三話 胎動
寝台の妙な沈みを感じ、ヨクリの意識は即座に覚醒する。次に、甘えるような声音が耳に入り、体を揺さぶられる。ヨクリは一度目をきつく閉じ、再び開いてぼやけた視界を払った。顔に影を落とすのは、長い金髪である。
「ヨクリー……」
眉を顰めて呼びかけているのは隣で寝ていたミリアだった。ヨクリは鬱陶しげに手を払ってミリアをどかしたあとにのそりと体を起こし、鎧戸を見る。空は淡く、陽は生い茂る森から姿を覗かせていない。仄かに青い布雲が棚引いていて、まだ外は暗い。二刻半ほどであると察して、目覚めには速過ぎる時間に苛立つ。
「……なんだよ」
「漏れそう」
じゃら、と鎖の巻き付けられた両腕を持ちあげて言う金髪の少女に、ヨクリはとても深いため息とともに、
「……今まで生きてきて五本の指に入るくらい、最悪の寝起きだ」
悪態をつきつつ靴を履いて部屋の角の荷袋から鍵を取り出し、左手で脇に立てかけておいた刀を鞘ごと引っ掴んで鍔を親指にひっかける。再び寝台に近づいて右手だけでミリアの錠を解放した。
くあ、と欠伸をしながら率先して階下に降り、あとに続いたミリアが厠に入ったのを確認し、壁にもたれかかる。肌を刺す冷気に寝具のぬくもりが恋しくなるが、じっと耐える。居間には誰も居らず、物音もなかったから、家主の二人はまだ起きていないだろう。
しばし待つとミリアが出てくる。
「寒いねぇ」
誰のせいだ、と腹を立てながらヨクリはミリアを目線で促して居間に戻った。寝直そうと上階へ足を向けかけ、思い直して椅子に腰掛ける。少女は目を丸くしてヨクリへ訊ねた。
「戻らないの?」
「変に目が覚めた」
「ふーん」
剣の鍛錬には頃合いの時間ではあったが、この暗殺者に気を配らなければならないため、集中もできない。ミリアは隣に座り、前のめりに机へ体を預ける。足をぶらぶらさせながら腕を枕にうつぶせる様子を見て、ヨクリはふ、と浅く息を吐いて背もたれに寄りかかった。
時が経ち、上階から物音が聞こえてくる。先に降りてきたのはイリシエで、挨拶とともに、すぐに朝の支度にとりかかっていた。早朝にもかかわらず溌剌とした様子で、寝起きが良いらしい。暖炉に火がともされ室内が暖まりはじめたころ、大きな欠伸をしながらアーシスもやってくる。眠そうな目を隠そうともせず椅子に座った。
優しい朝の匂いが満ち満ちたころ、イリシエが食事を人数分配膳し、朝餉が始まる。摂り終えて一息ついたあと、ヨクリは時間を見計らってフィリルの顛末についてアーシスへ報告する。ヨクリが送っていた手紙には目を通していたようで、アーシスは特に質問することもなく安堵とねぎらいを投げた。
そして、話題はすぐに今日の予定に変わる。
「このあと、エイネア様へお目通りできるだろうか」
「ん、もうちょいで五刻か。大丈夫だと思うぜ」
「それじゃあアーシス。面倒だけれど、こいつ見ておいて」
満腹と暖炉の温もりに、眠そうに欠伸する金髪の暗殺者へ呆れた眼差しを向けると、アーシスは同じように表情を崩し、更に苦笑を浮かべて頷いた。
■
屋敷の最上、三階にエイネアの書斎がある。両側の壁には本棚が二架ずつ置かれ、書物が整然と並べられている。そこに納められた知識はファイン家のものとは異なり、図術学よりもむしろ、建築、地質、経済などの、より生活に密接な書が目立ち、集落の維持に直結していると容易に分かる。門外漢であるヨクリにも見て取れるのは、それらはたまさかに収蔵されているわけではなく、かなりの計画性を持って揃えられているところだ。
落ち着いた朱色で染織された絨毯には埃ひとつ見当たらず、主の几帳面さを物語っている。家具はすべて質素で取り立てた装飾は見当たらず、実用性が重視されていた。
右側の本棚の間には暖炉があり、炭が熾っている。時折ぱちぱちと火の粉が爆ぜる様子が鉄柵の奥から見えた。
