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左手の切り立った岩壁から、ぱらりと礫が滑り落ちた。
素早く馬車の先頭に躍り出たヨクリはまだ交戦していないのを悟るやいなや、明度差により赫灼と感じられた太陽を遮るため左手で顔に影をつくって、冷静に辺りをためつすがめつして見る。
商隊は小高い丘に挟まれた谷のような地形にさしかかっており、方向転換は困難だった。それに加えて幌を引く三頭の馬は駿馬とは言えず、今からさがっても間に合わない。
遠くに見える砂煙の規模は少なく見積もって三匹以上の獣が接近していることを知らせている。後方——馬車のほうを見ると、お世辞にも良い状況とは言えなかった。それぞれの騎手は馬を落ち着かせるために鞭やあぶみを忙しなく動かしているし、幌から押っ取り刀で飛び出した護衛の業者たちは、ただ棒立ちで前を見ているだけだ。これが熟練の業者なら、その内の人心掌握に長じた者が切っ掛けになって鬨の声をあげるのだが、そんな様子はないし、ヨクリは率先してそういうことをする性でもない。
ヨクリはきびすを返して乗っていた幌に乗り込み、荷袋からなにかを取り出し、ついでに挟撃のおそれがないか振り返って確認したのち、再び戦線に戻る。
「護印を!」
叫びつつ左手に納まった青銀色の四面体——護印器を掲げるが、他の業者たちは戸惑いつつ、「いや、俺たちもまだなんだ」とまごついている。
(まずいな)
ヨクリは歯噛みした。ヨクリ以外の護衛は明らかに場慣れしていない。ほんの少しの時間で護印登録は済むのだが、それすらも手間取っている。
ぐずぐずしていると商隊全体が獣の起こす砂煙に巻き込まれ、意思疎通がままならぬまま全滅する危険があった。防ぐためには近接手、遠射手を適切に配備して獣が馬車に到達する前に各個撃破しなければならないが、現状は隊列の話以前の問題だった。
”売れ残り”を戦力に数えるのは無理だと、ヨクリは見切りを付ける。四人いるうちの、装備がしっかりした一人の業者に護印器を放り投げ、
「登録を済ませておいてくれ! そのあいだは俺が稼ぐ!」
距離300歩足らずまで接近する砂煙に向かってヨクリは走り出す。右手の刀に意識を集中させると、辺りをさざめく風が、その風に揺れる草が、葉の擦れ合う音が、全てねばついたように重くなり、逆に自身の体は羽のように軽くなる。
強化図術。ヒトが”獣”と互角以上の戦いをするためにつくりだされた、身体能力を大幅に上げるすべの一つ。研ぎ澄まされた感覚はつむじからつま先までを余さず埋め尽くす。
増幅された知覚のもと、途切れ途切れの砂煙からヨクリは正確な種類と匹数を見いだした。
(——長耳。数は五か。多いな、骨が折れそうだ)
”長耳”。最低級と国で認定されている”狗”の亜種である。狗よりも体格が一回り大きく、その異名の通りだらりとさがった長い耳が特徴だ。”狗”よりも嗅覚、聴覚に優れ、匂いを嗅ぐ場合には邪魔な音に惑わされぬよう耳道を塞ぎ、逆に垂れた両耳をぴんと立てると、1000馬身先の砂粒が落ちた音を聞き分けられるという。
”獣”は他の動物よりも比較的知能が高い。いくつかの強襲に向いた地形で狩りをすることは、人間に知られた数少ない”獣”の習性のうちの一つであった。この群れのそれは、逃亡の難しいここなのだろう。
(さて……)
ヨクリは歩を緩めつつ思案する。このまま突っ込むと五匹を相手にしなければならないが、後続がまともに機能するとも思えない。ならばまずは牽制し、群れの速度を削る。
完全に歩みを止めたヨクリは携える刀——引具に感覚を巡らせた。すると、刀の切っ先から淡緑色の光が漏れはじめ、呼応するようにヨクリの視界に数多の線が現れる。囲われた一点に視線を合わせ、赤く明滅するのを確認。続けて心の奥底を探るような意識の操作をすると、ヨクリの眼前に幾何学的な形状の、淡緑色の面——展開紋陣が現出する。
