3
「団体さんだな」
アーシスがそういったとき、にわかに緊張が走った。
昼食を終えて出発してからさらに二刻が経過し、予定通りならもうじき拠点へ到着する時間だった。だいぶ日が落ちて、夕暮れになりそうだ。幸い天候は悪化せず、雨雲は見当たらない。
拠点へ向かう方角に、砂煙が立ちのぼっている。狗の群れだ。規模からして、五匹以上。集団の進路は当然ヨクリたち。
「これってよくあるの?」
「いや、この辺は薬の影響が強えから、三匹以上でるのも珍しいぜ。それはお前も知ってんだろ」
「やっぱりね。……ってことは、相当運悪いなぁ」
「ま、でも会っちまったもんはしゃあねえわな。腹くくるしかねえだろ」
「だね」
ヨクリは大きく頷いてから少女に向き直り、
「エイルーン、干渉図術、使えそうかい?」
「問題はありません」
「いい返事だ」
少女の無表情に、意味はないと半ばわかっていながらも、励ますように言ってから、
「俺が指示できる状況になるまでは、ひとまず忘れて、強化のみで戦ってくれ」
この期に及んでフィリルが操作を誤るとは考え難かったが、本当はありえないと知悉していながらも、やはりヨクリは事故が心配だった。
フィリルの首肯を見て、動きを概説する。
「それじゃ、エイルーンはアーシスと交代。あの数はちょっとしんどいから、後ろ回って、マルスと一緒に動いて」
「わかりました」
「マルスは適当にやっちゃって。……ぶっ放してくれて構わない」
「はは、了解した」
ヨクリがいたずらっぽくマルスに加え付けると、金髪の青年も口角を上げて返事をする。
「アーシスは、ちょっと大変だろうけれどエイルーンを気にしつつ、適宜動いて」
「おう」
「それじゃ、行こうか」
ヨクリは皆に微笑んだあと、眉をきつくして、前方の砂煙を見据える。革帯から鞘ごと外して刀を抜き、鞘と荷袋を投げ捨てた。
状況に応じて、適切な手札を切らねばならない。それが業者だ。
強化図術を起動しつつ、駆け出す。更に、引具に意識を集中——
——干渉図術を起動する。
強化図術とは違う。躯ではなく、引具に自らの全てを委ねる。引具と繋がるという表現が一番近い。自分の体を動かすのではなく、引具に動かされる。支配されるのだ。
更に集中すると、ヨクリの視界に地形に沿った数多の線が現れる。奥行きのある地図——支配領域。しかしそれが出現したのはほんの一瞬で、すぐに宙へ溶け去った。
体が空気に溶けて消えてしまうような、自分の存在が希薄になる感覚。意識すれば風と一体になって世界中のどこでも見渡せてしまいそうな、そんな全能感がヨクリを甘く揺さぶった。それは痺れるくらいに官能的で、途方もなく耽美的だった。
ヨクリが”繋がった”直後、ざわざわとした感覚が次々に全身を刺激する。ヨクリの引具が支配する周囲九十歩の空間のうちの、三十歩の情報全てを受け入れているからだ。範囲内に何人居て、誰がどちらへ向き、行こうとするのかがわかる。
干渉図術の一種である”感知”を走らせているのだ。支配領域内の空気——エーテルの流れを読み、流れがなにに影響されて動くのかを理解し、現在からどう変化するのかをある程度予測できる。近接手が好んで使う、流体予測。
”感知”は干渉図術の一種だが、展開紋陣を必要としない。以前フィリルに、自身に作用するのが強化図術で、その他に作用するのが干渉図術と説明したが、感知は自分の感覚を周囲の空気と同調させるという、極めて強化図術に近い効果だ。ゆえに始点と終点を定める必要がないため、紋陣を張らなくてよいのだ。だが強化術の範囲を超えているので、枠を食うのが難点だった。加えて、エーテルの消費はかなり増える。似たような作用をする干渉図術はいくつか存在し、それらは更に区分され、補完図術とも呼ばれている。
(乱戦になる前にっ)
ヨクリは臆せず、砂煙の中に潜り込む。一気に視界が悪化するが、問題はない。
(そこっ)
ざわめきを感じて、膝の力を抜き重心を下に移動、地面すれすれから刀を閃かせる。肉を割り、骨を断つ感触。間髪入れずにそのまま跳躍、右後方へ逃げる。
ヨクリのついさっき居たところへ横切る影。注意しつつ、更に後ろへ飛ぶ。間をあけずにきびすを返し、砂煙の向こう側へ体ごと突っ込んだ。
