六話 月夜が下す判
唐突に、意識が戻る。
白塗りのこの部屋に見覚えはあったが、しかしヨクリの記憶より狭かった。
思うように力がはいらないが、なんとか毛布を剥いで体を起こし、周囲を見る。
何色にも染まらない潔癖な壁面と床。室内は手狭で、ヨクリの体の下に一人分の大きさの夜具と小さな椅子、茶棚があるほかは、物がない。
出入り口も一つしかないから、ヨクリ以外の人間はこの部屋にはいないようだ。
(……個室?)
ぼうっと考えたままの単語を垂れ流し、小さく首を振って気を取り直す。きつく目を閉じ、再び開いてもやがかかった頭の中を無理矢理に覚醒させる。
感覚が戻ってきて、最初にヨクリを襲ったのはむせるような薬品臭さだった。強烈な吐き気を堪えきれずにえずくが、口からはなにも出てこない。
幾度か咳き込み、ようやく耐えられるようになると、徐々に思い出してくる。
「そうか、俺……」
あの夜からぽっかり記憶が抜け落ちているということは、気絶してここに運ばれたのだろう。
舌の奥の強い苦みと肺を満たす生理的に受け付けない臭気は、治癒液特有の風味だった。
治癒液療法。医術を用いた外科施療でも治らない重篤な怪我を回復させる手段。人一人をすっぽりと覆える引具”療管”の中に患者を入れ、更に治癒液で満たし、怪我を回復させる。
治癒液自体は極少ない割合のエーテル水溶液で、いくらかの薬品を混ぜてあるが、ほとんど水と性質は変わらない。療管に治癒液を注ぐことで、治癒液を通して治療図術の効果を発揮させる。基本的に、治癒液と療管、両方を合わせて”治癒液療法”と呼称される。
治癒液は具者最後の命綱で、治癒液で治らない場合のほとんどは死亡する。生命活動を行っていて——たとえ手足が千切れていても心臓や脳などの重要な臓器が残っていれば、患者の波動情報を読み取って損傷箇所を修復、複製してくれる。
ちなみに波動情報に頼る性質上、根本的な疾病には効果がない。
怪我の程度によって治癒液の濃度が変化し、エーテルの割合が多くなるほど、治癒効果は増す。言うまでもなく、エーテルを消費するので怪我が重いほど治療費も上がる。
身を包む気怠さのなか服を確認すると、纏っているのは白く簡素な布衣である。部屋に暖炉はなく、この時期にこの薄手の衣服では、寒さを防げない。しかしヨクリは別のことに気を揉む。
通常治癒液送りにされた業者は、着の身着のままに療管にぶち込まれ、そして治れば追い出される。つまり、ヨクリの衣服を事前に取り替えるようはからった人間がいるということだ。この安っぽい服だって無料ではないから、気を利かせたか、あるいはなんらかの目的で着替えさせたのだ。さらに言うなら、治療後に送られる部屋は大抵大部屋で、幾人かのけが人と同室だ。
つまり、個室と衣服を用意するだけの金のある人間がヨクリをここに寝かせた、と。
ヨクリには該当する人物が二人居る。眼鏡の青年か、あるいは。
ヨクリは慎重に周囲を目視した。すると壁に立てかけられた自身の引具と、褥の隅に几帳面に折り畳まれた自身の衣服を発見する。左手を伸ばして体に引き寄せ、確認すると、服の上に紙切れが一枚。
そこには、目覚め次第連絡するようにと、言付けられていた。素早く紙の端に目をやれば、そこにはマルスの名前。
安堵と申し訳なさと、歓迎しがたい凡百の感情が溢れ出てきて、ヨクリはひたすらに、心を抑えるため、深呼吸する。
「……」
吐息は震えていた。とても、知人と面会できる状態ではない。
友人らには弁解の余地がないが、しかしヨクリには、考えを纏める時間が必要だった。
敷物の上で肩を回したり、足を伸ばしたりして、体をほぐす。違和感はない。
後頭部の湿り気と丁度頭の位置に置かれている布切れが、治癒液から出されてからそう時間が経っていないと、ヨクリに教えてくれる。部屋を前もって取っているとは考えにくいから、マルスが訪れたのはついさっきと予想がつく。窓から見える外の暗さから、再び見舞いにくる可能性は低い。
思考を終了し服を広げたところで、修繕されていると気付く。おそらく、マルスかアーシスが店にもっていってくれたのだろう。治療費と合わせて払わなければならない。
衣服を着替え、最後の上着の袖に腕を通したところで、左の掌に目が止まる。右よりも赤みがかっていて、薄皮が柔い。
ぎゅっと握りしめても、もう痛みは感じられなかった。
靴を履き、引具とあの夜に使った外套を手に取り、部屋の外へ出る。清潔感のある、薬品の臭いがする回廊はがらんとしていた。少し歩いただけで感じる疲労は、空腹によるものだ。施療中は治癒液に溶かされた栄養を接種できるが、あくまでも最低限のものである。
廊下の途中でようやく通りがかった医務員を見つける。部屋と、退出する旨を伝えたあと、受付に向かった。
