5
薄闇に濁った、寒々しい室内。二十人ほどを収容できる空間に置かれている筆跡や傷で息づく長机と椅子は、数えきれないくらいの人間がそこで勉学に励んでいたことを伝えている。
講座の時間はとうに過ぎていて誰も居ないはずだったが、教壇の前で、一人座り込むちいさな影があった。それは同年の男子と比べて、背の低い少年だった。黒髪は闇にまぎれ、青白い肌だけが浮き彫りになっている。窓の外はちらちらと雪が降っていて、冬期も半ばを過ぎたと語っているが、簡素な制服を着ただけの少年はその寒さに身じろぎ一つしなかった。
部屋の外、扉の向こうから足音が聞こえてくる。早歩きなのだろうか、音の間隔が狭い。徐々に近づいてきて、入り口できい、と蝶番が軋む。あらわれたのは一人の少女だった。暗がりでもはっきりとわかる、燃えるような赤毛。少しだけ幼さの残る、しかし血統の優秀さを物語る整った顔には、必死さがありありと見て取れた。少女は少年を見留めると、表情を取り繕ったが、失敗してくしゃりとまた歪んだ。
「……」
少女は無言で、明かりも灯さずに近寄った。少年は僅かに顔を少女のほうへ向けて、再び俯いた。少女はしっかりと見据えると、静かに語りかける。
「全て、きいた」
「……」
白い吐息と共に発せられた言葉は、悲痛さと、微かな希望が入り交じっている。
「……ヨクリ」
名を呼ばれた少年は、なんの反応も見せない。
「先生にも訊いた。……いろいろなひとが、うわさをしていた」
揺れる少女の声音は、今にも崩れそうだった。
「なあ、ヨクリ。……話してくれないか。私は、お前の言葉が、ききたい。……思い出したくないかもしれないけれど、それでも、ききたい」
「……みんなの言っていることは、全部、本当だよ」
ようやく少年は囁くような声で返した。双眸は生気を伴わず、うつろだった。
「……皆が言うんだ。……悪いのはお前だって。……詰まらないことを言うんだ。お、おまえがわざとやったって。……逃げたって」
緋色の瞳に、じわりとにじむ涙。
「……悪いのは、おれだ。おれはきみたちに、関わるべきじゃなかったんだ、キリヤ」
「ヨクリ!」
少女は少年の首元をつかみあげて引きずり起こした。側の教壇が、がたりと揺れ動く。そのまま少女は少年を壁際まで押しやって、しかし、わななく両手を、項垂れる少年の肩に置いた。
「知っているんだ、ヨクリ。お前は、そんなことを言わない。だって私は、私は、なにも言っていないから。お前は、不確かなものを、肯定しない」
何度も横に振る少女。二つに結わいた髪の毛が悲しそうに揺れる。
「私は、お前の口から、訊きたいんだ……」
「おれのせいで、あいつの未来は、めちゃくちゃになった。……それだけで、じゅうぶんじゃないか」
ゆっくりと語る少年は、少女を更に追いつめる。
「違う!!」
少女は怒鳴った。頬から滑り落ちた雫は、夜に溶ける。
「ぜんぜん、たりない……だって、私はまだ、お前の気持ちも……」
「そんなものは、どうだっていいんだ」
少年の諦観に満ちた声音も、少女は聞こえなかったように首を振って、
「私は、私は信じないぞ……教師の言葉も、皆の言葉も、お前の言葉でないと……」
「……みんなのいっていることは、ほんとうだよ」
二度目の台詞に、少女は腕を振り上げて、少年の頬に拳を打ち据えた。無抵抗で殴られた少年はしたたかに体を壁にぶつけ、窓が軋む音が響いた。少女は少年の胸ぐらを掴み、落ちそうな少年の体を壁に押し付ける。激昂しているのは明らかだった。それでも少年は顔をあげてぼうっと少女を見たあと、俯きながらきつく瞼を閉じた。
「なぜ、な、なにも……」
