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途上のシャムロック  作者: 納戸
贄のこども
35/96

   5

 後ろに跳躍し、大きく距離をとった。

 背のほうへ走り去るフィリルを気にかける余裕はヨクリにはない。

 舌戦から数合と打ち合わずに、すでにヨクリは満身創痍、無数の傷を受けていた。


「はぁ、はぁ」


 肩で息をしながら、無骨な槍を携える男を睨みつける。ヴァストには、まだかすり傷の一つさえあたえられていない。

 半ば自動的に相手の情報が、ヨクリへ蓄積される。四肢の観察。実際に感じ取った力の量と向きなど。それらがヨクリに絶望をもたらす。


 例えば、教書に載っている基礎的な動き一つとっても個々人によって印象が違うのは当然で、ヨクリも自身の癖や好む距離、太刀筋は当然把握できる限り把握している。あのキリヤでさえ、下段に突く場合は若干上がり気味になるなど、一定の趣向がある。


 この男の趣向は特に異質で、攻撃や防御、回避に間——いわゆる呼吸がない。


 溜めや残心を切り取った挙置、という表現がわかりやすいだろうか。まるで作り物のように、正確に確実に緻密に攻撃を繰り出してくる。腕の振りや足の運びに加減速なくほとんど最大速度で向かってくるが、落ち着いて対処した場合、速さそのものはヨクリにも見切れるのが逆に不気味だった。


 それでいて恐ろしく膂力がある。衝突の瞬間に合わせて飛び退っても、衝撃を殺しきれない。

 彼我の技量差を除いてヨクリが理解した男の特徴は、こんなところだ。


「いくら時を稼ごうと、無為だ」


 ヨクリはぎくりとした。時間が経てば経つほどフィリルは街へ近づき、状況が有利になると思っていたからだ。


「例え外に乞うたとて、こどもの言うことを真に受ける大人など、どこにもいない」

「あんたは、実験をしていたんだろ。それを知れば——」

「知ってどうなる? 私の言葉が一言増えるだけだ」


 ヨクリの目の前はかっと赤くなる。

 握りつぶせるのだ。そうやってずっと少女を弄んできたのだ。この男は。


 噴出した怒りをぶつけるように、ヨクリは問うた。


「ふざけるな……あんたの子どもなんだろう!?」

「親も兄弟も知らぬ分際で、語るな」


 看過しがたい暴言だった。刀の柄を精一杯絞らねば冷静さを保てないほど、ヨクリは心のうちで激昂していた。


(……!!)


 戦争にかかわっていたそのゲルミスが吐いた言葉を、ヨクリは許せなかった。今までずっと抱かないようにしてきた、表面に浮かんでこないようにしてきた、どうしようもない責任の所在をまるで意に介していないとでも言わんばかりに、あっさりとこの男は口にしたのだ。


(お前らがもっとまともなら、記憶を失わずに済んだかもしれないのに……!)


 刀の切っ先が、怒りに震える。


「……あんたは断罪されるべきだ!!」


 感情に任せて口走ったとき、男は距離を詰めていた。


 波立つ心境とは裏腹に、ヨクリは極めて冷静に応じた。回避しようと刃を立て、上体を反らしたヨクリへ、ヴァストは右の腕力だけで槍斧を振るった。精密な見切りが功を奏し、穂先はヨクリの胸を掠めるにとどまったが、男の狙いは違っていた。右から左へ弧を描いたヴァストの右腕の軌道が、突然直角に戻される。ヨクリが刀を下げる前に斧頭の下端に刀身を巧妙に引っ掻け、腰を捻った。


 釣られたヨクリの体に合わせ、左足で踏み込みつつ放たれた男の左拳が右の脇腹にめり込む。


「がっ……は……」


 たったそれだけでヨクリは紙のように吹っ飛ばされ、通路の側面に備えられた落下を防ぐ防壁へ、背中を激突させた。


「それでは弱い」


 男は右側のヨクリに顔を向け、


「断罪されるべき、ではなく断罪する、と言え」


 うずくまって悶絶するヨクリに、ヴァストは近寄りながら冷徹に訂正しはじめる。


「無力な身の上で動物のように噛み付くな。自身は精々明日の食い扶持を浅ましく求めるだけで、僅かでも嫌悪を感じればとたんに泣き、叫び、誰かにすがらねば自我を保てぬ。物事の近場しか見ず、なにが起こっているのか考えもしない」