視界が開ける。そのヨクリを追う姿は三。
「アーシス! 四匹そっちいった!!」
「任せろ!」
ヨクリとアーシスは声を荒げて互いの意思疎通をはかる。
”感知”で確認できた狗の数は八だった。一匹斬って、ヨクリを狙うのが三匹だから、半分以上取り逃がしたことになる。
おかしい。普段なら、もう一、二匹ついてきてもいいはずだ。基本的に狗は集団で行動するため、狩りの獲物を一つにしぼる。先刻と同じ違和感。
「……片付けてから考えるっ!」
自分に言い聞かせ、足を止めて残りの三匹に向き直る。ヨクリを取り囲むように、三匹の狗はじりじりと六歩の間合いを詰めようと忍び寄る。一匹が背後に回り込んだのを感知で確認した。残りは右手と左手のほう。
”感知”は論理的だ。敵が増えれば増えるほどエーテルの流れが複雑になり、予測の正確さが減少していく。手早く片付けるには、いわゆる”悪手”をどれだけなくせるかが鍵となる。干渉図術を多重起動し使いこなすマルスのような遠射手とは違い、ヨクリは”感知”のみに集中して敵に対処する戦法を得意としていた。というよりは、別々の図術を同時に操作する行動が不得手、と言い換えたほうがいいかもしれない。
これはヨクリの使う感知などに限った話だが、支配領域の関係もある。始終点設定系——具者に最も親しみのある干渉図術は支配領域を一度設定してしまえば、発動から終了まで領域は固定される。しかし、それでは感知を使う際に不都合が生じる。中心点——使用者が移動しても張った支配領域は動かないので、感知を無駄なく活用するためには領域の張り直しが必要なのだ。もちろん支配領域の再設定にはエーテルを消費する。戦局によって諸々の細密な見極めが必須なので、ヨクリは同時起動に苦手意識がある。
向こうの戦いを見ると、三人が一匹ずつを押さえていた。ヨクリと三人の間に一匹転がっているのは、おそらくマルスが干渉図術で仕留めたものだろう。細部までは確認できないが、何かで串刺しにされている。頭数は減ったが、しかしあの間合いだとマルスもフィリルも図術を使ういとまがない。
(しくじったか)
ヨクリは歯噛みする。アーシスが手早く処理してどちらかの援護をしてくれればよいのだが、アーシスの相手をしているあの狗は群れを束ねる長らしく、体格が大きい。遠目からでもなかなか隙がうかがえないのがわかる。
(ならさっ)
ヨクリがふ、と剣先を僅かに下げると、飛びかかってきたのは三匹全部。かかった。
(直線の攻撃っ)
ヨクリはエーテルの流れをよみ、軽く地を蹴り左前方に飛び、三匹全部を避けられる地点に移動、軽やかな足さばきで回転しつつ、刀で左一匹の胴を輪切りにする。しかし次の動作に移ろうとしたヨクリは、目を見開いた。
(嘘だろ!)
波状攻撃を予想していたのだが、二匹はヨクリから背を向け、三人のほうへ走り出す。ヨクリは虚を突かれ、一瞬呆然とした。
「くそっ!」
あとを追うが、狗たちの速力には勝てず、このままでは間に合わない。みるみるうちに離され、前方の狗たちとのあいだが二十五歩まで遠ざかる。ヨクリは感知を切らず、図術の多重起動を試みた。感知が伝えてくる情報で、ヨクリの頭はいっぱいになる。人ごみの中でたった一つの硬貨の落ちる音を聞き分けるような、そんな例えが近い。必死に、もう一つの図術をたぐり寄せる。
支配領域を再展開、前方を疾走する二匹の狗の更に後方、数多の線の一点に意識を集中させると、その点が赤く明滅し、ヨクリの正面に淡緑色の極薄の板が現出する。それは幾何学模様に変形しながら、淡く光を放ち——展開紋陣を形成する。その間に、距離は開く。およそ三十二歩——感知の範囲外へ逃げられる。
(なんとか成功したか)
息をつく暇はない。展開紋陣を追い抜いてしまう前にヨクリは右足を踏ん張り、走行の力を殺しつつ後方へ跳躍、続けざまに刀を振って板を斬り裂いた。直後、足下からエーテルの膜が発生し、全身を覆う。ヨクリの斬った展開紋陣から、強烈な空気の渦がほとばしる。それを確認したヨクリは、すぐさま狗の後を疾走する。
(あたれっ!)
