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途上のシャムロック  作者: 納戸
贄のこども
31/96

七話 翠に煌めく光

 少女は、視界を横切った泡を無意識に目で追った。

 大型の引具が発する低い駆動音と、こぽこぽという泡の破裂音が、水を通して伝わってくる。それは小さかったが、骨の髄まで震わせる。まるで、全身を満たす翡翠の海と一体化してしまうような錯覚を覚えさせた。


 強い、とても強い眠気だ。瞼は鉛みたいに重く、開けているだけで疲労を感じる。焦点はうまく定まらず、遠くのほうはぼけている。染め上げられた緑と、気泡の白以外は細密に見えない。


(……)


 自分というものが芽生えてから、二年。初めて会った父から放たれた言葉は、少女の心に大きなくさびを穿ち、凍らせた。

 十年。長かった。たくさん、生きた。少女はそう思った。


 今日で、全部が終わる。


 ふわふわとした、希薄な意識。管に繋がれた四肢は気怠さにつつまれ、すこしも動かせない。

 この感覚は、森でのあの瞬間に、よく似ていた。

 緑の光に包まれ、五感が細切れになるような、そんな感覚。


 どんどん自分が小さく、細くなっていって、宙に溶ける瞬間——


 ——声が、聞こえた。


(考えちゃ、だめ)


 反射的な制止は、失敗に終わった。急速に戻った思考は、まどろみのぶんを取り返すかのように、早回しになる。

 赤毛の女性は言っていた。”私が斬った”と。なら、あのとき、最後まで森に居た。気を失う前まで、視界に入っていたということは。


 ——あの声は、黒髪の青年のものだ。


 いつも柔らかくて、ほんのすこしだけ険のある、そんな声。でも、あのときは気持ちを隠さない、必死な声だった。なぜ?


(だめ——)


 ぎゅっと、右手を握りしめる。

 これからよろしく。そう言った青年と交わした握手を思い出す。ごつごつしていて、剣の修練でできた肉刺(まめ)がぼこぼこしていて、大きかった。温かかった。


(言うことを、きいてください。おねがいだから)


 期待しても、誰もこなかった。ずっとまえに覚えた、ただ一つの、経験。

 だから待たないって、そう決めた。ずっとまえに誓った、ただ一つの、約束。


 天地に伸びる管が揺れているのは、大きな引具が駆動しているから。泡がぼやけているのは、下から光が当てられて、眩しいから。


 だから。


 ——腕が震えているのは、自分のせいじゃない。



 ——上流層までやってきた。好転を見せたかに思えた天候は僅かに悪化し、再び空を雲で覆いはじめていた。向かって暫くして降り出したのは、儚い氷の結晶。


 粉雪は、体の芯まで凍えさせる冷気をともなってはらはらと舞い落ちてきていた。

 ヨクリは頭に叩き込んだ道を迷わず、油断なく進んでいた。


 発つ前に、外套で顔を隠そうかどうか悩み、止めた。代わりに経歴書を新調し、携えている。シャニール人が上流層をうろついているのはあからさまに怪しい。だから、声を掛けられたら経歴書を掲げつつキリヤの名前を借り、やり過ごす算段だった。


 いくつもの辻を駆け、術金属でできた建物の区域も半ばまで抜けると、柱と屋根のついた、王宮や屋敷の廊下のような道に差し掛かる。ここまでは正しく進めたようだ。頷きつつ一歩踏み出そうとして、


「あの」


 背後から呼び声がかかった。ヨクリ以外の人影は周囲にはない。自身に投げられているものだと瞬時に悟る。

 正直飛び上がりそうなほど驚いたヨクリだったが、冷静に右へ見返りながら刀の柄を自身の体で隠し、左手で鍔元に触れ、相手の顔を見た。

 そして目を見開く。


「フラウ、さん?」

「ああ、やっぱりヨクリさんでしたか」


 予想していない人物であった。


 フィリルの担当教官、フラウ・リズベルである。金髪を後ろで括った髪型。温かそうな外套に、簡素な革帯。堅苦しくない、私服姿だ。腰には装飾の施された片手剣が鞘に納まっている。前に見たものとは違うので、おそらくフラウの私物だろう。