 伏している場合ではないと、ほとんど床を殴りつけながら、反動をつけて起き上がる。男は間合いを詰めながら、さらに言いつのった。


「されるべき、などという他者に頼った不確かな言葉が口から出ているうちは、なにも変えられない」


 ヨクリは嘔吐きつつも、なんとか刀を構え直した。


「吹けば飛ぶような正義感と自己陶酔でここまでやってきた貴様だが、あれが世にでたとして、どう生きる? 先のこと一つすら見通せず、責任を取ろうとせず、なにひとつ道を示してやれてはいない」


 全てが正論の響きを持っていた。だが、ヨクリは男の最後の口上が痛点を突いていると感じながらも、反発の意志を額に宿す。 


 この男は、フィリルの父親たる資格がない。


 家族を知らないヨクリは、ずっと羨ましかった。


 妹と父親分と、小さな家で食卓を囲むアーシスが。

 家名や叔父を、誇らしげに語るマルスが。

 ——遠い昔に、面映そうに父や母、兄弟たちと門で待ち合わせをしていた、名も知らぬ学生たちが。


 ほんの一時夢想した、暖かい家族。それは理想なのかもしれない。現実は、想像よりももっと醜くて、誰かに聞かれたなら笑われるのかもしれない。だからこそ、ヨクリは、引くわけにはいかなかった。


「望んでそうなったなら、俺が口を挟むことじゃない。……でも、違った。フィリルは言ったんだ。死にたくない、生きたいって……助けてくれって……」


 少女の涙を思い出して、そして、泣くまい、と誓った過去のヨクリ自身を思い出して、二つの像が重なる。


「だから、俺はそれを見過ごせない……!」


 半ば叫びながらヴァストに叩き付ける。受けた男の歩みは、一度止まった。しばし瞑目したのち、ゆっくりと眼を開き、槍を構える。


 上下左右の平衡感覚が、反転したような錯覚を感じ取った。


 転瞬、ヴァストが、無音で、無造作にヨクリの間合いに踏み入った。


(はやい……!)


 先ほどまでよりも、遥かに速度が増している。ヨクリは動きを見留めたと同時に飛び退っていた。

 レリの森で無様に敗北したときとは違い、ヨクリは感情を揺らせつつも戦闘に対しては平静だった。ゆえに、この男の底が見えない。


 ただ、接近戦は勝負にならないことには気付かされていた。

 防御が防御の意味をなさないのだ。でたらめな男の腕力は、刀で直撃を防いでも強引に押し切ってしまう。

 勝機があるとすれば、受けるのではなく避け続け、隙を見いだして一発みまうしかない。もしくは、別の手段を用いるか。


 風切り音と共に、穂先がヨクリの眼前を横切った。遅れて、烈風が顔をなぶる。


(ここだ……!)


 体術が通じないなら、図術で攻める。

 ヨクリは回避の瞬間に、引具に集中し、支配領域を周囲に巡らせた。

 そして展開紋陣を生成——できなかった。


 実時間に換算すると、刹那にも満たない間であった。だが、その困惑を男は逃さない。斧頭側の右手を引き戻し、石突き側の左手を突き出した。


「……!!」


 槍の柄が、ヨクリの脇腹に甚大な損傷をもたらした。

 直撃だった。

 はっと、我に返ったときには、ヨクリの視界は一面空で覆われていた。右手に力を込めて上体を起こす。

 こほ、と意図せずに咳を一つ漏らした。ぴちゃりと、自身の衣服ともうじき色を無くす青銀の床を染めたのは、内蔵からのど元へ逆流した、己の血であった。


 全身に力が入らない。ヨクリはとてつもない虚脱感のなか、ふらふらとなにものかに操られたように立ち上がった。


 そして、遥か前方に”いつのまにか移動していた”ヴァストへ向けて刀を構えようとして、失敗した。


 左腕が肩からあがらない。

 損傷を把握し、漠然とした気持ち悪さがはっきりとした激痛に変質する。

 視界がちかちかと光る。焼けた鉄を押し込まれたように脇腹が悲鳴を上げている。


 ややもせず、ヴァストの姿が至近距離まで近づいてくる。ヨクリは即応すべく、動け、と体に命じるが、まるでついてこない。

 意図しない方向へぐらついたヨクリに襲いかかる刃があった。

 ついで、すぱ、となにかが切り離された感覚。


 中空をくるくると舞ったものに、ヨクリの視線はつられた。自身の左腕だった。切断面から、血液が回転に合わせて飛び散っている。光景に現実感はなかった。


「軽くなったろう」


 ヴァストは言いながら槍を旋回させる。血糊が払われ、床に赤い曲線が描かれた。

 明確な死の予感があった。ヨクリは、しばし体を襲うもの全てから意識を切り離す。


(負けたくない)