そこでヨクリは意図しない光景に首を傾げた。
(あれ)
想定した展開紋陣とは規模が違っている。手順を誤ったつもりはないのだが、予定より二周りほど大きい、ヨクリの身長ほどの面積を有する紋陣が出来上がっていた。
細事に引かれたのは一瞬で、気を取り直して前方を見据える。おおよそ四、五十歩ほどの距離。冷静に間合いを見極めて、ヨクリは目の前の展開紋陣を薙ぎ払った。
淡緑色の面は硝子のように砕け散る。足下から光の膜がヨクリの体を包み込み、消失するまでは刹那である。そして、中心から強烈な速度を持った空気の渦が大地の表面を削り取りながらほとばしった。引具を手に図術を用いる”具者”の遠距離攻撃手段、干渉図術。
結果を見届けず、ヨクリは立て続けに別の図術を起動させる。ヨクリの図術が具現する空間——支配領域の情報が次々に流れ込み、ヨクリの全身をざわざわと刺激する。
領域内の空気の流れを伝達させる補完図術”感知”を張り巡らせ、ヨクリは目視せずに周囲の状況を読み取った。事前に判断した五匹よりも、明確に動作する物体の数が少ない。
僥倖にもどうやら一匹仕留めたらしいが、砂塵に紛れ死体の姿は見えない。打ち放った干渉図術”旋衝”により、目算通り群れは左右に分断され、ヨクリを両脇から挟み撃ちするような形になる。即応したヨクリは足の速い右手のほうに目を向けつつ、
(頼むから当ててくれるなよ)
後ろに誤射はごめんだと念を送る。ヨクリは業者達と護印を結んでいないのだ。
意識を再び二匹の”長耳”へやると、ヨクリは臆せず間合いを詰める。近づいた一匹の挙動に合わせ刀を振るうと、また違和感がヨクリを襲った。
予測よりも半拍遅く、前脚を斬り飛ばすはずだった斬撃は空を切った。先制に失敗したヨクリは軽く後方に飛び退り距離を白紙にするが、やはり獣の動きがヨクリの想像よりも温い。
(……遅い、のか?)
即座に詰まると見えた間合いは開いたままだった。内心で首を傾げつつもヨクリは即応し、今度は大きく踏み込んで横に薙いでみる。
ざくりという感触とともに長耳の顔面は二つに両断され、その体が静かに地に倒れ込む。即座に、影からもう一匹が突進してくるのをヨクリははっきりと認識し、体を左に振ると、長耳の進路が釣られる。位置を右に戻しつつ、左足を引いて回り込むように牙を躱し、完全に背後を取った。急停止した長耳が振り返ったのと、ヨクリが切っ先を下げた刀を振り抜いたのは同時であった。
微かな、しかしとても高く涼やかな音が一つ鳴り響いただけで、切断の感覚が手元に伝わらない。ヨクリは外したと思い、舌打ちして刀を構え直す。
だが、長耳がヨクリを視界に捉えるために小さく飛んで方向転換すると、遅れてその頭から胴の半ばまでが分断され、血飛沫が舞った。
ヨクリの目には飛散する血の一滴一滴や、獣の体が横たわり、地面に血溜まりが広がる光景がとてもゆっくりと移る。
本当に自身が斬ったのか断定できず、ヨクリはぽかんとした。
今まで味わったことのない不思議な心地だった。毛皮、肉、その奥の骨。それら全てが刃の通り道を自ら開けたように、なんの手応えもなかったからだ。
呆然としていたヨクリに、背後から二匹の気配が忍び寄り、ヨクリが勢いよくそのほうへ体を向けると、距離はすでに六歩を割っていた。
心臓の鼓動がうるさいのは、危険が迫ったからではない。熱い躯とは真逆に、心中は氷のごとく冷えきっている。
残り二匹の長耳。足の速いほうはすでに地を蹴り跳躍し、中空で牙を剥く。奥のほうは隙をうかがいつつ距離を詰め、はりつきそうなほど地に体を寄せている。
今からでも後ろに距離を取れば攻撃を受けることはない。心のうちの冷えた部分はそう告げている。普段の自分の判断。しかし。
——飛び込め。
頭の中に突然現れたもう一人の誰かが道を示す。正眼を脇構えに。ヨクリの瞳はすうっと細まり、左足に踏まれた砂礫がざり、と鳴った。