扉から正面に受けるのは実務をこなす机である。その奥の窓は換気のために開けられ、緩く風が入ってきていた。部屋に籠める墨と紙の落ち着いた匂いをより引き立たせる。
座し、紙に筆を走らせる集落の主。後ろで一つに編まれた白髪と刻まれた皺は艾年を越えていると悟らせるが、琥珀色の瞳に宿る力は若々しく溌剌としている。ランウェイル人男性の平均的な身長を包む、良質な生地で編まれた深紫の外衣だけが、エイネアの身分を証明していた。
ヨクリが入室し実務机に近寄ると、エイネアは手を止め、筆先をちり紙で丁寧に拭ったあとヨクリと視線を合わせた。
ヨクリは居住まいをきっちりと正して、
「お久しぶりです、エイネア様」
「元気そうでなによりです」
エイネアはヨクリの出で立ちを検分し、柔和に相好を崩す。
「ひとまずは、エイネア様も変わらずご健勝でなによりです」
そう前置きし、
「微力ながら、今回はお力添えをさせて頂きたく」
「相変わらず堅苦しいですね」
エイネアは皺の目立つ頬を苦笑に緩ませる。ヨクリにはこれが貴族に対する含みのない応対であった。礼を失すれば、必ずなにか不利益が生じる。ヨクリに限った話ではなく、平民やシャニール人の、上位の者に対する常識である。マルスとキリヤ、ヨクリのうちで例外が二人存在したが、同窓であったし、とりわけ位の高かったキリヤはキリヤ自身の高潔さが向上した苛烈さで持ってヨクリの態度を変えさせていた。
ヨクリが一礼すると、エイネアは笑みを深めて頷いたあと、少しだけ表情を固くして言う。
「嬉しく思います。……人手が足りませんし、なにが起こるか私にもわかりませんから」
初老の貴族は憂えを口にし、ヨクリを見据えた。
「アーシスから大まかに事情は訊いているでしょう」
ヨクリは「はい」と返答してから、疑問を投げた。
「その……ジェラルド・ジェール卿はやはり、今回の件を通じてハト派の弱体化を目論んでいるのですか」
エイネアは瞼を閉じ、少し考えるようなそぶりを見せる。
「私もその可能性が一番高いと思っていましたが……」
ほかに思い当たることがある様子だった。ヨクリは簡明直截にエイネアへ問うた。
「なにかあるのですか」
「……ジェラルド・ジェールは、私の、昔の主です」
「主?」
ヨクリにはあまり縁のない言葉だった。そのままに訊きかえすと、
「昔から、ヴィシスとジェールは代々繋がりがありました……あの戦争までは」
どこか遠くを見るようなまなざしでエイネアは言う。戦争とは、訊くまでもなくシャニール戦争のことだろう。ヨクリは声に出さず推察する。エイネアとジェラルドは主従の関係にあり、戦争で起きたなにかが原因で袂を分った、と。その理由までは考えが及ばないが、壮年の貴族の口ぶりからは怨恨は感じられなかった。
黙ったヨクリにエイネアは細い笑みを浮かべ、
「彼がどんな意図を持っているのか、判然とはしません。君も予想したように、私の勢力を弱めるのが目的か、あるいは別のなにかか。……ですが、敵対しているというのは明らかです。それを迎え撃つのは私の使命」
言葉を終えると表情は引き締まる。そして、
「アーシスはいろいろと未熟ですから、君がいると心強い」
目をしっかりと見据え、エイネアはヨクリに頼む。
「ヨクリ君。あなたが見ていてあげてください」
確固たる信頼のまなざしに、ヨクリは目を逸らす。
「……俺は、まだ自分がなにをしたいのか、なにものなのかさえわからない。アーシスのほうが、よほど立派です」
小さく、吐き出すようにそう言うと、エイネアはしかし、言葉を曲げずにヨクリへ諭す。
「そんなあなただからです。迷い続けるあなたに私は期待しています。迷いは、歩みです。……停滞してしまうと、人は淀みます」
「迷いは、歩み」
