3
斜陽が窓の外から差し込んでくる。フラウとの打ち合わせも半ばを過ぎた辺りだ。といってもさして報告することは少なく、基礎校に到着してからそれほど時間は経っていない。エーテル親和症の改善案や、細かな日程の調整などである。
休日ではなく、職員も多数詰めかけているため小さな用務室での話し合いになった。話題の機密性が極めて高いからだ。人の出入りが少ない場所であるから、清掃が行き届いていないのかわずかに埃っぽい匂いがした。使われていない引具や古い教書など、不要なものの置き場になっている倉庫という体をなしている。紙にものを書くたびにぎいぎいと音が鳴る机と小さな椅子にそれぞれがついて、話は進んでいた。
それまで平然とヨクリらの会話を聞いていたフィリルの様子が変わったのは、内容が転入先に移ったころだった。
「……フェリアルミスだと結構距離があるから、今ほど頻繁には会えなくなるな」
「休暇は基礎校と同じようにありますから、その折りに面会はできますよ」
ヨクリが思いついたように言って、フラウが返す。
「……え?」
少女が大きな瞳を丸くして、ヨクリの顔を見上げた。不意を打たれたみたいな珍しい表情をするフィリルに面食らったのはヨクリのほうだった。行き先は事前に伝えてあったから、なにが疑問なのかわからない。
ぽかんとした顔のまましばし二人は見つめ合っていたが、やがてフィリルが面をほんの少しだけ下げてか細い声で、
「……そうですよね、そうでした」
と口にしてから、再び顔を上げた。感情の揺れはもう見えず、普段の無表情に戻っている。ヨクリはそんな少女に、危機感のようなものを自然と抱いた。
(……なんだ、俺はどんな下手を打ったんだ?)
思考が早回しになる。戦闘の最中とは若干異なった、久しく忘れていた感覚。たぶんこのまま放置すると、なにかよくないことが起こるという直感。しかし原因に思い当たらないヨクリは咄嗟に少女の名を呼ぶが、その先が継げない。
「フィリル、ええと」
ヨクリの言葉を遮ったのはフラウだった。
「フィリルさん」
少女が金髪の職員の顔を見上げると、
「私はもう少しヨクリさんにお話が残っています。もうじき日が暮れますから、先に帰宅しても構いませんよ」
フラウの提案もヨクリには理解できないものだった。少女に関わる話題であるのは明白だったし、そのフィリルに聞かれて困ることもないはずだ。だが、フィリルの返答はヨクリにとっては意外だった。
「わかりました」
すっくと立ち上がって、少女は部屋の扉まで歩く。澱みのない所作だった。ヨクリは思わず声を上げる。
「フィリル」
「一人でも平気です」
さらりとした返答だった。夜までにはまだ時間があり、フィリルは付ききりになるほどこどもでもない。しかしヨクリが引き止めたい気持ちになったのは、最近の少女の性質から察するに、今は理由を問う場面だったからである。妙な違和感が心のなかで渦巻く。
「では、失礼します」
少女は綺麗に頭を下げてから退出していった。ヨクリは喉になにかが引っかかったようなもどかしさを払拭できず、ゆっくりとフラウのほうへ顔を向ける。
フラウが浮かべていた微笑は、ヨクリには思い当たらない質のものであった。柔らかく優しい笑み。
「ヨクリさん」
一つ名を呼んで、
「あなたは、これからどうなされたいのですか?」
問いの意図がヨクリにはわからなかった。ややあって、ヨクリは思考そのままを口に出す。
「ええと、たぶん、また依頼を請けて、都市間を移りながら暮らすんだと思い、ますが」
フラウはふふ、と笑って、
「そうではなく、したいこと、です」
「それは……」
ヨクリは答えに詰まる。顔を伏せたのはうしろめたいことがあったからだ。きちんとした生活を送らず、ただ気の向くままに、まにまにと。業者の社会的地位を鑑みると、とても胸を張れるものではなかった。ヨクリのなかでは、職に貴賎はあるのだ。
「……フィリルさんがどうして気落ちしたのか、あなたにはわかるはずです」
フラウの予想とは異なっていたが、ヨクリはその言葉にすとんと納得がいった。
(あれは気落ちしていたのか)
話題がヨクリ自身のことからフィリルへすげ変わったのには引っかからないまま、ヨクリは声を発した。
「俺のことは、まだわかりません。でも、フィリルの力になりたい。今はそう思っています」
滑らかに舌が回る。フラウは笑みを深くしてヨクリに告げた。
「でしたら、きちんとしませんか」
