5
小雨の降る外は馬にとっては走りやすくはなく、騎手も雨に打たれるから、速度はあまり出ていない。年季を感じさせる内装だが手入れは行き届いていて、木の腐臭もしないし椅子の弾性も丁度だった。キャリッジの中は時折揺れるが、他の車両に比べればばねもよく手入れされているようで、快適と評していい。
急ぎでもないため、キリヤは静かに時を待った。
隣の少女は、無表情のまま虚空を見据えている。震動に合わせて、少女の青髪がさらさらと揺らめく。先日の土汚れは取り去られ、意識もはっきりとしている。——暴走は起こらなかったからだ。キリヤはふと、答えを期待しない問いをぽつりと呟いた。
「……あそこで図術を使ったのは何故だ」
「……」
少女はキリヤの顔を見て、目線を落とした。
「……いや、責めているわけではない。……ただ、気になった」
本当に、なんとなしの問いかけだった。キリヤの口調は、はからず相手を圧迫してしまう。キリヤ自身も自覚していた。以前指摘されたことだったからだ。思い出して、ほんのわずかの間、キリヤの顔は切なく緩んだ。
「わたしにも、わかりません」
「そうか」
どうしようもない。キリヤにはどうしようもなかった。年端もいかない少女に対して、謝罪もできなかった。
「……あの人は、無事ですか」
キリヤは息をつめた。少女のいうあの人とはキリヤの友、だった男だ。少女が気にかける理由はキリヤにはわからなかったが、あのとき黒髪の青年にぶつけた言葉は、ともすれば本当だったかもしれない。念を押して上官とともに出向いて正解だった。
キリヤは嘆息して、脇道に逸れかけた思考を戻す。
事実を告げるべきか。止めはさせなかった。でも、それは言い訳にはならないだろう。剣を向けたのだから。
「声が、聞こえたような気がしました」
いつ、とは訊かなかった。青年の左手を見て、大方の予想はついていたからだ。少女の思い過ごしを正してやれるキリヤは、そうしなかった。これ以上を少女にあげてしまうのは、残酷だった。
「……無事かどうかはわからん」
キリヤは最初の問いにだけ返答した。しかし、失敗したと気付いたのはその直後だった。
「怪我、したのですね」
無事だというべきだったのか、あるいは見かけなかったというべきだったのかは判別がつかなかったが、最悪の返しをしたとは理解できた。これ以上少女に負担をかけるのはキリヤの本意ではなかった。
「また、わたしのせいですか」
また、という言葉にかまう暇はなかった。キリヤは覚悟を決める。
「いや」
短く否定して、
「私が斬った」
結局、そう言わざるを得なかった。口にした現実はキリヤを自覚させ、自身の心を黒く染めた。
そう。友を、斬ったのだ。もう全ての資格を失った。なにものにも誇れない。
「なぜですか」
少女の問いに、反射的に答える。
「邪魔立てしたからだ」
訊いた少女は、僅かに俯いて、
「そうですか」
と短く返した。
逃げることは許されなかった。キリヤは少女の安定に終始する。
「……迎えが来ていたから、おそらく生きているだろう」
二人の青年が旧友の元に駆けつけていた。金髪の貴族のほうはなまひょろかったが、茶髪のほうはがっしりとした体格だった。図術を駆使して疾走すれば、落命よりはやく、施療院に間に合っているはずだ。己のことながら未練がましくも、手心まで加えたのだ。
「そう、ですか」
黒髪の青年に関して、少女が求めうるだけの情報をキリヤは知っている。問いが続くのも、それが青年の話であるのもキリヤは感づいていた。
「なぜ、でしょうか」
「なにが」
「あの人の依頼は終わっていたのに、どうして」
「それが本質だからだ。冷めているように見せて、自分を騙そうとして、それでもなに一つ捨てられない。……馬鹿な男だ」
片隅に女々しい想いが生まれたのを打ち消そうとして、キリヤは失敗した。顔に出さなかったのは矜持にほかならなかった。
車内に沈黙が訪れる。青髪の少女はもうキリヤに要求しない。
(当然だ)
友を斬った女だ。そしてその友を侮蔑した女だ。そんな冷酷な人間に問うて、まともな答えが返ってくるはずもない。
キリヤはこの少女と会話するのは初めてではないが、その性質はわかっていた。無表情で、無口。なにも感じないような振る舞いこそが、そうではないと物語っている。
生きている以上、他者とふれあうとなにかを求める。それは人間の本質だ。その本質には何人たりとも逆らえない。無感情を貫いているのは、そう見せているだけに過ぎない。
