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途上のシャムロック  作者: 納戸
贄のこども
28/96

   3

 一日経ち、ようやく天候は回復の兆しを見せていた。雲間から久し振りに覗き出る、暗闇を切り裂く柔らかな光。


 朧月夜である。


 ろくに舗装もされていない地面には、割れた酒瓶や吐瀉物、もとがなんだったのか判別できない程に腐ったごみが散乱し、めちゃくちゃな衛生環境を呈していた。


 住居は、悪質な木材や錆び付いた鉄板で法則もなく立てられており、いびつだった。それは雑然と乱立し、路地は狭かったり、あるいは無駄に広かったり、坂道かと思えば急に上りの階段が見えたりと、複雑に入り組んでいる。欲のままに作られた区域——スラム。


 派閥”暁鷹”から借り受けた地図と、そのアーシスの先導がなければ、ヨクリなどたちまち迷ってしまっていたに違いない。


 すえた臭いの通りをひた歩く二人は、それぞれ鋭い眼差しをしている。


 ——人斬りの目。


 覚悟を滾らせ、待ち受ける現実へ真っ直ぐ進む。気を抜いたらすぐに消えてしまうその炎を、心の炉に薪をくべ続け、絶やさない。


 スラムの奥へ進むとは、つまり遮壁の方角へ向かうに等しい。街中は不気味なくらいに静まり返っており、道端の水音がやけに鮮明に聞こえる。

 どうやらアーシスは巡らされた用水路に沿って進路を決めているようだった。ほどなくして、似つかわしくない巨大な建物が見えてくる。


 図術浄水施設だ。円形都市の上下水道は、遮壁内にいくつも建造されているこの施設を通している。税を滞納している人間の多い下流層にも存在するのは、貧民たちへ施された最低限の設備だった。飲み水はとりわけ重要だからだ。しかし当然警備は厳重で、軍人が高価で取引される”術金属”や点検工具を盗まれぬように周囲を見張っている。


 設備の近くを横切ろうとしたとき、足音に気付いた一人の軍人に誰何(すいか)の声を掛けられるが、身分を明かし、滞りなくやり取りを終えた。潜伏しているという情報はきちんと行き渡っているらしい。住民の静寂もそのせいだろう。

 さして労せず、打ち合わせの地点までたどり着く。ヨクリらは振り返って浄水施設を望み、しばし佇立したまま時を待った。通りはだだ広いが、木箱や樽、作りかけで打ち捨てられた屋根のない家が不規則に見受けられる。


 正面は浄水施設に続く道が左へ伸びている。ヨクリらのそばに一つ、右に伸びる分かれ道があり、二人はその分岐を睨みつけている。


 ややもせず、右手のほうから剣戟の音が聞こえてくる。


 手筈通りに進んでいた。アーシスの属する暁鷹の数名が怪我を押して陽動を買って出てくれたのだ。先に接触し、ヨクリらの立つ通りに手配犯を追いつめる作戦になっている。


 アーシスの顔を潰さぬためにも、ヨクリはしくじれない。先日のような醜態はさらせない。

 ヨクリはアーシスと目配せし、鞘走りの音を立てぬようにそろりと刀を抜き、強化図術を起動させた。鋭敏になった聴覚は、足音が少しずつ近づいてくるのを漏らさず察知する。


 後ろを気にしつつ、右の通りから二人の影が姿を現した。両者とも、ヨクリよりも頭一つ分身長が低い。月明かりは黒い外套に阻まれ、その顔をヨクリらに知らせない。


 ヨクリは稲妻のごとく駆け出し、間合いを一気に詰めた。


 不意を突かれた二人の罪人は、どちらへ向かうのか刹那逡巡し、浄水施設のほうへ駆けてゆく。しかし片方が察し、身を反転させてヨクリと対峙した。

 そう。図術浄水施設には、少なくない数の軍人が待機している。見つかれば戦闘は避けられない。だから、罪人たちはヨクリらと戦うしか術がないのだ。


「…………」


 なにか密談を交わしたのち、ヨクリのほうへ手を掲げる。ヨクリは咄嗟に、壁も半ばから失せたぼろぼろの廃屋に飛び込み、身を隠した。

 大きな破裂音とともに、ぴゅうん、となにかが凄まじい速度でヨクリの頭上を飛んでゆき、後ろの壁を抉った。

 ヨクリは二つ、勝利へのかけらを拾う。


(古物を持ったほうは、強化図術を使っているな。反応速度がはやかった。それはやっかいだが……)


 素早く右後方を見遣ると、壁には新しい穿孔。ヨクリの元の位置よりも、かなり照準がずれている。


(月明かりは想定外だったけれど、とはいえこの暗さだ)


