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途上のシャムロック  作者: 納戸
贄のこども
23/96

   3

 キリヤはヨクリの襟を外套ごと両手で掴むと、座り込んだままのヨクリを引き起こし、軽く突き飛ばした。どしゃりと、水分を含んだ泥濘にヨクリは尻餅をついた。糸の切れた人形のように、無抵抗だった。キリヤは呆然としているヨクリにちらりと視線をやったのち、男に向き直った。


「……これか、あるいはあれかは知らぬが、ずれたな」

「……」

「が、支障ない。判断は評価に値する」

「勿体なきお言葉」


 男のほうがうつぶせになったフィリルを無遠慮に仰向けにし、下瞼を引っ張って瞳孔を確認するなどしていた。泥に汚された少女の顔を、ヨクリはほうけたさまで見た。


 雨脚は強まっている。男とフィリルの背後が、蒸気で揺らめいていた。はっとしたヨクリが左手を顔に近づけると、雨で自然鎮火されつつある向こうの炎のおかげで、傷の状態がようやく把握できた。掌底から指先まで、血に染まっている。かなりの量が雨に流されているはずだったが、出血は止まらない。


「……エーテルに当てられたか」


 顔を向けると、キリヤが鋭い双眸でヨクリの左手を見据えていた。呟いたキリヤは、うっとうしそうに濡れた髪を掻きあげる。微かに鼻を通り抜けた嗅いだことのない香油の匂いを、ヨクリは場違いに、なぜか懐かしく感じた。


「どうなって、いるんだ」

「おめでとう」


 どの問いなのかもわからぬ問いには答えず、キリヤは短く祝辞を述べる。


「お前の役目は終わりだヨクリ」

「なん、だって」

「どこへなりとも失せるがいい。依頼は完遂だ。喜べ」


 嘲笑が混じっていると受けてしまったのは、妄想だろうか。ヨクリは取るに足らぬ考えを巡らせていた。


「野良に構う時間はない」


 錆び付いた声音は、ヨクリに投げられたものではなかった。


「はっ」


 キリヤの返答は、先程の冷徹な声の主に向けられていた。 


 男はフィリルの体を起こし、気を失ったままの少女を無造作に担いだ。だらりと下がった両腕。濡れた少女の髪から、ぽたぽたと雨粒が滑り落ちる。

 それを目の当たりにした瞬間、ヨクリの目角が釣り上がる。かっと全身の熱が駆け巡り、唸り声に似た静止を男に投げた。


「待てよ……」


 男は詰まらなさそうに、ヨクリの顔を一瞥しただけだった。その、お前は取るに足らない存在だと揶揄するような仕草に、ヨクリの怒りは濃く深くなる。


「待てって言って……」


 言葉が途切れたのは、ヨクリの意図ではなかった。


「がっ……」


 キリヤが靴のつま先で、ヨクリの顎を思い切り蹴り上げたからだ。ヨクリは小さく呻き、ぱたた、と、数滴の泥水が頬にかかる。


「貴様、誰に物を言っているつもりだ? ……身のほどを知れ」


 赤毛の女は冷めた声音で、ヨクリを言の葉で斬り捨てる。

 舌を噛まなかったのも、刀を手放さなかったのもただの幸運に過ぎなかった。


「黙れよ」


 乱れた前髪の奥から、キリヤを睨みつける。


「フィリルを、どこに連れて行く気だって訊いているんだ! ……答えろよ」


 二度目の蹴りが飛んでくるが、ヨクリは重傷の左手を握りしめ、その腕で受け止めた。激しい痛みは漠然とした怒りに呑まれている。持ち上げた腕につう、と血が垂れ、裾に滲んだ。足を引いたキリヤは眉間に皺を寄せ、また無表情に戻す。


「それこそ、貴様には関係ない」

「なに……?」

「貴様の利いた口が誰に向けられていると思っている? 不遜も極まるぞ。このかたは、ヴァスト・L・ゲルミス閣下であらせられる。……お前の言うフィリル……フィリル・E・ゲルミスの、実の父親だ」


 ——馬鹿な。


(ヴァスト? この男が、ヴァスト・L・ゲルミス? ——六大貴族の、ゲルミス家当主で陸軍青将の、ランウェイル軍の重鎮の?)


