一話 帳尻合わせの綻び
序
轟音と鳴動は、一時も絶えない。
もはや、風光明媚とランウェイルに知れ渡ったイスト渓谷は見る影もなかった。瑞々しく生い茂る木々の緑は血に汚れ、美しく咲く花の傍らにはどこの部位かも分からぬほど原型をとどめていない肉塊が点々と転がっている。
薄汚れた軍服を着込む四人の男たちが骸には目もくれず歩いていた。瞳は一様に暗く濁っていて生気を感じさせなかった。疲労と空腹と恐怖に耐えている結果であるのは想像にかたくない。そのなか、先頭の白髪の男だけが前を見ていた。すこしだけ皺の刻まれた顔から察するに、齢のころは四十くらいといったところだろうか。白髪の男を突き動かす原動力は希望ではない。義務感と責任感だけであった。
地獄はもう見たつもりだった。だがそこは門だったのだ。鍵を開けたのは自身であると、遅まきながら白髪の男は気付いた。
太陽は南中よりもほんの少しだけ傾いていたが、しかし今が一番気温の上がる時間帯だった。じっとりとした嫌な汗が止まらない。夏期の終わり、森の中を進む足取りは重かった。この暑さで辺りの死体は腐敗を進行させ羽虫油虫が集り、凄絶な臭いを放っている。男の任された分隊は十二人編成であったが、度々の奇襲を受け、八人が命を落とした。最初の一人が死んだ時男たちは遺骸をどうするか大いに揉めたが、続けて二人、三人と物言わぬ体になると、そんなことを口にする者は居なくなった。ここがそういう場所であることに気付いたのだ。最後に残った四人は結果的に強かったのか、それとも残るべくして残ったのか、曖昧であった。誰もが経験のない特殊な環境だったのだ。要因をあげるとするなら、四人は即応能力に優れているのかもしれない。未知に対応できない人間から死んでいった。
奥へと進むにつれ、音と揺れが大きくなってゆく。それは大地が叫喚しているような苛烈さをもっていた。男たちがなにかを感じ入るより先に、木陰から雷光のように飛び出してきた影があった。いち早く察知したのは白髪の男で、即座に腰の流麗な剣を抜き放ち、一息に斬り捨てる。先制に失敗したと悟ったのか、くずおれた体の奥から、ゆらりと人影が二つ、緩慢に姿を現した。襲撃者たちは皆黒髪に白い肌で、異人であるのは明白だ。ただ、その瞳に宿る感情の色だけは四人の男と同じで、敵同士の心はわかり合えていた。だが、諦めたように細身の剣で襲いかかってくる黒髪たちを、ためらわずに白髪の男ともう一人が応戦し、ややもせず二つの命を奪った。怒りも愛国心も、なにもない。四人はただの操り人形だった。
やがて沢に辿り着いた。幅が広く、死骸で汚染されていない。四人は辺りを警戒し、安全を確認したのちひとりずつ涼しげに流れる水面に近づき、とうに空になっていた水筒に水を汲んだ。むさぼるように飲み下しながら、白髪の男はこれが最後に口にするものになるかもしれないという後ろ向きな考えをし、三人に気付かれぬように小さく首を振った。詮なきことであったからだ。
身を木々に隠しながら、沢沿いに目的地へ向かいひた歩く。途中でもう珍しくもない死体の側に突き刺さっている武器——引具からシリンダーを抜き、型を確認してエーテルを拝借するのを忘れなかった。乞食のような真似を躊躇する余裕はない。
幾度かの強襲を退け、黙々と進むと沢は途切れ、腐った骸の数がだんだんと増えていく。樹木が唐突に途切れ、視界に空が広がった。断崖に行き着いたのだ。見回すと、細い吊り橋があることに気付く。距離を詰めて、頼りない木板に足をかけた。
眼下は、この世のものとは思えぬほどおぞましい光景が広がっていた。スローシュ大陸の東、ランウェイルとシャニールの国境線を分断するメヌ川の河原は主戦場だった。