ヨクリは知らずに繰り返した。本当に、こんな状態の自身が先へ進めているのか。内罰めいた疑問が鎌首をもたげるが、エイネアの言葉はずしりと、重く心に響いた。
「アーシスは、良くも悪くも現状維持で満足してしまっていますから」
エイネアのアーシスへの評価は手厳しかったが、ヨクリはそれも一つの道であり、選択に勇気がいると知っている。エイネアもそのことは理解しているらしく、口調は明るかった。
なにか反応を見せようとしたヨクリに、エイネアは出し抜けに、ヨクリの墨色の瞳をじっと見たあと、一つ助言した。
「鬼が憑きはじめている。気をつけなさい」
「……鬼?」
現実離れした、比喩的な言い回しであった。ヨクリがまた、言葉そのままに問い返すと、
「元々は戦場で神と呼ばれるものです。戦神が宿ったようだ、などと。でも、今は戦時中ではない。ゆえに、鬼」
それがどういう意味なのか、ヨクリにはわからない。ただ、ほんの少しだけ嫌な予感が心のうちをよぎった。
「鬼は人の心を蝕み、周りの人間にも悪い方向へ働きかけます。ゆめゆめ、剣を向けたその切っ先をしっかりと確認してください」
■
年寄りの戯言です、と最後はゆるく締めくくったエイネアの言葉をヨクリは正面から捉えずには居られなかった。
意味をつらつらと考えながら屋敷からアーシスの家へ戻ると、なにやら庭が騒がしい。家屋に入らずぐるりと回ると、そこには四人が集っていた。家主の二人とミリア、それに昨日ヨクリを牢屋へ入れた門番の少年、赤茶髪のラッセである。ヨクリを目にした瞬間、そのラッセが目をきつく尖らせて詰め寄った。
「来たな!」
「よう、ヨクリ」
頬に生傷のある少年とは対照的に、朗らかにヨクリへ挨拶を投げるのはアーシスである。
「そこの黒いの! ……お前がその子に乱暴してるところ、俺は見たんだからな!」
代名詞で示されたのはミリアだ。金髪の少女は困ったような、それでいてどこか悪戯っぽく、声に出さずに笑う。ヨクリははあ、と小さく嘆息した。
「なに、お前そういう感じなの」
アーシスの軽口にヨクリはねめつけながら無言で刀の柄を指で叩く。茶髪の男は口元をひくつかせたあと、「……おっかねえ顔すんなよ、冗談だ。昨日の件だろ」と小声で撤回した。あの振る舞いを窓かどこかから見られていたらしい。
「アーシスさんもイリシエも、なんでそんなやつ家に入れるんだ!」
ラッセはヨクリを力一杯指差して喚いた。その態度を咎めたのはアーシスの妹のイリシエである。
「ラッセ!」
イリシエはゆっくりとラッセのほうを見て、
「ラッセだって、全然関係ない人から集落の事についてあれこれ言われたら嫌でしょ? ヨクリさんたちにも、色々あるんだよ。……ミリアさんは気にしてないみたいだし、わたしたちが出しゃばっていいことじゃないよ」
イリシエの言葉にヨクリは感心する。少しばかりヨクリ寄りの考えではあるが、とても深い思慮を含んでいたからだ。ラッセも思うところがあったようで、むっつりと黙り込んだ。だがヨクリに対する敵意は失われておらず、未だに眼光鋭く睨みつけている。そんな中、声を発したのは茶髪の男だった。
「うし、わかった」
アーシスは一人頷いて、
「男なら、そいつで勝負だろ」
ヨクリの腰の辺りを示す。指差した先をきちんと辿ると、そこには刀の柄があった。つまり、剣でケリをつけろということだろう。
「ヨクリが負けたら、集落を出て行く。ラッセが負けたら、ヨクリの言うことなんでも聞く」
揚々と説明するアーシスに、赤茶髪の少年が弾かれたように不満を口にする。
「な、なんでこいつなんかの言うこと聞かなきゃいけないんですか!」
反応を予測していたのか、茶髪の男はにやりと口角をあげて、
「なんだ、自信ねえのか?」
「そんなこと!」
反射的に否定したラッセに、アーシスはふ、と笑ったあとヨクリの方へ顔を向けた。