広間にでると、いくつか設置されている長椅子にも、受付の奥の事務作業を行う空間にも人が少なかった。その理由に気がついたのは手続きの途中、日めくりの暦を確認した際だった。気絶した日から二週も過ぎていることと合わせて、年が明けていることを知ったのだ。
章紋歴四百八十七年、上月、種の四日。今日の日付である。
つまり年始ゆえに、意図せず足しげく通う業者たちが休暇を取っており、一時的に業務を縮小しているのだ。だから施設内が蕭然としていた。
だがヨクリは年越しを病褥に伏して過ごしたことにはなんの感慨も抱かなかった。それどころか、年夜から新年にかけてかまびすしい街中をこの心境で往来せず済み、ほっとしたくらいだった。
とにもかくにも、誰も訪れないと保証のできる場所で、一人きりになりたい。敏速に手続きを終えたヨクリは、早足で施療院をあとにする。
■
結局、諸々の用事を全てこなせずに、ただ宿をとるだけで残りの時間は過ぎていった。
二人への報酬のための金商や、マルスへ連絡するための依頼管理所へも赴かず、食事さえもしなかった。
取った部屋も、粗末なものだった。施療院の裏手にある、手入れも十分でない宿屋である。手持ちの金ではここしか宿泊できなかったからだ。
腐りかけた捨て板が打ち付けられただけの壁と床。当然暖炉もない。申し訳程度に鏡と洗面台がついてあるが、浄水設備がないのか、桶に水が溜められていた。厠は共用、風呂は近辺にある大衆浴場。
ヨクリはうつろな眼差しで、出入り口近く、鏡のそばに佇んでいた。ややあって、手荷物を汚い夜具に投げつけた。明かりのない冥々とした部屋に、埃が煙のように飛散する。
革帯から引具も乱暴に外し、同じように放ろうとして、しかし止まった。
独りきりの室内。右手に感じた引具の重みを引き金に、ひたすら思い出すのはあの夜の戦闘だった。
まず、初手は話にならない。
あんなごみみたいな斬撃を、あのキリヤがまともに受けるはずがない。実際に、ものの見事に避けられたあと嘲笑されたのだ。
その次も悪手だった。反撃は当然あるはずだった。あのときは見えなかったが、握りの左手を負傷した状態でも二発は防げていたのだ。
冷静に間合いを取って目を慣れさせれば、接近戦だって勝負になったかもしれない。模擬戦とはいえど、あの凄まじい切れの突きを、学生時代には散々受け、弾き、躱してきたのだ。癖だって知っている。
そもそも、昔より速度が増していることだって、十分予測できただろう。自分の武器は後の先を取る待ちの戦法だ。適切な間合いをとらずに攻撃に走ったのは紛れもなく、自身の長所を殺す動きだった。
図術だって落第点だ。あんな隙だらけの状態で馬鹿正直に使ったら、”狗”にだって噛み殺される。手の内をさらしただけではないか。しかも事前に撒いた毒を自分から”旋衝”で散らすなんて、もう話にならない。キリヤの準備した中和剤が十分でない可能性は低いにしたって、ありえないことではないはずだったではないか。少なくとも、ヨクリの取った戦術は稚拙に過ぎた。
頭上に気を取られたのも敗因の一つだ。立体的に動く敵の動きに気を取られ、足下が留守になっていた。ほんの僅かでも早く敷陣を察知していれば、無理な体勢での回避も免れたし、それが原因で負傷した足の傷に負担をかけ、傷口を開かせることもなかった。
とうとう戦闘の最後にこうべを巡らせ、決定的な勝敗を決めた一撃の瞬間にたどり着いたヨクリは意図せず別の興味に気を取られる。合わせて、唐突に冷静さを取り戻した。
(あれは……)
あの特殊な図術の運用に、ヨクリには心当たりが一つだけあった。しかし推察があっているのかどうかわからない。
市場に出回る攻撃用図術の性質は、大別して二通りだ。弾数が増える複製系と、規模が広がる上昇系である。マルスやフィリルの用いた”氷錐”は前者、ヨクリの”旋衝”は後者だ。複製系の場合は紋陣の精度に対する規模(威力)の上限がかなり低いが、その分射出できる数が増す。対して上昇系は一度に一発しか撃てないが、威力限界は複製系のそれとは比べ物にならないほど高い。
問題なのは、キリヤの用いた図術が複製系なのか上昇系なのか、あるいは全く別の性質を持つ術なのか判別できないことだ。
キリヤの熱量干渉図術はステイレル家秘伝で、制御がかなり難しいと他でもないキリヤの口から昔に聞いたが、基礎校時代はキリヤも基本と呼ばれる”氷錐”や”空鎚”を使っていて、見る機会がなかったのだ。
だから、確定的な判断材料に欠ける。
(でもきっと、あれを使えると見て間違いない)
キリヤは敷陣も使いこなしていた。ならば——。
(念を押すべきだ。次はしくじらない)
肺肝を砕いていたヨクリを引き戻したのは、強烈な違和感。
(次? 次だって?)