 なぜここにいて、ヨクリに話しかけるのか。全く意図が読めない。ヨクリは頭を早回しにして相手の出方を計算し、その対処も考える。


「こんなところで、偶然ですね」

「ええ、正直驚きました」


 適当にフラウの話に乗りながら、様子見に仕掛ける。


「なぜ、こんなところに?」

「知人に呼び出されて。私も、あまり来ないところなので、少し見て回ろうかと思いまして」

「中流層が長いと、この辺りは珍しいですよね」

「そうなんです」


 互いに笑みをたたえつつやりとりする。今のところ、他愛ない世間話だ。


「……」


 会話が続くかと思ったら、唐突に途切れる。


 そのままひたりと、フラウはヨクリを見つめていた。この表情は知っている。業者が業者を品定めするときの、偵察の顔だ。

 じっとりと、嫌な湿り気が背中を満たす。


 ——フラウは帯剣している。こんなところで立ち会えば、たちまち誰かが駆けつける。妙な動きをするようならば、先手を取って一発で気絶させるしかない。


(……できるか?)


 おそらく彼我の力量差はさほどない。以前みた構えからはそう感じた。だが、戦力差が逼迫しているということは、手加減がきかないと置き換えられる。鞘を握った左手は、すでに汗まみれだった。


「……それでは、私はこれで」

「ええ、また」


 軽く答えたヨクリだったが、内心では拍子抜けしつつも、緊張を解かぬように気を張っていた。怪しんでいたのか、そうでないのか。見切るにはまだ早い。

 くるりと背を向けたフラウは、中流層の方角へ歩き出した。ヨクリはその背中をじっと見据えている。


(……いまなら)


 いける。だが、そんなヨクリの考えを打ち消したのは、ぴたりと足を止めたフラウだった。


「ヨクリさん、また、お会いしましょう」


 その笑顔に、敵意はなかった。返答する前に向き直って帰路につくその姿も、ヨクリを信頼しているかのように無防備だった。

 だから、刀を抜けなかった。


 ヨクリは硬直したまま、フラウの姿が消えるのを眺めていた。吹き出た汗が体を冷やし、ぶるりと一度震えたところで我に返る。


「……行こう」


 ヨクリは自身に言い聞かせ、振り返って塔のほうへ歩を進めた。

 屋根のある、柱廊めいた道に踏み入ると、一度頭を振るい、肩をはたいて雪を散らせる。早足で歩みつつも、周囲への警戒を強めた。いくつも伸びる柱が視界を遮って、見通しが利かないからだ。

 こつこつ、という自身の靴音がやけにはっきりと耳を打つ。

 幸運にも、一人としてすれ違わずにくぐった先、視界を覆いつくすのは青銀の巨壁。


 管理塔である。

 ここまで近寄ったのはヨクリも初めてだった。自分が小人になったかのような錯覚。見上げていると、あまりの巨大さに平衡感覚が狂う。


 根元まで辿り着き、入り口上の鉄板に、無骨に刻まれている文字を確認する。

 南南東、二十一昇降機。ほかの出入り口よりも極端に小さく、塔からいくつも突き出ている凹凸の影に隠れ、全くと言っていいほど目立たない。ヨクリには稼働していないというのもわかるような気がした。


 ヨクリの目指す場所に相違なかった。決心し、開扉する。


 細い通路は一本道で、足下を照らす僅かな図術灯のみだった。人払いがされている可能性はかなり高い。だがヨクリは油断せずに、いつでも剣を抜けるように気を張る。

 突き当たりは、天井のぶち抜かれた吹き抜けだった。左右に道がわかれていて、正面の壁と思しき青銀のかたまりは、管理塔の芯の部分と見受けられる。

 通路と芯の間には少しの遊びが設けられ、欄干で仕切られている。目を凝らして観察すると、内部全体はほんの僅かに湾曲しており、管理塔を形作る円を彷彿とさせた。


 左の道を行った先は、行き止まりになっていて、埃が堆積していた。引き返すと、右手——やってきたほうの壁に、扉があった。ヨクリはそうっと開いて、進入する。


 中は小さな空間だった。奥になにもなく、まさにただの部屋である。


(……?)


