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真一文字の裂傷は面影すらなく、硝子管は扉の方向の面ほとんどが消失している。管の周囲を囲うように床に敷設された側溝へ、翡翠色の液体が流れ込む水音が室内に響いていた。
きらきらと、気化したエーテルの燐光が辺りを漂っている。そのお陰で、暗闇の量は装置を壊す前とさほどかわらない。
少女の体を受け止めたのが左腕だったため、傷に響いてヨクリは片膝をついていた。格好良くはいかないなと、内心で苦笑いする。
フィリルはすぐに胸を押さえ、苦しそうに眉をひそめてから、顔を逸らして幾度か咳き込んだ。こほこほと、肺に溜まっていた水溶液を吐き出す。ヨクリは逡巡してから、少女の背中を擦った。
様子が落ち着くと、ヨクリは胸に寄りかかっていたフィリルを促し、膝立ちから起き上がった。ヨクリの破壊した硝子片が、靴底でみしりと軋む。
「……立てるかい?」
「……はい」
「足下、気をつけてね」
注意を喚起したものの、破片自体はほとんど砂状になっていて、さらにエーテルの水溶液に流され、危険性は低かった。以前マルスが口走っていた、要因にかかわらず素体の安全を守る、という情報に従って装置の破壊を決めたヨクリだったが、それはこういった切り口にも表れていた。図術士クラウス・ファインは伊達ではないらしい。ヨクリには想像もつかぬ、聞きしに勝る技術力である。
少なくとも二週以上、治癒液らしき装置に浸かっていたフィリルだったが、歩行などに問題はないようだ。ヨクリの知る治癒液は筋力等を維持してくれるので、似たような効能があるとみえる。少女からはあの独特の臭気がしないのは、やはり治癒液とは別の装置であるとあらわしているのだろう。
しかしながら、少女はずぶ濡れであった。髪や肌にまとわりつく水気はまだ暖かみを帯びてはいたが、この室内の温度は外気とほとんどかわらない。
ヨクリは少女を支えるようにして段差を降りたのち、訊いてみる。
「着替えとか荷物とか、この部屋にあるかな?」
「……少し、探してみます」
「ちょっと待って」
下は辛抱してもらうとしても、ヨクリにできることがあった。
ヨクリはフィリルを制止し、腰の革帯と首巻きを外したのち自らの外衣を脱ぎ、首元まで長さのある縦編みの胴衣を晒す。そのまま外衣を少女に渡して、
「ちょっと破れちゃっているけれど、濡れた服は体に悪いから、これで我慢して」
少女は受け取りつつも、破損している箇所に目を留めて、
「……血が」
「ごめん、これしかないんだ」
「いえ、怪我……痛く、ありませんか」
ヨクリはちょっと目を丸くしてから、
「……ああ。さすがにキリヤ相手だと、無傷じゃ済まないからね」
とりあえず、と言葉を切って、
「俺は扉の向こうで待っているから、着替え、終わったら呼んで」
異性の、しかも年頃の娘の肌をいたずらに観察する趣味はヨクリにはなかった。外で待機しようと歩き出そうとしたヨクリの裾を掴む、ちいさな力。気付いたヨクリは振りほどかず、少女に顔を向けた。
「どうしたの?」
「……あの」
俯いて、言いよどむ少女の内心をヨクリは察して、
「居たほうがいい?」
「……はい。わたしは、平気なので」
素肌を見られることよりも、ヨクリが視界から消えることが不安なのだろう。
「わかった。じゃあ、後ろを向いているから」
「……ありがとう、ございます」
ヨクリはくるりとフィリルに背を向けた。衣擦れの音が部屋に響いて、「終わりました」とかけ声がかかり、再度見返る。
少女の着たヨクリの服は、だぼだぼだった。上着ということもあり、かなり丈が余っている。それでも、濡れそぼった服を着るよりはいい。
ふと、少女の様子を見る。濡れた髪がしだれ、瞳は揺れている。留め具はきっちり閉じられていたが、もともと大きく空いている襟から覗く白い胸元は、少女っぽいゆるやかな曲線を描いていて、とても儚げだった。
「これも」
意識から外すように、首巻きを少女に巻き付ける。フィリルは軽装になったヨクリに、ぽつりと言った。
「寒くありませんか」
「きみよりはね」