大地と、そしてついでにマルスの倒した狗の死体をも巻き込んで削り取りながら凄まじい速度で放たれた渦は、瞬く間に二匹の狗に追いつくが、先行する一匹の尾先に触れるか触れないかの距離で、霧散するように唐突に消え失せる。ぎりぎり届かず、巻き込めたのは一匹だけだった。だが、感知を切ってから起動していたなら、おそらく間に合わなかった。
「エイルーン! 一匹行った!」
残った狗が見据えるのは、フィリルだった。少女は一匹の狗を相手にしつつ、ちらりとヨクリのほうに顔を向け、取り逃がした狗を一瞥する。己を狙っているのに気づいたようだが、冷静そのものだった。
ヨクリは僅かに安堵した。慌てたり腰が引ける様子が見受けられなかったからだ。あの状況で敵に背を向られるとヨクリとの距離が離れてしまうし、それにそういう心持ちだと、必ずといっていいほど不利になる。
ヨクリは猛進し、無惨な様相の狗の屍を踏み越えて、二匹に囲まれた少女の元へ急ぐ。
狗達を挟んだ向かい側にフィリルが居り、少女はヨクリのほうへ迂回しつつ移動しようとしているが、二匹は道を塞ぐように妨害し、それをさせなかった。
見かねたヨクリは再び支配領域を張り直す。覚悟を決め、一息に地を蹴った。間合いにはいるやいなや、片方の狗がヨクリに牙を剥く。狗の前足が胴に届くその瞬間、ヨクリは右の踵を立てて急激に減速させ、そのまま後ろに跳び退りつつ真一文字に刃を振るって、狗の右前足を削り取る。
(両足とはいかなかったか)
ヨクリが着地すると同時に、狗はがくりと倒れそうになるが、残る三本の足で耐えしのいだ。すぐにヨクリは再び前へ突っ込む。傷つけられた狗が再び襲いかかろうとするが、深く裂かれた足を庇っていたため、俊敏さが失われている。好機とみたヨクリは大きく跳躍し、その狗を飛び越え、胴の中心を踏みつけながら先へ進む。残りの一匹はフィリルが牽制していたため、ヨクリに向かうことはなかった。即座に体を反転させつつ、油断なく切っ先を狗のほうへ向けながらじりじりと足を滑らせ、とうとうフィリルの隣に並んだ。
「よく耐えたね」
「いえ」
ねぎらい、足の斬られた左の狗に構える。さて、どうするか。ヨクリは思案する。
残りは四匹。左手のアーシスのほうはそろそろとどめを刺そうというところで心配はなさそうだったが、問題は右手のマルスだ。接近戦は諦めて、マルスは回避に専念している。必死に間合いを取ろうとしているが、開けた分だけ詰められて、図術を使う隙が作れていない。青年の体力を鑑みると、長くは持ちそうにないだろう。
「マルス! あと少し耐えてくれ!!」
「なんとかする!!」
大声でやりとりしたのち、フィリルに小声で説明する。
「俺が飛び出したらすぐに、足やられてるほうをやってくれ」
「わかりました」
構えを解いて無傷の狗へ突進する。背後でフィリルが同じように逆の狗へ向かう気配をエーテルの流れで読み取った。少女の背へ食らいつこうとする狗の正面に割って入り、右手を振り抜いて追跡を妨害する。ぎゃり、という狗相手では珍しい感触。狗の爪と刃がこすれ合う微かに高い音を聞いたときには、ヨクリは次の挙動に移っていた。左手を柄頭に添え、両手で気合い一閃、右下から左上に斬り上げる。しかし狗に軽く身を引かれ、避けられる。追い打ちの上段からの一撃を放ったとき、ヨクリは自分が功を焦っていたと気づかされる。
(くっ)
僅かに狗のほうが早い。切っ先の軌道を察したのかさっと横に体を反らし、わずかにかがんだのち、飛びかかってくる。
ヨクリは刀を盾にし、左手を柄から離して峰に掌底を押当てる。狗はがちりと刃に噛み付いて刀の動きを封じ、前足でヨクリを押し倒すように体重をかけた。
(押し切られる……っ!)
腰に力を溜めて踏ん張るが、彼我の重量差を考えると、結果は火を見るより明らかだった。つう、と額から浮き出た汗が頬を伝って顎へ滑り落ち、乾いた大地に染みを一つつくった。ヨクリの両腕に鋭く太い狼爪が食い込む。
そう。目の前に対峙する狗は雑魚じゃない。この国で一番低級の、一番馴染みのあるこの獣は、怠けず修練を積み重ねてきたと言っていいヨクリの命さえ脅かす存在。人がつくりだし、人を襲う、戦闘に特化した、暴力の塊。
「なめ……るな!」
膝から落ちそうになるが、それでもヨクリは全力で左足を漲らせて片足のみで支え、右足で狗の腹を蹴り抜いた。怯んだ狗の、刹那の咀嚼力の弱まりをヨクリは待っていた。狗の体重を後ろに受け流しつつ、そのまま両断する心持ちで峰を押しつつ刀を引き抜く。口と両前足から流血しつつ、狗はこちらに振り返る。だが、今度はヨクリのほうが早かった。
引き抜いた体勢から両腕を大きく返し、遠心力を交えつつ裂帛の気迫で薙ぎ払う。背中から背骨を割り、下腹まで刃が貫通する。胴を分離された狗は逆折れしたように頭と尻が浮き上がり、醜い声で一啼きしながら絶命する。ヨクリは勝利の余韻に浸らずにかかとを返し、駆け出す。残った一匹の狗を、少女とヨクリで挟み撃ちしたような状況。ヨクリは少女の実力を信じ、狗がこちらに気づいても足を止めずに切っ先を向け、間合いを詰めた。ヨクリに向き直ったことで、自動的に狗は少女から目を逸らす。その隙を、あの少女が逃すはずがない。
少女は大きく踏み込み、分厚い刃で横に薙ぎ払う。狗は下半身を上下に裂かれながら槍斧の重さに引っ張られ、左に倒れ込んだ。
ヨクリはその首に、断頭台のように刃を振り下ろす。弧を描く銀色の残光が消えた時、ざくりときれいに狗の頭が撥ね飛び、切断された首から血が噴水のように吹き出る。身をよじって返り血をかわし、ヨクリはマルスのほうへ向いた。
遠目からでも、肩を上下に大きく揺らし、息を切らしているのがわかる。限界が近い。ヨクリはマルスの救援に向かおうとするが——ある意味で、この状況は好都合だった。
「エイルーン、この距離から狙えるね?」
「はい」
少女はヨクリの言葉足らずな説明を理解してくれたようで、槍を立てて集中しはじめる。少女の足下から淡く漏れだしたエーテルの光は、包み込むようにその体を覆った。フィリルの正面に、極薄の板が現出する。ヨクリはそれを見て、邪魔にならぬように下がる。
板は淡緑色に発光しながらその形をかえ、幾何学模様を宙に描きだす。ヨクリは頃合いかと睨んだが、形状の変化は止まらない。どんどん板は広がっていき、最終的に一辺がフィリルの身長の七割程度を有する面積をした展開紋陣が出来上がる。
(凄い……!)