 もうじき訪れる決着は避けられなかった。ヨクリは単純に、絶命への恐怖ではなく、敗北を心の底から憎んだ。

 男の両腕がゆっくりともちあがり、大上段に槍斧が構えられた。


 ——背後からかすかに、懐かしい香りを感じ、次に衝撃が体を襲った。



 後方からは剣戟の音が届いてくる。


 フィリルは夢中で、まばたきをするのも忘れて一本の道を走っていた。髪は乱れ、肩にかけた荷袋がせわしなく揺れ動いている。

 身にまとう衣服から微かに香るのは、石鹸と、ほんの少しの煙草と血の臭い。普段はほとんど意識しなかった青年の匂いが、鮮明に感じる。


(足をとめてはだめ、振り返っては、だめ)


 頭を埋め尽くすのは、青年の言葉だった。


 自分にできることをしろ。


 少女にできるのは、一刻も早く街へ降りて助けを呼ぶことだけ。引具がなければ、青年と共に戦うのは不可能だ。それどころか、足手まといになると少女は知っていた。


(——でも)


 この短時間でいろいろな出来事がありすぎて、少女の心は千々に乱れている。

 今日で全てが終わるのだと、そう思っていた。でも、青年がやってきて、少女へ言葉をかけた。助ける、とはっきり言った。

 威圧と、凄然とした双眸を持ったヴァストが行く手を阻み、青年と問答をした。後ろで、父の姿に頭の中が真っ白になりながらも耳を傾けていた少女は、それがとても大切なことのように聞こえていた。


(胸が痛いのは、なぜですか)


 気を抜けば、声が漏れてしまいそうなほど、その問いは濁流のように心を駆け巡る。


 力の続く限り走って走って、距離を一歩でも離すのが最善であるはずなのだが、後ろ髪を引かれるように足は重たい。きびすを返して青年の元へ戻っても、事態は好転しないとわかりきっているのに。


 戦いの行く末が気にかかるのは、青年の安否が、少女にとって無視できないものだからだ。それはきっと、青年の敗北が少女に身の危険をもたらすという事実だけではないと、漠々ながらも少女は感じていた。

 以前までならば己の為すべきことに徹せたのに、今はそれが苦しい。


 そんな自身の変化も、少女にとっては新しいものだった。


 なにかが喉の奥から込み上げてきて、鼻がつんと痛い。冷えきっているはずの体とは裏腹に、全身が火照るように熱い。それらがなぜなのか、少女にはわからない。

 疑問だらけだった。全てが少女の知らないものだ。


(これが、生きる)


 生きることは、選択することだと、黒髪の青年は言っていた。その青年は、自身の父親と戦うと、選んだ。フィリルに逃げろと、そう選んだ。


(わたしは、生きたい)


 もしかしたら、今日のことをずっと、ずうっと思い返して、引き返しておけばよかったと、そう考えるかもしれない。黒髪の青年をつっぱねて、翡翠の海で、終わりまでまどろんでいればよかったと、そう思うかもしれない。


 それでも、少女は疾走した。


 はためく首巻きを押さえつけ、かじかんだ手を握りしめ、雲間から覗く微かな星のまたたきも振り切って、ひた走った。

 刃の交わる金属音が遠ざかり、どんどん風にまぎれていくにつれ、胸の奥がぽっかりと穴をあけられるように空虚になる。けれど。


 小さかった管理塔の中心部が、どんどん大きくなってゆく。そしてようやく、地上へと続く入り口を目視する。速度をさらにはやめると、蹴り抜いたはずのつま先にかかる反発が少ない。気付いた瞬間には、足をとられ、少女はうつぶせに転倒していた。


 顔や髪、青年に借りた衣服が刺すように冷たい水や雪を吸って湿り、床にぶつけた膝や肘が痛む。しかし、少女は両の手のひらをぐっと畳み、力を込めておき上がる。


 再び走り出すのに、もう迷いはなかった。


(あと、少し)