喜びとも苦しみともつかない叫び声をあげながら図術を起動する者、敵味方の区別さえつけず寄る人間に斬りかかる者。近接手、遠射手の配置は両軍ともにすでに存在していなかった。誰かが干渉図術を打ち放ち、誰かが肉片をまき散らす。おびただしい量の血に川は赤く染まり、下流へと流れていく。硝子を破砕するような図術の起動音が重なりあい、悲鳴のような音にすり替わる。止めどなくただよう死の臭いは上方にいる四人の鼻孔にまで届いてきた。
現実感のないまま呆然と見下ろしていたが、やがていざなわれるように下へ下へと歩みを再開する。その姿は亡者の行進めいていた。
章紋暦四百七十四年。
世界ではじめて、図術が使用された戦場。
——人はのちにこれを、イスト渓谷の震乱と呼んだ。
■
一話
1
この部屋の格はとても高かった。浴槽や厠がここだけに敷設され、あげく使われた痕跡のない簡易な勝手場さえある。中流層の住居よりも整った環境だった。三階からは貴族に優先権があり、最上の四階である。キリヤが用意してくれた書状を受付で見せなければヨクリは階段をのぼることさえできなかっただろう。
扉のそばに佇んでいたヨクリは、緩やかな曲線をちいさく上下させる夜具をしばし眺めていた。ややあって、ゆっくりと歩き出し、部屋の奥、薄布の帳を払い窓を小さく開くと、風が一つ吹いてヨクリの黒髪をくすぐった。昼下がりの陽光が瞼を射し、ヨクリは目を細めた。下月の種の二十三日。身を裂くように冷たかった気温もここ最近は柔らかい。これからどんどん暖かくなるのだろう。もうじき春が訪れようとしていた。
窓辺から外を見下ろすと、他の都市とは景観に明確な差異があった。建材や配置はランウェイルのそれであるが、国内にはほとんど存在しなかった建築技法で作られた家々が多数見受けられる。この部屋は四階で街並をよく観察できる。
港湾都市イヴェール。ランウェイル最東端の都市であり——旧シャニール領と隣接する都市である。シャニールとの戦争が終結し、十一年が過ぎた。旧シャニールはランウェイルに吸収され、シャニール人もランウェイルで暮らすようになった今、シャニール人の人口が一番多いのがこのイヴェールである。煉瓦よりも木材を重用するシャニールの建築はヨクリが学生だった昔よりも増えていた。文化が根付きはじめているのだ。とはいえ、基礎校や駅、依頼管理所など、主要施設はまだまだ見慣れたランウェイルの造りだった。ヨクリの居るクレール施療院もランウェイル人が訝るものではない。
隅にある真っ白な夜具に横たわる少女は、今にも起きだしそうなくらいに自然だった。雪のように白い肌。長い睫毛は閉じられ、桃色の唇からちいさな吐息が漏れている。長い黒髪の毛先は整っていて、定期的に髪結いが手入れしていると想像がつく。
ヨクリは窓辺から離れて寝台へ近づき、横たわる女の顔をはっきりと見据えた。手を伸ばし、左目にかかる前髪を指先で優しく撫でよける。
「……久し振り、シュウ」
小さな声に、いらえはない。
あの日黄昏に染まるイヴェールにはヨクリとキリヤと、もう一人が居た。
名をシュウ、という。ヨクリと同じシャニール人の少女。あの事故から、シュウの時間は止まったままだった。道中では、対面するのにさまざまな恐怖を覚えていたが、不思議と衝撃はない。見慣れた、というには時が経ちすぎているが、記憶に残る少女に違いなかった。衰弱している様子はなく、本当にただ眠っているだけのようだった。
次に、それがキリヤの計らいであると気付いたヨクリは、すまなさと感謝を禁じ得なかった。本来ならば自分がしなければならなかったのと、それがヨクリでは不可能だったからである。——貴族でなければ、きちんとした施設にいれてやることさえできない。
「来るのが遅れて、ごめん」