展開紋陣の質は、そのままその具者が使用する図術の精度や威力に反映される。大きさ、細微さ、速度。眼前のそれは、弱冠十五の少女が初めてつくりだした展開紋陣とは到底思えない。ヨクリの記憶のなかにある学生時代に見たキリヤの紋陣よりも優れていた。ヨクリは眼前の光景に、恐怖にも似た感情が芽生えるのを御せなかった。努力だけではどうにもならない、天からにのみ与えられる才覚。その一端を、少女から紛れもなく感じた。
少女は槍で紋陣を叩き斬る。切り口から粉々に砕けた硝子のように紋陣は瓦解していき、同時に、その紋陣から三つのなにかが発射された。それは流星のように空を斬り裂いて、遠方のマルスと相対する狗の体に吸い込まれていく。マルスは緊張の糸が切れたのか、ぐったりと地面に座り込んだ。
ヨクリは引具に集中、感知を中断し、マルスのほうへ駆け出す。
「大丈夫だった?」
「……な、なんとかな」
ヨクリが身を案じると、激しく呼吸しながらマルスは答えた。ちょうど終わったのか、アーシスが肩を回しながら寄ってくる。
「お疲れさん」
「悪いね、一番やばそうなのやってもらっちゃって」
茶髪の男の背後を見やると、ヨクリ達の相手をした狗よりも二周りほど大きな体が横たわっていた。目立った傷が見受けられないが、アーシスがこちらの側に居るから、失命しているに違いない。そのアーシスはけろりとした態度だった。まだまだ余裕がありそうだ。
「お前が言うなよ、何匹やったんだ」
「ええとひのふの……四匹か」
「半分じゃねえか」
アーシスは苦笑し、さすがだなとヨクリを褒めた。ヨクリは軽く首を振り、抜き身の刀を右手に持ったまま、マルスに左手を差し伸べる。
「くたくたじゃない」
「これは、本格的に体を鍛えなければならないな……」
ヨクリに引き起こされつつ面目ない、と反省するマルスは未だ気息を整えている。利発そうな顔いっぱいに汗の玉を浮かべ、頬は砂粒で汚れている。
「それはそうと、なんかおかしくない?」
「なにがだ?」
ヨクリが質問を投げると、マルスが聞き返す。
「今日だけで十匹以上か。ちと変だな」
「だよね」
金髪の青年を置き去りに、ヨクリは思案する。三年ほどの業者生活だったが、短時間でこんなに、それも都市の近くで魔獣と出くわすなど、過去にあっただろうか。
(おかしい)
ヨクリは自らのうちに生じた違和感を肯定した。なぜなら、今このときが、この付近で最も魔獣と遭遇する可能性が低いからだ。それなのに、なぜ。——そういえば、狗と戦っている最中にも、同じ違和感を覚えたはずだ。確か、
「ま、それはそうと、本日二番目の戦績だからなー。褒めてやらねえとだめだぜ?」
思考を打ち破るアーシスの明るい声音に、流しかけていた言葉を頭に引き止める。
ヨクリが計六匹、アーシスとマルスが一匹ずつ。フィリルはなんと三匹も仕留めている。まさに新進気鋭といったところだろうか。ヨクリはアーシスの言葉に頬を緩めてうん、と同調しつつ二人でフィリルのほうを向いて——
——背筋を凍らせた。
狗の骸に囲まれ、頬を血に染めて立ち尽くす少女。その凄惨な光景に、ではない。
少女の無防備な背後の向こうに佇む、巨大な影。ヨクリはそれに戦慄した。
「エイルーン!」
その巨躯がフィリルを見据えた瞬間、ヨクリは膝から一気に力が抜け、地に落ちそうになった。
目の前の光景は過去と重なる。逃げてくれ、と笑顔を浮かべた黒髪の少女。言われた通りに、馬鹿みたいに逃げることしかできなかった自分。あらゆる糾弾。侮蔑。嘲笑。全部がいっぺんにヨクリの頭の中に流れ込んできて————
(……そうじゃないだろ!)