配慮の言葉に笑顔で返し、少女の荷物を探す。替えの衣服はなく、あったのはフィリルの手荷物のみだった。中身を確認しているフィリルを待ちながらざっと辺りを見回して、他に必要なものを探す。この部屋は中央の巨大な硝子管のほかに、大小さまざまな装置や、天地を這う配線でひしめいており、余剰な空間がほとんどない。ヨクリは見切りをつけ、室内を一周するだけで探索をやめた。
「引具も……ないみたいだね」
「……すみません」
心の揺らぎはまだおさまっていないようで、少女はヨクリに遠慮がちだった。武装していたほうが遥かによかったが、ないものをねだってもしようがない。そもそも、フィリルのせいではないのだ。
「謝ることじゃないよ」
ヨクリはフィリルに気遣ったのち、フィリルが荷袋の口紐を締めるのを見届ける。
「さて、行こうか」
言いながら扉の前へ誘導した。少女はきゅっとてのひらを握って、こくりと硬く頷いた。
一度少女を後退させ、ヨクリは腰の刀を抜く。そうっと開き、素早く切っ先を通路へ突きつける。安全を確認し目で少女を呼ぶと、あとを着いてきた。
微かな光が闇を照らす中、二人は真っ直ぐと通路の奥へ進んで行く。そのかん、口を開いたのは少女だった。
「これから、どうするのですか」
それは当面の問題だった。なんの手も打たないままだと、少女にとってもヨクリにとっても、いい結果をもたらさない。
ヨクリは考えていた案を口にする。
「ゲルミスを、法の下に裁く」
ヨクリは足を止め、フィリルの顔を見つめながら、
「いいかい、街に降りて、もし俺がいないような事態だったならば、誰か頼れる人のところへ向かうんだ。そして、きみが今までされてきたことを、全部話すんだ」
様々な可能性があった。
しかしその中でも、フィリルが連れ戻される可能性。これだけはなんとしても阻止せねばならない。だから、少女が図術実験の検体として用いられていた事実を公表し、個人なり組織なりへ保護を求める。でも、ヨクリではそれができない。
なぜなら、ヨクリはすでに咎人だからだ。六大貴族に刃を向け、管理塔の施設を一部破壊した。それだけで、あまり考えたくないほどの罪に問われるだろう。
目的と付随する確定情報を鑑みると、ヨクリは追手を足止めし、少女を逃がすことに専心するほかない。
そしてその追手は、もう間もなくやってくる。
「きみは、逃げることだけを考えて行動して欲しい」
「あなたは、どうなるんですか」
フィリルはきっぱりとヨクリに告げた。賢いこの少女は、言外にある事実に気付いていた。ヨクリはごまかさずに、正直に言った。
「……たぶん最後までは、きみを守れない。それはとても、心残りだよ。済まないとも思っている」
助けると、少女に約束した。真の意味で果たせないのが、ヨクリは無念だった。それでも、ほかに方法がない。
「それでは、あなたが」
「行こう」
継がせずに遮って、ヨクリは再び歩を進めた。
その場の熱に浮かされているわけではなく、狂ってしまったわけでもない。これはヨクリにとっての締めるところであり、そうしなかったなら、もはや死んでいるのと同義だった。
だから、今はこの少女のために、命を使う。
それに回生の芽がないこともない。少女が運良く逃げ仰せ、ヨクリが生きていれば、罪を免除される可能性も十分にあるのだ。
少女はほんの少しだけ足をはやめてヨクリに追いついた。そして顔を覗き見て語りかけようとするが、言葉にならず、音にさえもならなかった。ふ、と歩行の速度を緩め、ヨクリの後ろを着いていく。
とうとう通路の入り口に到着し、外へ続く扉に左手をかけた時。
ヨクリは、一瞬躊躇した。
本能が告げている。開けてはいけない。
後ろに居るフィリルの呼吸や扉の先の風の音が、やけに大きくそして鮮明に聞こえる。ヨクリは自分が極度の緊張状態にあることを自覚した。抜き身の刀の柄を握りしめる拳は、石のように硬くなっていた。心を切り替えるため、きつく瞼を閉じ、目一杯見開く。
不安をすり消すようにゆっくりと、扉をぐっと押した。
天駆ける風が、あたりを支配していた。雪は止み、夕日は落ちかけている。
フィリルは大きさの合わない首巻きに手を添え、飛ばされないように気を配っていた。上着と首巻きを少女に貸しあたえて身軽になったヨクリは寒さを禁じ得ず、深く息を吐いて耐えた。白い呼気は、瞬く間に消えてゆく。
地上へ続く道の半ば。黄昏と暗闇のはざまに、ゆらりと、浮遊感すらある佇まいが一つあった。
