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小雨に変わった天候のなか、赤毛の女は佇んでいた。
夜闇を赤く切り裂いているのは、半ばから折れた大木を舐める炎の群れだった。ほとんど小降りとはいえ、さすがに周囲に燃え移ることはないようで、せわしなく揺らめきながらほんの少しずつ小さくなってゆく。
女の眼下に横たわるのは、黒髪の青年。気を失っており、眼は瞑られている。
仰向けのまま、指先さえぴくりとも動かない。浅く上下する胸元からわかるように、息はまだあるが、左手足の出血は酷かった。さらに、その呼吸は小さく、また不規則で妙な雑音が含まれている。肋骨かなにかが肺にささっているのだろうか、このまま放置しておけば、遠からず死に至るのは誰の目にも明らかだった。
すぐ側に、片刃の剣が地面に突き刺さっている。柄頭から握りこぶし一つ分、血に染まっていた。
女は左手に携えた細剣を鞘に納めたあと、青年の体に身を寄せようとし、しかしやめた。
森の奥から足音が聞こえてきたからだろう。間隔はかなり狭く、乱れている。ほとんど走っているといってよい。
二人の男が紅色の双眸に映った。一人はかなり大柄で、長い茶髪だった。もう一人は金髪で、眼鏡をかけている。
「……遅かったな。それを早く施療院へ運ばんと、死ぬぞ」
キリヤは黒髪の青年を顎で指し示しながら、二人に言い放った。男たちはその体を確認し、一様に驚愕の表情を浮かべる。
「……!!」
「おい……こいつになにをしたぁ!」
あからさまに敵意をむき出しにしたのは茶髪の男で、佇んでいた赤毛の女に怒鳴り声をあげる。
「喚くな」
女はうるさそうに茶髪の男——アーシスを一瞥した。
金髪の男——マルスは、すぐに怪我の程度を調べはじめた。マルスの青ざめた顔から、黒髪の青年の容態が危険であるとアーシスも知った。
「ヨクリ、ヨクリ!」
金髪の青年は、黒髪の男の頬を軽く叩きながら、その名を呼ぶ。意識の有無を確認するが、いらえはない。
頬に刻まれた細かな傷は、おそらく倒壊した大木の木片に寄るものだろう。青ざめた顔と紫色の唇から、相当量の血が失われていることがわかる。顎と髪の先は焦げ付いて、金髪の青年の距離くらいまで近づけば、微かに嫌な臭いを感じとれる。
マルスは固く拳を握って間に合わなかった、とぽつりと呟いて、
「……キリヤ・K・ステイレル……高名なステイレル卿が、弱者をこうも嬲るとは……」
貴族としての有り様を説くかのような非難の声を投げた。しかし赤毛の女——キリヤはどこ吹く風で、
「弱者とはずいぶんではないか。ただの野良具者が私の剣を躱したのだ。十分過ぎるほど強者だろう?」
並の具者なら初撃で決まっていたよ、と続けてうそぶいた。
「貴女とは再会を祝す仲でも、そういう状況でもない。……アーシス、ヨクリを運ぶ。手伝ってくれ」
マルスはキリヤの言葉をおざなりに返して、アーシスに手早く言付ける。
「だが!」
キリヤの放った台詞が聞き捨てならないのか、アーシスは抗議の声をあげるが、
「引いてくれ、アーシス! ……傷が深いんだ。時間が惜しい」
マルスの静止に、アーシスは眉間いっぱいに皺を寄せ、キリヤを睨みつける。重要なことがどちらか判別を付けたようで、
「くそっ……」
悪態をつきながら地面に刺さった刀を引き抜いて、ヨクリの体を起こし、腰の鞘に納める。そのまま背負って、マルスとともにこの場を離れる。
マルスとキリヤの視線が、一瞬だけ交差した。
森林を駆け抜ける影が二つ。一つはアーシス、もう一つはマルスだ。松明も持たず、がむしゃらに帰路を辿る。マルスは走りながらも、冷静にヨクリの状態をアーシスへ伝えた。
「エーテル崩壊が始まっている」
「なんだよ、そりゃ」
「左手を見るんだ」
アーシスの肩越しから伸びるヨクリの左手を、アーシスは右手でヨクリの体を安定させつつ、あいた手で裏返す。その掌の血に染まった奥にあるものは。
「これ……骨、か?」
確認したアーシスの声音は震えていた。
「遠からず、左手全部が消失する。急ごう」
気に留めないマルスの口調は、しかし固く、アーシスもかぶりを振って思考を切り替える。
「あんたが背負ったほうがいいんじゃねえか? 獣がやべえ気がする」
「僕の力では、この足場でヨクリを支えながら速度を出すのは難しい。敵は……」
早口に説明しつつ、マルスは杖を握りしめ——
「これでなんとかする」
アーシスらの周囲に、展開紋陣が”三つ”現出する。