そこから先は、言葉にはならなかった。部屋は少女のしゃくり上げて泣く声だけで満たされてゆく。少年はやはり、返答しなかった。やがて嗚咽は聞こえなくなり、沈黙が訪れた。長くも短くも感じられる時を破ったのは、少女だった。
「……もう、いい」
平坦な声音は、絶望と諦念の色に染まっていた。するりと、少年の胸元から少女の両手が滑り落ちる。
「お前は、最低だ」
少女は興味を失ったように少年から視線を外し、涙の跡を残したまま、部屋から出て行った。足音は一度止まって、駆け足になる。だんだんと遠ざかって、聞こえなくなった。
残された少年は、壁に背を滑らせ、ほとんどずり落ちながら座った。ぴくり、と指先が動いて震えだす。それは全身に伝播し、小刻みに揺れる体を押さえつけるように両腕で膝を抱え込んだ。目一杯眉を顰めたのもつかの間、とうとうと透明な涙を両目から流す。唇をきつく噛んで、それでも堪えきれずに、てのひらで顔を覆った。
誰もいない部屋で、少年は一人声を殺して泣いた。
■
ぱちりと、そこで目が覚める。夢だと悟った。
「……なんで、今更」
声に精彩はなかった。まだ日の昇りきらぬ明け方だったが、とても寝直す気にはなれなかった。ゆらりと起き上がって、俯く。自然と自分の頬を撫で、水気のないのを確認し、ほんの少しだけ安堵する。夢につられて泣くなど、誰も見ていないとしても格好が悪すぎて、吐き気すらする。
今日もフィリルの指導があった。先日のおさらいで座学中心だが、昼からの予定だった。まだ大分時間がある。
基礎校の冬期休暇も残すところあと三日で、終わればヨクリはこの依頼から開放される。そうすれば、フィリルや——キリヤとも、もう会わなくて済む。なのに、どうして今日に限って。ヨクリは腹立たしくて仕方がなかった。あのときから、四年が経とうとしている。
じっとしても居られず、靴を履いたのち、部屋の荷物を探って布袋を引っ張り出す。備え付けの鉄皿を一緒に携えて、一旦部屋をでて鍵をかけ、露台へ向かう。この時間は、誰もいなかった。卓に皿を置いて、布袋の中に手を突っ込む。取り出したのは煙管と刻み煙草の入っている箱だった。先っぽの火皿に煙草を詰め、廊下のまだ明かりの点いている燭から火を貰って、再び露台へ戻る。椅子に朝露が降りているが、服が濡れるのも構わずに深く腰掛け、煙をくゆらせた。
ヨクリは普段あまり喫煙をしない。煙管の手入れも面倒だし、金も掛かる。煙草は嗜好品のたぐいに含まれるので、都市でも割高だ。加えて、体にあまりよくない。業者としては、少しでも病になる要因は遠ざけておきたかった。しかしそれでも、気持ちがささくれだったときにゆらゆら揺れる紫煙を見るだけでなんとなく落ち着くような気がして、その心の平穏を求めて無性に吸いたくなる時があった。たとえそれが偽物だと知っていても。
時折煙を口から吐き出しつつ、ぼうっと曙光の訪れを眺める。三階のこの露台は見晴らしがよく、欄干の向こうのあちこちから炊煙がのぼっていた。朝の気配。空も冴え冴えとした青が広がっていて、眼前は爽やかな景色だったが、ヨクリの心は陰鬱だった。いつの間にか、煙草の香りが消えている。かん、と煙管を乱暴に鉄皿へ打ち付けて灰を落としたとき、煙管の心配と、壊れたらまた買い直せばいい、という二つを先に思考し、そうやって冷静に計算しないと八つ当たりもできない自分が、ヨクリはたまらなく鬱陶しかった。
無心のうちに、たちまち三刻を告げる鐘が鳴る。屋外に身をさらしていたため、体は冷えきっていたが、気にならなかったらしい。我に返って部屋へ戻り、身支度を始める。そろそろ店も空く時間だろう。
朝食を摂るために宿の外へ出て、適当な店に入った。義務的に食事をしたのち、小ぢんまりとした図術用品店に入る。修繕済みのいつもの服を受け取って、再び宿に戻る。手早く着替えて、残りを無為に過ごした。