声は返ってこないと知りながらも、ヨクリは謝った。
ここへ来たのはキリヤに言われたからだけではない。自分のなかの区切りをつけるためだった。
実際にこうしてシュウを間近で見て、ヨクリが感じたもの全てを詳細に明かすのは難しい。安堵、悲嘆、あるいは歓喜、諦念。全部がまやかしのような気もしたし、逆に全部正しいような気もした。結局曖昧なまま、答えを出せなかった。
しかし、ヨクリは来て良かったと心の底から思った。それで十分だった。
もうヨクリがシュウにしてやれることはなかったけれど、それでもヨクリは部屋の埃を払い、花瓶の水を取り替え、襤褸布で壁や床を拭き掃除した。
そうして全て終えたあと、ヨクリはちいさな木の椅子を夜具の側に置いて座った。顔を伏せ、呟いた言葉にヨクリの気持ちが現れる。
「……すまない」
選択を誤ったこと、助けられなかったこと、逃げたこと。——誓いを、果たせなかったこと。
返答をずっと待ちたかった。でもそれがなにも生まない行為であると知っていたヨクリは、迷いを振り払って暫時ののち立ち上がる。椅子を戻して身なりを整え、最後にシュウに伝えた。
「また、来るよ」
■
長距離列車を用いても、レンワイス、イヴェール間を往復するには二日から三日かかる。途中休息をとったため、結局レンワイスにあるステイレルの別宅に帰ってきたのは出発から四日の二十五日だった。
夕餉の時間には間に合い、食事をとったあとに部屋に戻ったヨクリは身支度を整えはじめていた。この屋敷での生活はもうすぐ終わるからである。女中らも就寝に入ろうかという頃に、部屋の扉を叩く音が聞こえてくる。ヨクリが応対すると、顔を覗かせたのはキリヤであった。
「帰ってきていたんだ」
「ああ。付き合え」
キリヤがひょいと掲げたのは酒瓶だった。最後に残っていたのであろう女中長が一つ礼をしたあと、部屋の卓に銀食器にのったつまみとステムグラスを並べ、退出していった。
(使ったことないんだけれど)
卓上の高級そうな食器に尻込みしているヨクリには構わず、キリヤは瓶の栓を抜いて果実酒を注ぎ、準備を始めていた。そして着席すると、呆然と突っ立ったままだったヨクリも慌てて向かいに座り、キリヤがグラスを傾け白い喉を鳴らすのをじっと見ていた。キリヤはふ、と息を吐いたあとヨクリが手を付けていないのを見て、
「飲め」
深い紫色をした酒は、なんだかヨクリがたまに飲む酒の色とは透明度や彩度が違って見える。おそるおそる口にすると、ヨクリは目をむいた。
(だめだろこれ)
芳醇な香りが一杯に広がり、とろけそうな甘みと、爽やかな酸味が通り抜け、全身に火照りを広めるような味わいが染み渡る。普段流し込んでいたそれは甘さなんて全然ないし、鼻に抜ける感覚ももっと適当でとりあえず酔えればいいというような雑さであった。こんなものを飲んでいたら、酒場の味では物足りなくなってしまう。味覚を刻み込んでしまってはまずいと、はっとしながらヨクリは銀皿に手を伸ばす。
(なんの肉だよ)
これもまた途轍もなく美味だった。キリヤの屋敷ででてくる食事は当然ながら段違いに味がよいのであるが、あくまで良質だ、とわかる程度に抑えられていた。ステイレル家の質実さの象徴なのかどうかヨクリは知らなかったが、しかし今ヨクリが飲食しているものは更に上の食材と調理法であると悟らされる。貴族が貴族をもてなすためのものなのだろうか。頃合いの大きさに切り分けられた肉は噛むひまもなく口の中で消え去り、重厚なうまみとソースのコクだけが残され、満足感で満たされる。だからといって腹に重いわけではなく、食後でもするすると入ってしまうくらいに食欲がそそられる。果たしていくらするのか、想像したくもなかった。そういえばフィリルとの飴も結構な値がしたと今更思い出す。