「これは……」
「支配領域と紋陣を張り替えつつ移動しよう。この際、エーテルの消耗は細事だ」
「ひとまずわかったぜ。だけどよ」
アーシスは後方のマルスに、
「——嬢ちゃん、どこいった」
「アーシス」
マルスは引具に集中しているようで、眉を寄せつつ、
「いいか。ヨクリの傷は重い。加えてずぶ濡れだ。ここから駆けて拠点の駅まで四半刻はかからない。だが、列車の時間と、施療院までの距離。長いんだ、今は刹那さえ惜しい。ヨクリにだけ気を配るべきだ」
アーシスはヨクリの血の気の失せた顔を見たあと、
「……くそったれが」
唇を噛んで、足を速める。
■
辛くも、アーシスらは間に合った。
日付が変わる直前の時間に開いているのは、中央施療院のみだった。重患であると判断されたヨクリは”医術”による施療と、治癒液処置の全身治療でしか回復が見込めないとみなされ、その治療費は大金を要した。本人であるヨクリの意識は戻ってはいなかったので、マルスがその代金を肩代わりすることで、ヨクリの治療がみとめられた。
容態が落ち着くまでヨクリに付き添っていたアーシスらが家路についたのはそれから二刻が経過した深夜だった。打撲が多数、大腿部の刺傷、胸部周辺の骨折、左手の崩壊。肋骨の一部が肺に刺さり、僅かでも遅れていたら命はなかったらしい。肺の骨は”医術”によって取り除かれた。のちの治癒液による療法でも、二週程度かかると医務員から伝えられた。
次の日、昨日の天候を引きずった小雨の降る中、わからないことだらけだったアーシスがマルスの家に赴いたのは必然だった。
出迎えたマルスはなにも言わずにアーシスを部屋に招き入れる。見慣れた作業部屋ではなく、マルスの自室だった。自室に関しても、本棚には様々な書物が押し込められ、覚え書きが書机に並べられている。あまり整頓はされていないようだったが、おおざっぱには片付いていた。
アーシスは雨に濡れた外套を脱ぎ、適当に畳む。
マルスはアーシスの神妙な顔つきを見たあと、座るのを促す。アーシスは書机の椅子に腰掛けると、女中が茶を二つ持ってくる。一つを書机に、もう一つはマルスへ渡した。マルスが言付けると、アーシスの外套を引き取って、戻っていった。
昼下がり、小さな窓から覗く空は重く、これからの話題が明るいものではないということを示唆しているかのようだった。雨粒が微かに窓を叩く音が室内に響く。
マルスは一度啜って寝台に座り、備え付けの棚にカップを置く。アーシスは一気に呷り、半分ほど飲み下してマルスに向き直った。
「なあ……マルス、なにがあったのか、あんたなら知ってるんだろ」
「……そうだな」
マルスは深い息を吐いて、
「君よりはおそらく事情に通じているだろう。だが、なにから話したものか……」
マルスは眼鏡を上げて言いよどんだ。アーシスは金髪の青年が答えられやすそうな問いに切り替えてゆく。
「あの、赤毛の女、ほんとうにキリヤなのか?」
「ああ。キリヤ・K・ステイレル。ステイレル家の長女で、ヨクリの、友人だった女性」
「あいつをあんな目に遭わせたのも、キリヤだってのか」
「……おそらくはな。ヨクリの衣服が胸部を中心に焦げ付いていた。髪と顎先もな。あれは、ステイレル家の図術だろう」
「なんでそのキリヤがヨクリと戦りあってたんだ? ……依頼はそのキリヤからもちかけられたもんなんじゃねえのかよ」
なおも、アーシスは質疑を重ねる。マルスは一度黙し、僅かに俯いた。その間アーシスは再びカップに口をつける。
マルスは思考を整理し終えたのか、囁くように口を開く。
「……基礎校を卒業して丁度一年後くらいだったか。偶然ヨクリに出会ったんだ。卒業直前の彼の様子は尋常ではなかった。連絡先も交換しないままだったから、驚いたよ」
前置きから察するに、長くなりそうだった。アーシスは自身の記憶をなぞるように、マルスに教える。
「オレが初めて会ったのと時期が近いな。……根暗で冷めてて、そのくせ実力はある。どうにも不安定に見えたな」
マルスはアーシスに頷いて、
「そのときは二、三会話してすぐに別れたんだが、数週後にヨクリが家までやってきて、『引具の暴走について教えて欲しい』と訊いてきた。理由を訊ねたが答えようとしなかったから、僕の知識と引き換えに要求したら、ようやく口を割ったよ」
マルスはそこで話題を変えて、
「ヨクリは落ち着いてきていたんだ。君から見て、彼は変わったろう?」
アーシスは苦笑混じりに、
「ん、最初よりはとっつきやすくなったな」