 ヨクリは、ヨクリの知っている限りの情報を頭に垂れ流す。

(そのゲルミスが、なんだって)

 ——フィリルの、父親だって?

 黙りこくったヨクリを置き去りに、ヴァストとキリヤは目線を合わせた。


「処理しておけ」

「はっ」


 ヴァストはキリヤにそう言い伝え、身を翻した。無骨な足取りで森の奥へ歩を進める。ヨクリはこのまま逃せば、なにか大切な物を失いそうな気がして、


「話は終わっていない!!」


 立ち上がり、叫びつつヴァストのほうへ詰め寄ろうとし、けれど立ち止まらざるを得なかった。剣の切っ先が、ヨクリののど元をぴたりと捕らえていたのだ。


「ヨクリ……もう終わったんだよ」


 それは聞き分けのない弟を叱るような口調だった。睨み合ううちに、ヴァストの姿は消えていた。キリヤは剣を下げて、


「……ご苦労だった」


 ねぎらったキリヤの揺れた瞳を見て、ヨクリは全てを悟った。


 全部。

 全部この目の前の女が、仕組んだのだ。


 ヨクリに少女の教育を持ちかけたのも——今日の不備だらけの計画も。ヨクリがキリヤの性質を知悉していて、だから依頼を降りることをしないと読みきっていた。

 そこまで推理して、天啓を受けたように、ばらばらの線がヨクリの脳裏で収束する。


「……いつからだ」

「なんの話だ」


 キリヤの目がすうっと、細められた。


「いつから尾けてたって訊いてんだよ……」


 全て説明してもらわねば、納得できるはずもなかった。


「お前がレンワイスに入都した直後から、だよ」


 キリヤはそこで初めて笑みを浮かべ、


「お前はこの街で私と再会し、”ツイてない”と思ったろう? ……その通り。お前は運が悪かった」


 つらつらと、キリヤはヨクリの心象を並べ立てる。眉毛を読んだその推察は、悔しいくらいに当たっていた。


「……お前の役目は誰でもよかったんだよ、ヨクリ。……ただ、隙をあまりみせなかったのは褒めてやろう。口実をつくるのに、骨が折れた」


 間、都合、状況。あまりに按排が良過ぎるといぶかったのは一度ではなかった。維持隊の突入も、そこにヨクリ自身が居たことも、依頼の内容も、その対象がシャニールを嫌悪しなかったのも——暴走も。なにもかも。


「……送信機っ」

「ご名答。波動送信機だ。向こうは受信はできんが、合図は送れる。部下に持たせた」


 金の分配の際、あの不審な動きをしていたのは、キリヤの息のかかった——維持隊の人間だったことをヨクリははじめて理解した。


「……さて、お前にもう用はない。都市へ戻って、気ままに暮らせ」


 抑えきれなかった。目の前がかっと赤くなって、もう止まらない。悔しくて、悲しくて、情けなくて仕方がなかった。


 手がかりはいつだってヨクリの鼻先にぶらさがっていた。でもヨクリはずっとさきを馬鹿みたいに皮算用していて、すぐそばにあった数多の疑問に目をつむってしまった。一つでも良く見て、訊ねて、考えていれば——こんなことにはならなかったのに!


 ヨクリは確信めいた予想を、確かめねばならなかった。もうそれくらいしか、あの少女にしてやれることはない。


「……フィリルは……エーテル親和症なんだろ……?」


 だから魔獣の出現が異常に多かった。フィリルの体内に蓄積されたエーテルに引き寄せられて。初触を一発で終わらせたのも、おそらく、親和症が原因だったのだろう。だって––––ヨクリの記憶に居る少女も、そうだったのだから。


「……」


 キリヤは答えない。


「なぜ引具を使わせた……暴走を引き起こさせた!!」


 ヨクリはわななき、キリヤを糾弾した。


「……暴走は起きていない」


 嘘だ。キリヤの全てが、ヨクリには信じられなかった。


「……なにが目的なんだ」


「お前に関係がある筈もないし、答える必要もない」


(誰でも良かったなんて言わせない)


