猛進してくるのは、あの黒髪の青年だった。


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