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途上のシャムロック  作者: 納戸
箱庭の黄昏
46/96

   2

 一週が瞬く間に過ぎ去った。

 厚い雲が空を覆い、今日は一段と冷え込んでいる。初春に入ってなお、未だ冬ざれの気配を残していた。ヨクリの滞在している、アーシスの家の庭。昼食をとり終え、半刻ほど経った時間である。


 目の前には息を切らせつつも形の反復を行うラッセの姿があり、ヨクリはその姿を見守っていた。時折腰が引けているとか、足が付いてきていない、と注釈を入れる程度で、ほとんど指図するようなことはない。指南してからまだ五日というところで当然粗は目立つが、しかしラッセは意外にも修練に対して真面目であった。


 基礎体力づくりのあとの反復稽古は恐ろしく疲弊する。ヨクリにも経験があることで、ゆえに少年の資質を判断する上でよい材料となっていた。


(疲れで形が崩れていないな。逸材かもしれない)


 普段から集落の手伝いをしているせいか、少年の体力は同年代の基礎校生とほとんど一緒か、あるいは優良と診断するほどのものである。早朝も果樹園での力仕事をこなしているにもかかわらず、汗を滴らせながらも余裕がある。形の飲み込みも早く、さすがにヨクリが以前指導した少女——フィリル・エイルーンとは比べるべくもないが、それでも才能の片鱗を覗かせている。


 まだ若くみずみずしい風切り音が二度鳴ると、ラッセが息を吐いてから剣をゆるりと止めた。一から十五まであるうち、上段からの袈裟斬りを捌き、返しの刃で斬りつける二の形の止めである。

 ギレル式剣術の構えには三通りあり、右半身を前に小さく構える、片手剣用の”水の構え”、水の構えを左右を反転させた”月の構え”、担ぐように腕を持ち上げる両手剣用の”火の構え”。

 水は凪いだ水面のように水平の剣線を、火は立ち上る火炎のように上下の剣線を、月は左に持つ、満月に見立てた円盾を、それぞれ意識したものとされる。三種の構えは一見独立しているが、十五までの形にそれぞれの構えへの対応も含まれており、全ての構えの基礎をさらうのが習得までの近道——と言われている。

 ただ、完璧に修めたキリヤとは違い、ヨクリは半ばで投げ出している。次に都市へ出向いた際は教本を手に入れなければ、今後の教練に支障が出る。ヨクリはそう算段していた。


「なあ、ヨクリ」

「うん?」


 この五日で、ラッセと距離を縮めるのにヨクリはさほど苦労しなかった。勝ち気がすぎるきらいが少しばかり目立つが、基本的にラッセは会話を好み、人懐こい性格をしていたからである。ただ、ヨクリに礼を払う気はなかったがそれはヨクリ自身もあまり気にしていない。


「これで強くなれんのか? ……まだその辺走ってたほうが身になる気がするぞ」


 言葉ほどラッセはふてくされていない。ヨクリは朗らかに笑って、


「初日より、振りが綺麗になっているよ。大丈夫」

「ホントかよ」


 ラッセは胡乱げな目をおくり、ヨクリは応じていたずらっぽく口元を歪める。


「……それに」


 言いながら、形の説明のために作った、剣状に荒く削った枝を手に取り、おもむろにラッセめがけて振り放った。

 鈍い風音。ぴたりと首元寸前でそれは止まり、ラッセの髪がぶわりと煽られる。少年の携えた引具は切っ先が小さく動いた程度で、ほぼ反応できていなかった。


「……こんなふうに、不意を打たれた時とか。体が形を覚えていればほとんど勝手に防いでくれる。無駄じゃないさ」


 ヨクリが一歩引いて枝を静かに下ろすと、ラッセは釈然としない表情を作りつつも、


「……まあ、やってりゃわかるようになるのかな」


 自身を納得させるように頷いた。

 どうしても比べてしまうが、最初に指導した少女とは、なにもかもが違う。どちらかが良い悪いという話ではない。そう感じたヨクリは、もう少しラッセと話をしてみようと決めた。