ヨクリは己を叱咤した。刹那、充足させた気力を振り絞って、渾身で地を蹴る。瞬く間にフィリルの元へたどり着き、その体を掻っ攫った。
ざくり、というなにかが背を掠める感触。余波だけでヨクリは人形みたいに吹っ飛ばされる。霞む視界のなか、腕の中に居る少女をかき抱いて、背中から地面に落ちる。みしりという骨が悲鳴を上げる音。
「……はっ」
こほ、と肺の空気がヨクリの意思とは関係なく押し出される。ばらばらに引き裂かれたように体中が痛みに喘いでいるが、それでもヨクリは顔を上げて状況を確認した。いつの間にかヨクリを庇うように立つアーシスと、隣に感じる青年の気配。
「おい、死んでねえだろうな!!」
アーシスの怒号。その奥にはその茶髪の男よりも遥かに巨大な躯が直立している。丸太のような両腕と鋭いかぎ爪。裂けたように大きな口から漏れ出る呼気は白くにごったあと、宙に失せる。吐き気がするほど濃密で強烈な野生。
「なんなんだ、あいつは」
「大、物。……中級だ」
マルスのつぶやきに答えつつ、ヨクリはフィリルの安否を調べたあと、少女を押しやって自分の体、引具を目視する。刀に異常はない。一番厄介なのは吹っ飛ばされたときに自分の武器で自分の体を傷つけることだったが、裂傷はなかった。足も動く。問題ない。背中が燃えるように痛むが、まだやれる。
「大丈夫、ですか」
「うん、……大丈夫」
いつになく瞳を揺らして、自発的に声をかける少女。ヨクリは精一杯の笑顔を作って、ぐっと膝を立てる。
油断した。感知を切ってしまった、明らかな自分の失態だった。
都市の外ではなにが起こるかわからない。それは重々知っていたはずなのに、ちょっとの勝利に気を取られた。
「ヨクリ、君の背中」
「マルス。今はあいつに集中して」
「しかし!」
「死にたいの!?」
ヨクリが怒鳴ると、マルスははっとしたあと、きっと覚悟めいた表情をして杖を握りしめた。
アーシスが奮戦しているが、回避でせいいっぱいのようだ。ヨクリは全身に力を込め、
(なんの……これしき!)
気迫を滾らせ、すっくと立ち上がって刀を構える。じわりと衣服を濡らすのは、体を伝って足下にぽたぽたと落ちる赤。右の脇腹から背中にかけて引かれた傷は、深くはないが浅くもない。ヨクリは勝手に判断する。
「マルス、エイルーン。図術で援護して」
「その傷では」
「……もし俺がやられちゃったら、全力でエイルーンを守って、逃げてほしい」
「ヨクリ……!」
「中級相手に前は任せられない。じゃあ、頼んだよ!」
マルスとフィリルの心配を無視して、ヨクリはアーシスの補助へ急ぐ。
「っ!!」
掠れた息吹とともに、再度感知を起動、アーシスを襲う爪めがけて刀を打当てる。がつ、と鈍い音。アーシスとヨクリは互いに後方へ跳躍、間合いを白紙に戻した。
「悪ぃ、油断した」
「お互い様だ。……絶対に殺させない」
アーシスの後悔混じりの謝罪に、ヨクリは傷を押して力強く呼応した。
「平気か」
「いけるさ」
アーシスがちらりと横目で背中を確認したのをヨクリは悟った。しかし男はそれについては言及せず、
「どう攻める」
「左右で挟めればいいけれど……俺たちが防衛線だ。絶対に、後ろにいかせちゃいけない」
「右任せるぜ」
「わかった」
ちゃき、と切っ先を前に向け、睨みつける。
”大獣”と業者間で呼ばれている魔獣だ。”狗”をはじめとした下級の魔獣を数多屠ってきた腕利きの業者がヨクリらのように複数で討伐にあたらなければならないほど、圧倒的な戦闘力。
中級、と国から判断された、恐ろしい敵。大きな頭部のてっぺんに小さな耳が二つ。筋肉の塊でできた強靭な肉体は分厚い毛皮で覆われている。腕は恐ろしく太い上、長く鋭い鉤爪を有し、二本の後ろ足で直立するその巨躯は、ヨクリ二人分ほどの大きさを誇っていた。
心が引ければ——畏れれば、負ける。ヨクリは気を漲らせ、一歩踏み出した。瞬間、ぎらりと光る大獣の瞳。
この距離は十分に獣の間合いであることを、感知が告げる。ヨクリが体を右に滑らせ範囲外へ逃れると、目の前を獣の爪先が横切り、ぶわりと風がヨクリの髪の毛を揺らす。背の激痛にはかまけず次の攻撃に備えるが、向かい側のアーシスが引きつけ、ヨクリへの追撃はなかった。その肉厚の背中に一撃くれてやろうと刀を振りかぶると、なんとすでにこちらへ顔が向けられている。その見かけからは予想もつかない敏捷性と反応速度。ヨクリはおののきつつも、摺り足で身を引く。
次に放たれた豪腕は大振りにヨクリの正面を払った。動かずとも当たらぬ位置だった。反射的に引いてしまった自分に苛立ったとき、突如ぐらりと大獣の体が揺れる。アーシスがまず一発攻撃をかましたらしい。気を取られた獣が再び逆を向いたその合間を縫って、ヨクリは再び刀を振るう。
「く……」
ヨクリの胴回りほどもあろうかというその左腕を狙った一撃は、狗のそれとは比較にならないほど丈夫な毛皮に阻まれ、頼りない手応えをヨクリに伝えた。はらりと数束の獣毛が宙に流れる。しゃがんで次の薙ぎを避けつつ、今度は足元に刃を放つ。ざくりという感触は肉を裂いた証だったが、それを受けた大獣はまるで意に介していない。距離を詰めすぎたヨクリは、大きく後ろに飛び退って仕切り直す。その折にアーシスが撃出したのは、一条の光。大獣の左肩を食破り、突き抜けてヨクリの後方の地面に小さな窪みを穿つ。穴の中心には、アーシスが携帯している投刃が突き刺さっている。
(まだ動くのか……!)