「なんだ、口に合わないか」
その微妙そうなヨクリの顔を訝ったキリヤが声をかけると、ヨクリはぶんぶんと首を横に振った。
「逆だよ。うますぎて、一刻も早く忘れたい味だ。今後に響く」
「そうか」
ふふ、と柔らかく微笑んだキリヤの顔に、ヨクリは一瞬目が離せなかった。——とても久し振りに見た、友の笑顔だったからだ。ヨクリも小さく笑って、キリヤに言った。
「……ありがとう」
言葉だけでヨクリの考えを察したのか、キリヤは笑みをおさめてヨクリをひたと見据える。
「もう、行くのか」
「うん。フィリルに合わせて出ようと思っている」
「ずいぶんと忙しないな」
「そうかな? だいぶ世話になったよ」
ヨクリは苦笑いする。なにも返せるものがないから、これ以上居ると居心地がさすがに悪い。そんなふうにヨクリが思っていると、キリヤの目に力が少し入る。
「私と来い」
その一言に、ヨクリの心臓はどくんと高く跳ねた。
「私と来い、ヨクリ。お前の力はこんなところで燻らせていいものじゃない」
「……買いかぶり過ぎだよ」
ヨクリは高揚したような気分をすぐにおさめることができた。昔よく耳にした、あんまり大仰な物言いだったからである。
「……私に勝ち越しておいて」
「それは違う。あれはまぐれだ。それくらいは俺にもわかる」
図術の腕だけで言えば、話にならないくらいキリヤとは差がある。勝てたのは意表をついた戦術に寄るものと——キリヤの心境が不安定だったからだ。偏に、覚悟の違いだと思っている。キリヤは甘い。自分よりもおそらく。剣を交えたヨクリだからこそ、冷静に判断を下せた。でもヨクリはそれが悪だとも思わない。
「——ずっと、考えていたんだ」
今から弱音を吐こうとしているとヨクリは自身で気付いたが、歯止めが利かない。酒が回りはじめているのだろうか。
「俺はきっと、もっと世界を知らなくちゃいけない。自分がこれからどうなるべきなのか、まったく見えないんだ」
そのヨクリの吐露は、奇しくも少女の言葉と同じだった。
「その答えも、ひょっとしたらきみのそばのほうがはやく見つけられるのかもしれない。……それでも」
このもどかしい気持ちが劣等感なのか、あるいは別のなにかであるのかヨクリには判別できないでいる。フィリルと違ってヨクリはもう大人だ。時はない。ふとした瞬間に、恐怖にも似た焦りが身を苛む。
言いよどんだヨクリにキリヤは瞑目して告げた。
「……すぐにとは言わん」
単にヨクリを気遣っただけなのか、あるいは本当に自分の力を欲してくれているのかどうかはヨクリにはわからなかったが、ただその申し出はありがたかった。
「……時々、きみの顔を見に行ってもいいかな」
「ああ」
まだ昔のようにはいかないけれど、それでも歩み寄らないと関係は良くならない。自然と、キリヤの今もヨクリは知りたいと思った。
■
——翌々日の二十七日、フィリルの出立の日になる。淡い曙光が強くなり始める時間。同日に屋敷をあとにしようと決めていたヨクリは私物を置き忘れていないか、自室で確認していた。意識が戻ってから半月以上もここで暮らしていたから、年末の納税申告に使った収支証明や引具の手入れをするための用具など、少なくない量の書や日用品があった。それらを一纏めにし、支度を完璧にする。そうしていると、扉が鳴る。応対すると、フィリルが姿を見せた。
「おはようございます」
「おはよう」
挨拶して、少女を招き入れる。
「準備は終わった?」
ヨクリが訊くと、
「はい。昨日のうちに」
と、そっけなく答える。フィリルは少しだけ部屋を見渡して、ヨクリの首もとに視線をやったあと、逆に訊ねた。
「首巻きはどうしたのですか?」
「ああ、だいぶ痛んじゃっていたからね。もう捨てようと思って」