 そうでなければ、ヨクリを選ぶはずがない。なら、説明する義務はあるはずだ。

 ヨクリの頬を伝っているのは、なおも降りしきる雨。衣服は濡れそぼち、体温を奪ってゆく。だがヨクリには瑣末事だった。


「……引くと思うのかよ……俺が……!!」

「……ふん」


 キリヤは鼻で笑い飛ばして、


「——ならば、ここで死ぬか」


 ヨクリの境界線を、その台詞が飛び越した。


「キリヤぁぁぁぁぁぁ!!」


 衝動的に、ヨクリは両手で刀を握り、強化図術を起動していた。


 なんの戦術的意味もない雑な攻撃を、キリヤは軽やかに後ろに跳んで躱した。キリヤの左手には、装飾の施された細剣が携えられている。


 ヨクリは我を忘れ、なおも刀をむちゃくちゃに振り回すが、キリヤにはかすりもしなかった。


「……捌くまでもない」


 キリヤは落胆した目で、


「あまり失望させるなよ、ヨクリ」


 力を抜いた姿勢から、目にも留まらぬ速度でヨクリの剣先を弾いた。それだけでヨクリの体勢は崩れ、ぬかるんだ地面に足を取られる。滑りながら、ヨクリは本能だけで転倒を堪えた。


 金属質の残響が雨音に消えて、ヨクリはようやく我に返る。気付けば、先刻よりも雨脚は弱まっていた。しかし、憤怒は燻らず、いまだ心中で燃え盛っている。


「随分執着しているな、ヨクリ。……女を魅するのは相変わらず得意らしい」

「黙れ」


 キリヤの挑発を一言で殺し、刀を構え直しながら、


「……俺が、なにも知らないと思っているのか……」


 キリヤは細剣をだらりと下げたまま、いらえを返さない。ヨクリは声音を振るわせながら、


「あいつがエーテル親和症で——あの事故に関する全ての事柄は抹消されている。……君はなにを知っている?」


「……!」


 キリヤが僅かに瞠目する。


「答えろぉぉ!!」


 ヨクリの詰問に、キリヤはか細い声で言い捨てる。


「……今更だ」

「なに……!?」

「お前は誰の手も借りず、ひとりで背負い込み、潰れた」


 振幅の小さかったキリヤの表情が、打って変わって激しいものになる。それは、ヨクリに勝るとも劣らぬ、怒りだった。


「それだけの話だろう? ……捨てたのはお前だ。あのときも……そして今も」


 言い切って、キリヤはようやく細剣をヨクリへ据える。


 細剣の切っ先からひとしずくの雨粒が滑り落ちたとき、キリヤの重心が僅かに下方へずれ、その姿が煙のように揺らめいた。


 身を襲う殺気。


「ぐっ……」


 光芒が、三度ヨクリとキリヤの間で煌めいた。ヨクリにはまるで見えず、急所を防御することしかできなかった。弾けたのは二発。左の太腿がヨクリへ異常を伝えた。


 痛覚にかまける暇はなかった。攻撃に回らねば——殺される。


 咄嗟にそう下し、ヨクリはキリヤへ接近、逆袈裟に斬りつける。いくばくかの冷静を取り戻したヨクリの、今出せる渾身の一撃だったが、たった半歩の後退で躱され、刃がむなしく空を裂く。


「遅いな」


 手首を返し、更に詰め寄っての斬りおろしも巧みな足さばきで後ろに大きく跳躍したキリヤには当たらない。


「欠伸が出る」


 苦笑混じりの侮蔑だった。技量の差を見せつけられている。いつでもこちらの息の根を止められる、という余裕。


(なんとしても、吐かせる。……丁度風下だ)


 ヨクリは迷わなかった。腰のポーチから栓のされた筒を二つ取り出し、一つをキリヤへ投げつけた。キリヤは小さなそれを精密極まる迎撃で、見事に割り砕く。中に入っていた液体が飛散したちまち霧になると、一拍ののち、異変に気付いたであろうキリヤは後ずさりし、地に膝をつけた。