その状態は諦観の裏付けだった。少女のうちに秘める想いが手に取るように掴めるのは、自身に経験があったからだ。想いは隠せば隠そうとするほど、輪郭をはっきりさせる。蓋をしようと押さえつけると、逆らうようにどんどん押し返してくる。
だが、それを知ったとしても、キリヤにはどうしようもなかった。
なぜならば、この少女が終末を望んでいるのだから。
キリヤは少女から目を離して、窓際の脇息に肘をついて、外を眺めた。柔らかな腰掛けに、キリヤの体は僅かに沈む。
思い出すのはあの森。
剣で撃ち抜いた感触と図術で焼いた肉の焦げる臭いは脳裏にこびりついて、いつまでも離れなかった。
(あいつも、こんな想いを抱いたのだろうか)
無性に黒髪の青年に会いたくなった。そして訊ねたかった。お前はまだ引きずっているのかと。もし消えていたなら、それはいつだったのかと。——そんな権利はもうないのに。
思考は雨のさざめきとともに流れてゆき、暫時ののちやがて馬車が足をとめた。周囲の建物は全て図術の青銀をたたえ、その高さは天へ届きそうなほどだ。
リリス教では図術は神の力とされている。ならばこの場所はさしずめ神の住まう地というところだろうか。そして中心にそびえる街の守護者は聖樹書に記されているリリスの化身——雲を突き破る世界樹。
もちろん神などではなく全て人の手に寄る建造物だ。荒唐無稽な話があり、盲目に過ぎる信者などはここで暮らす民を神に近しい存在と畏怖する者もいる。そう言った意味でもこの国の執政にとってリリス教はうってつけなのかもしれない。
上流層。
材質から建築様式まで、全てが中流層とは異なる唐突な異質感は、足を運ぶ機会が多いキリヤでさえ拭いきれない。極端に継ぎ目の少ない建物の壁面。表面が僅かに透けているような透明感。空模様によって変わる色。国内で三番目に作られた円形都市であるから、かなりの歴史がある。しかしここの建物は埃や煤で汚れてはいるものの、その構造までは風化していない。経年劣化の丸みがないのだ。
木材の温かみや石材の重厚感とは別の方向性を持っている無機質な空間へキャリッジから降り立った二人を待っていたのは、少女よりも深い青をした髪の壮年の男だった。
ヴァスト・L・ゲルミス。キリヤの上官であり、フィリルが血を分け与えられた男。
キリヤは短く敬礼を取ったのち、後ろの少女を促す。
羽織りものはしてこなかったから雨に打たれるが、小雨だし、大した距離ではない。
路肩に停まっていた馬車が、泥を散らさぬようゆっくりと通りを逆戻りし、中流層へ引き返していった。
男が歩き出すと、少女も追随する。歩幅が違うため少女は足早だったが、男は全く意に介さない。キリヤは少女の右側に立ち、連れ添った。
ひとけは少ない。塔の付近は図術研究施設と、塔の点検設備が大部分を占めている。加えて管理塔に近づけば近づくほど、そこに住む人間は位が高くなるから、必然だった。
キリヤらの行く大通りから多々の枝道が伸びているが、本道を逸れずに直進する。四つほどの辻を過ぎたところで、柱廊然とした十字路が見えてくる。
出し抜けに、男の背中から声が聞こえてきた。
「忘れるな。強者とは孤独だ」
自身に向けられていると、キリヤは理解する。
「今は目に見える若さに胡座をかいて、責を弱きものに押し付けているに過ぎん」
上官とはとても深い交情を結ぶほどに長い付き合いだとはいえないが、それにしても珍しい長広舌だった。
「自らにはその力があるにも拘らず、孤独に惑わされ、接触を渇望している。それが、不要であると理解しているはずであろうがな」
なんのことを言われているのかキリヤは知っていた。思い当たるふしがあったからだ。
「お前はのちに選択せねばならない。……双方は選べん」
向こう側にある男の表情は見えない。脈絡のないその言葉は、なぜか胸にすとんと落ちていった。だが、どのような返しをすればよいのかキリヤには判断がつかなかった。
しばし声が出せなかったが、返答は不要のようで、男はそれから、今度は少女に馬車内でのキリヤと同じ質問をした。
「なにゆえ予定にない行動をとった」
少女が一拍置いたのちすげなく「わかりません」と返答した次は、はやかった。
足を止めた男は、流れるように振り返ると、無機質な動きで右腕をあげる。
ぱん、と乾いた音が鳴り、少女は濡れた地面にくずおれた。男が少女の頬を張ったのだ。その挙措をあまさずキリヤは見ていたが、まるで時間を奪われたかのように動けなかった。