 きょろきょろと辺りを確認するが、やはり通路はない。一旦戻ろうと考え扉のほうを向いて、あ、とヨクリは気付く。


(昇降機って書いてあったな)


 階段やはしごのたぐいも見当たらなかった。だとすると、部屋自体が動くのだろうか。つぶさに調べていくと、扉と隣接する壁面の右に、突起が二つ出ている。形に差異はない。

 壁との隙間が僅かにあり、簡単に押し込めそうだ。


「……」


 ヨクリは深呼吸し、二つあるうちの右側を押した。瞬間、がごん、と大きな音を立てて、部屋が激しく揺れる。


「うわ!」


 咄嗟に声をあげてしまい、ヨクリの心臓はばくばくと鼓動をはやめた。

 しばしびくついていたが、待てどもなにも起こらない。


「……あれ?」


 押してはいけないものを押してしまったのか。ヨクリには判別できない。

 訝ったヨクリは、また暫くじっとしていたが、とうとう痺れを切らし、やおら押してないほうを押した。再びがごん、と部屋が鳴り響き、妙な浮遊感があって、駆動音が聞こえはじめる。


「あ、上下……」


 ひとりごつように呟いた声が、むなしく部屋を埋めた。最初に押したほうは下へ向かうためのものだったようで、これ以上下がれないから、揺れただけで動かなかったのだ。


 一拍置いたのちの、わかりやすく上と下につくっておけよ! という若干の憤りは、のど元からあがってはこなかった。


 フラウと昇降機、二回も無駄に冷や汗をかいてしまい、なんだか損をしたような気分になったが、ヨクリは即座に気持ちを切り替える。


 静かに上昇を伝える室内。のちに備え、ヨクリは瞑目し、集中した。


 一度、深呼吸する。

 ヨクリの心はざわついていた。まるでおとぎ話に胸を躍らせる少年のような、あるいは、夜闇に怯え、泣き出しそうな気持ちを必死で押さえつける少女のような。相反した二つの心情がぐるぐるとヨクリの中でせめぎあっている。

 ここまでくれば、することはもう決まっている。再び、ヨクリの心臓は早鐘を打ち、どきどきと高鳴る。


(結構。結構なことじゃないか)


 ヨクリの気分は良かった。ここで終わるならそれまでだ。なぜだか無理なくそう思えた。

 再び部屋が大きな音を立てて、ぴたりと奇妙な感覚が止む。がしゃんという、扉の向こうで聞こえる金属音は、鍵が外れたことを意味しているのだろう。


 ヨクリは瞼をあげ、進む。再び道は別れ、右に扉、左は下りの階段になっている。昇降機が故障した際に使われるのだろうか。なんにせよ、今のヨクリには用がない。


 ヨクリはおそらく外へ出るであろう、扉を開け放つ。


 瞬間、ざぁ、と、強い風が吹き抜ける。ヨクリの身につけている先が少し焦げ付いた首巻きが、ばたばたとせわしなくはためいた。思わず腕で顔を庇う。風に慣れると、ヨクリはゆっくりと両腕を下げた。


 空が、とても近い。幸い空全体を雲が埋め尽くすことはなく、眩い夕日が、雲間から辺りを照らしていた。この高さからだと、円形都市の全貌が把握できる。塔の周辺に上流層の青、その周りに中流層の木材、石材、さらに黒っぽい下流層。そして、街全体をぐるりと囲う遮壁。


 広大なセラム平野の地平線と、聖峰フェノールの山稜までもが一望できる。ヨクリは刹那その光景に目を奪われたが、ゆるく首を振って正面に向き直った。

 足下は、薄く雪が積もっている。昇降機に乗っていた時間はあまり長くなかったように感じたが、どれくらい経っていたのだろうか。ヨクリにはわからなかった。


 一歩ずつ、足場を確認しながら進んでゆく。不思議なことに、つるつるとした素材に見受けられたが、雪が積もっていてもなお、思ったほど滑らない。雪のあいだからちらちら見える床面は、溝が均一に刻まれている。加減を調整し、どの程度の力で足を取られるのか把握しておく。

 ただ一本の青銀の通路は、幅がかなり広い。道の両脇には、落下を防ぐための防壁が沿い、目線の遥か向こうまで続いていた。


 管理塔の巨大な幹から突き出た、一本の枝。ここは、そう表すのがわかりやすいか。枝先にある建物は、昇降機の位置からだと小さく見えるが、おそらくはそこそこおおきな施設なのだろう。