 とうとう四十歩のところまで、扉と距離を詰める。


 しかし。


 少女は停止させられる。


 ——鮮烈な紅の髪を靡かせた女が、そこに立っていたからだ。


 膝下まである、茶褐色の外套。流麗に細い腰には、剣。切れ長の瞼の奥におさめられた瞳は、限りなく夜に近づいているこの闇の中でも、こうこうと深紅を煌めかせていた。


 キリヤ・K・ステイレル。フィリルのもとに辿り着く前にヨクリが退けたという、もう一人の六大貴族であった。


「きみ一人、か」


 キリヤはフィリルの姿を見ると、睫毛を伏せて呟いた。低めの声音は感情を映さない。


「あいつは——ヨクリは、戦っているのか。閣下と」


 少女が挙措を失ったのは一瞬であった。肩にかけた荷袋に逆の手を突っ込み、引っ張りだすと同時に荷袋を放り捨てた。続けざまに、掴んだ短刀の鞘を払い、同じように投げる。両手で握りしめると少女の手で隠れ、柄はすっぽりと姿を消した。


 命を預けるにはあまりに小さく、頼りない。


 青年から貰い受け、荷に入れていた短刀。少女の武器はこれ一つしかなかった。かいなは自然と震え、切っ先が定まらない。少女は眉を目一杯釣り上げて、女を睨みつけた。


 キリヤは少女の必死の威嚇を意外そうに見つめ、次に瞳を揺らした。

 それは遠くを見るようなまなざしだった。


「そうか……」


 静かに頷いた仕草は、得心の色を含んでいた。しかし、少女にはその真意をはかる余裕がない。


「——っ!」


 意を決し、フィリルは体ごとキリヤへと突っ込んだ。女は焦るでも、敵意を向けるでもなく、ただ静かに少女の腕を止めた。

 フィリルがどんなに身を捩り、腕を振り、足を踏ん張っても、拘束は外れない。


「もう、いいんだ」

「……よく、ありません」


 絶念を諭されたと感じた少女は即座に否定する。


「私があとほんの少し視野を広く持ってさえいれば、君がこうなることもなかったんだ」


 言いながら女は腕をそっと解いた。害する気の全くないその仕草に、少女はようやくいくばくかの冷静を持って、緋色の女と視線を合わせた。



 キリヤは一瞬だけ、見紛った。髪の色も顔の造詣も異なっている少女二人を。


 黒色の外衣に身を包み、シャニールよりつたわった剣を構えた青髪の少女の姿が、自身の昔の友人と重なったのだ。

 稼働中の昇降機を尻目に、備え付けられた階段をくだっていた最中につらつらと考え、答えを得るために引き返してきた。


 全ての未練を捨て去ったとしても、戻らないと——見届けないと後悔すると直感したからだ。


 目の前の少女は対の瞳でキリヤを見据えている。ついぞ変化をみなかった少女の表情は無表情を一転させ、キリヤに対する敵意をむき出しにしていた。互いの武装や技量から、絶対にかなわないとわかっているはずだろうに。


 だからこそキリヤは一つの解を得た。


(私は自分の見たもの、聞いたもの以外、信じない)


 上官になにを言われていようと、眼前の光景は現実だった。少女は全身で未来への渇望をキリヤへ伝えている。

 キリヤは少女の刀の切っ先をしばし忘れて、瞑目した。


(すまない)


 キリヤは心のなかで、親友の少女に謝った。すると、どこからともなくいらえが返ってくる。


(構わないよ)


 ずっと響いていた、昔憧れた少女の音。


(きみがどんな選択をしようと、僕はそれを喜ぼう)

(……ありがとう)


 万感の想いを込めて礼を呟くと、こころのうちで少女の声が残響し、染み渡ったあと、やがて消えた。きっと、もう声は聞こえなくなったのだろうなと、そんな確信めいた予感がした。