「そう言えば、君と一緒に門番をしていた子は、剣術に興味があるのかな」


 レミンへ訪れた際に、ラッセの傍らにいた利発そうな顔立ちの少年。ヨクリの見立てでは、少しの仕草から、二人の仲は良さそうに思えた。


「ん? エラムのことか。アイツはあんま体動かしたがらねえからなぁ」

「そうか……」

「なんだよ」

「いや、同年代と一緒に修練するのも結構大事だからね。ラッセがさっき言ったみたいに、自分よりも他人の力量のほうがわかりやすいから」


 訝しげな声に考えを説明する。高度な技法や駆け引きはまだ必要ないので、一人教えるのも二人教えるのも手間はあまり変わらない。


「ヨクリもそうだったのか?」


 問い返され、ヨクリは自身のことを思い出して苦笑いしながら目をそらした。


「……俺の場合は、こてんぱんにされてばかりだったな……」


 同年代でも群を抜いて力量の高かった二人の少女に、口や体で欠点を指摘され、その都度歯噛みしたのは記憶にも鮮明であった。多感な年頃と、複雑な環境も相まって当時のヨクリの心情はとても落ち着いているとは言えなかった。消し去ろうとしても消えるものではない。


「あんま想像できねえけど」


 ヨクリはそこで目をぱちくりとさせた。するとラッセは同じようにきょとんとしたあと、つま先で土をいじいじする。


「……んだよ、俺だってわかってるつもりだぜ。……そもそも、弱いヤツに教わろうと思わねえだろ?」

「ごめんごめん」

「朝の果樹園の手伝いも全然疲れなくなってきたし。……ま、強くなってんのかどうかはわからねえけどさ」


 ばつの悪そうな少年の態度にヨクリは和やかな気持ちになりながら、


「ラッセは俺より体格もいいし、毎日真面目に稽古すれば強くなっていけるよ。そこは保証する」


 少年ははあ、と息をついたあと、ふと右手を持ち上げ剣全体を眺めた。


「もっといいのが欲しいなぁ」


 独りごつ台詞に、ヨクリは少し考えてから口を開いた。


「その引具の容量も使いこなせていないのに、それ以上質のいいものを使う必要はないよ」


 未熟だと一蹴するヨクリの言葉を飲み込めるくらいには、ラッセは自分の技量を把握できていた。だが、唇を尖らせて言う。


「わかってるけど、そうじゃねーんだって。ヨクリにもわかるだろ?」 


 要点を突かない言い回しは、どことなく茶髪の男に似ている。


「……見た目の話?」

「そう!」


 ラッセはヨクリの解釈に朗らかに笑ってから、顎をしゃくる。


「ぱっとしねえじゃん、こいつ」


 こいつ呼ばわりされたラッセの引具は不満そうに陽光を鈍く反射させる。今日基礎校で使われているものよりも一回り小さい青銀の刀身には血溝の一つさえ施されてはおらず、装飾の見当たらない鍔に、柄に巻かれる古ぼけたなめし革。実戦を想定されて製造されていない。術金属、図術技師の枯渇していた戦時中に造られた、確かに今では見劣りする旧世代の片手剣型引具。


「んー……」


 ヨクリは言われてみれば、と唸ってから、ふ、と口元を歪めて提案する。


「……なら、俺から一本とれた時には、新しいのを見繕ってあげるよ」

「ホントか!?」

「一本でもとれたら、だけれどね」


 一歩下がって枝を構えると、ラッセは引具を鞘に納め、切り株に立てかけてからそばに置いてあった修練用の木剣を拾い上げ、同じようにヨクリへ向ける。


「約束だぜ!」


 弾んだ声のあと、気合十分に鍛錬へ挑むラッセに、ヨクリは眩しい物を見るように少しだけ目を細めた。

 

  



 訓練を終えてラッセが帰宅し、手持ち無沙汰になったヨクリは、一人ではいささか広すぎるアーシスの家の広間で自身の装備を点検していた。

 普段使いの引具には取り立てて損傷などは見当たらない。そもそも、基礎校できちんと調練を受け、まともな手順で使用する引具が目に見えて破損するなど零に等しいのだが、そこはそれである。いくら目をかけてもかけすぎるということはない。


 次に、ミリアから返された短刀を調べる。金髪の暗殺者はひとつの武装もしていないことになるが、ヨクリらの班は今しばらく手番がないため問題はない。

 ヨクリは手にとった瞬間に、握りがおかしいことに気づいた。僅かに固いというか、どうにもしっくりとこない。


(手入れするか)


 思いたち、目釘抜きなどの用具を荷袋から取り出して、机上に並べる。まず短刀の鞘を払い、刀身を検分した。


(油、だいぶ落ちているな)