「わからない? なぜわからぬ。おまえは自分のしたことにすら理由を見いだせぬのか」
およそ温かみというものを取り除いた声音で、座し、雨に濡れる少女を言葉できりつける。
「私は豚や鶏の面倒をみていたつもりはないのだがな」
痛烈に過ぎる。キリヤは少女を庇おうと一歩前に出るが、なおも侮蔑とも取れる叱責は続く。
「言うことをきかぬと諦めがつくぶん、家畜のほうがましだ」
「……閣下、病に倒れられては」
天候を理由にするには少々苦しい、キリヤの折衷めいたつぶやきを男が聞くと、再び外套を翻し、歩き出した。
キリヤは少女の体をそっと支え、持ち上げるように起こす。
少女の顔に表情はなかった。ただ、その白面にくっきりと現れた、赤く腫れた頬だけが痛ましかった。
これが実父のすることなのだろうか。キリヤとて六大貴族の直系だ。武によって名声を手にした家系もあって、父に手をあげられたことはある。
それでも、こんなに冷たくはなかった。
愛情が、感じられた。
(……っ)
そこでキリヤは吐き気のような嫌悪感を覚える。ヴァストにではない。自分にだ。目の前の上官と己自身、どこが違う。同じではないか。
少女の背を支える自分の手が、とたんに自慰にまみれた、どす黒くいやらしいものに見えた。
どうしようもない虚無感のなか、産声をあげようとするある言葉に、必死に蓋をする。間違っても自分が求めていい言葉ではなかったからだ。
六大貴族の均衡。ゲルミス、ステイレル家。戦争。遠い昔の、誇りと約束。
数多のしがらみがキリヤを縛り付け、身動きがとれない。呼吸さえ封じられてしまうような錯覚。
それでも、キリヤは歩みをとめてはいけなかった。
(もう、私はとまれない)
無理矢理納得しようとする心中に、誰かが呼びかける。キリヤのよく知っている人間の声。
(ほんとうに?)
「……だまってくれ」
押し殺したような声音は風に消え、幸運にも、連れ立つ二人が振り向くことはなかった。
■
少女は少女で、馬車内でキリヤと——父からの問いに思考を沈めていた。
頬の痛みは、少女にとっては特別に問題視するものではなかった。問いに対する答えを少女は本当に持ち合わせていなかったし、自身に対する父の態度も非日常のそれではなかったからだ。
どうして、あの時図術を使ったのか。予定にない行為だった。もちろん少女も承知していた。そんなことをすれば、帳尻を合わせなければならなくなる。もし合わなかったならば、たぶん父のやろうとしていることは失敗するだろう。
——それをどこかで期待していたのだろうか。
(期待する? なぜ?)
即座に内心で否定する。自分の経験から、それはありえない推察だった。
(わたしは待たない)
それは数少ない、少女が自身に課した自分だけの国の法律。一人だけしか入れない、ちいさな部屋の決まり事。遵守することによって、安寧はもたらされる。
だが、少女の到達した真理にひずみが生じていると、少女は奥底で気付いていた。
部屋の扉を、ゆっくりと叩く音がするのだ。音は微かで、すぐに溶けていく。でも、耳をそばだてると、確かに聞こえる。
扉の向こうになにがあるのか、少女にはわからなかった。もうこれ以上、音について思い悩んではいけないと、頭の別のところで警鐘が鳴っている。
しかし、考えずにはいられないのだ。ほとんど顔も覚えていない母の首飾りのこと。探るように自身を見つめ、話しかけてくる女の教師のこと。理知的な金髪の青年。快活な茶髪の青年。そして、二人を引き連れた、あの黒髪の青年のこと。
答えが欲しかった。でも、どんなに巡らせても、わからない。
前を歩く赤毛の女性や自身の父に訊ねたとて、きっと答えてはくれないだろうと、少女は理解していた。
柱廊を通り抜け、三人は管理塔の根元まで到達する。何十とある入り口のうちの一つは、ひとけがまるで感じられなかった。
二人の足がゆっくりと止まった時、少女は仰ぎ見る。
今は少し灰がかった、青銀の柱。
上天に見える柱の半ばからいくつか突き出ている輪の上に、数多の施設が存在する。
少女は上げた首を戻し、正面を見据える。男はもう歩を進めており、赤毛の女性がちらりとこちらを窺っていた。
(わたしは、待たない)
少女は一歩、塔へ向かって踏み出す。
その固く握られたてのひらが意図しているものではないと少女は気付かなかったし、先程まで没頭していた懊悩が逃避であるということも、少女はまだ知らなかった。