時間が来て、基礎校へフィリルを迎えに行く。合流したのち、マルスの家へ赴いた。ヨクリは自分が気落ちしていることを自覚していたので少女への応対に注意を払うつもりだったが、幸い道中は無言だった。
マルスが出迎え、いつもの作業部屋に入る。本棚からいくつか書物を取り出して、それを参考に話を薦めた。とりわけ干渉図術のうち、支配領域、展開紋陣、”動”の項目について集中的に説明する。例えば、展開紋陣の質だ。その細密さと大きさによって、エーテルの消費量や図術の威力などが決まる、ということはあの場で解説できなかったので、その旨をマルスはフィリルに伝えた。もっとも、少女はあの戦いのなか、二度干渉図術の一種である”氷錐”を使用しており、一度目は氷が三発、二度目は一発と、加減が出来ていた。例外はあるが、紋陣が小さければ小さいほど、その紋様が簡潔であればあるほど威力は低く、消費も少ない。
そういう干渉図術の細かい仕組みについて半刻ほど復習していると、切りのよいところで正午になる。講義中に貼付けた笑顔は思いのほかうまくいっていたらしく、金髪の青年はヨクリの態度に口を挟まなかった。
マルスの家で昼食を馳走になるわけにもいかないので、フィリルと共に足早に街へ出る。明確に悪態をつかれたことはなかったが、ヨクリはシャニール人で、ファイン家の凋落に深く関わっている人種であるから、使用人の覚えはよくはないだろうと、ヨクリは気にしていた。
朝は雲一つなかったが、真っ黒な雨雲が空を覆いはじめていた。はあ、とヨクリは計らず重たいため息をついた。
「方角、あっていますか」
唐突に、フィリルの声が耳に入る。道を確認すると、飲食街は反対側の通りだった。ぼんやりと歩いていたらしい。
「あ、ごめんごめん」
謝って、道を引き返そうとして、ふと裏路地が目に入った。ここを抜ければ、短縮できる。ヨクリは深く考えずに入って——すぐに後悔した。
表通りと違って、黒く煤けた道はひどく汚れている。端には誰の物とも知れない木箱や樽が乱雑に積まれて、今にも崩れそうだ。空の酒瓶や吐瀉物もそのまま放置されていて、においも最低だった。ヨクリはすぐに引き返そうとしたが、前方に見える人影に足を止め、フィリルを促して道端に置かれている木箱の側に寄って、男たちが過ぎ去るのを待った。男たちは三人横並びでこちらに向かってきており、立ち止まらないと肩がぶつかってしまうからだ。
柄の悪い男たちだった。肩を怒らせて威嚇するように歩き、平気で道に唾を吐き出している。絶対に関わりたくない手合いだったが、しかし、一番体格のよい真ん中の男はヨクリを視認するやいなや、わざと肩をぶつけてきた。
「てめえ、邪魔なんだよ」
「すみません」
よろめいたヨクリは反射的に頭を下げていた。男は嫌悪を隠そうともせずに渋面をつくり、ヨクリの頬を殴った。
「国に巣くうダニが、うろちょろしてんじゃねえぞ」
「すみません」
再び謝ると、舌打ちしながら男達は過ぎ去ろうとして——
「おかしいです。なぜあなたが謝るのですか」
——声をあげたのは、隣の少女だった。一瞬ヨクリはなにが起きたのか把握できなかった。そして意味を理解して、ぞっとした。
「あなたに落ち度があったとは思えません」
「エイルーン」
ヨクリにとっては、一発殴られただけで済んだのだから安いものだった。しかしそれを言ってしまったら元も子もない。フィリルを呼んで、言外に制止したが、
「わかりません」
疑問の声を上げる少女に、男は振り返って、眉間にしわを寄せた。もう、手遅れだった。
「こいつはうすぎたねぇシャニール人だろうがよ? それ以外の理由なんざねぇよ」