貫通したはずの肩が盛り上がり、容易くヨクリを左腕で攻撃する。痛覚が極端に鈍いのだろうか。詰め寄られたヨクリは目を見張って、再度引き下がる。
「ヨクリ、アーシス!! そいつを穴まで誘導してくれ!!」
左後ろから聞こえた声は、マルスのものだった。なにか策があるようだ。
刹那逡巡し、ヨクリは指示に従う。ちらりと投刃の場所を確認したのち、再び下がって引具に集中、支配領域を再形成し、展開紋陣を現出させる。図術の気配に気づいた大獣は、恐ろしい速度でヨクリへ詰め寄った。ぶん、と大気を震撼させて放たれた両腕はヨクリの展開紋陣を引き裂き、図術を中断させる。ヨクリはせわしなく足を動かし、投刃へと獣をおびき寄せる。すると、だめ押しのアーシスの体当たりが功を奏し、獣の体は前のめりに倒れ込む。
「これなら!」
呼吸を溜め、狙いを定めて刺突。踏み込みを交えたそれは過たず大獣の眼球を貫き抉った。即座に、体重を掛けて引き斬りつつ飛び退る。大獣はとうとうその顎門を大きく開き、耳をつんざくような咆哮をあげながらヨクリへ迫る。その巨躯はアーシスの投刃にくっきりと影をつくったが、追跡が止まらない。ヨクリは恐怖を押さえ込み、刀を構えて目から多量の出血をさせている獣の顔を睨みつけた。転瞬、ヨクリの傷つけた足に刺さる氷の楔。フィリルの射出した図術は大獣の動きを止め、続けざまに、攻め立てる閃影。滑り込みつつ蹴り払うアーシスの姿。計三発の攻撃に、がくりと体勢を崩した獣は、仰向けに沈み込んだ。
「どいてくれ!!」
その雄叫びにも似た合図に、ヨクリとアーシスははじかれたように場を離れる。獣と大地の接地面から目映いエーテルの緑光が溢れ出て、描かれるのは、展開紋陣。しかしヨクリらの用いる展開紋陣は空中に、それも角を有した面だが、これは大地に平行に発生している、円形をした展開紋陣だった。
紋陣がひと際輝いたその時、噴出するかのごとく地面から氷柱が発生、獣の腹を破り抜け、巨躯を浮き上げるほどの勢いで、天へと伸びてゆく。氷柱は表面から枝のような細い氷柱を幾つも作り出して、枯れ木のような様相へと変形させた。冷気はとどまらず、みるみるうちに大獣の全身を氷つかせる。氷でできた幹を獣の血が汚すが、下へ下へと沈みゆく白煙はその血液すら凍結させていった。
氷の大樹に速贄のように串刺しにされた獣は、確認するまでもなく絶命しているだろう。
「終わった……よね」
今度こそヨクリは周囲の状況を念入りに精査してから、全ての図術を切断、たまらず刀を地面に突き刺し、杖がわりに体を預けた。今度は三人が、ヨクリの元へ駆けつける。
「大丈夫か」
「まだ、大丈夫。でも血止めしないと、だめかも」
マルスに問われ、返答する。背中の出血は弱まってはいるが未だ止まっておらず、ヨクリの体力を奪ってゆく。あまり平気そうには見えなかったらしく、アーシスは手早く周囲の荷物を回収したあと、ヨクリをうつぶせに寝転ばせた。衣服を剥ぎ取って、傷を調べる。
「あーあー。腹までいってねえけど、ふさがねーとだな」
程度を見て顔をしかめながら、アーシスは荷物を探り、慣れた手つきで水筒の蓋を開け、綿布に水を含ませて患部の砂汚れと血痕を取り去った。次に薬草をすり潰した消毒と止血を兼ね備えた薬を、丹念に塗込んでいく。
「いたたたたた」
「じっとしてろ」
ヨクリを窘めながら、針に糸を通して括り、傷口を縫い付ける。
「へ、へ、へ」
「やめろその声。我慢しろや」
肌に針を通すたび、ヨクリは声を上げる。自分で聞いても妙な声で、アーシスはくくくと笑いをこらえながら作業をこなしていた。
「い、痛いのは痛いし、それに……めちゃくちゃ寒い」
「このクソ寒い中でまっぱは、そりゃ寒いだろうな」
「まっぱじゃないよ! あいたた、ちゃんと下は履いているって」
悶えながらアーシスに大声をあげると、見ればわかる、とマルスはあきれた顔をしていた。
「……心配して損をした気分だよ」
「いや、ちゃんと痛いよ?」
自分自身でとんちんかんな擁護をする。マルスはヨクリの傷を見やって、
「……ヨクリも捨てたものじゃないな。かなり均整のとれた筋肉じゃないか」
「まあ、体つくらないと、おまんま食い上げちゃうからね。……もうちょっと、背があればなぁ」
「確かにな」
縫合を終わらせたアーシスはにやりと口角を上げて、
「うっし、とりあえず、これでイケるだろ。骨とかやってねえよな?」
「あちこち痛くて痣がたくさん出来そうだけれど、骨も筋も無事。ありがとう」
礼を言って、「うー、さむさむ」と服を着込む。頭の中でざっくりと破られた衣類の修繕費を考えて辟易する。
「解体オレやっから、ちと休んでな」
「悪いね」