 まさに闇夜に礫と言った具合で、命中の精度が悪い。ヨクリは確信し、強気に躍り出る。


 二人を視界に捉えると、間をずらしながら右に左に動きつつ、さらに距離を縮める。つづら折りに撒き上がった砂埃は、疾走の軌跡を示す。


 片方は手に持った、身長には似つかわしくない長剣を握りしめたまま硬直しているが、古物を持つほうは冷静そのものだった。無駄に撃たず、ヨクリの動きを顔で探っている。

 とうとう間三十歩になり、ヨクリは支配領域を展開、”感知”を起こして歩をはやめた。必中の距離とみたのか、古物がヨクリへぴたりと据えられるが、後方がほんのひととき、激しく眩く。図術を使用した際に起こる、展開紋陣の輝きだ。


 夜闇に走った一条の光。


 構えた古物を引き戻し、弾かれたように飛び退いたそいつの足下に、穿たれたのはアーシスの投刃。


 アーシスの用いる図術は、ほとんど出回らない珍しい代物だ。

 ”伝達”。物体をある方向に加速させるという、都市外へ向かう長距離列車などの根幹に位置する干渉図術なのだが、武器に転用している例はヨクリもアーシス以外には知らない。

 アーシスは中空に放った投刃を引具である手甲で殴りつけ、伝達で加速させているのだ。それだけだと弾を所持せねばならず、単発しか撃てぬぶん”氷錐”などの複製系の劣化にすぎないが、不利を覆す利点がある。

 発動まで、紋陣が現出しないのだ。つまり、アーシスの図術は直前までエーテル光が発生せず、敵に悟られない。


 回避した古物のほうは、勘がいいというほかないだろう。どちらを狙っているのか紋陣の位置から推測できないし、おそらくヨクリ単独だと思っていたのだから。だが、その一発は十分役目を果たしていた。


 詰め寄ったヨクリは長剣のほうへ刀を閃かせる。

 金属同士がぶつかりあう甲高い音が数合鳴り響き、接近戦が始まった。

 その打ち合いで、ヨクリは相手の技量を悟る。


(たいしたことないな)


 話通りの腕であった。腕力も足りないし、剣技もお粗末なものだ。苦もなく見切りをつけ、大振りに刀を横薙ぎにし、相手に避けさせる。わざとらしくぴたりと所作の最後を止めると、読み通りにヨクリの頭めがけて剣が振り下ろされた。


 ヨクリは手首を返しつつ、踏み込んでいた右足を軸に、左足を体側へ引き寄せ、身を反転させた。空ぶった長剣に引きずられるように、よろめいた相手に左一閃。

 必殺の間合いだったが、いつの間にか手にしていた右の短剣に阻まれ、ぎゃり、と金属が擦れる音と共に軌跡が逸れる。首を狙った斬撃は、腹をかっ捌く形となった。


「が、は」


 おそらく引具である長剣のほうを取り落とす。少し間があり、うめき声とともに、うつぶせに倒れこんだ。みるみるうちに、血溜まりが地面に広がっていく。


 仕留め損なった。ヨクリの目線は、無意識に流れた血を追った。


「天に、まし……ます、我らの、母よ。私の、魂を……世界樹へ、お導き……ど……か」


 落命直前の祈りは、か細いこどもの声だった。ヨクリは痛みを長引かせぬように、その首を——()ねた。

 断頭台めいた綺麗な幹竹割りは、その子どもの手足処(しゅそくところ)(こと)にした。からん、と小さく短剣が滑り落ち、ぴくぴくと動いていた小さな指先は、やがて止まる。


「……きみの魂は大地を巡らないよ」


 ヨクリは子どもの息の根がとまったのを悟り、ぽつりと呟いた。


「どんな事情があったかは知らない。でも、欲のために人殺しをしたんだ。仇為すものにこそ祈りを、だったかな。きみはきみの敵に祈りを捧げたかい? きみや——俺たちは、リリスに祝福されない」


 その本心は、命を落としたこどもに伝わらなかった。ぽたり、と切っ先から血が一滴垂れる。ヨクリの手にする刃は、人の——こどもの血に穢された。


 ヨクリは刀の柄を一度だけ絞り、睫毛を伏せる。


「いや、すごいね、お兄さんたち」


 愉快そうな笑い混じりの、場違いな明るい声。ヨクリは刀を軽く振るって血を飛ばしたのち、人形のような無表情で声のほうを見た。

 横やりをいれてこなかったのは、アーシスの一撃を見たからだ。そういう牽制の意味を持つ布石でもあった。


「ユファも死んじゃったし、あたしの役目なくなっちゃったよ」


 ユファ、というのは斬ったこどもの名前だろう。でも、ヨクリは覚える気もなかった。


「暁鷹だっけ? 殺したのはユファなんだし、ものは相談なんだけどさ」


 一旦切られる声。二の句は、ヨクリにも予想がついた。


「——見逃してくんない?」


 ざり、とつま先を滑らせたヨクリ。無言の否定だった。ヨクリたちには見逃す理由がなかったからだ。しかし、その動きに合わせるように、明るい声音の持ち主は一歩下がった。


(——こいつ、強い。ただの子どもじゃない)