そして、あっという間に距離が零になった。右足ではなく左足を前に着地し、鮮血がぱっと弧を描いて宙に散る。
二つの落命が聞こえ、ヨクリは半ば自失したまま、背後にあった死骸を確認した。
(どうなったんだ)
死骸の両方とも、ほとんど胴体を縦に両断され絶命している。皮一枚でなんとか繋がっている様相で、体の末端がぴくぴくと痙攣していた。
いかにして料理したのか、ヨクリは詳細を思い出せない。ただ声に従っただけだった。
後続の業者たちが追いつくまで、ずっとヨクリは思考にふけっていた。
■
ぱちぱちと、薪の爆ぜる音がする。陽は夕刻よりも少し前であった。休息のため、開けた平地で馬車を囲むように円陣を組み、火を焚いて軽食を取っているのだ。ヨクリの倒した五匹の”長耳”は他の業者によって解体され、商隊に寄与された。そのかわりに、食事は都市外で取る物にしてはかなり豪勢なものになっている。このような何らかの理由で全員が集まって報酬を受け取れない場合、基本的には依頼を請けた業者の同意のもと、外級の意見が優先される。
ヨクリもカップを左手に、中を食器でつついていた。沸かした湯で溶ける肉の煮こごりである。様々な香辛料も入っており、夏期には劣化を防いでくれて、冬期は食すとぽかぽかと暖まるという優れた携帯食料だ。なにより好ましいのは、とても美味なところだった。
ヨクリは口をもぐもぐさせながら周囲を観察する。業者たちのシャニール人に対しての嫌悪感が薄れているのは、さきほどの一件にほかならないだろう。単独で短時間に五匹を仕留められるのは、ヨクリが客観視しても腕の立つ具者であるという事実は覆らない。ゆえにというか、ある種の敬意を感じられる。しかしながらやはり蔑視される人種であることにかわりはないので、遠巻きにこちらに視線をやる、という程度であった。
あらかたの肉や菜を攻略したあとカップを傾けて残りを啜っていると、隣へ誰かがくる気配。大げさな応対にならぬよう、目線だけで姿を確認すると、幌で一緒であった長身の女だった。
あらためて直立しているところを見ると、やたらと上背がある。ヨクリの知っている長身なアーシスよりはさすがに低いが、マルスよりは高く、ランウェイル成人男性の平均くらいはありそうだった。女性にしてはとても珍しい。シャニール人は他の人種よりも小柄らしかったので、余計に目立つ。
「ご苦労であったの」
ヨクリはやおらカップを呷って全部胃に流し込んだあと、ふうと息をついて指先で口元を拭ってから「いえ」と返答した。同郷の女——シビの上からの物言いに、なぜか反感は抱かなかった。
「あなたが出なかったのは後詰めのためですか」
女が手練だと半ば確信していたヨクリは、先ほど幌のそばで佇立したままだった理由を問うた。シビは口元を歪めて、
「それもあるが、あの程度、一人でどうとでもなったであろう」
ヨクリがそうしたように、シビもヨクリの技量を診断していたらしい。
「……動きが鈍かったからでは。普通の獣なら、ああはいきません」
そう。ヨクリには先ほどの”長耳”の所作に違和感を覚えていた。まだ群れができて日が浅いとか、あるいは病にかかっていたとか、そういう理由が考えられる。
だが、慮外にも否定される。
「くっ……ははは、ちがう、ちがう。獣らは変わらぬ。変化を感じたのなら、彼ではない。——己だ」
声を上げて笑うシビ。
「我の目に曇りはない。道に入っておる」
「道?」
「武芸者が夢想してやまぬ、極みに至る道——まあ、そなたは入り口を開け、一歩踏み出した程度というところだがの」
ヨクリには冗談のように聞こえた。確かに腕っ節で飯を食ってはいるが、とても現実的な言い回しではなく、雲を掴むような話だったからである。しかし、そう思う一方で、これまでを振り返ってみる。
(……強くなったのか?)