「なら決まりだな。いいだろ? ヨクリ」
呼ばれたヨクリは渋面を作って、
(なんで俺がそんなことしなくちゃならないんだ)
と内心で愚痴を言いながら、小さく頷いた。会うたびこうも突っかかってこられるとヨクリも辟易するからだ。
ヨクリの了承に、他の三人は邪魔にならぬようにヨクリとラッセから下がる。偶然であろうが、その距離は奇しくも基礎校の試合線が区切る面積とほとんど等しい。
ヨクリは正面のラッセに向かって、
「初触は?」
「馬鹿にするな。終わってる!」
訊ねると大声で返され、てっきり初触もまだなのかと予想していたヨクリは意外に思いつつも、提案する。
「……まあ、こんなことで怪我があってもしようがないから、図術はなしで」
「怖いのか!」
ヨクリはふ、と嘆息で区切って、
「基礎校では、基本的に立ち会いで図術は使わない。危ないからね」
挑発に乗らなかったヨクリにラッセは腰に下げた片手剣を抜いた。ヨクリも応じて革帯から刀を外し、鞘を払う。
乾いた風がひとつ吹いて、ヨクリの前髪を揺らした。魔獣の嫌う香の残り香と少しの埃の匂いが混ざった独特の空気。相対する少年はヨクリの顔を睨む。
ラッセの構えはこの国で基本的なギレル式剣術の片手剣の構えである。右半身を前に、相手から見える体の面積を小さくする理にかなった構え。だが見よう見まねなのか、剣先、足が微妙に合っておらず、腰も引け気味でぎこちなさが目立つ。
ランウェイルの剣術は大別して二通りある。
一つは武勇で名を馳せた六大貴族ステイレル家が完成させた剣術形体を源流とする、教書にも載っているギレル式剣術。名前はステイレルの分家であるカーム・ギレルが晩年、修めた技法を書に起こし国に広めたのが由来である。剣技を習う人間の凡そ八割がこのギレル式だとされているが、今日では多様に枝分かれしており、師範によって差異がある。
もう一つはタラント式剣術。タラント式はどちらかと言えば総合的な戦闘技術を旨としている流派であり、剣だけではなく槍や斧、徒手空拳などの形も書に記されている。ランウェイルではギレル式よりも下火であるが、軍属を視野に入れる平民出の生徒などには人気が高く、道場は小さいながらもどの円形都市にも存在する。
ヨクリは基礎校時代早々にシャニールの剣術に傾倒した。しかし、以前は他の生徒の例に漏れずギレル式を学んでいた。当然専門の調練を途中で投げたため十分に習熟したとは到底言えないが、それでも少年の構えが状態の良いものではないと断言できる。
ヨクリは静観し、ラッセの動向をうかがった。ヨクリの得意とする待ちの戦法、ではない。単純に、ヨクリが不意に斬り掛かったとき、ラッセが対応できるとはとても思えなかったからである。下手に回避するような予想外の動きを怖れているのだ。
痺れを切らしたのか、ラッセが上から振りかぶりつつ突っ込んでくる。ヨクリは挙動に合わせて腕を跳ね上げ、峰で相手の刃を強く打った。
甲高い金属音のあと、あ、とラッセがほうけた声をあげ——なんと、手から剣の柄がすっぽ抜ける。
(嘘だろ)
ヨクリは冗談のような光景に呆然とする。くるくると、ラッセの剣が回転しつつ弧を描き、庭に植えられた木の幹に突き刺さるのをはっきりと目で追っていた。
しん、と辺りが静まり返った。ヨクリが首を戻したとき、遠巻きに見ていたアーシスが手のひらで顔を覆い、くっくっと忍び笑いを漏らしながら近寄ってくる。そんなアーシスを見て、ラッセは頬を真っ赤にし、なぜかヨクリを親の敵のように睨みつけた。
(俺のせいじゃないだろ)
内心の自己弁護に、
「お前、ちょ、ちょっとは手加減、してやれよ。大人げないやつだな」
「狙っていないよ。本当だって」