それを視認した瞬間、肌がびりびりとざわついた。
この感覚には覚えがある。
あらゆる生物が持つ、危険を察知する能力。根源的な恐怖感だ。氷の固まりを臓腑に押し込まれたような、外気よりもなお冷たい気配が伝わってくる。
ヨクリは丹田に力を溜め、今にも震えだしそうな体を押さえ込む。刀を正眼に構え、切っ先をぴたりとその青の軍服に据えた。
壮年の男は、悠然とヨクリらを睥睨していた。手には、大柄な男の上背を遥かに越える長大な槍斧を携えている。黒の外套ははためき、裏打ちの深紅を風に揺らしていた。
ヴァスト・L・ゲルミス。
背に受けるフィリルの父親であり、民を統べる強大な権力者であり——ランウェイル最強の具者である。
穂先は下げられ、ほとんど無形の構えだった。だが、男が発する強烈な波動に隙を探す気さえくじかれてしまい、一歩を踏み出せない。
「なにをしている」
抑揚のない声は風を切り裂いてヨクリたちに届いた。一度だけ、後ろで足が擦る音が聞こえ、少女の動揺を、ヨクリは背中で感じ取る。
「答えろ」
ざり、と軍靴を鳴らし男は詰め寄り、二たび言葉を投げつける。威圧感が増し、ヨクリはなんとか踏みとどまったが、今度こそ少女ははっきりと一歩下がった。
男の瞳は茫洋としており、焦点がどちらに定められているのか判別できない。ゆえに、その問いをどちらが答えれば良いのかもヨクリにはわからなかった。
『フィリル、合図をしたら走るんだ。あいつは、俺が引きつける』
小声で少女に呼びかけるが、反応がない。
返答しない少女の表情をうかがうために、ヨクリは僅かに顔を後ろへ向けた。俯き、髪で瞳が隠れている。
『フィリル……?』
再び声をかけると、少女はゆっくりと顔を上げて、瞳を目一杯見開いた。
「ヨクリさん!」
焦りと恐怖の混じった、少女の声音。
弾かれたように正面を向いたそのとき。
——男は、まるで始めから、ずっとそこに佇立していたかのようにヨクリの間合いまで入り込んでいた。
刹那とてつもないおぞましさがヨクリを襲い、全身を総毛立たせる。それは人よりもむしろ、ばけものへ抱く感情だった。焦燥は隠せず、次の挙置へ大きく表れる。
「フィリル、逃げろ!!」
少女へ言い放ち、ヨクリは強化図術を起動しつつ無我夢中で刀を振り抜いた。
金属同士の衝突音。互いの引具が擦過し、あいだに火花が飛び散る。男は刃ではなく、槍の柄でヨクリの剣線を塞いでいた。
残響が虚空へ消えるより前に、斬り結んだヨクリとヴァストの右側を少女は応じて走り抜けた。だが図術によって増したヨクリの知覚からは、もどかしいほどゆっくりと映る。
力任せに男の槍を押さえつけるが、巨大な鉄塊にそうしているように、ヴァストの体はびくともしない。
(いや、それどころか……!)
体重、筋力の差だけではなかった。なぜなら、男の指先さえも、微動だにしていなかったのだから。
すうっと、男の瞳がヨクリに合わせられる。
目を奪われた一瞬で、ヨクリの体は中空に浮いていた。弾き飛ばされたのだと悟ったのは、着地の直前であった。寸でのところで身を翻し、受け身を取って難を逃れる。
ヴァストはもう、ヨクリのほうを向いていなかった。
男の顔の先には、走るフィリルの背があった。
「うおおおぉぉ!!」
裂帛の気迫とともに、ヨクリは弩から射出された矢のごとく、一直線に駆け出した。男へ突進しつつ、刀を前に突き出す。
捨て身の攻撃は、あっさりと躱された。男は流れる水のように身を右にずらし、抜けざまのヨクリに槍を振るった。前方ではなく後方からやってくる死の気配に、反射的にヨクリは体を捩って刀で防御する。
周囲を薙ぎ払うような回転を交えたヴァストの一撃で、ヨクリの体は跳ね飛ばされ、あろうことかフィリルを追い抜いた。
今度は受け身を取れなかった。床に残る雪と解け水に体を滑らせ、前後不覚になる。めちゃくちゃに訪れる衝撃と苦痛。速度がなくなって、よろめきつつ膝立ちで起き上がった時には、フィリルの顔がすぐ側にあった。眉を下げ、心配そうにヨクリを見つめているが、強化図術をもちいているから、声でのやりとりができない。ヨクリは手振りで下がるように指示をだして——
「——さん、ヨクリさん!」
——きちんと、少女の声はヨクリの耳に届いていた。足下に、自身の刀が転がっている。取り落としていたのだ。