「切っ掛けがどうだったのかは僕の知るところではないが、ひょっとすると、君のお陰なのかもしれないな」
そのマルスの言葉に、アーシスはきょとんとして訊ねる。
「……なんで、そう思うんだ?」
「君は彼の周りにいる人間とは、少し違うから」
アーシスとて、ヨクリの交流の一部しか知らない。アーシスはぴんとこなかったのか、再び首をかしげた。
「なんだそりゃ」
「友人として礼を言うよ。ありがとう」
マルスの真摯な視線ともの言いに、アーシスは出し抜けに照れて、それを隠すように続きを促す。
「やめろよ。本題じゃねえだろ」
マルスはそうだな、と微笑して、表情を真剣なそれに置き換えた。
「……元々のヨクリは今の性格に近かったんだ。……彼が変わったのは、基礎校の卒業試験で起こった事故のせいだ」
「事故?」
「ヨクリからの話だから、彼の主観が入っているかもしれないということは念頭に置いてくれ」
マルスは予防線を張って、
「試験を受けていた一人の生徒が引具暴走を引き起こした。……彼女は、ヨクリの友人だった。二人一組でで行われた試験で、その人物と同行していたのも、ヨクリだった」
金髪の青年は淡々と概要を解説していく。アーシスは固唾をのんで耳をそばだてる。
「事故は秘匿された。ヨクリの不注意で起こった引具暴走として処理されたが、ヨクリから聞いたその状況が本当なら、事実はそうじゃない。……彼女は”エーテル親和症”だったんだ」
「エーテル、親和?」
聞き慣れない単語に、アーシスは訝って単語を返した。
「エーテル技術が安定期にはいった近年から発見された、病というよりは体質に近い。おそらく、もっと昔からあったものだろう」
マルスは専門的な知識をアーシスに説明する。
「……ごくまれにだが、エーテルを過剰に吸収する体質の人間が生まれるんだ。その体質のことを便宜的にエーテル親和症と呼んでいるが、詳しいことはまだわかっていないんだ。親和症の人間は本当に珍しいから」
マルスは一旦言葉を切った。ここからが本題だった。
「その人間が引具を用いて図術を起動させると、日頃から体内に蓄積されていた膨大な量のエーテルが引具に供給され、引具がエーテルを図術として処理できなくなり——暴走する」
「……暴走って、どうなるんだ」
アーシスが固く問いかける。マルスは仕組みから丁寧に説く。
「圧縮、という言葉がある。極限まで濃度の高まった液体以下のエーテルは、質量に応じたある数値を超えると気体に戻る。圧縮されて気体に戻ったエーテルは凄まじい速度で拡散する。これを突破と呼ぶのだが」
気体のエーテル自体は珍しいものではない。だが、ここでは濃度が重要らしかった。
「突破したエーテルは、周囲の物体をエーテルへ戻す。無機、有機を問わず……結合の強固ささえ無視したエーテル崩壊が起きるんだ」
エーテル崩壊。傷を負ったヨクリを背負った時に、アーシスがマルスの口から聞いた単語だった。
「ヨクリの連れはどうなったんだ」
マルスはその問いに目を閉じて、痛切に語った。
「……命までは失ってはいなかったらしいが、もう二度と目を覚ますことはないだろうと、人づてに聞いたよ」
「…………」
アーシスは言葉を失った。
「……何故その事故が隠されたのかはわからない。大きな組織が動いているのは、間違いないがな。ただそれでも、その事故の責任を取ったのがヨクリだった。……上等校の受験資格剥奪。それがヨクリへの罰だ」
「罰って……ヨクリはなにも悪くねえだろ? なんで罰なんて」
マルスは首を振った。
「甘んじて受けた理由については、ついぞヨクリから聞けなかったよ。ただ、さっきも言ったように”エーテル親和症”の事故は秘匿された。現場を目撃した人間が何人か居たから、操作を誤った引具暴走として処理されるならば、その責を負う人間が居たほうが説得力が高まるだろう? ……引具の暴走でさえ今日日ほとんど例がない事態だから、特殊な事故の偽装にはうってつけ、という理屈だ」
「……腐ってやがる」
「……こんなことを言いたくはないが、シャニール人だから。……更に都合が良かったんだろう」
隠蔽のための贄。それがヨクリだった。立場の低いシャニール人。その位をあげる足がかりさえ、ヨクリは失ったのだ。
「……なんであんなに強いのに上卒じゃなかったのか、ようやく納得できたぜ」
腑に落ちたアーシスに、マルスは釘を刺した。
「……君はヨクリを買っているみたいだが、上等校は、ヨクリの技量でようやく入れるかどうか、というところなんだ。ステイレル卿は基礎校時代からヨクリ以上に強かった」