 目を閉じ腕をだらりと下げた無手のキリヤに、少女は口火を切る。


「通して、頂けませんか」

「……いや。もう、その必要はない」


 答えを返しつつ、未だ僅かに険の残る少女の脇を通り抜ける。フィリルの戸惑いを背中で察しつつも、キリヤは駆け出した。


 久方ぶりに、雲一つない空のように晴れやかな気分だった。長い間苛んでいた迷いが、先送りになっているとはいえ、なくなったからだ。


 腰の剣に手をかけ、強化図術を起動した。世界を置き去りに、キリヤは加速する。濡れた足場と急激に増した力をものともせず、一本の通路を疾駆した。

 二つの影を見た瞬間、かかとを立てて急停止する。


 ——まさに、上官の槍斧が、黒髪の青年めがけて振り下ろされる瞬間であった。


 キリヤは青年の背後に駆け寄り、その襟首を掴んで引いた。ヴァストはキリヤを見留めると、ゆらりと両腕を下げた。

 青年の体はとても軽かった。なんの反発もなく、あっさり仰向けに倒れる。


「キリ、ヤ」


 昔の友の顔は青白く、生命を感じさせなかった。小さく呟いたあと、幻でも見るようなうつろな瞳は、ゆっくりと閉じられる。


 ゲルミスへ刃向かった愚か者だと、ある人はヨクリをそう表現するかもしれなかったが、キリヤにそういった考えが生まれる余地はなかった。むしろ、心にじわじわと満たされているのは後悔だろう。はずれくじをヨクリにだけ引かせる形になってしまったのは、キリヤの怠慢であり、弱さであり、愚かしさだった。

 まだ息はある。キリヤはまさしく、間に合ったのだ。内心で打ち消そうとしたが、安堵はごまかせなかった。


 そして、キリヤは上官へ——ヴァスト・L・ゲルミスに視線を合わせた。突然この場に現れたキリヤにも、なんの感情も見せなかった。寸でのところでとどめを止められた怒りも、疑問もその双眸には映さない。


 しかしただ一言、冷えた声音で言い放った。


「どけ」

「……もう、おやめください」


 キリヤは静かに、上官を制止した。


「二度は言わぬ」

「……これ以上続けるというのなら、私は貴方を軍や議会に報告しなければならなくなる」


 キリヤの明確な拒絶に、ヴァストはほんの僅かに眉を顰めた。口にした言葉の真意を正しく認識しているのかどうか、男は問う。


「弁えているのか」

「はい。……叶えたい夢も、あります。救いたい人も居ます。ですが……私は貴族。弱きものの剣となり、盾となる者。信念を曲げることは、やはりできない」


 上官に今回の件を持ちかけられたときからずっと感じていた、天秤にかけた自分への嫌悪はもうどうしようもなかったが、キリヤはようやく、誇りを取り戻した。


「私が知っているのは、彼女が重要な医療発展に貢献しようと願ってこの状況がうまれた、ということだけ。……それが覆った今、私は貴方に剣を預けられない」


 騙された、と醜く吠えるのは性分ではなかった。結果に目が眩み、少女に確認をとろうともしなかった己の愚かしさについては、上官に責はない。


 しかし、眉宇に力が籠るのを抑えられなかった。


「今一度申し上げます。もう、お止め下さい」


 キリヤの決意を悟ったのか、ヴァストは最後にキリヤに訊ねた。


「高くつくぞ」

「存じております」


 答えの次に男がみせた表情は、形容しがたいものだった。諦観でもなく、落胆でもないなにかであった。上官の相好はほとんど崩れていないが、一番雰囲気が近いのは、先を見通す占術者が浮かべる顔だろうか。


「処理はしておけ」

「畏まりました」


 言い残し、ヴァストは管理塔のほうへ去っていった。キリヤのあとを追ってきた少女とすれ違うが、目線すら合わせずに。


 処理とは、この塔で起こった全てのことについてだろう。黒髪の青年の管理塔への進入については、目撃者が居るのかどうかわからなかったが、内部で図術を使った形跡は隠せない。なにかつじつまをでっち上げる必要がある。


 だが、今は横たわる青年の傷がキリヤには気がかりだった。


 フィリルのちいさな足音は、キリヤらへ近づく。少女は逡巡して、キリヤに声をかけた。


「……あの」


 少女がヨクリのもとへ引き返したのは、状況が変わったのを直感したからだろう。キリヤはフィリルに、短く言った。


「……もう、逃げなくていい」


 聞いたフィリルは、へたりとその場に座り込んだ。


 静かに少女は、泣いていた。やっと訪れた安息を噛み締めるように。


「……私はヨクリを運ぶ。……君もきなさい。ここは、冷えるから」


 はい、と、少女は頬を滑る涙を拭いながら首を縦に振った。



 ——こうして、ヨクリの抱えていたおよそひと月の長い依頼は、終わりを迎えた。





 

 ヨクリが再び目を開けたのは、十五日もあとのことだった。


 窓の外は陽光で満ちている。時刻は五刻を過ぎたところで、天候は回復していた。


 ステイレル家の客室は、とてつもなく広かった。金回りの良い時にヨクリがとる宿の三倍はあろうかという室内。腰掛ける夜具はふかふかで、二、三人は寝転べる。衣装櫃や姿見はみるからに高級そうで、あまり手を触れたくない。そうでなくとも、壁に飾られた絵画や、入り口近くにある壷などの室内装飾は、それ一つとってもまず間違いなくヨクリの残高よりも高価だろうと、素人目にもわかる。さらにいうなら、信じがたいが、ここはイヴェールにある本家ではなく、レンワイスの別宅なのだ。