当然だと言わんばかりに男は主張するが、フィリルには通らなかった。
「なぜシャニール人が悪いのですか」
「おい嬢ちゃん……調子に乗るんじゃねえぞ」
ざり、と一歩近寄る男。ヨクリはとっさにフィリルの手を引いて、
「やめるんだ…………本当に済みません、この子はまだ子どもで……」
「あなたも、この人も、理解できません」
ヨクリは心底参っていた。どうして、こんなときまで質問をするのか、まるでわからなかった。
「そろそろ黙れよ、嬢ちゃん」
「なぜですか。わたしはあなたにこの人を叩いた理由が知りたいだけです」
ぶちり、と音が聞こえたような気がした。男は額に青筋を立てて、凄みのある声でフィリルに怒鳴った。
「ちょっと痛い目みないとわからねぇみたいだなぁ!?」
「すみません、すみません。俺が謝りますから、どうか」
ヨクリには平謝りするしか手段がなかった。しかしそれも男の癇に障ったようで、取りつく島もなく「てめぇと話してねぇよ姓無し」とヨクリを睨みつけたのち、少女に言い放つ。
「……嬢ちゃん。おれも子どもに手ぇ出したかねぇんだ。……今謝りゃ、許してやる」
「わたしがあなたに謝る理由はありません。許してもらうこともありません。なぜ、」
フィリルが再び質問するのを無視し、男はぴくりと眉を動かすと、無造作に拳を振り上げた。
(まずい)
ヨクリは男を見る。
動作に無駄がなく、早い。人を殴ることに慣れた挙動だった。咄嗟にフィリルの前に躍り出る。
「がっ……」
みしりという拳がめり込む感覚がヨクリの左頬に伝わり、体が跳ね上がる。遠いところで、「ちっ」と、舌打ちが一つ鳴った。
ヨクリはたたらをふみつつもなんとかこらえ、倒れなかった。自分一人だけだったならば気絶するふりでもしているところだが、そうもいかない。高い金属音のような小さな耳鳴りを振り払って、ふらりと頭をおこすと、
「生意気な崩国のドブネズミ。一発で寝てろよ……なぁ!!」
ヨクリが乱れた前髪の奥からよろめきつつ視認したときに、男はすで二発目を放っていた。腹部に衝撃を感じると共に傷口に激痛が走った。今度こそ吹っ飛ばされ、後ろの木箱に激突する。服ににじむ、背中の嫌な気配。中の腐った果物が騒々しく蓋の奥から飛び散り、床を更に汚した。体を起こしたが、猛烈な吐き気がヨクリを襲い、直後どさりと逆に伏せる。
「っ…………!」
床から漂う甘ったるい匂いの中、ヨクリが必死に嘔吐感をこらえていると、
「起きろよおら」
答えないヨクリに、男は無言で顎をしゃくる。取り巻きの二人が、ヨクリの左右につくと、両腕をつかみあげて無理矢理体を起こす。足下で油虫が一匹、喧噪に驚いたように姿を現し、木箱の奥へ隠れた。
ヨクリは項垂れたまま咳き込みつつ、
「………こほ、すみま、せんでした」
謝罪を口にすると、男は数発ヨクリを殴った。ちり、と傷口が軋むが、読み通りフィリルが暴力の対象にならず、ヨクリにとっては幸いだった。ただ、耐えればいい。右腹に入った一発に、ヨクリははからずうめき声を上げてしまい、弱点だと悟ったのか、男はそこを執拗に攻めた。じわじわと、腹から背中にかけて濡れる感触があった。塞がりつつあった傷は、瘡蓋を破って、完璧に開いてしまったらしい。
幾度もの痛打ののち、ようやく両腕が軽くなる。取り巻きがヨクリを開放し、間髪いれずに男は息を切らせてヨクリに吐き捨てた。
「失せろ」
「は、い。……行く、よ。エイ、ルーン」
ヨクリは返事を待たずフィリルの手を掴み、反対の手で壁をつき、よろめきながら表通りへ向かった。男たちが追ってくることはなかった。通りへ出ると、ヨクリはたまらず手近な壁に身を預けて、しばし痛みに喘いだ。
「ごめんね、俺が、道、間違えちゃった、から」