 毒だ。ヨクリの奥の手だった。対魔獣用に調合された代物だったが、人体への影響も十分にある。霧散した毒を吸い込めば、体の自由を奪われるのだ。


 もう一つを足下に叩きつけ、深呼吸する。


 こちらは、キリヤへ投げた毒の中和剤だ。事前に吸い込んでおけば、ある程度減毒できる。嗅ぎなれた臭いを感じ、好機とばかりに距離を詰める。


 キリヤの引具を弾き飛ばそうと、左手めがけて刀を振るった、その瞬間。


「馬鹿が」


 弾かれたのは、こちらの刃だった。赤毛の女は嘲笑し、電光石火で立ち上がりつつ斬り下がり、大きく距離を取る。一本の大木を背にし、ヨクリに言った。


「効かんよ。……お前の所持品が一度押収されているのを忘れたか」


 先程キリヤが居た場所で、ヨクリは立ち止まっていた。足下に転がっている破片は、ヨクリの持ち物ではない。


(分析、されていたのか)


 膝を折ったのは、毒にあてられたからではなかった。自身の中和剤を散布するためだ。––––こちらに気付かれずに。


 濃厚な敗北の気配。体術は完封され、切り札も通じない。一つ一つの動きの冴えが、まるで違っていた。積み重ねてきた経験の質に、決定的な差があった。自身が築いてきたものが足下から瓦解するような、迫る喪失感。


 しかしヨクリは諦めなかった。中空に、展開紋陣を呼び出す。


「……ほう?」


 路上の曲芸をみた往来人のような、キリヤの好奇の視線。

 形成から作動まで、キリヤは身じろぎ一つしなかった。それが油断なのか余裕なのかを考えることさえ、ヨクリは止めていた。


 破砕された紋陣の中央から、キリヤへ向かって渦巻いた空気が射出される。キリヤは飛び上がり、後ろの大木から伸びる枝を右手で掴むと、ひらりと身を返し、しなやかに枝の上へ踊り乗る。


「”旋衝”か。……出回っている術のうちでは、確かに強力で制御も難しい」


 烈風とともに幹が粉砕され、大木はヨクリのほうへ倒れてくる。キリヤが枝から飛翔しヨクリの頭上を越えると、二人の位置が反転する。


 水気を含んだ轟音。倒壊と同時に泥水が飛沫をあげ、木っ端が巻き上がる。ヨクリはその直前に顔を庇いつつ右に跳躍して、大木の下敷きにされるのを免れていた。


 あと僅かでもキリヤの姿に気を取られていたら、ヨクリは命を落としていただろう。安堵する間もなく、足下に描かれるのは展開紋陣。


(敷陣——!)


 発動の直前で、ヨクリは再び逆へ飛び退いた。体が地に横たわる大木を越えると、紋陣から回転する火柱の噴流が、空に向かって立ちのぼる。凄まじい熱気を感じつつ、なんとか躱す。


「さすがに、避けたか」


 キリヤの声を遠くで聞きながら着地し勢いを殺すため足に力を込めようとして——。


 がくりと、左からくずおれた。太腿の刺傷のせいだった。受け身を取れず、滑りながら無様に転倒し、衣服が泥まみれになる。フィリルに注意を促したのを、今になって思い出す。


 顔を起こして目に入ったのは、雨に濡れた横たわる大木に、あろうことか敷陣の炎が燃え移っている光景だった。凄まじい図術制御に、ヨクリは遅れて戦慄する。


「そろそろ、時間だ」


 気付けば、キリヤがこちらへ疾走していた。必死に立ち上がり、反撃の体勢を整えるが、間に合わない。


「さよなら」


 呟きながら、至近距離で紋陣を展開したのはキリヤだった。


(紋陣は小さい。左右どちらかに避ければ——)


 反射的に左足を庇って右側に跳んだとき、キリヤの体を包み込む中和領域が眩く光ったのを目にし、次にヨクリが受けたのは更に強い光と熱、衝撃だった。


 空気が燃え、強烈な速度で拡散する。


 痛みで眦を決するよりも先に、ヨクリの耳に、自身の骨の折れる音が入った。

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