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途上のシャムロック  作者: 納戸
贄のこども
30/96

   5

 たどり着いた時、息は上がりきって、燃えるように体は熱かった。額から流れ出る大粒の汗に煤が溶け、指で撫でるとざらつく。

 乱れ髪をととのえ、衣服の汚れもはたいて、僅かばかり身繕いする。


 十刻半。規則正しい人間ならば、もう寝台で夢うつつだろう。呼吸を整えたヨクリは、扉のたたき金を叩いて応答を待った。予想に反してすぐに顔を出したのはヨクリのまみえたい人物に他ならなかった。


「……来ると思っていたよ」


 理知的な声音は、驚きも呆れもなく、ただただ平坦だった。ヨクリは少しだけ目を伏せたあと、マルスの案内に従う。しかし、後ろをついていった先は、見覚えのない部屋の前だった。


 金髪の青年が振り返り、ヨクリへなにかを放る。反射的に受け取ったものは、清潔な綿布だった。


「まず湯浴みしろ。君の格好は、あんまりひどい」


 扉を開けられ、備え付けられた鏡を覗き込むと、


「うわ」


 煙突掃除を終えた奉公の少年のように薄汚かった。マルスは肩をすくめつつ、扉を閉めてヨクリをひとりきりにする。


 ヨクリも青年の家をいたずらに汚すつもりは毛頭ないので、言われた通りに身を清める。四半刻程度で終え、部屋を出ると青年の姿はなかった。家の人たちは上階の寝室だろうから、話をする上でマルスの自室ではなく、おそらく作業部屋だろう。


 作業部屋の入り口で、後方から声がかかる。茶器を乗せた盆を携えたマルスだった。


「済まないが、開けてくれないか」


 両手の塞がったマルスのかわりに扉を開け、ヨクリは適当に、長机を部屋の奥から引っ張りだして、空いた椅子へ座った。マルスは机に茶を置き、支度をする。


「ごめん、こんな時間に。お湯まで借りてしまって」

「構わないよ」


 使用人も寝静まっているのだろう。だからマルスが自身で茶の準備をしてくれたのだ。さりとてヨクリにも後回しにできない事情があったので、口だけの軽い謝罪にとどまった。

 マルスは空のカップに、茶を注ぐ。二人分だ。余分に一つあるカップが誰のものなのか、ヨクリは問わなかった。


 部屋を見渡すと、やはりいつも通り散らかっていた。木材、石材は部屋の隅に。本棚には書物がぎゅうぎゅうに詰められ、逆さになっているものもある。普段使わず、導線でもない床には埃が薄く積もってる。