 目釘を外そうとした時、違和感に気づく。それは、裏地に引く薬煉(くすね )とは異なる、柄と柄巻きがなにかで接着している感触。ヨクリはわずかに逡巡し、多少強引に、目釘抜きをあいだに滑り込ませて削り、一部を解いて裏返した。引具の柄巻きは滅多なことでは外したりしないが、護身用の短刀は使う機会もほとんどないため、費用の節約のためにヨクリ自身で度々点検している。


(血だ)


 机の上に粉のように散った削りかすは、どす黒い赤。よくよく見ると、すべり止めに使われる”獣”の粗皮の柄巻きで隠れる部分や、握りの調節のために噛ませた、細かく切った綿布も薄く変色している。

 凝固した血液が柄木に張り付いていたのだ。すぐさまヨクリは全てを削いで確認する。別に汚れたのを咎めるつもりは毛頭なかったが、奇妙な付着の仕方をしていた。

 柄巻きは、部分的ではなく、全体が固かった。どっぷりと血を吸い込んだことになるが、それがおかしい。なぜなら、そうであればさすがにひと目柄の様相を見れば一発でわかる。暗い色をしてはいるが、血を吸着させた繊維は更にもう一段明度が落ちるからだ。更に加えるなら、多量の血液でがちがちに固まっていたのならば、先ほどの柄巻きはこんなに簡単に外れたりはしない。


 つまり、一度水かなにかで洗浄を試み、付着した血液は柄巻き全体に薄く浸透し、綺麗に落ち切らずに残った形跡がある、ということになる。ヨクリはそこに訝った。

 ミリアの考え。人を食ったような性格の少女が、殊勝にも自身で血糊を落とすだろうか。むしろ、汚しちゃった、などと言って笑いながらヨクリに渡しそうなものである。


(一体、なんの血だ)


 咄嗟に浮かんだ疑問とともに、直感した。”獣”でないとするなら、それは。

 ヨクリは修繕を中断し、机上を片付けてアーシスの家を飛び出した。ミリアは今、アーシスとともに果樹園へ赴いているはずだった。


 屋敷の敷地を抜けて、集落の西側から草の刈られた一本の道を辿ると、簡素な柵が設けられた樹林部に行き着く。ここが、レミンの財源である果樹の群生する天然の農園であった。家畜に草を食ませて雑草を手入れしたり、等間隔に間引きされたりと、育成を促進するための工夫が施されている。集落内に点在していた獣避けの篝も、果樹園に至るまでの道と、果樹園にも設置されていた。

 樹木は一階建ての家屋程度の高さで、葉を青々と茂らせている。果実はまだ若い緑をしており、春から初夏にかけて朱に色づく。パナの実と呼称されており、薄皮ごと食べられる柔らかい果肉と、馥郁( ふくいく)とした香り、さわやかな甘さと少しの酸味が貴族の間でも好評なのだという。

 集落の四分の一ほどの敷地。その中央付近で、剪定した枝を拾い、木箱に詰める者がいた。アーシスとミリアである。茶髪の男は粛々と作業に没頭していたが、金髪の少女は収納の終わっているらしい木箱に座り込み、暇を持て余していた。その姿もヨクリの癪に障ったが、毎度のことだと自制しつつ静かに近寄った。


「おう、どうした?」


 足音に気づいたアーシスは声を上げる。ヨクリは平静を装って、


「ちょっとね。それ、なにしてるの?」

「散らかしたままだといろいろ邪魔だしな。こいつらまとめて乾燥させて、薪にすんだ」


 茶髪の青年は答えながら葉のついた枝を折り、薪になりそうな頃合いのものと、小さなものを木箱に選り分ける。ヨクリはミリアに向き直って、


「こい」

「ん?」


 目線で合図すると、ミリアは伸びをしたあと、座った態勢のまま反動をつけて木箱から飛び降りた。


「アーシス、こいつ借りて行くね」

「おう。返さなくていいぜ」


 冗談とも本気ともとれる返答を背で受け、声の届かないところまでミリアを引き連れた。一つの樹木に寄りかかり、腕を組む。木陰は一層寒く、ヨクリは首巻きを一度持ち上げた。町人の衣装に身を包むミリアは、ただ動向を探っているようだった。


「質問がある」

「なに?」


 目の前のミリアはいつもどおり、微笑を浮かべたままである。ヨクリは表情を浮かべず、簡明直截に問うた。


「あの短刀で、なにを斬った」


 同時に、ざあ、と一陣の風が吹いた。ミリアの長い金髪がたなびき、目元を隠す。せわしくちらついていた淡い木漏れ日が徐々に緩くなり、落ち着くと、再び顕になった瞳に宿った色はごく僅かの冷たさ。