「……いえ」
呼吸する度に体がきしむ。ヨクリの謝罪を受けた少女は、ぽつりと呟いた。
「なぜ、殴られたままだったんですか。あなたなら、「無理、だよ」
ヨクリは遮って気息を整えながら、
「体格が、違いすぎる。徒手空拳で、図術もつかわず、勝てる相手じゃ、なかった。それに、取り巻きも、居たし」
都市内での抜刀は許されない。仮にできたとしても、あのまま乱闘になって損をするのはヨクリだった。都市内で騒ぎを起こせば、当然基礎校に知れ、任を外されるだろう。そうなったら、依頼もあと僅かなのに、再び牢屋行きだ。それだけはごめんだった。
ヨクリは口元の血を袖で拭って、
「……シャニール人は、この国で、ああいう扱いをされるのは、珍しく、ないんだ。俺も、今日がはじめてって、わけじゃない」
今回の件は、少女のせいではなかった。ヨクリが注意を払っていれば、飲食街への道を逸れることも、裏路地に足を踏み入れることもなかったからだ。自分が殴られるのは些事だ。それよりも自分の不手際で、護衛対象である少女を危険に晒してしまった。失敗した、とヨクリは心中で深く反省する。
これでもう二度目だ。ヨクリは自分が護衛に向いていない人材だと自覚した。キリヤにしては珍しい人選の間違いだなと、勝手に依頼を持ちかけてきた昔の友人のせいにして、痛みに耐えつつ苦笑した。
身じろぎするだけで激痛が走っていたが、暫く体を休めて、大分よくなった。これならもう動けるだろう。ヨクリは服に着いた土ぼこりをようやく払いながら、
「今度、似たような目に誰かがあっていたところをみても、見ない振りをするのが一番いい。そのほうが相手のためにもなるよ」
遠回しに庇い立ては迷惑だと断じたその言葉とは裏腹に、ヨクリの心は穏やかだった。まだ腹も頬もずきずきと痛むが、どこか懐かしい。
(なんだろう、これは)
フィリルは黙っている。相変わらずなにを考えているのか悟らせない無表情だった。だが不快感はない。不思議な気分だった。まるで生まれてはじめて、あるいは忘れかけていた、他人に自分を肯定して貰うような気持ち。
(いや、駄目だ)
少女との付き合いを是正するわけには————
「なぜ、シャニール人があのような扱いをうけるのですか」
ヨクリは弾かれたように少女の顔を見た。まっすぐな眼差しだった。
「なぜって……戦争して、負けたからだよ。ランウェイルの人は、家族を戦争で何人も亡くしている」
「意味がわかりません」
平静を保ちつつフィリルに答えると、また、冷静に切り返す少女。意味がわからないのはヨクリのほうだった。
どうしてこの少女は、ヨクリが心の奥に隠している、膿んで柔らかくなっているところを突いてくるのだろう。
単に知らないだけなのだとしたら、教えてやればいい。ヨクリはそう思った。それで、この無表情な少女が失望するところを見るのも悪くない——
——そんな黒い衝動に突き動かされる。知らなかったとしたって、すぐに習うのだ。誰に教わっても違いはなかった。それに依頼だって、あと三日だ。残りをすっぽかされたって構わない。もう十分義務は果たした。ヨクリは誘惑に身を委ね、硬く結んだ唇を開いた。
「……シャニール戦争が起こる前、以前ランウェイルと旧シャニールとのあいだで結んだリベリウ条約の不等さを旧シャニールは訴えた。それは客観視してもランウェイル側に有利になるような条約で、不満が出たのは当然だと思っている。でもシャニールは改善されない条約に腹を立てて、一番やってはいけないことをしたんだ。暴走したシャニール軍の一部が、国境付近の集落で、武装もしていない無抵抗の民を虐殺をした。——それが、シャニール戦争の発端」
つらつらと説明し終え、
「だから、シャニール人が差別されるのは、当然なんだ」