フラウはヨクリが口を挟む間もなく続ける。
「きちんと結びついてあげられませんか。きっとフィリルさんもそれを望んでいると思います。……そして、これはあなたにしか、できないことです」
すっとヨクリへ差し出されたのは、ヨクリが全く気にかけていなかった、知ろうとさえしなかったものだった。
■
フラウとの話はヨクリが考えていたよりも長引き、屋敷へ戻ると時刻はゆうに十刻を過ぎていた。大きな扉を開けると、たちまち現れた使用人に恭しく頭を下げられ、手荷物を預かられる。やはりヨクリには慣れない。
埃を払って首巻きを外し、広間へ顔を出すとすでに帰宅していたキリヤがカップを傾けていた。夕餉はとっくに終わっているらしい。今日は飯抜きだなとヨクリが内心で落胆していると、こちらに気付いていたキリヤが顔を隣の椅子へ向けた。来い、という仕草。ヨクリは素直に応じる。ヨクリもキリヤに相談したい案件があった。
「お疲れさま」
「お前もな」
互いに労い、ヨクリが着席するとすぐに茶が運ばれてくる。キリヤの屋敷で寝食するようになってから、至れり尽くせりといった具合で、こうしてなにも言わずとも飲み物は運ばれてくるし、いつの間にか部屋の夜具も新品のように綺麗になっている。キリヤからそれとなく堂々としていろというような小言を貰ったが、ぎこちない応対しかできない。
(ただ飯食らいだからな……)
そんなわけで、キリヤからの言葉も嫌味というには大げさだが、居心地は大変よくなかった。ヨクリは心のわだかまりを洗い流すように、茶を一気に呷る。
ふ、と大きくため息を吐くと、キリヤがこちらに横目を使っていた。
怜悧な友の視線は、フラウとの会話で生まれた新しい悩みも、見透かされている気がした。
「話があるんだ」
「……見当はついている」
ヨクリのうちを、おそらくキリヤは正確に把握しているとヨクリは考える。だったら、二人の間に具体的な言葉は必要なかった。
「それに関しては、私が口を挟むことじゃない。……でも、私はそのほうがいいと思う」
「そう、か」
「あの子には?」
ヨクリはちらりと上——少女の部屋のほうへ無意識に首を向けてから、
「今日言われたことなんだ。……それに、俺の力だけじゃどうにもならない。本決まりにならない以上、不用意には伝えられない」
「私が一筆入れれば済む話だろう」
キリヤの台詞に、ヨクリは身を硬くした。
「……それは」
「嫌なのか」
詰まらない矜持だと一笑されるのをヨクリは怖れた。咄嗟にそう感じたということは、つまりそれが真実なのだろう。自分自身に諭され、唇を噛む。
弱さを認めてなお、ヨクリは口を開けない。
なにが答えを淀ませるのかヨクリにもわからなかった。ちっぽけな自尊心さえ捨てられないのか、それともなにか別の要因があるのか、暗い思考に身を沈ませようとしたとき。
「……きっと、頼ることは悪いことじゃない」
口調は静かだったが、どこか柔らかさを帯びていた。
「お前が感じているそれは、私にも覚えがある気がするよ」
その遠くを馳せるような声音に、ヨクリの我執めいた拘泥は払われた。なぜかと深く考える前に、
(本当に醜い。でも、仕方がない)
早々に、ヨクリはキリヤに対する劣等感が原因であると決め打ち、自身を蔑む。そうやってよい可能性を探さずに諦めを優先するのはヨクリの性分だった。
自分が忌み嫌う姿勢が大事なものを見落としてしまうと思い知っていたヨクリだったが、今は構わない。力が足りないのは自分のせいだ。どうしようもない。ならば、すべきことは一つだけだ。
この心が変わらぬうちに、助けを乞う。
(こっちのほうが大事だ。今は……)
責任を果たしたいと思った。少女に自分を重ねてしまったから。
「キリヤ、頼みがある」
「……ああ」
ヨクリの決意を、果たしてキリヤは正しく汲み取った。
■
燭台の灯火が微かに震えると、壁に移った影が揺れる。ヨクリはほうと息を吐いた。
キリヤと話をして四半刻。もう眠っているだろうと思いつつも、ヨクリは少女の部屋の扉を叩いていた。
小さな声で返答があり、ヨクリは扉越しに語りかける。
「起こしちゃったかい?」
「いえ」
きい、と蝶番がほんのわずかに鳴り、少女が顔を覗かせた。
「ごめんね、こんな時間に」
「いえ」
ちょっと話せるかな、とヨクリが持ちかけると、少女は扉を大きく開けて自身の部屋に招く。階下の広間で話を始めるつもりだったが、この室内は十分に暖かかった。フィリルの体を冷やしてしまうのも心苦しいので、本当はよくないと思いつつもヨクリは少女に従う。