「それを知って、ヨクリはどうするの?」

「訊いているのは俺だ。答えろ」


 少女は俯いた。そして、小さく体を震わせ、くふ、と声を漏らす。笑い声だった。伏せた顔を上げ、ミリアは飄々と言い放った。


「意味ないやりとりだなぁ。あたしにそれ訊くって、もう答えわかってるでしょ」


 ヨクリが反応するより先に、ミリアは言葉を継いだ。


「それで? なにか問題ある? ヨクリだって斬るでしょ。——獣じゃなくて、人をさ」

「お前と一緒にするな。俺は」


 ミリアは淡々とした声を遮り、否定する。


「一緒だよ。裁かれないじゃん。あたしも、ヨクリも」


(こいつ、狂っている)


 短い会話で痛感する。ひたすらに口元を歪める少女には、悪意や後ろめたさが感じられない。本気でそう言っているのだ。

 その瞬間、心のうちに生まれたものに、うまく名前をつけることができなかった。嫌悪とも怒りとも付かない、ただただ霧がかった感情。


 一刻も早く会話を打ち切りたい。ヨクリはそう思った。


「ま、ただの内輪もめだし、こっちに火の粉がかかるってことはないよ」


 ミリアの注釈にも、ヨクリは耳を貸さなかった。遠くで作業を続けるアーシスへ顎をしゃくり、


「向こうへ戻れ」


 様子を感じ取ったのか、ミリアは素直にヨクリへ背を向け、歩き出す。しかし、去り際に呟きを残してゆく。


「なんでもいいけどね。……すぐにわかるよ」


 ヨクリは静かにミリアがアーシスの元へ戻るのを見送った。いちどき瞑目し、やがて体を直して集落のほうへ足を進める。あの悪びれないさまも、一度隠蔽を試みたことも、ヨクリの心をざわつかせていた。

 とにかく、気分は最低だった。足早になっていったのは、咎められたのがヨクリ自身であるような後味の悪さを振り払いたかったからなのかもしれなかった。

 他よりも均された道を進んでいると、背の低い梢の奥から見覚えのある——ここでは珍しい人影が見える。ヨクリは軽く身なりを正して立ち止まった。


「ああ、ここに居ましたか」


 エイネア・ヴィシスである。皺の刻まれた柔和そうな面立ち。どうやらヨクリを探していたらしかった。


「なにか、御用ですか?」

「少しよろしいですか」


 言いながら、エイネアは腰に下げた剣の柄を軽く持ち上げた。なるほど、とヨクリはすぐに得心して、すぐさま快諾した。




 

 一度距離が開き、ヨクリは正眼に構え直す。屋敷の裏手は日陰になり明度がだいぶ落ちるが、火照った体には按配がよかった。

 エイネアとヨクリは互いに浅く息を切らし、剣の切っ先を向け合っていた。


 ——やはり、ただものではない。


 ヨクリはエイネアと対峙するとそう思わざるをえなかった。小規模とはいえ、一から社会を纏めあげた知識と指導力に、この剣術である。聞こえは悪いが、辺鄙なこの集落にこだわっているのがヨクリにはどうにも不自然に思えてしまうのだ。それほど、ヨクリから見たエイネアの剣捌きは巧みであり、また流麗であった。

 白髪の貴族の出自をちらと訊いただけで追求したことはないが、若年の頃は相当高い教育を受けていたのだろうと悟らせる。


 ヨクリがレミン集落を訪れた際には、機会を見つけてはエイネアとこうして剣を交える。もともとはエイネアから持ちかけられ、両手の指で足りる程の回数ではあるが、ほとんど慣例になっていた。


「腕をあげましたね。見違えるようです」

「いえ、まだまだです」


 ヨクリは謙遜しつつも、もはや自身のうちでも疑いようはなくなっていた。ここ最近の体の切れはヨクリの技量が一段上の段階に進んだ証明だった。——しかし。


 くっと腰に力を溜め、一息に間合いを詰める。仕掛けたのはヨクリのほうからだった。小手を狙った小刻みの斬り下ろしをエイネアは身の細い刀身で弾くと、そのまま突っ込んできた。漠然とエイネアは下がると読んでいたヨクリは虚を突かれ、一瞬受けが遅れる。鍔迫り合いに持ち込まれ、ぎゃり、と音を立てたあと、じりじりとヨクリの体は後退した。