なぜ戦う必要があるのだ。もう全て終わっている。
理性を失い、愚策を尽くしたのちの敗北。とどめを刺されなかったのは、情け以外のなにものでもない。
なにが指導だ。なにが護衛だ。自分が一つも自身の経験や知識を踏まえられていないではないか。
ありとあらゆる罵詈雑言がヨクリ自身のうちからヨクリに向けて生まれ消え、両の五指を固く握りしめる。刀のはばきが鞘に擦れ、ちきちきと、主の無念を伝えるように悲しく鳴った。
水月のあたりからもたげてくる激情をとうとう堪えきれず、振り上げた左の拳鎚を壁に叩き付ける。ばり、という冬の薄氷を踏み砕いたような音がなり、のろりとそちらを見ると、ヨクリの顔が、打ち据えた拳を中心に、放射状に切り刻まれていた。
壁ではなく、鏡であった。粉々になっている。だらりと左腕を下げ、きつく目を閉じた。
「なにをやっているんだ……俺はっ……」
ヨクリは日が昇るまで、時の間も眠らなかった。夜具に座り込んだまま、空虚な表情でじっとしていた。
退出の時間が来て立ち上がると、めまいを感じる。さすがにひだるく、洗面台の桶に顔を突っ込んで水を啜った。一晩経って、肺を満たす治癒液の臭気は薄くなっていたから、吐き気はない。炉のない室内では水がおそろしくつめたかったが、構わず喉を鳴らす。
その場しのぎの茶腹であるが、とりあえず体力が回復したヨクリは少ない荷物を手に、入り口の宿主に声をかける。脂肪の薄い、みるからに痩せ腕の男だった。部屋を確認し、鏡の破損に気付いた男はヨクリに弁償を求めた。応じて金を払うとき、昨夜を思い出したヨクリは惨めでしょうがなかった。
財嚢の中身がいくばくかの銀貨と銅貨しかなくなり、金商へ赴かなければならなくなった。どのみち二人に報酬を渡すので、手間ではない。
外へ出て、金商まで自分の足でゆく。幸い施療院付近は、重要な施設が多い。意識がなかった二週の天候は知らなかったが、今日も曇り空だった。冷えきった空気に、空から伝わるほんの少しの湿気。
年が明けて五日目、徐々に街中は元の喧噪に戻りつつあったが、ヨクリはなぜか歩きやすかった。
(……?)
ヨクリを避けるように歩く独りの往来人を見て、ヨクリは思い出す。左に持つ外套と布衣が入った袋を嗅いで、顔をしかめた。
治癒液の臭い。だからすれ違おうともしないのだ。自分のことなので鈍感だが、ヨクリ自身も相当におうのだろう。
ヨクリは金商への道を逸れ、大衆浴場へ向かった。四半刻もせずに身を清め、ついでに、気を利かせてくれた金髪の青年には申し訳ないが、布衣を廃棄する。一緒に収納している外套にまで染み付いてしまったら、たまったものではないからだ。
ようやく金商までたどり着き、清潔になった身でなかに入った。ものや人の配置が依頼管理所と酷似しているのは、業者への配慮である。
ツェリッシュ金商の受付は、尋常でなく手際がよい。徹底した接客と単一化された業務で、回転率をあげているのだ。そのうえで、想定外の注文も迅速に応対してくれる。正直こういう熱意を持って仕事に打ち込む人種こそ業者に欲しいとヨクリは思ったが、ヨクリら業者など比較にならない位給金が多いのだろう。どだい無理な話だった。
瞬く間に列の前が消化され、ヨクリは受付に立ち、手続きをはじめた。赤墨を親指に塗って、いくつかの用紙に押捺。
労せずに用件を終え、金貨で満たされた財嚢と、残りの預金詳細を手に、一旦待ち合いの椅子に座って残高を確認する。
詳細を見たその瞬間、ヨクリは手の用紙を握りつぶした。
(馬鹿にして……馬鹿にして……馬鹿にして!)