意図して剣先を操り相手の武器を巻き上げ、取り落とさせる技は確かに存在するが、かなり技量が離れていないと成功しない上、力の増す強化図術を用いた戦闘ではまず起こりえないから、ヨクリはまともに訓練していない。先ほどの行動は大道芸じみた効果を期待したのではなく、単純に隙を作るための防御であった。
「じゃあ、ヨクリの勝ちってことでいいな」
あっさりとしたアーシスの宣言にヨクリはラッセを慮って、
「……三本勝負にしよう」
本当のところは茶髪の男の通り、武器——引具を取り落とした時点で勝敗は決しているのだが、これで幕を下ろしてしまってはどうしても遺恨を残す。ラッセはヨクリからの提案に、更に憤ったようだったが、しかし背に腹は代えられないのか幹に突き刺さった剣をうんと力を込めて引き抜き、再び戻ってきて構え直した。
ヨクリもまた正眼に迎え撃ち、想像する。おそらく、打ち込まれる筋は多くない。左右の袈裟、打ちおろしの三通りだと睨んだ。これから剣を習う者が胴や股下からの切り上げを狙うことはまずしないし、できないだろう。突きに関しては、素人の突きほど視界に捉えやすいものはなく、見てからでも十分回避が間に合うため、除外した。ヨクリに限っては、刺突を貰うことには慣れている。それも、とびきりの切れのものを。
一分の揺らぎなくラッセの首元へ剣線を据えたまま様子をうかがっていると、ラッセの片手剣がぴくりと下に動いた。ヨクリはその期を逃さず、大きく踏み込んで刀身をたたき伏せ、体の軸をぶらさずに切っ先を喉へ突きつけた。
やはり彼我の技量差から、勝負は一瞬で決した。今度こそ文句のつけようがないヨクリの勝利である。ヨクリは体を引いて剣を下げ、浅く息をついてラッセの反応をうかがった。
ラッセは目線を下げ、俯くように顔を伏せていた。よくよく見ると、悔しさを堪えるように唇を噛んでいる。ヨクリは困り顔でアーシスのほうを見やった。茶髪の男は全て承知しているというふうな表情でヨクリに頷き、口を開く。
「……ヨクリの勝ちだな」
その言葉に赤茶髪の少年の体が悲しげに震えた。同年代の——それも憎からず思っている異性の前であっさり負けを晒してしまった心境は想像にかたくない。多感な時期の少年にとっては身を裂くほどに辛い。それはヨクリにも覚えがあることだった。だが、意外と相手は気にしていないものだ。やはり当のイリシエは不安そうにラッセのほうだけを向いていて、その顔は少年を思いやるように、眉を下げている。
アーシスはヨクリとラッセの二人に了承をとる。
「んじゃ、ヨクリが勝ったんだからラッセになんでも言っていいぜ」
首を上げたラッセは頬を真っ赤にしていたが、意外にも毅然とヨクリの目を見た。少年のまなざしに秘められた想いを、ヨクリは知っていた。
「……そうだね、それじゃあ」
ヨクリはその様子に、少しだけ力を貸してやりたくなり、自身の意思を少年へ伝えた。
「毎日集落の内周を走って、それから素振り五百、かな」
上等校卒業者と基礎校出の具者に技量の隔たりが存在するように、そこの茶髪の男のような規格外を除けば、基礎校出と基礎校にすら通っていない人間との差は歴然としている。ヨクリが持っている知識や技を教えられれば、少年の役に立つはずだった。
ヨクリの言葉にラッセは目を剥いて、
「ま、毎日ってそんなのアリかよ!」
「でも、やればきっと今より強くなれるよ」
頬をゆるめたヨクリに、ラッセは眼を瞬かせた。
「俺が集落にいるあいだ、基礎的な形なら教えてあげられる。さっき言ったことが終わったら、俺のところにくれば。……どうする?」
少年はヨクリの提案に、意図をうかがうようにじっと視線を合わせ、ふっと顔を伏せた。
「……やる」
「決まりだね」
小さな了承の言葉に相槌を打つと、アーシスはヨクリに眉を下げながら言った。
「悪ぃな」
「いや、いいよ」
ヨクリは笑顔で返答してから、抜身の刀身を鞘に納める。