 続けざまに放たれた蹴りにも、ヨクリは正しく対応できなかった。一度仕切り直そうと僅かに力を弱め、後方に飛び退る刹那の間の攻撃であったからだ。紙一重で回避に成功したものの、態勢を崩し、重心が左に逸れる。


 だが、生まれた隙を逃さずに繰り出された右薙は、先ほどまでの鋭さを秘めていないとヨクリは見抜けた。


(これは囮)


 無理に受けずにそのまま左へ倒れるように転がり避け、瞬時に体を起こすと追撃を警戒して大きく下がった。

 は、と小さく息を吐いて、剣線の先を見据える。エイネアは、すでに剣を下げていた。それは終わりの合図であったが、ヨクリは僅かに眉をひそめる。


「少し、惜しいですね」


 ヨクリは浅く息を整えたあと、正確に解釈できなかったので声を上げる。


「ええと」

「ヨクリ君。君はすでに力も、反応も、読みも、私を超えていることに気がついていますか?」


 ヨクリのうちで、まさか、という気持ちと、でも、と思い直す気持ちがたたみかけるように生まれ出た。エイネアは口の端をゆるめて、


「君は、格上との戦闘経験がいささか多すぎますね」


 図星だった。そして、指摘され、どうしてエイネアが立合いを中断したのかヨクリには理解できた。その推察を裏付けるのは続けられる言葉だった。


「だから、距離を詰められると押し切らずに直ぐに離そうとする。間合いの管理がうまいとは聞こえが良いが、それは思い切りが足らぬとも言います」


 ヨクリはエイネアのことを自身よりも優れた使い手だと思っていた。ゆえに、先ほど完全に回避しきって反撃の機会を得たにもかかわらず、未知の攻撃への警戒を優先した。今更になって気づくが、ちゃんとエイネアの攻撃や所作を、目で捉え、反応できていた。あのとき、攻勢へ転じるべきだったのだ。


「今君に足りないのは、自信です」

「自信……」


 納得させるようにつぶやくヨクリを細めた眼で頷くと、エイネアは手本のように見事な所作で、美しい装飾の片手剣を腰の鞘に納めた。涼やかな鍔鳴りが響き渡る。


「もうよろしいのですか」

「ええ。だいぶ勘も取り戻せました。ヨクリ君のおかげですよ」

「いえ、そんな」

「この集落には、あまり剣を扱える者がおりませんから」


 すこし残念そうにエイネアは笑った。その感情はヨクリにも同調できる。基礎校時に染み付いた修練は、毎日とは言わないまでも定期的に行わないとどうにも気が落ち着かないし、修練自体もヨクリにとっては楽しいものだったからだ。

 ヨクリにとっても、相手の居る修練の機会はフィリルやラッセと事欠かなかったが、両者とも、言ってしまえば経験不足で、ヨクリを満足させるものではなかった。


 ひとごこちついた頃合いに、今度はヨクリからエイネアへ切り出す。


「エイネア様」

「どうしました?」

「ミリアの件でご相談が」


 先ほど煙に巻かれたからというわけではない。一つでも妙なことをすればエイネアの指示を仰ごうと事前に算段していたのだ。集落への害はないとミリアは言っていたが、その言動さえヨクリには信のおけないことであった。


「聞きましょう」


 威厳のある首肯を見たのち、ヨクリは隅に置いておいた荷袋から黒い塊を取り出し、エイネアへ差し向けた。


「彼女は危険です。できれば、これはエイネア様にお預かりして貰いたく」


 ヨクリの手の内のものを確認したエイネアは静謐に声を上げる。


「古物ですね」

「お詳しいのですか」

「いえ、私も伝聞程度ですよ。……ただ、彼女がこれを持っているのなら、レムス出身というのは間違いでしょう」

「レムス……?」


 その単語を耳にするのは二度目である。ヨクリの言葉尻にエイネアは目をつむり、


「……身寄りのない子どもを集め、人殺しの技法を調練させて要人を暗殺するための組織です。戦後に規模は大幅に縮小したはずですが、しかしまだ息はあるようですね。古物は正しい知識がなければまともに扱えませんから」