 正直、落ち着かない。早くも身の丈にあった生活が恋しくなるヨクリであった。そんなヨクリの格好は、修繕された衣服を着込んで、普段通りに戻っていた。ただ、さすがに苦戦や敗北続きで生地の痛みはそろそろ騙しきれない。買い替えの時期にさしかかっていた。


 ヨクリは手持ち無沙汰をごまかすように、荷物や引具の点検をしたり、今後について考えたりして、時が過ぎるのを待っていた。


 なぜ現在ヨクリがよりにもよってキリヤの家を拠点としているのかと言えば、その理由は先日の一件にほかならなかった。

 本来ならばヨクリは管理塔の進入諸々で拿捕されている立場なのだ。全てが明るみになればキリヤや——ゲルミスの都合も悪いらしく、なかったことにするしかないらしい。だから事が落ち着くまでは街中をうろうろできないそうだ。目撃者が居た場合の処理に絡んでいるのだとか。ゆえに、灯台下暗しと言うべきか、キリヤに勧められるがままに、ここでこうしている。


 受けねばならぬ罪ならば受けるべきだとヨクリは思っていた。だが、話をするキリヤを前にして、そう口にしなかった。


 ——正しさを貫くときでも、力は必要だからだ。


(今の俺には、その力がない)


 ヨクリははからず、ぎゅっと拳を握りしめていた。


 考えてこなかった現実が、思い知らせるようにふりかかってきた。ヨクリは確かに、少女を助けたかった。しかし意思があっても、赤髪の友人の言う通り、振り返ってみればただ流されていただけ。

 結局、ヨクリはなにもできなかったのだ。全てを解決したのはキリヤだった。


 唐突に、部屋の扉が鳴った。ヨクリは我に返り、はい、と応答して入室を促す。


「おはようございます」


 姿を現したのは、フィリル・エイルーンであった。丁度ヨクリが没頭していた件の人物。今は基礎校の制服ではなく、ステイレルの家で借りているらしい服を着用している。


 フィリルも、今はステイレル家で寝泊まりしている。理由はヨクリと似たようなものだ。まだはっきりと少女の立場が決まっているわけではないから、身の安全の面でもキリヤのもとに居るのが最良だろうと、ヨクリも思う。


「おはよう、というには少し遅いし、食堂でも挨拶したじゃない」

「そう、でしたね」


 少女は得心したように頷いた。しばしなにかを考える仕草(といっても棒立ちだったが)をしたままのフィリルに、


「なにか用かい? 立っていないで、適当にかけなよ」


 まあ、俺の部屋じゃないんだけれどね、と笑いながらヨクリは言う。フィリルは礼を述べ、ヨクリの隣へすとんと腰を下ろした。


(近い近い)


 互いの間隔は拳一つ分くらいしか開いていない。最近の少女については、ヨクリにもいろいろと思うところがあった。


(近すぎて話し辛くないか。そもそも、異性の使う夜具に不用意に座っちゃいけない。二人掛けの円卓があるんだからそっちに座ればいいじゃないか。いやでも俺が夜具に居たのだから自然か。だとすれば気を遣えなかった俺が悪いのか)


 つらつらと七面倒くさい思考をするヨクリだった。


 あれから目を覚まして三日が過ぎたが、ヨクリに対して、少女はだいたいこんな調子だ。最初は変貌に戸惑ったが、ヨクリはすぐに納得した。


 フィリルは、変わろうとしているのだ。


 たぶん、人への距離感などがわからないのだろう。だからこんなにそばへ寄ってくるし、状況も気にしていない。ただ、何度か顔をあわせたキリヤやステイレル家の使用人には以前と同じくらいの接しかたをしている。ヨクリへのこれはきっと、信頼の証だ。


 ヨクリも少女へはなるべく好意的に思いたいから、なかなか注意もできない。本当ならば、自身が導いてあげるべきなのだが——。


(……ま、当分はいいか)


 そのくらいの時間ならあるだろう。今後ゆっくり教えてあげればいい。


「それで、どうしたんだい?」 


 少女のつむじを眺めながら、ヨクリは訊いた。


「……あれから、きちんとお話していませんでしたから」

「そう、だったね。ごめん、俺のほうからきみを訪ねるべきだった」

「いえ」


 ヨクリは十五日眠っていたが、少女はずっとステイレルの家に居たらしい。三日間も、ヨクリのほうがキリヤへの説明や身辺の整理などで時間を取られ、二人で会話するいとまがなかった。


