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途上のシャムロック  作者: 納戸
贄のこども
33/96

   3

 一本の回廊を、疾走していた。


 闇を照らすのは、足下の図術灯のみだ。ひとけはやはりなく、学者の一人として見当たらない。

 寒々しい、青の空間。整然とした壁面と床の模様は、微細なずれさえ生じていない。ヨクリの足音がこだまする以外は、ほとんど無音である。


 左腕は、術金属の鋼糸が織り込まれた上衣ごとすぱりと裂けている。ヨクリの知るキリヤの剣技は刺突が主体で、喰らった攻撃も突きだったが斬撃をうけたような傷痕だった。おそらく刃を寝かせた平突きだったのだろう、その裏打ちされた技術によって繰り出された脅威の刃は、あっさりとヨクリの防具を貫通していた。


 傷は思ったよりも深く、ヨクリの衣服を血に濡らし、床に赤を点々と落としていった。さらにキリヤの図術を半ば強引に突破したこともあり、細かな火傷をいくつも負っている。強化図術を起動すれば痛みは抑えられるが、このあとなにが起こるかわからない。今は使えなかった。


 ひとり置き去りにしたキリヤのシリンダーも、引具さえも奪わなかったのは、ただの未練だった。——再び牙を剥く可能性を無視できない以上、無力化するに越したことはないはずなのに。


(結局、なにも訊けなかったな)


 ヨクリはたぶん、まだどこかで信じたいのだ。自分で全て壊したくせに、いつかまた、あの日のようにキリヤと語り合えるときがくることを、望んでいる。

 傲慢とキリヤに誹られたが、返す言葉もない。


 いつもいつも、自分は中途半端だ。内心でそう自嘲しつつ深手の傷口を右手で覆い、出血を抑えながら進んでいく。


 無我夢中でここまできたが、なにが自身を駆り立てているのか。ヨクリはふとそんな考えを巡らせた。

 キリヤに地に膝を付けられ、それでもう終わった話だったのに。衝動的に、事態を引っ掻き回しているだけではないのか。


(いや、違う)


 はっきりとヨクリは首を横に振った。


 ヨクリには、重要ではない。ヨクリが大切にしていたものはなくしてしまっていて、それでもごく僅か、残ったものを、捨てられないだけなのだ。

 手のうちからすり抜けそうなものを、落ちないように抱え込んでいるだけだ。離せば楽になると、ヨクリはどこかで知っていたけれど——それでも。


 果てがないように感じた道はとうとう突き当たりにぶつかって、思考を止める。

 大きな扉だった。扉の素材も、引具に用いる術金属。部屋全体が装置の役目をしているのだろうか。

 ぐっと、頑丈な取っ手を握り、引き開ける。


 開扉の挙動に合わせて光が薄く、ヨクリへ伸びていく。室内は廊下よりも明るいようだった。

 円形の室内。窓はない。低く唸りをあげる、なにかの駆動音。見回すと、いくつもの不思議な形をした術金属のかたまりが震動したり、明滅したりと、ヨクリの理解が及ばない活動をしていた。


 部屋の中央に作られた円柱が最大の光源だった。淡く発光するエーテルが硝子のような管に、満たされている。

 さながら、円形都市の縮図のようだった。硝子管は管理塔、周りにある装置と思しきものたちは、建物や家々。

 目視を終えて、ヨクリは一歩中に入り、管のほうを向く。閉じた扉から鈍く大きな音が鳴り、部屋に残響した。


 ヨクリは入り口から歩み寄って、その正面に立つ。中央の硝子管、翡翠の海にじわりと揺らぐ小さな影があった。治癒液治療中の人間を外からみると、こんな光景になるのかもしれない。


 その影——部屋の主は長い睫毛を伏せて、両手の指をたたんでいる。扉を開ける大きな音にも気付かず、目を閉じたまま、こちらを見ようとしない。意識を失っているのだろうか。

 その幼く可憐な顔立ちをした少女は、ヨクリの知る人物だった。基礎校の制服そのままに、緑に染まっている。


 ヨクリは床との間にある少しの段差を埋める階段をみっつ、静かにのぼった。そして幾度か中指で、硝子の壁を優しく叩く。


 すうっと、少女の瞼が持ち上がる。


 つぎに、ぱちぱちとまばたきをした。そしてゆっくりと泳ぐように、ヨクリのほうへ体を寄せた。装置に直結している、少女の手足につけられた細い紐が引っ張られる。

 意識しての所作なのかヨクリにはわからなかったが、動揺しているように見受けられる。なかなかこの少女にしては珍しい仕草だった。


 硝子越しにおそるおそるヨクリの顔を撫でた少女は、はっきりと瞠目した。


 ヨクリが覚えていた少しばかりの緊張は、さらりと取り払われる。なにを話したらよいのかとさまざまな思案を巡らせていたが、結局素直な気持ちを伝えるのが一番自然だと、そう思った。