気付いた瞬間には、引具へ手が伸びていた。思考を省いたその動きに全身のそこかしこが悲鳴をあげるが、歯を食いしばって我慢する。拾いつつ立ち上がったヨクリは少女に向けて、
「……俺は、大丈夫だから」
言いながら庇うように一歩前へ進めて、再び刀を構える。先ほどの攻防で、互いの背にある建造物が逆になっていた。逃げるには都合がいい。位置取りはヨクリらに分があった。
だが。
(——勝てない)
二度の切り結びで、ヨクリは悟っていた。
正確に言うなら、二太刀目の相手の攻撃で、だ。
剣技がどうとか、読みや間合いがどうとか、そういう話ではない。もっと根本的なところで、ヨクリはヴァストに完敗していた。
具者としての資質。戦闘の総合技量。経験。
ヨクリがこの先いくら修練を重ねようとも到達できない境地の、その更に奥に、ゲルミスという存在があると理解してしまったのだ。
ヴァストはなおも凪いでいた。その冷たい輝きをたたえた瞳で、こちらを見据えていた。
そして、ゆったりとした歩みをぴたりと止めた。
「戻れ」
短い語句だった。正確に伝わっているというこの状態は、ヴァストも強化図術を解除したということにほかならなかった。それはおそらく、絶対的な余裕だった。
「俺たちは、あんたなんかに、用はないんだ」
痛みに言葉を切られながらも、ヨクリははっきりと返した。ヴァストは目を細め、
「貴様の剣からはもはや、なにも感じぬ。悟っているはずだ、幾度繰り返そうと同じだと。なぜ未だ剣を捨てない」
明確に会話をしたのは、これが初めてだった。ヨクリは男の疑問に、絶え絶えに答えた。
「……誇りさ。俺が、俺であるためだ」
頬から顎にかけて、止めどなく流れ続けているのは、ヨクリの血だった。先程の転倒で顔を擦り、右の頬が血まみれになっていたのだ。
「誇り」
ヴァストは呟くように繰り返したのち、
「見境なくその言葉を振り翳す輩ほど、孕んだ脆弱さに気づかぬ。……まやかしだ。か細い心を安定させるためのものでしかない」
「だから必要なんだ。俺は、弱いから。でも、誇りと、ほんの少しの幸せ。それだけあれば十分だ」
男の論が真実であるとヨクリは知っていたが、それでも人は、まやかしやごまかしなしでは生きてゆけない。
欺瞞や虚偽でさえも、自身に向けられているものであるならば、己を助けることだってたくさんあるのだ。とりわけ、ヨクリのような弱い人間にとっては。
「……ならば差し当たり、その誇りとやらをへし折るとしよう」
ヨクリの主張を受け、ヴァストはついに”両手”で槍を構えた。
戦う、という無言の意思表示によって、重圧が、際限なく増してゆく。ヨクリの皮膚はまた粟立った。
体中が痛い。骨折はしていないものの、打撲だらけで、キリヤにつけられた傷も完璧に開いている。そんな状態のヨクリは、しかし背を向けられない。
「見届けろ」
ヨクリにではなく、後方のフィリルへの言葉だった。じりじりと気圧されるように下がっていた少女の足が、影を縫い付けられたように止まった。
「なんの考えももたず、懇願した結果がどうなるのか。選択の末を見届けろ。授かるには尚早だが、初めて得た騎士の果てを。そうして——」
吹き荒れる風が、つかの間止んだ。
「——ようやく、現実を知るだろう」
転瞬、感じていた重圧はごく僅か、自然に漏れ出たものに過ぎないとヨクリは思い知らされる。
男の言葉を皮切りに、叩き付けるように発せられた力の解放は、ヨクリを跪かせようと、断続的にのしかかる。
まさしく、眼前の男とヨクリとでは、世界が定めた魂の位が違っていた。霊魂などという曖昧なものをこれまでヨクリは熱心に信じてこなかったが、そうでなければこの圧力の説明がつかなかった。
「聞くな! フィリル、走れ!!」
「……わたしは」
ヨクリは振り向かずに、フィリルに言い聞かせる。
「きみがここにいて、なにができる!? きみができることが、他にあるだろう!」
その説得に、少女の歩みは再開し、足音が遠ざかっていく。ヨクリはヴァストを睨みつけながら、刀を握りしめた。
陽光はもはや地平線を描く一筋の光となり、暗闇が気配を濃くしてゆく。それにあわせて、ヨクリの心は囚われ、揺さぶられる。
(ここを守れば、俺の目的は果たせる。臆するな、集中するんだ、剣に!)
内心で自身を叱咤し、ヨクリは地を蹴った。