 ——あそこに、フィリルが居る。


 ひとしきり歩いて、ヨクリは足を止めた。道の中央に揺らめく人影。ヨクリは目を細め、再び数歩詰め寄って、その正体をはっきりと捉えた。


 人影は、頭をすっぽりと覆う外套を、ばさりと脱ぎ捨てた。ふわりと、二つに結わいた髪の毛が風に遊ぶ。


「ぎりぎり、か。相変わらずだな」


 独り言めいた色。

 女性にしては低音の、こなれた声がヨクリの耳朶を打つ。


 ヨクリを待ち受けていたのは——緋色の髪の、昔の友だった。


「キリヤ……」


 ヨクリはその名を呟く。

 冷えきった空気の中、ひとり佇んでいたのはキリヤ・K・ステイレルその人だった。予想が当たって嬉しい気持ちと、外れれば良かったという無念の気持ち、両方が去来する。


 警邏の人間が居ないのは、伏日だから、というだけではない。——この施設までの一本道を、凄腕の具者が守護するだけで、事足りるからなのだ。無駄に情報を撒き散らさず済む。


 ゆらゆらとキリヤのふたつの赤毛が風にたなびき、粉雪がきらきらと、周りを舞っている。ヨクリには、それがとても寂しげに見えた。


「なにをしにきた」


 キリヤは鋭く、ヨクリへ問うた。


「知りにきた」ヨクリはいらえを返しつつ、「通してくれないか、キリヤ」


「……愚問だ」

「……そう、だね」


 拒絶の言葉に、平坦に応答する。


 ヨクリはあの頃のように、キリヤを真っ直ぐに見た。感情のみえない端正な顔は、景色と相まってとても美しかった。


 一歩、前へ出る。キリヤも同じように、足を運んだ。ほとんど同じ間隔で縮まる、二人の距離。皮切りに、合わせるように、互いに歩き出す。


「……大敗を喫しておいて。拾った命が惜しくはないのか」

「……どうなんだろう」


 ヨクリは曖昧に返した。

 もう、互いの口元の動きがわかる距離まで縮まる。キリヤが薄く唇を噛むのを、ヨクリは見た。


「もし、ここを通ったとして、そのあとは? ……お前はなにも考えていない」

「俺はただ、知りたいだけだよ。きみがなにを考えているのか。……フィリルが、なにを考えているのか」


 ヨクリの声音には、懺悔のような色が混じっていた。


「……知ることが前進に繋がるとは、限らん」

「そうだね。……でも、なぜだろうな。どんな結末になろうと、ここにきたことを、きっと俺は後悔しないと思うよ」


 薄く口の端を上げたのもつかのま、笑みをおさめる。


「たぶん、あの子のためじゃなく、俺のためなんだ。……だから」


 切って、ヨクリは足を止めた。そして、真剣に継いだ。


「だからキリヤ。話してくれないか。全てを」


 刹那、ヨクリの願いを耳にしたキリヤの歩も、ぴたりと止まった。図術を起動すれば、丁度一足一刀の間合いだった。

 しばし、吹き抜ける風の音が二人の間を支配した。キリヤはほんの少しだけ俯いて、ぽつりと一言呟いた。散ってしまいそうな声は、しかしヨクリの耳朶にはっきりと届いた。


「……あのとき、同じようにそう言った私に、お前はなんと答えたか、覚えているか」


 突き放した言葉に、ヨクリは一瞬思考を放棄した。

 次いで、遠い昔を思い出す。そして。


 ——捨てたのはお前だ。あのときも、そして、今も。


 キリヤの、森での言の葉が、ヨクリの脳裏を掠めた。


「そう、か」


 ヨクリは悟った。そして、すぅっと、思考が鮮明になっていくのを感じた。言った言葉は、同じ言葉では取り消せない。


 だったら、もう。


「……わかった、キリヤ。……阻むなら、斬る」

「やってみろ、負け犬」

「……せいぜい噛まれないように、気をつけなよ」


 ヨクリはキリヤの売り言葉を盛大に買った。キリヤは本当に一瞬だけ顔を歪め、元の無表情に戻したあと、しゃらりと腰の剣を抜いた。

 先日とは違う、分厚い刃のついた直剣。青みがかった刀身が、ぎらりと、不吉に夕日を反射した。

 新調されたその剣はヨクリを確実に仕留めるためのものなのか、それとも——覚悟を固めるためのものなのか。


 そんなとりとめもないことを思いながら、呼応するようにヨクリも抜刀する。鞘走りの音が涼しげに響き、風の中に消えた。


「ここは、通さない。……絶対に」

「うん。通るよ」


 ひとひらの雪が間を横切ったとき、二人は同時に駆け出していた。

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