備え付けの卓を椅子で囲む。
照明は廊下よりも明るく、机上には書物が広げられていた。見覚えのあるそれにヨクリは感心しつつ訊ねた。
「勉強してたんだ」
「はい」
「偉いね」
「そう、でしょうか」
「うん、俺机に向かうの苦手だったからさ」
ヨクリは少しだけ懐かしさを感じながら教書を眺め、少女のほうへ向き直った。
「フィリル」
一度だけヨクリの顔をうかがった少女は、目を逸らす。夕刻の基礎校からフィリルはヨクリとまともに目を合わせようとしていなかった。
ヨクリが口元を歪めたのは出会った頃とは差異のある反応を少女がとっているからだった。あのときフィリルは抑揚のない態度をとっていたものの、ちゃんと相手の表情を観察していた。今、少女ははっきりとヨクリを避けているのだ。
そうやって素直に感情を見せてくれることが、ヨクリは嬉しかった。
(前の俺だったら、放っておいたんだろうな)
ヨクリは自身も思い返しながら、俯きがちの少女をまばゆそうに見据える。気持ちを伝えるのは、もう難しくない。
「……いろいろ、考えているんだ。こんな俺でも人と話をすると、ああこの人はこういうふうに物事を捉えるんだな、とか周りにこうして欲しいんだな、とかたくさん想像する」
少女は上目遣いにヨクリを見上げた。
「でもね、それが俺の中だけで完結してしまったら、意味がないんだって思うようになった。……俺はきみのことが知りたいし、俺のこともきみに知って欲しい。怒らないし、笑わない」
だから、教えてくれないかな、とヨクリは語りかけた。少女は行儀よくたたまれたちいさな手に、更にくっと力をこめたあと、
「……勝手に、思っていただけなんです」
ヨクリが耳にしたのは涼風にさえ溶けそうな声音だった。
「これからも、ずっとそばであなたが教えてくれるって」
少女の儚い言葉に、ヨクリの心は震えた。
さまざまな感情がせめぎあっている。他者から求められる重圧や、こんな自分を欲してくれる歓喜や、睫毛を伏せる少女の懸命さ。ヨクリは噛み締めるように瞼をきつく閉じ、再び開いた。
「でも、ちゃんと考えたら、そんなことは絶対ないって思えて……それでも、もやもやして、だから……」
細く途切れ、続くことはなかった。自分に対する小さな裏切りを少女はヨクリから感じていたのだ。だから落胆して、ヨクリを遠ざけた。
失望や諦観を、きっとこれからも少女は受けるとヨクリは知っていた。だが、この一つだけは、取り除いてあげたいと強く思う。
「きみに相談がある」
フィリルの瞳は揺れていた。
「先に謝るよ。ごめん、きみの身の上を、フラウさんから詳しく訊いた」
フィリルは未だにエイルーンの姓を使っている。ゲルミスの血が流れているのは疑いようのないものの、公的な書ではエイルーンが用いられていた。そしてそのエイルーン家は戦時中にフィリルを除いて戦死、行方不明になっていることも、ヨクリは基礎校で知った。フィリルの状況は特殊で、本人ではなくエイルーン家に財産が未だ存在し、今まではフィリルが知ることなく、少女の生活費などのために国が使っていたのだという。おそらくゲルミスが手配していたのだろう。
「これを見て欲しい」
す、と少女へ差し出したのは、基礎校でフラウがヨクリに見せた書面と同じものだった。フィリルは言われるまま紙に目を滑らせた。細かな規約や制約が羅列され、それが法に関わる内容であることを少女が悟るにはそう時間はかからなかった。
「これは……」
「うん。”後見人”として、俺を認めてはくれないかな」
ランウェイルにおける制度の一つに、後見人という仕組みが存在していた。親族の居ない未成年に対する制度である。未成年には出都や入都に許可が必要だったり、金商の登録ができなかったりと、煩雑な制限がかけられる。責の所在が本人に問えないからだ。そんな手続きを代わりに請け負うのが後見人の役割だった。
ヨクリだけでは後見人になることはできない。ヨクリは住居も定まっておらず、異性と婚姻関係を結んでいるわけでもない。つまり、社会的後ろ盾がなにもないのだ。ゆえにキリヤに頼んだのは身分証明である。
そして、ほかならぬ少女自身の同意が必要だった。
全てを理解した少女はヨクリに訴える。微々に歪めた表情は、悲しみとも憂えとも異なった顔だった。
「あなたに、なんの利もありません」