アーシスは昨日の森で見た光景を思い出していた。ずたずたにされたヨクリが横たわっている所と——息さえ切らさずに無傷だったキリヤ。ヨクリほど腕の立つ具者はアーシスも数えるほどしか知らなかったから、アーシスは信じられなかった。だが、マルスの物言いを耳にして、それは起こりうることなのだと痛感した。
「話を戻そう。……ヨクリはその事故が切っ掛けで性格を変えた。そして、あの森で見た光はエーテル光だ。それも、限界まで蓄積された」
「……」
「正確な評価を下すと、同年代のうちでのヨクリの実力は中の上。良くて上の下だろう。……勝てる道理はなかったのに」
マルスはヨクリの技量を診断しつつも、唇を噛む。
「ヨクリには、どうしても引けない理由があったんだ。……でなければ、逃げた筈だ。ヨクリは力量の差を見誤るほど愚かじゃない」
言葉を詰めたマルスの口は、しばらく動かなかった。アーシスは森の中で訊ねた問いを、今一度金髪の青年に投げかける。
「——嬢ちゃんは、どうなったんだ」
マルスはきつく目を瞑って俯いたあと、顔を上げた。悲痛な決意を感じさせる表情だった。アーシスは直感する。マルスは、なにかを掴んでいる。
「……君がこの話を聞いたら、きっと僕を軽蔑するだろうな」
小さく自嘲したのち、マルスは口を開いた。
「多分、フィリル・エイルーンは……エーテル親和症だったんだ」
アーシスは目を見開く。それが本当だとしたなら——残酷だったからだ。驚きの抜けないまま、問いを重ねることしかできない。
「なんで、わかるんだ」
「森で見た光。あれはエーテルの光だ。あの場に居たのはヨクリとステイレル卿、それに、おそらくエイルーン嬢。引き算すれば、誰のものだったのかわかるだろう? ……それに、僕はその前から薄々感づいていた」
その告白に、アーシスは怒りを持てなかった。ただ、多くを知りたかった。
「なぜだ」
「……僕にしかわからない兆候が、確かにあったからだ。彼女だけじゃない。もっといろいろなことが、僕に教えてくれた」
マルスは固く拳を握りしめながら、
「……知っていたんだ。でも、言えなかった。言ったらどうなるかわからなかったからだ。無茶をするかもしれなかったからだ。でも、僕がもっと彼を信じて、勇気を出していたなら、あんなに傷つくこともなかったかもしれない!」
金髪の青年のなにかに急き立てられているような口調は、最後には怒鳴り声にも似た切ない色に変わっていった。
マルスは、自身を責めていた。
「なあ、アーシス。僕はこれからどうすればいい? どうやって、彼に——ヨクリに謝ればいい? 僕にはもう……」
わからないんだ、という最後の言の葉は消えかけていた。
「……オレには、なんとも言えねえ。言う資格がねえ。なにも知らなかったオレには」
アーシスも、悔しかった。なにひとつ聞かず、ただヨクリの友人として過ごしてきた日々が、ヨクリに対する逃げのように思えたからだった。
「オレたちにはこれからアイツの力になってやるくらいしか、してやれることがねえんだ」
アーシスは自分に言い聞かせるようにマルスに告げる。
「ヨクリは、それを許してくれるだろうか」
「わからねえ。でも、マルスは許してほしいんじゃねえんだろ?」
「……」
「誰かの力になってやりたいって気持ちは、誰に対してでも持てるもんじゃねえんだ。あんたは、ヨクリの力になりてえだけだ。そうだろ」
マルスは肩を落としながら、
「……僕が挫折しそうなとき、ヨクリは力を貸してくれたんだ」
貴族とシャニール人という地位の垣根を越えて友人として付き合ってきた二人だ。その二人を結ぶ大きな出来事があったのだろう。アーシスも、ヨクリに助けられてきた。
「ああ。……だから、アイツが手を貸して欲しいって言ってきた時、助けてやりゃいい」
言い切って、アーシスはマルスを見遣った。感情の揺れはもう納まったらしい。
「……そうだな。それくらいしか、僕にはできない」
アーシスは頷きを返した。
ヨクリの辛苦はアーシスが計れるものではない。今聞いた話以外にも、おそらく辛い経験をしてきたのだろう。シャニール人はこの国で生きにくい。だが、一度友と決めた人間は切り捨てられるものではない。それをしてしまったら最後、大切な生きる指針を失ってしまうからだ。
アーシスは考えを落ち着かせるために、カップの中身を飲み干した。
暖かかったそれは、すでに冷めていた。