 この都市で唯一慣れ親しんだ場所だと言っても過言ではない。そんなしんみりした感情が、唐突にヨクリの胸を襲った。

 ポットをごとりと置いて、口火を切ったのはマルスだった。


「しかし、鴉の行水じゃあるまいし、もう少しゆっくりしててもよかったものを」 

「なかなか汚れが落ちなくて手間取ったから、結構かかったよ?」

「加味したうえで言ってるんだ」

「長風呂の習慣なんてないって。ああ、でも鴉ってのはいいね。髪も黒いし」

「なるほど。そのずぼらに乾いてない髪は、まさしく鴉の濡れ羽色だな」

「……そんな色気もないけれどね」


 茶を啜りながら軽口をたたきあう。会話が途切れたとき、ヨクリは笑みをおさめて、一言告げる。


「管理塔には、どうすれば入れる」

「それを訊いてなにをする」


 間髪入れないマルスの質問返しに、ヨクリは正直に答えた。


「知る。今度こそ全て、教えてもらう」

「誰に」

「二人に。——キリヤと、フィリルに」


 キリヤが居るという十分な証拠なんてどこにもなかったが、ヨクリは半ば確信していた。赤毛の女は、たぶん最後まで少女の側で、結末を見る。

 マルスはそうか、と呟いて、


「……なんらかの情報を得たらしいな。火事があったくらいにしか耳にしていないが。まあなんにせよ、無事でよかったよ。アーシスも?」

「うん。無事だよ。俺と違って、ほとんど煤も被ってない。一人取り逃がしちゃったけれど、依頼は多分成功」


 先刻の話に繋がる。


「古物を持ったほうが、いろいろと喋ってくれたよ。……だから、俺は」


 マルスは諦めたようなため息を吐いた。


「……この期に及んで管理塔へ行く意味がわからない君じゃないだろう。けしかけられたか」

「……そう、かもしれない。でも、ここで動かなかったらきっと俺は後悔すると、確信しているよ」


 ヨクリが吐露すると、金髪の青年はヨクリの心情をあまさず理解したようだった。


「……わかった。僕も、無関係じゃないからな」

「……?」

「これは君に昨日言えなかったことだ。……叔父が、一枚噛んでいる」

「クラウス卿が……」


 ゲルミス、ステイレルに続いて、図術士の名が出ると、ヨクリは驚きを禁じ得なかった。マルスから訊く限りでは、実験などしない、高潔な人柄だと伺っていたのだから、なおさらだった。


「……済まない。どんな理由があろうと、叔父はしてはいけないことをした」


 ファイン家内部の事情だ。友人とはいえど、部外者であるヨクリに対して口が重くなるのは仕方がない。ヨクリは小さく首を振って、


「もう、いいよ。俺が訊きたいのはどこにフィリルが居て、どうやれば入れるか。この二つだけだ」


 マルスはまた複雑そうに頷いて席をはなれると、壁際に立てかけられていた大きな紙筒を机上に広げた。いくつもの線が規則的に引かれ、紙を埋めている。中央の大きな円と、小さな円がとりわけ目立つ。これらの円を中心として図や文字が記されていた。


「君たちが依頼に行っている間、調べておいた」


 真上から見た管理塔の地図だ。マルスは円の外周をいくつか指差して、


「……いくつも稼働している施設のうち、長く使われていない施設が何カ所かある。——そのなかのどこかに、おそらくエイルーン嬢は居るだろう」

「かたっぱしから当たってみるしかないか……」

「いや」


 マルスの指先がぴたりと止まり、


「管理塔は各都市の議会が管理している。いくら六大貴族とはいえ、ゲルミス閣下が私的に動かしていいものじゃない。おそらく公にできないことをしているだろうから、余計にな。だから、僕はハト派の貴族の系列が担当している部署を調べた。結果、除外されたのは二カ所」