強烈な怒りはキリヤに向けられていた。
アーシスらに払う予定の金貨を除いても、その倍はあろうかという大金が額面に追加されている。
——あの依頼の報酬が振り込まれていたのだ。
どんな意図があったのか知ったことではないが、ヨクリにとっては許容しがたい、自尊心を傷つけられる施しにほかならなかった。
許せなかった。キリヤと、なにもできなかった自分、その両者が。
全額まとめてつきかえしてやりたかったが、ヨクリはキリヤの住所や業者番号——そもそも業者登録をしているのかさえ知らない。どうしようもなかった。
再び暗澹たる気持ちが込み上げてくるが、依頼の後始末がまだだ。くしゃくしゃになった紙を乱暴に破いて追い打ちをかけ、近くのくずいれに突っ込み、金商をあとにする。
途中、空腹で行き倒れそうになったため、とうとう飲食店へ足を運んだ。
固形物を二週も入れていない胃では柔いものしか受け付けなかったが、それでも汁物と、それに浸した麺麭で腹を満たすと、我ながら現金で、気落ちした心とは裏腹に全身に力が沸いてくる。
そういうわけでヨクリはこれまでの道のりよりもしっかりとした足取りで依頼管理所へ向かった。
業者という人間たちは、はっきりいってなんらかの問題がある。
国民の職種割合から見た場合、安全でまっとうな職業につけるのは少数で、もちろん大多数が業者にならざるをえない。しかし優秀な人間はそのなかでも抜きん出るか、もしくは少しの機会をきっかけに転職したり、権力者と繋がりを得たりして生活水準を向上させるのだ。
そうでない——己を磨かず、業者をまにまに続ける人間は、往々にして怠惰な資質を持つ。食っていけるなら取り敢えずはそれでよいのだ。
そんななあなあな業者の性格を体現しているのが、今日の依頼管理所だった。勤勉な人間はもう今年の依頼を請けはじめているが、この場にはほとんど人が居ない。他の業者は家や宿屋でだらけているか、まだ新年の酒盛りを続けているのだろう。
見渡して、誰にぶつけるでもない漫然とした呆れを込めたため息を吐きつつ進もうとすると、結構な勢いで何者かが突っ込んでくる。床の木材が乾いた音を立て、ヨクリの重みで軋んだ。
体格で軽々突き飛ばされたヨクリは「っつ」と呻きながらそいつをねめつける。
「悪い! ……って、ヨクリじゃねえか!」
「なんだ、アーシスか」
謝罪の言葉とともにこちらを覗き込むのは、アーシス・イリスであった。尻餅をついたヨクリは、差し出された手を取り、アーシスに引っぱり起こしてもらう。
「大丈夫か」
「っと、まあ、平気だよ」埃をはたきながら、「それより、急いでたじゃない」
「なにがそれより、だ」
アーシスは整った太眉を釣り上げながら、珍しく声を尖らせた。アーシスは豪快だが、ヨクリの知る限りでは、温和な気性だった。
「お前にゃききてえことがあるんだぜ。施療院行っても居やがらねえし、どこほっつき歩いてやがった」
アーシスの表情には、ヨクリの軽挙を糾弾する色と、心配が含まれていた。二週前の夜の話であるのは截然としていた。ヨクリは、自分がそれほど動揺していないと知り、僅かばかり安堵しながら、
「出たのは昨日だよ。……少し、独りで考えたかったんだ。ごめん」
言い訳をして、さらにアーシスの疑問を解消するべく継ぐ。
「話は、マルスと一緒のときにするよ。とりあえず、彼に連絡を取らないと」
奥に進もうとしたヨクリを止めたのは、耳朶をうつアーシスの返しだった。
「……その必要はねえよ。これから会いにいくんだ。行こうぜ」
「……ふうん?」
ヨクリは思い違いをしていた。アーシスはヨクリに会うために急いでいたわけではないらしい。過去の経験から、この直感はほとんどあたっていると確信する。再びアーシスのほうを向き、予想を茶髪の男に投げ、瀬踏みしてみた。
「もともと、派閥の件でマルスに会うつもりだったんだ?」
「……」
緘口して語らないアーシス。どうやら、ヨクリには話したくないようだ。間違っているならば否定がはいるはずなので、沈黙は一つの回答をヨクリにもたらした。
「なにが起きた」
半ば睨みつけながら問うが、いらえはない。ここで問答していても無駄だと悟ったヨクリは、
「……ま、とりあえず、行こうか」
「……ああ」
互いに隠しごとをした状態。いつも快活な茶髪の男の口は重く、マルスの家まで嫌な静寂を引きずるのは明々白々であった。