当然エイルーンの財産を勝手に持ち出すと厳罰が下されるし、国は補助しない。それどころか今まで租税をおさめる際に諸経費として免除されていた項目も、より厳しく審査、管理される。確かに少女の言う通り、ヨクリの生活が向上するわけではない。
それでもヨクリはフィリルへ微笑んだ。
「……そんなことを言ったら、きみだってそうじゃないか」
「……?」
「俺よりも上手に物事を教えられる人はたくさん居る。でもきみは俺にそうして欲しいって言ってくれたよね」
「……はい」
「損得じゃないんだよ。……それとも、嫌かい?」
ヨクリが柔らかく訊ねると、少女は眉を下げ、大きく首を横に振った。
「……大したことはできないけれど、きみの助けになれる。俺は力になりたいよ。今日言ったことは、嘘じゃない」
言いきると、少女は再び俯いた。しばしのあいだ静けさが訪れ、ヨクリはフィリルの言葉を待つ。やがて紡がれたのはとてもせつなげで、遠慮がちな返答だった。
「……いいの、ですか」
「うん」
「迷惑を、たくさんかけます」
「構わないよ」
「わたしがあなたに返せるものはきっと、ありません」
「……そんなことはないさ」
少女が気付かぬうちに、受け取っているものは確かにある。うまく伝えられないが、ヨクリはそれだけで十分すぎるほどだった。
ヨクリは少女の名を呼ぶ。
「フィリル」
「……はい」
「これからも、よろしく」
腕を差し伸べると、少女はしっかりとヨクリの右手を握りしめた。
「よろしくお願いします。……ヨクリさん」
そしてどちらともなく手は離れ、ヨクリは席を立つ。未だ低頭したままの少女の肩に優しく触れて、
「……それじゃ、明日から頑張ろう」
はい、という少女の小さな返答にヨクリは頷き返して入り口に歩み寄った。
「おやすみ。フィリル」
■
挨拶を残し、青年は部屋から去っていった。フィリルはその背を見送り、廊下を歩く足音を聞いていた。ややあって無音になると、ぽつりと唇から声が漏れる。
「……ありがとう」
返せるものがないとフィリルが言い、そんなことはない、と青年は返した。青年のどんな役に立ったのか少女にはわからない。
だから、フィリルは強くなろうと、新たに決める。きちんとお礼ができるように。自分の望みを叶えてくれる青年へ、感謝を伝えるために。
少女は一度机から離れ、手に荷袋を携え、再び着席する。
取り出したものは、はじめて青年から貰った短刀だった。大事なものを抱えるように、両手で包み込む。揺れる心を落ち着かせるために、柄を額につける。
まだ少女には、揺さぶりの正体がつかめない。怖くないのに鼻の奥がつんと痛いのがどうしてなのかわからない。
燭台の火がちいさくなっても、ずっとそうしていた。
ずっと。
■
次の日からヨクリはフィリルの調練や諸々の手続き、フラウとの打ち合わせでヨクリはレンワイス内を駆け回り、屋敷に居る時間もだんだんと短くなった。
とりわけ少女の”拡散”の習得に期間を大きく割いたのは当然だった。”拡散”自体はヨクリも知悉している通り近接手の高等技法であり、フィリルが完全会得するには至らなかったが、しかしながら引具に搭載されたエーテルを中空へ霧散させるところまでは手順や加減の誤りなく操作できるようになり、”光利刃”の起動に成功する。その過程でヨクリは少女の才覚をまた実感し、技術を際限なく吸収するフィリルの手助けができることに小さな喜びを感じた。
そのかんクラウスは訓練で使用する施設の解錠施錠と少女の体調確認に専心していたようで、取り立てて特別な真似をすることはなかった。なにかの企みがあるかもしれないとヨクリは油断しなかったが、逆に引具の操作に関して分かりやすく助言するなど、ヨクリらにとって有益しかもたらさなかった。
半月あまりヨクリは慌ただしい生活を送り、流れるように日は過ぎ去っていった。
そして、下月 種の二十日。
フィリルの特貴族分校転入が決定し、偶然にも同日、フィリルに対するヨクリの後見人認定の許可が降りたことを、キリヤの口から伝えられる。その日の夕食が豪勢だったのは、キリヤの計らいによるものだった。
少女の行く末が定まり、ヨクリは小さな友人と、一つの契約を結ぶことに成功する。
長い月日を経て、ようやく疑問が氷解した。
少女のために奔走したが、ただの責任感だけではないのはもうヨクリにもわかっていた。己のうちに生まれたこの感情は多分。
あの日海辺で少女たちが抱いたそれと、きっとほとんどかわらないのだろう。
章閑話終了。