「これから、いろいろしなきゃならないことがある。そろそろ、支度をしよう」
きん、という涼やかな音とともに皆を促し、解散させた。
屋敷の庭に住人全てを集わせ、エイネアの公布が行われたのは昼過ぎ、ちょうど昼食をとりおえたことであった。一悶着あるかとヨクリは思っていたが、予想は大きく外れ、皆情報を受けて、迅速に行動を開始していた。ヨクリには想像もつかない信頼がそこにはあったのだ。
家庭を持たぬ身軽な者や、移送先の点検をする人間から先陣に選ばれ、住人の移送は六刻から始まった。
■
馬車三台が、集落と拠点を一度に往復できる限界の数である。護衛が四人と少ないのが原因だ。ヨクリが使った集落から東の拠点よりも遠い、西の拠点が目的地である。辺りの地形は荒れ地で、山積した礫や岩のせいで車輪が上手く回らないところは、全員で馬車を押しながら移動していた。
一度魔獣と遭遇したが、おおむね予定通りに進路を辿っている。ヨクリは馬車隊を先導するように前に立ち、周囲を警戒しながら進んでいた。そんな折り、話しかけてきたのは一人の若者である。
「それにしても、アーシスさんが言ってた通り、凄腕っすね」
「いや……数も少なかったから」
三人一組の護衛班。ヨクリと、面倒が多くヨクリが監視しなければならない、消去法で選ばれたミリア、それからこのタルシンという二十歳の男である。武装は腰に下げた片手剣の引具と、左腕に装着された防御用の円盾。背はそこそこといったところで、少し橙がかった金髪に、皮鎧よりも上質な絹の装いが似合いそうな、垢抜けた顔立ち。
「あたしのぶんも残してくれたら良かったのに」
「お前な……」
ぼやいたミリアを嗜めるヨクリ。イリシエの衣服の上から、どうやら一張羅らしいあの襤褸(果たして防御力があるのか甚だ疑問ではあったが)を着込む金髪の暗殺者は頬を膨らませる。あの”古物”はエイネアに預けてあり、今の少女は一時的に返却した引具——腕輪と、ヨクリが貸し与えた解体用の小刀だった。術金属ではなく鉄が主の合金製であるため、理力の増した図術戦では頼りない。引具とは比べるべくもないが、鋳型で造られた鋳造品ではなく職人が手で打ったそこそこに値が張るゆえ、無茶に扱われて壊されるのも癪なヨクリは積極的に前衛を務めていた。
「あはは、頼もしいっすね! 最初は正直はずれひいたかと思っちまいましたけど、こりゃ楽させてもらえそうだ」
年上のヨクリに礼を払ってはいるが、程よく砕けた軽い口調で笑うタルシン。率直な物言いではあるものの、嫌悪よりも好感を抱く。ヨクリは頬を緩めながら、
「まあ、”大物”がごろごろしているわけじゃないから、あの程度ならこの三人でなんとかなるよ」
戦力に対して太鼓判を押しつつも、ヨクリは次に少しだけ口調を固くして続ける。
「ただ、もうすぐ日が落ちる。七刻までには着くだろうけれど、気は抜かないでくれ」
「了解っす」
まだまだ日は短く、辺りは既に黄金色である。足場の悪いこの地形は見通しの良い時間に過ぎたい。歩きにくそうに蹄鉄をせわしなく鳴らしつつ、小さく嘶く馬を共に、一同は進む。
再び”獣”と一度遭遇したが難なく切り抜け、一つの中継地点、拠点へ。エイネアの手配通り長距離列車へ荷の積載が迅速に行われ、一同を乗せ、レンワイスから東にある都市リンドに辿り着いた。貨物として運ばれた馬車を受け取り、専用の通路を通ってほとんど変わらない造りの駅を抜ける。
視界を埋めるのは、一面の光。まるでこの街だけ光量を増しているかのように、まばゆい黄金色に包まれていた。
足場が組まれたその上や、路肩にもそれらは散見できる。随所に敷かれた灌漑。国内の食料供給のおよそ五割を担う都市がリンドである。
別名金路都市とも呼ばれ、ある貴族が夕刻にリンドの管理塔から眼下を一望した際、路に沿って灌漑を流れる水が夕日を反射し、街が金色に煌めいて見え、そう表現したことに由来する。