そう締めくくった。最後は嘲笑交じりになったが、もうどうでもよかった。
ヨクリは少女の一言を待った。沈黙のあいだに、少女の台詞を頭の中で予想する。この少女はなんと言うだろうか。わかりました、とか、それは当然ですね、とかだろうか。ともすれば、なにもいわずに踵を返して寮へ帰るかもしれない。ヨクリは顔を伏せて暗い笑みを浮かべた。
しかし、ヨクリの予想は全て外れる。
「おかしいです」
「……!」
「だってそれは、あなたには関係のないことではありませんか」
関係ないはずがなかった。ヨクリは目を見開いて、
「……俺は、シャニール人で……」
「あなたはなにもしていません」
ほうけたさまで口にした言葉を、ばっさりと否定された。
「エイルーン……」
意図せず、小さな声で目の前の少女の名を呼んだ。俯いて、じわじわとこみ上げてくる、なにか。
「くっ……はは」
堪えきれず、徐々に大きくなる自分の声を、どこか遠くから眺めているようなそんな感覚だった。我慢出来ずにヨクリは噴出してしまう。
「はははは!」
「……?」
体裁も羞恥も忘れ、無表情のうちにも疑念が浮かんでいるような少女のことも無視して、傷の痛みも全て構わず、ヨクリは往来で腹の底から笑った。本当に久しぶりに、愉快だった。
こんなことを、真っ正面から堂々と言う人間はヨクリは知らなかった。あのキリヤだって、この話題には心配りが見え隠れしていたのだ。
ヨクリらシャニール人の血を引く人間が見聞きし、されてきた出来事をまるで鑑みていない、ただの事実を述べるだけの言葉は、ヨクリにとってはただただ、痛快だった。
ひとしきり笑ったあと、ヨクリはフィリルに微笑んで、返事をする。
「……うん、そうだね。俺も、そう思っていた」
「でしたら、そう言えばいいではありませんか」
「……難しいんだよ、いろいろと。みんな思うところがあるからさ、さっきも言ったように、しかたがないんだ」
そう。フィリルの意見はヨクリにとっての真実だったが、それは所構わず主張していい物ではなかった。そうすることで、自分や誰かが傷つくような——先刻のような事態を引き起こしてしまうからだ。ヨクリはそれをよく知っていた。
そして、ヨクリは自分を恥じた。眼前の少女に謝らずにはいられなかった。
「……ごめん、エイルーン」
「どうして、わたしに謝るのですか」
やっぱり疑問を返す少女に、ヨクリは胸の内を吐露する。
「……俺は今まできみに、誠実な対応をしてこなかった。……ずっと」
たとえフィリルがヨクリになにも感じていなかったとしても、ヨクリは謝らなければならなかった。確かにヨクリは少女に対してあからさまに嫌悪を面に出したり無視したりすることはなかったが、きちんと理解してやろうとはしなかった。
人と人との付き合いは、まず理解からはじまる、とヨクリは遠い昔、友人に教わった。相手に対して真摯に接する、ということ。それをヨクリは怠ったのだ。自分がフィリルに異常性を感じた、ただそれだけで。
「謝るよ。本当にすまなかった」
「意味が、よくわかりません」
不快感を与えていなかったことにヨクリは安堵しつつも、深く頭を下げた。そして、半月足らずのあいだ、ずっとやってきた考えを改める。
「……よかったら、名前で呼ばせてくれないかな」
ヨクリにはもう、必要なかった。
「……かまいませんが」
「ありがとう、フィリル。あらためて、これからよろしく」
「はい」
お礼を言って手を差し伸べると、少女はそのヨクリの掌をそっと握った。ヨクリは少しだけ力を込めて、握り返す。
ヨクリは少女を——フィリル・エイルーンという個人を、これからとても素直な気持ちで見られると、確信していた。