(驚いているなぁ)


 ヨクリは穏やかな気分になりながら、少女に挨拶をした。


「やあ、久し振り」

『…………!』


 声は届くようで、翡翠に透ける少女——フィリルは、びくりと距離を開けた。


『どう、して』


 ヨクリに反応したか細い少女の声は、硝子管めいた装置全体から発せられている。意思疎通が阻害されずにヨクリはほっとしたあと、


「思ったより、元気そうだね」

『どうして、ここへ』

「どうしてって……まあ、いろいろかな」


 問いを曖昧に濁すヨクリに、少女は痛烈に返す。


『要領を得ない返答は、やめてください』


 変わらずいとけなさのない少女の言葉にヨクリは静かに笑みをこぼし、その表情のまま、そうだね、とちいさく呟いて、


「自分でも、もっと上手なやりかたがあったんじゃないかって思うよ」


 話の本質に触れないヨクリに、フィリルはほんの少しだけ柳眉をひそめて、


『そうではなく、理由を訊ねているんです』


 ようやくヨクリは、フィリルの求める答えを差し出す。


「きみの言葉を、訊きにきた」

『わたしの、ことば……?』

「うん」


 頷いて、更に続ける。


「きみが今、なぜここにいて、なにを思っているのか。どうしても知りたくなったんだ。だからここまで、のぼってきた」


 少女は僅かに首を左右に振った。意味がわからない。ほとんど変わらない表情のなかに、そんな色が混じっていた。


『そんなことを訊いて、どうするのですか』

「もう、後悔したくないんだ。……俺自身のためだよ」


 ヨクリは穏やかに答えてから、フィリルに問うた。


「きみは俺と、話をしたくない?」

『……このまま、ここにいると、危険です』


 言外に、安否を気遣うフィリル。その声音は控えめで、消えてしまいそうな大きさだった。ヨクリはやっぱりな、と確信を持って、静かに語りだす。


「昔、助けられなかった人がいるんだ。……その人と、きみを重ねている。ある一面からみると、それは否定できない」

『……』

「でも、さ」


 ヨクリは区切って、


「俺はシャニール人で、あのときにきみが言ってくれたこと、嬉しかったんだ。ぼこぼこにされたけれど、それでも、嬉しかった」

『……あのとき?』


 路地裏での言葉。そのあとの言葉。その無垢な声は、ヨクリの根底にこびりついた泥を払ってくれた。


「あなたは悪くないって、そう言ったよね」ヨクリは瞳を閉じて思い出しながら、「俺は、人に期待を持ちやすいんだ。学生のときも、友達って呼べる人は本当、少なくて。他の人はみんな敵だって思っていた。少しだけ優しくされたら、期待して——叶いもしない夢を見て、そのぶんだけ、自分と他人が嫌いになる」