リンドの特徴は遮壁内を縦横無尽に駆け巡る灌漑と、都市面積の三分の一を占める農耕牧畜設備である。中央の管理塔は他の都市と同様に魔獣避けの防衛施設だが、もう一つの役割がリンドの管理塔には備わっていた。
清水の生成。管理塔の図術設備で人工的に作られた水は放射状に伸びる灌漑へ送られ、作物の育成に使われているのだ。リンドは大陸における各主要都市との中間を維持しており、食料の供給にはうってつけの位置にある。だが、冬期に聖峰フェノールから吹き付ける山颪の影響で土地が乾燥するため、作物に十分な水を送ることができない。かといって、地面から過剰に吸い上げれば干ばつや塩害を引き起こす。その欠点を解消するべく備えられた設備であった。
この”水の塔”は莫大な予算を持って建設されており、国内の最重要設備にあげられる。それゆえ警備も厳戒であり、治安維持隊の質も他の都市に比べはるかに高い。
街に降り立ったヨクリらと集落の住人たちは、大通りの中央、馬車道を進む。馬の預かりも行っている牧場へまずは向かった。リンド南部。レミンの住人を一時的に身請けする長屋の近辺。道の両脇には飲食店と、取り扱う食べ物の上質さを謳った看板が立ち並び塗装や装飾も目に美しい。活気あふれる屋台の軒下に吊るされた肉汁したたる丸焼きに目を奪われ、立ち込める食欲をそそる香ばしい匂いに後ろ髪を引かれつつも、一同は歩を緩めることなく目的地へ向かう。
徐々に人通りが少なくなり、日が落ちて辺りが暗くなる。緩やかな車輪の音に紛れるように、ヨクリはタルシンらに耳打ちした。
「ちょっといいかな」
南部区域に入ってから、ヨクリは妙な感覚を察していた。誰かに監視されているように、背にちくちくと刺さる視線。都市外の”獣”が撒く、恐怖を煽る殺気に良く似ている。しかしここはランウェイルの食料庫であるがゆえに国内屈指の警備網を誇る、円形都市リンドである。街中に魔獣が紛れているとはとてもではないが考えられない。つまり、何者かがこちらの様子を探っているのだ。それも、敵意を持って。
しかしながら、向こうはヨクリに悟られているだけあって、相当の手練、というわけではないらしい。むしろその逆、稚拙さがうかがえる。
「尾けられている。距離と人数まではわからないけれど」
「……誰っすか? もしかして」
「いや、多分違うと思う」
ヨクリも眉をひそめたタルシンと同様に”リリスの右手”が放った斥候かと疑ったが、それにしては粗末だと思い直す。
二人が警戒を強めている中、声を上げたのは金髪の暗殺者だった。
「あ。あたしかも」
ヨクリはミリアの言葉を聞いた直後、目を鋭く細めた。
「厄介事はごめんだ」
語調固く苦言を呈すと、途端ミリアは馬車の進路とは逆、来た道を引き返すように駆け出す。
「わかってる。ちょろっとお話してくるね」
「おい!」
残した台詞にかぶせるが、金髪の暗殺者は「迷惑はかけないよ!」とだけ付け足して、疎らな往来人をするすると避けながら路地の奥へ消えていった。
「……もうかけられているって」
ヨクリは小さくため息を付き、独りごちる。
「どうするっすか」
「……とりあえず、相手してもしようがないし、進もう。長屋についてから俺が探しに行くよ」
意見を仰いだタルシンに、ヨクリはくたびれた声音で提案する。
(やっぱり、君が思っているより面倒な相手だよ、あいつ)
心中で茶髪の友人に念を送りつつ、ヨクリは気を取り直して少しだけ先を行く馬車に駆け足で追いつき、歩調を合わせた。
■
入り組んだ路地裏の最奥。家屋で光が遮られ、灌漑も届かない突き当り。目深に外套を羽織った背の低い二人が、壁を背に一人の少女と向かい合っている。