度重なる戦闘でヨクリの衣服は摩耗していた。まだ外衣はぎりぎり使える感じではあるが、首巻きのほうはもうだめだった。とりわけスラムの火やキリヤの図術など、熱を浴びたせいで耐久力が大きく衰えていた。
ヨクリは荷袋から首巻きを引っ張りだして、もう一度確認する。やはり、戦闘には耐えられないだろう。
「ずいぶん長く使ったからなぁ」
基礎校を卒業してすぐに買ったものだったろうか。あまりよく覚えていないが、たぶんそのくらいだろうから、四年近く使ったことになる。元は十分とったので、ヨクリに惜しみはない。
しかしじっと見つめるのは、フィリルだった。翡翠色の瞳に、力が込められているような気がする。
「……ええと」
「普通に使うのも、だめそうですか」
「いや、もとを辿れば布だから、防寒くらいにはなるけれど」
ヨクリの仕事を考えると、ただの衣服を持ち歩くほど荷袋に余裕はない。すぐに買い替えようと思っていたのだが——。
「もしかして、欲しい?」
「頂いても、いいのですか?」
すぐに答えが返ってくる。ヨクリは少し思案して、
「首巻きが欲しいなら、新しいものを買うのに」
提案するが、ちょっと視線を落として、少女は黙した。どうやら新しいものが欲しいわけではないらしい。ヨクリは深く追求することをやめて、少女に再び言う。
「わかった。でもこのままじゃ不格好だし、端を裁断してからあとで送るよ」
さすがにこのまま渡して着用させるわけにはいかない。裾はぼろぼろ、ところどころ穴があいている。修繕してもらって、ついでに汚れも落としてもらおうとヨクリは算段した。
「……ありがとうございます」
「いいよ。っと、そろそろ時間だね。行こうか」
「はい」
朝餉の時間だった。ヨクリらは部屋をあとにして、階下へ降りる。キリヤとともに食事をとって一息ついてから、ヨクリとフィリルは屋敷から出る。
朝の日差しは柔らかく、今日も穏やかな気候であった。時折吹く風はまだ冷たいが、気になるほどでもない。この年季のある、しかし趣き深い風情の屋敷もしばらくは足を運ぶこともないだろう。
門まではキリヤの見送りがあった。一言二言フィリルにぎこちなく激励を送って、少女もまたぎこちなくそれを受け取っていた。ヨクリもキリヤと少しだけ話をしたが、重要なことはもう全て終えていたので、それといった滞りはなかった。
そうして、二人駅へと向かう。
キリヤの屋敷の最寄り駅から列車を乗り継いで、レンワイス東端のフェリアルミスに一番近い、長距離列車の運行する東大門に到着していた。
都市内を行き交う列車の乗降口は、大門の場合上階に敷設されていることが多い。ここも例に漏れず、ヨクリらは階段を下り、大門内を歩く。遮壁の中をくり取って建設された内部は外よりも気温が低い。すれ違う人々も手をすりあわせたり、首巻きに顔を埋めたりと寒そうにしている。
階下、一階に降りて、中央にある入出都を管理する行政所に入る。そこで手続き、支払いをし、人でごった返す広場を抜け、長距離列車の乗り場へと赴いた。
駅の歩廊は、長距離列車が吐き出す白煙が下に溜まり、もやのように線路がかすんでいる。掲示を確認し、待ち合わせ場所に相違ないと判断してからヨクリは辺りを見渡す。ややもせず目的の人物に声をかけた。
「お待たせしました」
「おはようございます、ヨクリさん、フィリルさん」
「おはようございます」
ヨクリが頭を下げ、フラウとフィリルは挨拶を交わす。ここからはヨクリに代わり、フラウが首都フェリアルミスへ案内する予定だった。
人ごみを避けるように、三人は壁際に佇む。
もうじきフィリルの乗る列車が出る時刻だった。往来する人の数がどんどん増えていき、停まっている車両に続々と乗り込んでいる。
ヨクリは少女に向き直って、