「……ありがとうございました」


 ヨクリは返答を躊躇した。


 フィリルをきちんと助けたのは、キリヤだ。ヨクリはただ語りかけただけ。だから礼を向けられるのは自分ではない。そんな思いを隠しきれなかった。


 でも、言えない。自身の無力さに対する逃げでしかないからだ。

 だから、こういうごまかししかできない。


「……きみはこれから、たくさんのことを知らなくちゃいけない」

「はい」

「嫌なこともきっとあると思う。それでも、それ以上に良いことがきみを待っていればいいなと、俺は思うよ」


 フィリルはヨクリを見上げた。ヨクリは少女の翡翠色の双眸を真っ向から見据える。


「教えて、くれますか。たくさんのことを」

「ああ。俺でよければ」


 おそるおそる訊ねた少女に、ヨクリは笑顔を返した。



 それとなく円卓に席を移し、ぽつぽつと少女と会話しているうちに、日が傾いてくる。ヨクリの部屋に来客——というには語弊があるが、人が入ってきたのはそんなころだった。


「きみも、ここに居たのか」


 意外そうにフィリルを見つめているのはこの家の主、キリヤ・K・ステイレルである。茶褐色の外套に身を包み、腰に剣を下げている。ヨクリと戦ったときの格好だ。


「キリヤか。……仕事は、大丈夫なのか?」

「その話だ」


 ヨクリは椅子から立ち上がって、キリヤに譲り、自身は夜具へ腰掛けた。キリヤは椅子だけ動かして、ヨクリと顔を突き合わせて座る。

 あれから、キリヤとは互いの情報を伝えあうといった、事務的なやりとりしかしていない。食堂でもほとんど話をしなかったし、ヨクリはいまいち、どうやってキリヤと向き合えば良いのかわからなかった。


 ヨクリは無言で続きを促す。


「おおまかに決着がついたから、もう外出しても大丈夫だろう」

「……そっか」


 ヨクリの与り知らぬ、上のところでなにかが纏まったのだろう。それについて訊いても詮無いことであったから、ヨクリは詳しく問わなかった。


「だから、少し出ないか」


 次の一言は、ヨクリにとっては意外だった。


「ええと、今から外へ?」

「ああ」


 キリヤはこくりと頷いた。

 話したいことがあるのだろう。ヨクリは追求せずに、了承した。


「わかった」 

「できれば、君も」


 キリヤは、フィリルにも同行して欲しいらしかった。少女は一度だけヨクリのほうを見たあと、首を縦に振った。


「わかりました」

「じゃあ、支度が済んだら門へ」


 キリヤとフィリルが退出したのち、ヨクリは手早く衣服を整えて、正門へ向かった。


 門の側でしばし佇立していると、キリヤとフィリルが遅れてやってくる。

 キリヤの案内に従って駅へ向かい、列車を乗り継いで降り立ったのは円形都市レンワイスの西側、都市の食料を賄う、農耕を主にしている区画であった。街の中を歩いて、辿り着いたのはひとつのちいさな橋。