壁面に点々と見受けられるのは、煉瓦の継ぎ目を舐めるように生した苔。少女は上方に視線をやったあと、こうこうとまたたく金色の瞳を少しだけ細め、「やっぱり」と小声で呟いたあと、がりがりとくすんだ金髪を掻いた。
「どーして追ってきたわけ? ユファの件であたしはしくじったんだから、もう用済みでしょ」
「出て行くのか、ミリア」
疑問には答えず問うたのは、右の黒ずくめだった。声変わりして間もない少年の声。名を呼ばれたミリアは肩をすくめ、独り言のように始める。
「……確かに、一応”そういうふう”に決められてるけどさ」
言葉を切って、
「今のレムスに、あたしをやれるやつなんていない。袋にするほどの余裕もない。だから二人ぽっちなんでしょ……やめときなって」
「……のか」
冷静に説得を向けると、少年が、ぽつりとつぶやいた。ミリアが聞き返す前に、少年は勢い良く顔を上げて睨みつけた。頭をすっぽりと覆った外套が脱げ、短い茶髪と、その泣き出しそうな顔が露わになる。
「一人だけ、自由になるつもりなのか!」
開ききった瞳孔で少年は叫んだ。ほんの僅かに滲んでいるのは、狂気の色。
「ずっと、ずっとみんなでやってきたじゃないか! どうして今頃になって……」
「こんな暮らし、ずっと続くわけないじゃん」
少年の慟哭を、金髪の少女は途中で冷たく切り捨てた。
「だいたい、みんなでやってきたってなにをさ。みんなただ、生活のために仕方なく、なあなあで集まってたってだけでしょ? それをさも——家族みたいに言われると、ちょっと気味が悪いよ」
淡々とミリアが告げると、少年は口を半分開けたまま、黙り込んだ。かわりに事態を眺めていた片割れが小さくいう。
「おいて、いかないで、ミリア」
か細い少女の声の中に、必死さと切なさが垣間見えた。しかし、ミリアは呆れたようなため息とともに、その願いを踏みにじる。
「そろそろ、お守りから開放させてって、そう言ってるんだけど?」
半目のミリアに、少年はぎらついた眼差しで音もなく短刀を手に持った。袖口に仕込まれた、強襲用の暗器。
「レムスから居なくなる奴は、豚の餌だ」
「抜いたね」
応じてミリアはその長い髪を、外套を羽織り直して隠し、懐に手を伸ばす。手元でぎらりとちらつかせたのはシャニール拵えの小刀。先刻黒髪の青年から借り受けた護身用の武器だった。
そこからは一瞬の出来事だった。両者の距離がぱっと縮まり、銀光が二度ひらめく。遅れて甲高い金属音が響き、そしてまた離れた時には、紅が舞い上がっていた。傷を負ったのは少年のほうで、その細い手首は鮮やかな血に染まっている。血管が断ち切られたようで、出血は止まらない。ぐ、と少年がうめいた時、無傷のミリアは次の行動に移っていた。
背後を取ると、抱きかかえるように左手で少年の口元を抑えつつ、その首に白刃を突き立て、手慣れた様子で——なんのためらいもなく掻き切った。
弾かれるように体を離し、返り血を避けると、こひゅ、と不気味な音を立てながらくずおれつつうずくまる少年に一瞥さえくれず、少女のほうへ向き直った。
「その顔」
すでに少女は腰砕けに尻もちをついていて、眉を歪め恐怖に染めている。見開かれた眼球にはミリアの無表情とその奥、壁面に散ったおびただしい血痕が映っていた。
「自分の心配しかしてない顔だ。嫌いじゃないけど、だったらあたしのことも放っといてくれるよね?」
そしたらなにもしないからさ、と付け加えると、少女は一も二もなく頷いた。
「そいつ、片付けといてね。あと、これ以上付け回したり、余計なこと喋ったりしたら今度はあたしのほうから探しに行くから、覚えといて」
ミリアは聞くまでもない返答を待たずに踵を返し、血まみれの短刀を物言わぬ体になった少年の外套で拭うと、表通りの方へ歩き出した。
その表情は平静どころか、穏やかささえ感じさせるような、ゆるい笑みを浮かべていた。