「いろいろな折りに、手紙を書くよ」
「はい」
声のほうへゆっくりと顔を上げ、フィリルは小さく返答した。声音はざわめきのなかでも、不思議とよく通った。
「……わたし、強くなります」
同じような声量で、しかし瞳に力をたたえて少女はヨクリに言う。
「書だって、これからはたくさん読みます」
口元を緩めながらヨクリはうん、と相づちを打つ。
「……だから、いつか」
少女は一度睫毛を伏せたあと、やおら顔を上げて、
「きっと、きっとあなたの!」
続く言葉は出発を知らせる笛の音に掻き消える。
そして、フラウに促された少女は僅かに眉を下げ、ヨクリを振り返りつつも足早に乗車した。先に少女を乗り込ませたあと、フラウは一度だけヨクリにどこかいたずらっぽく笑ってから頭を下げた。ヨクリも苦笑を浮かべつつ同様にした。
扉が閉まり、一度がこんと眼前の車体が揺れて、金属同士を擦り合わせた轟音を伴いながら加速してゆく。
瞬く間に遠く小さくなる長距離列車を、ヨクリは最後まで見送った。
少しだけ疼くような胸の痛みと暖かさをしっかりと受け止めて、でも、呟いたのは裏腹な言葉だった。
「……背伸びしちゃって」
口元をほころばせながらついた悪態はまだ少女の前では出せない。きっとフィリルも、そしてヨクリも言いたいことの半分も言えていない。でも、今はまだそれでいい。
■
それからヨクリは首巻きを修繕屋へ持っていき、修理と同時に送付する約束を取り付け、替えの首巻きを調達してから依頼管理所へ向かった。ここのところ巷の依頼に疎くなっていて少しでも情報が欲しかったからだ。返却しようとした依頼の金は、キリヤに突き返された。そのときキリヤが真剣な顔をしていたので、どことなく察しつつもヨクリは追求せず、受け取ることにした。そういう経緯があって貯金は以前より増えており、当分羽を伸ばせるだけの蓄えはあったが、少女の手前じっとしてもいられない。
足を運んだ管理所は普段よりもがらりとしていた。この時間帯なら依頼を見繕う業者で賑わっていてもおかしくない。訝ったヨクリは受付に行くより先に掲示板へ向かう。
ややもせず原因を見つけたヨクリは頭のうちで反芻する。
(……人数を問わず、次級業者を急募、か)
どこぞの貴族が合同で——しかも都市外で催し物をするために、腕利き業者を集めているらしい。具体的な依頼内容が伏せられている点が気になったが、しかし報酬額はかなり高かった。どうやらしばらく前からずっと掲示されており、この閑散とした管理所はそれゆえだろう。
ヨクリも依頼に大いに興味を惹かれ、そのまま受付へ話を訊きに行こうと足を向け——ぴたりと止める。
——アーシスのことが気になったからだ。以前の件の顛末は紙にしたためて茶髪の男へ送っていたはずだが、音沙汰がない。ヨクリは、依頼は一旦忘れて受付へ誰かが連絡をとろうとした形跡がないか受付で訊ねてみようと決める。人が少ないため、ほとんど待ち時間なく列が捌け、手早く確認をとった。
しかし、やはりここ一月ヨクリの業者番号へ取り次ぎを申し込んだ業者はいなかった。折り返しの連絡がないということは、アーシスはあれから管理所へ赴いていないのだ。ヨクリはすぐに決める。
(会いに行こう)
理由は判然としないが、今ヨクリは差し迫った事情もなく動きやすい立場だ。フィリルの件でアーシスには大いに助けられたし、顔を出さないのは不義理というものだろう。ついでにこの依頼があったことを教えてみようとヨクリは考えつく。
アーシスの住まいがあるレミン集落は、ちょうどレンワイスとフェリアルミスの中間、リンドの北東に位置する。途中の拠点で降りて、そこから行商などにまぎれつつ集落まで歩く道のりになる。
決断してから、ヨクリはすぐに行動に移った。