怪我を負っているヨクリには任せられないのか、アーシスが率先して解体にとりかかった。計九匹だからかなり骨が折れるだろうが、ヨクリはへとへとだったので言葉に甘えた。アーシスの作業を遠目で観察しながら、きらきらと夕日を反射させる氷樹に目を細めて、マルスに聞く。
「いつの間にできるようになったのさ」
「なにがだ?」
隣で一部始終を見届けていたマルスがヨクリに問い返すと、ヨクリは氷漬けの獣を指差し、
「敷陣。初耳だよ」
「ああ、いや」
マルスは頬を掻きながら照れる。
敷陣とは地面に円状の展開紋陣を現出させる干渉図術の高等技法で、無駄の無い円の紋様は威力を格段に高める。そしてヨクリが図術を使用する際の展開紋陣を斬る動作——文字通り”動”と呼ばれる、紋陣にエーテルを流し込む行程を省くことができる。紋陣は地面と平行に発生するため展開紋陣の中にしか効力を発揮しないのが弱点だが、前述したとおり、通常使う術の数倍もの力を効率よく引き出せる。ヨクリは修練中で、未だ敷陣の起動に成功したことがない。
普通の具者が使用した図術を終了させると効力は消失するのだが、マルスの敷陣——氷の樹木は瓦解していない。紋陣が精密であればあるほど性質を保持するので、この光景はマルスの技量の証明だった。一朝一夕の敷陣ではない。
「まあ、足手まといにならずに済んで、よかったよ」
「足手まといどころか、マルスが居なかったら勝てなかったかもだよ」
ヨクリはマルスとアーシスに付き添ってもらって正解だったと胸をなで下ろした。自分一人では、少女を守れなかった。
「エイルーンも、よくやったよ。良い動きだった」
褒めてから、ヨクリは謝罪を口にする。
「……ごめん、危険な目にあわせてしまって」
「……いえ」
フィリルはちょっと間をあけて返答する。どことなく居心地悪そうにしているのは、たぶん気のせいだろう。
油断したのは事実だった。それはアーシスとマルスもだったが、ヨクリが責めるのは断じて違うので、自身の失態だけを内心で味わった。
ヨクリはこうやっていつも、自分の力量不足を実感する。これで何度目になるかわからない。皆無事だったのは結果論だ。運がよかっただけだ。
内心で猛省しているうちに、アーシスが解体を終える。討伐した獣の一部分を詰めた、ずっしりと重い荷袋の運搬はアーシスが引き受けてくれた。拠点まであと少し。ヨクリたちは少しの休憩を取ってから、再び歩を進める。
■
幸い魔獣と遭遇せず、もちろん本来の目的である薬品の散布は怠らずに拠点までたどり着く。多めに時間を取ったつもりだったが、日はすでに落ちて夜がやってきており、十刻になるかどうかというところだった。ちょうど依頼開始の四刻から半日中。ヨクリの見立て通りに進んだことになる。
拠点を護衛する軍の人間に一声掛け、敷地内を移動する。
「く、くたびれた……」
「俺のほうが疲れているって……」
マルスの情けない声音に、ヨクリはじろりと反論する。フィリルはもうじき着く、という口ぶりのヨクリらを疑問に思ったのか、
「都市まで引き返すのでは?」
フィリルの問いにヨクリは首を振って、
「いや、拠点でも物資の搬入があって列車は止まるから、仕事が終わった業者はついでに乗っけてってもらえるんだよ。もちろんその逆もあって、都市外の遠方で依頼がある時なんかは乗車券代わりに依頼の受注書を見せれば、その近くの拠点まで運んでもらえるんだ」
つらつらと答えると、
「こっから歩いて逆戻りーなんてのは勘弁だよな」
アーシスの空笑い。一番屈強なこの男とて、今日の行程は堪えたようだ。ヨクリも背中の怪我があって、それを癒すために体が休息を求めているのだろうか、凄まじい睡魔に襲われていた。しかしそれを振り払って、眠気覚ましに先導を買って出る。
拠点はそう広い面積を有していない。一番高い建物でも円形都市の防壁ほども高さは無く、全体の規模もアーシスが暮らすレミン集落よりも小さい。都市間車道沿いにぽつぽつと並んでいる建物の数も人が社会を営むには足りず、まさに駐屯地という形態を成している。警備の者が休息を取る宿舎、最低限の食料などを備蓄する倉庫群、それと、周りよりもぐんと高い管理塔代わりの警護施設。あとは列車が停車するための、小さな駅。拠点に居る人間の数は緊急時などを除くと、だいたい百人くらいだろうか。
舗装されてない、道とは名ばかりの道を歩いて駅の前までやってくると、ちょうど轟音を携えて、長距離列車が到着するところだった。ヨクリらは素早く耳栓を取り出して装着する。塞いでいても聞こえてくる、金属同士が擦れ合う耳障りな音。しばしの間続いて、鳴り止んだと同時に列車も停止した。
積荷を運搬している車両まで淀みなく足を運び、初老の草臥れた作業員に声をかける。