 ヨクリとそいつの間合いは三十歩と少し。”感知”のぎりぎり範囲外だ。意識してかどうかは(あずか)り知らぬところであるが、正確に読んでいる。


「ざーんねん」


 右手の古物をゆらりと上げつつ、左手を外套の奥へ突っ込む。ヨクリは剣先をぴたりとその黒ずくめに向けた。

 アーシスは姿を見せない。そういう作戦だ。ヨクリが囮兼近接手で、アーシスは奥の手の遠射手。位置を気取られると優勢が半減する。


 ヨクリは大きく後方に跳躍し、転瞬、端の木箱の影に隠れる。古物を警戒した回避行動は、悪手ではないが最善手でもなかった。動いたのは左手だったからだ。なにかが、遅い速度で放られる。ヨクリを助けたのは、アーシスの図術であった。


 アーシスの図術に射抜かれたなにかは、強烈な光とともに大爆発を起こしたのだ。

 轟音と、突風、灼熱。あたりに散らかるごみや木っ端が確かな破壊力を持って周囲を薙ぎ払う。瞬く間に炎は燃え移り、ぼろ屋を焼きはじめていた。


(——っ!?)


 すさまじい熱は、木箱を防壁にしていたヨクリの頬をちり、と焼いた。顔を庇いつつ様子を窺うと、未だ爆風は止まない。弾けた木っ端が木箱の上に撒き散らかされ、ついに火が燃え移る。


(本当に、反則だろ!)


 その威力は、熟達した具者が使う”敷陣”に匹敵している。——そして。


(こんなところであんなものを使うなんて、狂っている……)


 ほとんどがすかすかの、とてもではないが売り物にはならない木材で構築されたスラムの建物。空気の乾燥したこの時期に、いかに最近雨続きだったとはいえど、火の手が広がるのは明らかだった。火災はもう防げない。


 ここで殺さなければならない。そうヨクリに決心させるには十分だった。あいつはとにかく危険すぎると、第六感が告げている。


 転がるように飛び出たヨクリは、めらめらと揺らめく炎のなかにいる影を探す。すぐに見つけ、距離を確認。四十歩。期せずして明るくなった視界は、相手にとっても都合が良かった。

 顔の影からちらりと揺れる、くすんだ金髪は長い。肩が持ち上がり、ひたりと射線をヨクリに示す。ヨクリの意識は狭窄し、指の動きをはっきりと追った。


 古物が火を吹く直前に顔をそらしたヨクリの頬を、なにかが掠める。狙いやすい体ではなく頭を狙ったのは、おそらく相手の、技量に対する絶対の自信。


 次の弾が放たれる前に、風のごとく駆けるヨクリ。刀の峰を肩に担ぎつつ、歩幅を調整する。至近距離までまさに電光石火、小刻みの縦一閃。切れ味鋭い一撃を見舞ったが、しかし、裂いたのは相手の金髪一房と、外套の一部。


(躱された!?)


 次の下から上への切り返しも、金髪は体を後ろに逸らし、あやうく避けてみせた。


「っとと」


 倒れかけた身を捻り、しっ、という鋭利な呼吸を交え、右足を踵から、ヨクリに向かって蹴り込む。理屈のない本能のみの反撃だが、ヨクリの痛点を緻密に突いていた。


(こいつっ!)


 反射的に鍔元から右手を離し、腕を立てて上膊(じょうはく)で防御する。びりりと痺れさせるその力は、細っこい相手の体からは想像もつかなかった。

 徒手空拳でこうも鮮やかに攻撃を殺された記憶は、ヨクリにはなかった。絶妙な平衡感覚。体捌きだけならあのキリヤ並みだった。


 体の内側へ寄られたヨクリは仕切り直すために小さく後ろに下がったが、しかし同様に、金髪の子どもも大きく退く。


 開きすぎた間合い。


 真正面に立つ相手のはだけた外套から覗く口元が、にやりといびつな弧を描いた。

 再びゆらいだのは、左腕。


「おひとりさま、ごあんなーい」


 なにかがヨクリの前方へ放られ、古物の先が指すのはヨクリではなく、その放られたもの。


(二つ目だ)


 ——急激に、思考が冴えていく。


「ヨクリ!!」


 アーシスの、悲痛混じりの怒声。しかしアーシスの術はヨクリの体に遮られ、相手にも、先程爆発したものにも届かない。


 自然と、両の手に携える刀が持ち上がった。

 この光景は、知っている。——あの森と同じ。絶体絶命の状況。打開策は一つしかない。でも、ヨクリにできるかどうかは、全くわからなかった。


 赤毛の女はなにをした。発動の直前まで、見ていただろう。阿呆みたいに、つぶさに捉えていただろう。思い出せ。


(——じっとしていたら、廃るって!)


 試すしか方法がない。ヨクリは目を力一杯見開き、引具に意識を集中させた。


乾坤一擲(けんこんいってき)……!)


 その所作は、きわめて短く。描く紋様は、きわめて小さく。風を律するように。引具に備わる根源の力を、ありのままに、刃を通して空中へ——!

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