 古物の取り扱いに精通するほど力のある団体が、背後に母体として潜んでいる。そんな物々しい説明を頭に入れつつ、思い出した情報をエイネアへ伝える。


「ミリアは、今のレムスがゲルミスの管理下にあると言っていました」

「……」


 暫時深く考えこむような仕草をとっていたエイネアだったが、


「……わかりました。ひとまず、これは預かりましょう。彼女のことも、こちらで気にかけておきます」


 了承し、古物を受け取る。ひとつ吹いた、湿り気を伴う風にエイネアは思慮深そうに持ちかけた。


「じきに一雨来ますね。そろそろ戻りましょうか」

「はい」


 時間的にもそろそろアーシスが作業を終えて戻ってくる頃だった。


「ありがとうございました、ヨクリ君」

「いえ、こちらこそ勉強になりました」


 エイネアの礼に、ヨクリも礼で返す。


「では、頼みます」

「はい」


 互いに頭を下げ合って、エイネアは屋敷の入口へ向かっていった。見送ったあと、残されたヨクリもまた、アーシスの家へ足を運んだ。





 集会所。エイネアの目測どおり夕刻にかけて天候は一気に崩れ、外は激しい雨が降りしきっている。窓を強く叩く音は収まる気配がなく、部屋に集う業者達の外套もここへ向かう際に降られたようで、濡れそぼっていた。


 定時連絡のための集いであったが、にわかにしんと静まり返る。一人の業者の報告に、一同に緊張が走った。件の業者はおどおどとしつつも、長卓の一番奥、まとめ役であるアーシスのほうを見やる。


「なんだって」

「確かなのかよ」


 アーシスと、それにほとんど寝るように茶髪の男の右座に座っていたウェルが口々に声を上げると、金髪の新人業者——テリスは目をせわしなく左右にきょろきょろさせながら答える。


「……はい。( やぐら)で見張っていたら、北のほうに、ぼうっと灯りが見えました」


 集落の近辺はほとんど野ざらしであり、建造物などはない。つまり、別の集団が接近している可能性があるという報告だった。


「他にそれを見た奴は?」


 アーシスがぐるりと回りを見渡すが、声を上げるものは居なかった。テリスの返答で、その裏付けが終わる。


「私一人です」


「偵察に行ったほうがいいかもね。ただの商隊だったらいいけれど、リリスの右手ならその規模が知りたい」


 言い切ってから、ヨクリはしまったと思った。あからさまに敵意を向ける人間の前で己の意見を主張するのはあまり賢いやりかたではなかった。


「なら、明日の夜明け前だな」

「……面子はどうすんだよ」


 ヨクリの心配を取り払うかのようにアーシスがすかさず頷いて、ウェルが一度ヨクリを睨みつけたあとざっかけなく言う。


「オレ、ヨクリ、ウェル。それからタルシンとアイビス、カル」


 六人。妥当なところだった。人数が多すぎても気取られるし、小回りが効かなくなる。しかし赤茶髪の業者は気に染まなかったのか、ヨクリの方を見遣って、


「クソ姓無しもかよ」

「オレの見立だと、近接手として一番腕が立つのはこいつだ」

「……しばらく見ねぇ間に、目でも悪くなったんじゃねえのか。とてもそうは思えねえ」


 ヨクリに対する小面憎さを隠そうともせず、赤毛の男はアーシスへ返す。だが、受けるアーシスの勘気を呼ぶことはなく、茶髪の男は冷静に答えた。


「オレの目がイカれてるかどうかは、すぐにわかるぜ。とにかく決定だ。戦力的にもやばくなったら切り抜けられそうなやつらだからな」


 因縁をつけてくるウェルや、アイビスという女とカルという男の技量はヨクリの知るところではなかったが、アーシスの推薦ならばひとまず問題はないだろうとヨクリも内心で了承する。


「あたしは?」


 自身の顎を指さしながら言った隣のミリアに、アーシスは呆れ混じりのため息をついて、


「お前は留守番だよ。カシス、テレグさん、こいつから目ぇ離さないで置いてくれ。ちょろちょろ動き回るからよ」

「ぶー」


 わかりやすくふてくされるミリアと、アーシスに名指しされ、頷く二人。ヨクリは異を唱えようとしたが、思案し、やめた。この張り詰めた状況でミリアがおかしな行動をとるとは考えにくいし、エイネアへも頼んであったからだ。


 ひとまず話はまとまり、その後はこれまでと同じような定時連絡がはじまった。


 ヨクリもその旨を頭に入れつつも、片隅ではテリスの言葉を考えていた。商隊ならばいいが、楽観視するわけにもいかない。そして、こういうときの予感は往々にして嫌なほうに当たるものである。解散したら六人で打ち合わせをして、アーシスの家へ戻ったら引具やシリンダーの点検を念入りに行おうと決めた。

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