「業者です。四人、大丈夫です?」
「ああ、終わったら適当に乗ってくんな」
男はだみ声で興味無さげにヨクリへ返答し、再び荷物を下ろす。列車から次々に運び出されていき、駅の端に山積みされていく。
「乗り心地は期待しないでね……なんせ、物置だからさ」
フィリルに笑いかけてから顔を戻すと、先ほどの男とあと二人の作業員がひと際大きな荷物を運び出そうとしているが、重いらしくよろめいている。三人では不安定そうだった。じっと見ていたアーシスは一歩前へでて、
「手伝うぜ」
「ああ、助かるよ」
アーシスは手荷物を一旦ヨクリの足下に置いて、助けに入った。すると難なく持ち上がる。
「まったく、まいっちまうよ」
「ここまで重いのは、っと、珍しそうだな」
「ああ、なんでも軍のお偉いさんが視察にくるとかで、いろいろ入り用らしくてな」
「そりゃ、お気の毒さんだ」
なんて話をしながら、滞りなく運び終える。礼を述べた男達に応対したあとアーシスは戻ってきた。
ひとしきり待って、荷下ろしが完了したのを見計らい、ヨクリらは列車に乗り込んだ。
狭い車内だった。木箱や樽などが山のように詰んであり、更に他の業者達も乗車している。柄悪そうに座り込んだり、仲間内で話し合ったりしていて、とても閉塞的だ。体格のあるアーシスを先に行かせて、順繰り入り込む。ヨクリはマルスの後に続いて隙間を縫うような形で移動し、フィリルを出入り口の角、一番余裕のある空間へ勧める。
「……狭いな」
マルスが小声でぼやいて、もぞもぞと動き、楽な姿勢を探している。アーシスはちょっと笑って、木箱に寄りかかった。
「大丈夫? 苦しくないかい?」
ヨクリは声量を落として、互いが触れ合うほど近くに居るフィリルを気遣う。
「……」
答えない少女に、気分が優れないのかと、
「具合、悪いの?」
「いえ」
なんだろう、とヨクリは少女の反応を待つ。
「……怪我、平気ですか」
まさか心配されているとは思っていなかったヨクリは少しだけ心のうちで驚いて、ああ、と笑顔を浮かべながら、
「きみは気にしなくていい。……俺の落ち度だから」
本心だった。今日、戦果だけを見れば輝かしいものだったが、紛れもなく、この依頼はヨクリにとっては敗北だった。だがそれを少女に伝えるのは、そうすることで自分が楽になるだけでほかにはなにも生まないとヨクリは知っている。だから、心の中だけの話だ。
「……あなたが命を落としていたかもしれないのに、どうして」
「無事だったじゃない」
「それは結果です」
ヨクリが目を丸くしたのは、少女が食い下がったからだ。そして返事をしようとして、戸惑った。あのとき自分はこの少女の命を助けよう、と本当に思っていただろうか。そんな疑念が脳裏をよぎった。フィリルが中級の獣に襲われる瞬間、ヨクリは本能で動いていた。衝動的だった。それは——過去を思い出したから。でもヨクリはそうは答えなかった。
「それが、仕事だからね」
「……死んでしまったら、なにも残らないのに?」
その追求に、ヨクリは悲しい気持ちになった。
この年頃なら、ヨクリをもっと責めていいはずなのだ。なんとか守れたのはただの結果であって、あの場でヨクリは感知を切るべきではなかった。しかし少女はその点はまるで考えていないように——自分には守られる価値なんてないみたいにヨクリに言ったのだ。
どう返したらよいのか迷いに迷って、
「間に合うと思っていたから。……俺、結構強いでしょ?」
フィリルは僅かに目を見開いて、「たしかに」とちいさく呟いた。
思いのほかそのヨクリの言葉はヨクリ自身を傷つけたが、顔に出さずに、
「ま、結局格好悪いところみせちゃっているけれど、ね」
「……」
フィリルはそれに対しては返答せず、いつものようにぼうっと宙を見据えた。話はもうないらしい。ヨクリは気づかれないように嘆息して、傷を庇いつつ肩で壁に身を預けた。列車が動きだし、物がぶつかり合う乾いた音が車内に響き渡る。あくびをかみ殺し、レンワイスへの到着をひたすら待った。
さっきみたいな諸手を上げて自分を褒めるだけの言い回しは、ヨクリは好きではなかった。ただでさえあの醜態のあとだ。
自分が強いだなんてそんな大それたこと、ちっとも思っていないくせに。いつもいつも、口だけは達者だな。内心でそうやって自分を嘲った。
でも——それでも。ヨクリは今日のあのときにこの少女を救えて、微かな満足感を覚えていた。前より強くなった実感。まるで以前の過ちを取り戻したような、慰めにも似た感覚が心を埋めていく。
(……錯覚だ)
そうやって言い聞かせても、小さな胸の高鳴りは治まらなかった。自分では、痛いほど理解しているというのに。