 ヨクリは緩めていた頬を苦笑に変える。


「……きみの優しさに触れて、懲りもせずにまた、期待しちゃった」


 瞬間、少女の顔が前髪に隠れる。


『……優しくなんて、ない』


 それはとても少女らしい吐露だと、ヨクリは思った。


 でもヨクリには、そのフィリルの気持ちは関係ない。少女の感情が少女だけのものであるように、ヨクリの感情もまた、同様にそうだった。

 ありのままを口にするのに葛藤はなかった。なぜならヨクリはもう、この少女に心を許しはじめていたから。


「俺にとっては、優しくて、暖かくて、うれしかった。————ともだちだって、決めたからさ」


 ここまで来た、その理由。

 胸のなかにある余計なものを全て取っ払ったなら、きっと残るのは、この言葉だ。


『とも、だち』


 まるで初めて耳にした単語を、そのまま口に出しているかのような、途切れた声。


「うん。きみはそう思っていないだろうけれど、俺が勝手に、そう期待した。きみはやさしくてちいさな、俺の友人だって」


 フィリルは下がり気味だった頭をさらにふせ、うつむいた。ヨクリは苦笑顔をおさめて、緑光に透ける少女を見つめる。


「だからもう一度、きみに訊ねたい。きみは、どうしたい?」

『無理、です』

「……無理?」


 ヨクリは、少女が自分に想いを吐き出すのを拒否されたのかとはじめは思った。しかし、次の少女の一言で思い直す。


『不可能です』 


 なにが、と問うのは簡単だった。でも、少女の心は幾重ものいびつにあざなわれた糸にしばられ、直接的に伝えられないのだ。

 ヨクリにも経験があったから、その予想はすとんと腑に落ちた。


 だから代わりに、ヨクリが引き出す。


「ここに、いたい?」


 短いその言葉に、少女の滑らかなおとがいがきゅっと動いた。


「いたく、ないんでしょ? ……このままだったらフィリルは、ずっと閉じこもっているだけ、なんだよね?」


 少女は顎先を上げ、ヨクリを見た。

 閉じこもっているだけ、という表現は、自分で発したにもかかわらず、ヨクリにはとても種々に聞こえた。


「それが嫌だというのなら、ここから連れ出す。俺がきみの味方になるよ。俺の、ともだちだから。……でもね」


 ヨクリが言いつのり、二の句を継ぐ前に少女の双眸を見据える。

 フィリルに手を貸せるのは、ここまで。


「選ぶのはきみなんだ。結局、自分にしか選べないんだよ。他者に委ねることはできないんだ」


 ここからは、少女自身が決断しなければならない。


「選んで、名前も顔も知らない人にすら迷惑をかけて。後悔して、また選んで。その繰り返しなんだ」


 ヨクリもそうだった。ずっと選んで、決めてきて。たくさんの重苦と嗟嘆(さたん)を積み重ね、それでもまた選択して、今日がある。

 昨日とは、選択の結果なのだ。

 人はみな、よりよい昨日を得るために、今日を選ぶ。


「生きていくっていうのは、そういうことだと俺は思うんだ。それでもきみは、生きたい?」


 つかの間、互いの交わす言葉は途切れた。

 そして少女の表情は崩れて——立て直す。


『……たし、は』


 囁きは、全てが言葉にならない。ヨクリはなんのてらいもなく笑って、


「俺に迷惑を掛けると思っているのなら、そんなものは当たり前だと、俺は言うよ。だって、きみはまだ子どもじゃないか。大人を頼って悪いことなんて、なにもないんだ」


 昔、ヨクリがだれかに言って欲しかったこと。ずっと、望んでいたこと。遠い過去の自分に話すように、目の前の少女に託す。


「ほかの誰も、きみには代われない。きみの都合だけを考えて、きみ自身が選びなさい。フィリル」


 そのくらいのわがままをきいてやれなくて、なにが大人だ。ヨクリはくっと、硬く拳を握りしめた。

 そして。

 とうとうフィリルの顔に浮かぶ、明確な感情。


『……にたくない』


 堰を切ったように。赤子が産声をあげるように。


『死にたくない……このまま、死にたくない』


 少女の涙はたちまち緑に消え、姿は見えない。しかしそれでも、目一杯眉を下げて唇を歪め、苦しいと訴えている。


 嗚咽を、あげている。


 少女は、ヨクリの前ではじめて、自らの意思で想いを吐露した。


『ヨクリ、さん』


 名前を呼ばれたのも、はじめてだった。


『生きたいです。もっと、もっと生きたい』

「……俺もきみに、生きていて欲しいと思っているよ」

『……は、い』


 少女は震える声音で応答して、哀願する。


『ここから、出して……助けて、ください』

「うん。いいよ」


 ヨクリはその小さく、そして大きな願いを、聞き届けないわけにはいかなかった。


 泣きじゃくる少女を傷つけぬために一歩下がり、鍔元に右手を寄せ、鳥籠のような硝子の筒に向かって抜き打つ。


 白刃は刹那に消え、びしりと、細い亀裂を穿った。納刀の鍔鳴りと共に、斬り口から緑光を纏う液体が血のようにとろとろと流れ出る。呼応し、序々に広がる裂傷は圧迫されてゆく。表面がきしみ、ぶわりと全体に行き渡った(ひび)は、驚くほど密になり————。


 転瞬、氷の砕けるような、涼やかな音。落ちる粉雪にも似た光片と、水流。


 五感は共鳴する。


 ヨクリは胸元に倒れこむ少女を抱き支えたとき、ずっと自分を覆っていた深く黒い殻の割れる音を、確かに聞いた。

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