ヨクリの技量は、ヨクリ自身がもう頭打ちだと諦めの入り交じった自覚をしていた。基礎校を卒業してから四年、ほとんど上達を実感できなかったのだ。
なぜなら実際に業者として相対する獣は下級がほとんどであり、中級も稀で、上級に至っては一級危険指定区域にでも入らない限りまず出くわすことはない。つまり、純粋な技のぶつかりあいという意味での強敵と戦う回数は、基礎校時代よりもむしろ減っていた。
(——でも)
キリヤから持ちかけられた依頼がきっかけで、結果的に相対してしまった六大貴族や暗殺者たち。立て続けに猛者と剣を交え辛くも生き延びた自身は、自覚のないままに技術を昇華させていたのではないか。そんな可能性がヨクリの頭をよぎる。
「なにごとにも通ずるが、上達には壁が付き物。答えを得られぬうちは、赤子の歩みのごとくゆるやかだ。もどかしさを振り払えず、越えられぬ者も数多おる」
シビが歌うように口にする。
「だが、一つ解を見たなら、五も十も知る。道とはそういうものよ」
ヨクリは向けられたまなざしに、想起するものがあった。より正確に表現するならば、ヨクリはつい最近までそれを向ける側であったのだ。
ヨクリが友人だと認めた少女。ヨクリがフィリルになにかを教えるとき、優しい口調で、柔らかい目をおくっていた。未知に高揚した、昔の自分を懐かしく思ったから。
(あやしい人だけれど……)
幌の中で感じた恐ろしさ。それでも、悪人ではないのかもしれない。ヨクリはそういうふうにシビを見始めていた。
自然と目線をやっていたヨクリにシビは口角を上げ、腕を上げて指をさした。商人や業者の手で焚火の幾つかはもう消火されている。そろそろ休憩は終わりらしい。ヨクリもカップを手早く拭って荷袋にしまい立ち上がると、焚火のほうへ足を向けた。
さすがに旅慣れているようで、撤去は迅速だった。再び馬車は走り出し、幌に揺られて半刻ほどたった頃、蹄鉄の音の感覚がゆっくりと落ちていき、やがて止まる。体感の具合もここがレミン集落の近辺だと知らせていた。
ヨクリは遺失物がないかどうか荷物をあらためたあと、刀を鞘ごと右手に持ち直して腰を上げる。すると、黙していたシビが声を上げた。
「ん、もう到着か」
「はい、俺はレミンに用があるので」
「……レミン?」
シビは形の良い眉をひそめた。この辺りの地理に明るくないのかと思い当たったヨクリは「近くに集落があって」と付け加えたが、返答はヨクリの予想していないものだった。
「存知しておる。……目睫、一帯は荒れる。止めておけ」
「荒れる?」
訊きかえそうとした時、外からまだか、と急かす声。ヨクリは刹那逡巡するが、結局追求せず馬車を降りることにした。シビに頭を下げてから幕を払うと、背にため息混じりの「ままならぬな」という呟きを受けた。少しだけ、後ろ髪を引かれるような心持ちになったが、気付かれぬ程度、僅かに首を振って飛び降りる。
着地し、身なりを整えて振り返った。幌から顔をだしていた商隊長はヨクリのほうを向いていたので、礼を言う。
「有り難うございました」
「いや、こっちも助かった。気をつけてな」
おおよそ珍しい挨拶を貰えて、ヨクリの気分は少しだけよくなる。残りの業者に一抹の不安はあったものの、シビが居る以上壊滅の危険は薄いだろうと判断する。ヨクリを降ろし走り出す馬車三台を見送ったのち、ヨクリは目前に広がる森林に目を向けた。
レミン集落は周囲を森に囲まれており、入り方を間違えると簡単に迷う。ヨクリは一旦森には踏み入れず、外周を沿うように探索する。幾度か訪ねているため、労せず打たれた鉄杭と、樹木に付けられた傷を発見。レミンの住人が外出し、再び集落へ戻る際に用いるほか、懇意にする商隊などに伝えられる目印である。
ふ、と浅く呼吸したのち、刀を抜き払って強化図術と干渉図術”感知”を起動させる。木々の影から獣に襲撃されると非常に厄介なので、ここは節約せずにエーテルを消費する場面だった。
いくつかの様々な目印を通り過ぎ、引具に補充した二本目のシリンダーが空になりかけたとき、ヨクリはシビの言葉を思い出す。
(いやなことを考えたくはない……でも)
自然と足がはやまる。アーシスの沙汰無しがある以上、シビの忠告は無視できない情報であったからだ。木々のさざめきはヨクリをほんの少しだけ焦らせるが、しかし警戒を怠らずに奥へと進む。
足下に茂る草に人が踏んだ形跡が増えるにつれて、逆に周りの樹木の数は減り、とうとう開けた道になってささやかな建物が見えた時には、ヨクリはもうほとんど走っていた。