 とん、とん、と指差したのは、丁度点対称の位置。遠いな、とヨクリは咄嗟に当たり前のことを思った。


「……そしてその二カ所のうち、より深く教会に通じているのは、こっちだ」


 南南東を示したマルスに、


「伏日だね」


 ヨクリは教会という単語に反応して首肯しつつ、思考を整理する。


「実験をしていたとして、いつ始まったのかはわからないけれど……」

「終わらせるのは多分伏日の間だろうな。片付けを人目につかずにできて、痕跡も残らない」

「うん」

「南南東、二十一昇降機からあがった先の施設で、おそらく間違いないだろう」


 ヨクリは頭に焼き付けるように地形を記憶する。


「……あとは、俺がうまくやるだけだ」


 自分に言い聞かせるように独白するヨクリに、マルスはおもむろに立ち上がって、背を向けた。


「どうしたの?」

「そろそろだろう。迎えに行ってくる」


 顔を上げて問うたヨクリに簡潔に答え、退出した。足音が遠ざかり、ややあって、再び帰ってくる。だが、音が一人分増えていた。おそらく——。


「……よう、さっきぶりだな」


 金髪の青年とともにはいってきたのは、アーシスであった。声は暗く沈んでいる。


「後始末、押し付けてごめん」

「かまわねえよ。オレの仕事だったからな」


 やりとりも硬かった。長机を囲み、三人が着席する。マルスが残りのカップにポットを傾け、アーシスへ差し出した。

 一息ついてから、ヨクリはアーシスへ話しかける。


「あのあと、どうなったんだい」

「火が消えてからになるんだと。……死体と引具を取り敢えず探して、そっからまた調査するらしいわ。時間も時間だしな」

「だろうね」


 妥当なところだった。

 しかしヨクリの同意に、アーシスは目を細めて問う。


「ってことは、たいして時間がかからねえことくらいはわかってたんだな」

「……ああ」


 ヨクリは小さく頷いた。アーシスが鎌をかけたのを知っていて、わざと乗っかる。

 アーシスにも、きちんと話さなければいけなかったからだ。


「さっきも言ったが、別に怒ってねえ。だが、教えろ。なんで突っ走った?」


 昨日とは逆に、ヨクリが問いつめられる番だった。これからヨクリがなにをしようとしているのか、アーシスは感づいている。

 そのことについて、怒っているのだ。


「一刻も早く、のぼりたかったからだ。……塔へ」


 その答えに、アーシスの眉間に皺が寄った。

 立ち上がり、静かにヨクリの側まで寄る。次に茶髪の男の口から発せられたのは、押し殺した声音。


「ふざけるなよ、ヨクリ」

「……ふざけていないさ」


 アーシスはヨクリの胸ぐらを掴み上げる。ヨクリはされるがままだった。


「お前……わかってんだろ! 死にたいのかよ……」

「ううん」


 落ち着いた返答に、アーシスは悔しげに俯いた。ヨクリの凪いだ表情に、なにかを感じ取ったようだった。


「ぜんっぜんわからねぇ。ひとつもわからねぇよ!!」

「……本当に、わからない?」


 あの少女を見捨てろと言うのか、なんて子どもみたいな台詞は口にしない。丁年を過ぎたヨクリには、絶対に許されない。それは気高く、純粋で——狡い言葉だったからだ。

 だからヨクリは、別の言葉を返す。


「アーシスなら俺の気持ち、わかってくれると思うんだ。……違うかい?」


 小刻みに震える両の腕は、アーシスの深い情を密かに語っていた。


「行かせてよ、アーシス」

「……くそっ」


 振りほどかれた拳にはもう、力は入っていなかった。


「おいヨクリ……くたばりやがったらただじゃおかねぇからな」

「うん」


 静かに感謝しながら頷くヨクリ。アーシスたちを連れて行くわけにはいかなかった。茶髪の男には、家族がいる。もちろんマルスにも。

 だから、ひとりで行く。もう十分、二人は協力してくれた。


「……考えは、変わらないか」

「……うん」


 金髪の青年の最後の説得にも、ヨクリは応じなかった。マルスは、くっと拳を握りしめて、ヨクリに言った。


「ヨクリ。帰ってこい。……僕たちに、後悔させないでくれ」

「ああ」


 マルスの言葉は深くヨクリの心に突き刺さった。ヨクリの行動如何によっては、自分と同じ思いを味わわせてしまう。

 ヨクリは絶対に、マルスらと再会せねばならないのだ。


 ヨクリとて、死にたくはない。でも六大貴族に盾を突くその意味を、ヨクリは知っているつもりだった。生きて帰れる保証はどこにもないし、戻れたとしても手配が回るだろう。キリヤがどう出るのかはヨクリにも全く読めないが、ヨクリの本当の相手はフィリルの実父——おそらくあのゲルミスだ。甘い考えは通じない。


「いつ、行くんだ」


 ヨクリは一瞬だけ考えて、


「明日。夕暮れに」


 夜が更ければ、警備は増すし、施設から去っている可能性もある。それよりはフィリルが居そうな時間に、人にまぎれて動いたほうがいい。

 教典に示された伏日を過ぎれば、管理塔を訪れる人の数は大幅に増え、そして——実験が終わってしまうかもしれない。真実を知らぬままそうなるのは是が非でも止めたかった。


「……そうか」


 マルスは察したようで、


「なら、引具を調整させてくれ。明日の昼、取りに来い」

「……助かるよ」

「シリンダーの中身も、補充してやる」


 マルスの家にはエーテルが確かに貯蔵されている。だが、整備とは違い、補充というとエーテル買い取りになる。ヨクリは今の手持ちで足りるのかどうか判別できなかったから、


「いや、いいよ。明日自分で補充しにいくからさ」

「いいから、出せ。……ツケにしておくから、必ず払いにこい」


 マルスの希望の混じった約束にヨクリはわかった、と諦めてシリンダーと引具を渡し、頼む。

 剣を抜く事態がなければ、それに超したことはないのだが、おそらくそうもいかないだろう。準備は、万全に。


 賽は投げられたのだ。もう引き返せない。

 三人は静かに、明日を待つ。

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