 橋の下は水路が敷かれている。ヨクリが目を奪われたのはさらにその向こうの、緑のさざ波だった。


「この時期にも、まだ残っているんだな」


 風に揺れる一面の緑は、リリス教の象徴でもある、冬期でも葉を絶やさない多年草の三葉(シャムロック)。遥か向こうは夕日を反射し、黄昏色に染まっている。


 ヨクリは寒さを忘れ、見入っていた。


「……昔のお前からは考えられんな。無気力で、そのくせ妙に現実的だったのに」


 ぽつりと今回の件を口にしたのはほかでもない、キリヤだった。ヨクリは目線をキリヤに移して、切り返す。


「きみこそ。大言壮語や理想ばっかりだったのに大人になっちゃってさ……まぁ、良いことなんだろうけれど」

「昔と、真逆だな」


 互いを変えたのはきっと環境の違いだ。ヨクリは昔に挫折して、だから、それを取り返したかっただけなのだ。


 そしてキリヤは、ヨクリにとってはやはり気高かった。


「でもきみは、やっぱりこの子を助けたじゃないか」

「……それは、私のこころに反したからだ。力持たぬ者の剣となり、盾となること。天秤にかけられたのがなんであれ、最後は背を向けられなかった。それだけだ」


 天秤にかけたもう片方がなんだったのか、ヨクリは訊かなかった。それを訊くのが怖いのかもしれない。まだヨクリは全てに向き合えるほど、強くなかった。


「ヨクリ。お前に、助けられた。……無念だがな」

「……違うよ」


 否定せずにはいられなかった。キリヤを立ち直らせたのは、キリヤ自身の強さだとヨクリは知っていたからだ。


「違わない。お前が来なかったなら」

「キリヤ」


 ヨクリは言いきらせる前に被せた。少女の耳にいれるわけにはいかなかった。

 きっと、ヨクリが関与しなかったならば、依頼通りキリヤが少女の教育を引き受けて、秘めた想いに気付いて——止められたと、ヨクリは痛いほど、わかっていた。


「そう、だな」


 キリヤは一瞬だけ過ちを咎められたような顔をしたあと、フィリルに向き直った。


「私は君に、軽々しく謝罪を口にできない」


 少女はキリヤの顔を見つめていた。瞳は僅かに揺れていた。


「だから、これからできる限り手を尽くしたい。……それを、許してほしい」


 それはキリヤの精一杯の罪滅ぼしだった。受けた少女は顔を伏せ、つかの間を開けて、かすかな声音で答え始める。


「……わたしは、あの日まで、ずっと諦めていました。ヨクリさんに自分は生きたいんだと思っていることを知らされて、まだわからないんです。いろいろなことが」


 ヨクリとキリヤは、少女の声を静かに聞いていた。フィリルは面を上げて、キリヤに告げる。


「だから、今わたしがあなたをどうしたいのか、わからないんです。怖いと思っているのか、許したいと思っているのか。……そんな立場なのかどうかも、まだ」

「そう、か」

「……でも、あなたが嘘をついていないのは、わかりました。きっと、わたしのためを考えてくれているって、わかりました」

「君の期待を裏切らないように、努力する」


 二人の間で、手打ちになったらしかった。ヨクリが割って入る必要も、そんな余地もなかった。端で聞いていたヨクリは思わず口にする。


「やっぱりキリヤには、敵わないだろうな……」


 キリヤと同じ立場だったなら、きっと同じようには振る舞えない。

 ヨクリは、ヨクリが子どもだったときに憧憬した曖昧な夢から目を瞑り、耳を塞がなければ立って歩くことさえままならなかった。しかしキリヤはそれを真っ正面から受け止め、矛盾と信念のはざまを行き来しながら、今も戦っているのだ。


 ヨクリはキリヤに心からの尊敬と、ほんの少しだけ、本当にほんの少しだけの、寂しさと憂鬱と、後ろめたさを抱いた。血だらけの心を何度も何度も継ぎ接ぎして、必死に現実と向き合っている。それでいて理想を語った昔のように凛と佇んでいる姿は美しく、きらびやかで。


「私に勝っておいて、良くもまあ」


 ほんのすこしだけ眉を寄せながら言ったキリヤは、昔の面影があるようで。ヨクリには眩しくて––––––––せつなかった。


 ヨクリは再び、緑の海へ顔を向けた。

 しばらく三人で眺め、日が少しずつ落ちてゆく。色がだんだんと暗くなってきたころに、ヨクリは二人を促した。


「……さあ、帰ろうか。俺たちは、まだ続くんだ。これから、ずっと」


 ヨクリの言葉に、フィリルとキリヤ両方が頷いた。夕日に照らされた二人の髪の毛がきらきらとたなびく。 そう。ずっと続いてゆくのだ。これで終わりではない。終わりなどない。ヨクリはマルスに顛末を話さなければならないし、怒っていたアーシスを宥める、という仕事も残っている。いっそ集落に行って、あの愛嬌のある妹に会ってもいい。


 フィリルやキリヤもそうだ。フィリルは学生に戻り、勉学に励むだろうし、キリヤにも軍の任務があるだろう。とどまるものなど一つもないし、とどまる理由も、もうヨクリらには無いのだ。


 ヨクリがそう思考しながら足を踏み出すと、遅れて靴を鳴らす音が二対。身も凍るような寒風も、ゆったりとした足音を聞きながらだと、少しも堪えない。自然と三人横並びになり、ヨクリは二人に悟られぬよう、微笑んだ。


 ヨクリは感慨深げに後ろを振り返る。


 帰路を辿る三つの形影が相伴って、夕焼けの途上に滲んでゆくのが見えた。

一章終了。

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