5
レンワイス維持隊事務室。キリヤの机上には膨大な量の書類が置かれている。キリヤはそれを見てため息を一つつき、携えていた別の書類の封を破る。
(……)
情報をこれ以上よこさないのなら、自分で調べれば良いだけの話だ。キリヤは自身の立場をおおいに活用し、この任に少しでも関係するような情報の欠片をかき集めていた。ステイレルの使者がそれを持ってここレンワイス維持隊詰所を訪れたのは、今朝方のことだ。
数枚の書を取り出し、指先で捲る。素早く目でそれを追っていく。
(……ファイン?)
キリヤの目に留まったのは、クラウス・ファインの文字。人名だ。
ファイン家の現当主で、数少ない図術士の称号を持つ賢人。レンワイスに居を構えているのだから、入都録に記載されているのは不自然ではない。ただ。
(なぜ、管理塔へ)
そう。キリヤはそこが気にかかった。並み居る研究者たちを束ねる図術士なのだから、クラウスの主な仕事場はおそらくハスクルだろう。少なくともここ数年レンワイスの管理塔が不調をきたしているという事実はないし、図術士の手を煩わせるなにかが起きているという情報も維持隊長であるキリヤの耳には入っていない。
キリヤはなにかが起きようとしている、あるいはすでに起きていると直感した。事前に与えられていた情報と探りを入れて見つけた内容は、線で結んでゆくとずれがあり、噛み合っていない。図術に見識のある人物が必要なのはわかる。ただ、それはファインの家ではないはずだ。
あと僅か、足りなかった。ほんの少しの補足さえあれば推理できるのだがと、キリヤは歯噛みする。
(……)
時間を確認すると、かなり無駄に浪費してしまっていた。この任も重要だったが、本来の職務を疎かにするつもりもキリヤにはなかった。
キリヤは思考を引っ張られていたそれらを束ねて机の端に追いやると瞬時に気持ちを切り替え、膨大な量の書類に向き直り、一つ一つ精査する。貴族殺しを拿捕するために募った人員の経歴に目を通し、問題がないかどうか調べる。
良好と判断した順にレンワイス維持隊の紋が入った判を押してゆく。
公募は続いているが、最後に纏めてやっつけてしまえばいいとはキリヤは考えていない。できるときに、できることをする。後回しにしなければならないような特殊な例を除けば、手が空いているうちに処理するのが最善だからだ。なにより、手つかずのまま残しておくのは、気持ちが悪い。キリヤはそういう性分だった。
しばらくそうやって忙殺されているうちに、廊下がざわざわとしはじめる。最初のうちは集中していて気がつかなかったキリヤがあまりにばたばたとうるさいので一旦切り上げて廊下の様子を見ようと席を立ったとき、唐突に扉が開かれる。
「隊長!」
「なんだ、騒々しい」
若い隊員を睨みながらキリヤは答える。
「御客人が……」
「客人? 面会の予定はないぞ」
「それが、その」
ゆらりと、入り口を遮っていた隊員を無言で押しのける男が一人。隊員はびくりと後ずさってしまい、男の影に隠れてキリヤの側からは見えなくなった。
「貴方は……!」
「……」
壮年の男だ。短い青髪を後ろに流し、ぱりっとした軍服を身にまとっている。
高い上背と厚手の軍服からもわかるほど体の線が浮き出ている肉体は不惑を超えてなお現役であり、凄まじい修練の結果だということを悟らせる。加えて姿勢が良いためか、より大きくみえる。
男が部屋に入った瞬間、まるで気温が下がったような気配が漂う。静謐で、感情を全く移さない眼光。男の姿を見た者は誰もがひれ伏してしまうような、強力な威圧感。
軍人ならば、この男の名を知らぬ者は一人として居ない。
ヴァスト・L・ゲルミス。
ランウェイル陸軍青将にして、先のシャニール戦争の英雄。
国王直属の親衛隊隊長であり、幾多の勲章を授与され、そして六大貴族の中でも最も力が強いとされる、つまり、ランウェイルに遍し貴族の頂点に立つゲルミス家の当主。それがこの青髪の男の名であり、認識だ。
ゲルミスに連なる有力貴族のほとんどはシャニール戦争時に戦死しており、弱体化がまことしやかに噂されていたが、十年以上経った現在でもゲルミスの名は各地に轟いており、一向に衰えを見せない。
シャニール戦争時、事実上の決戦場である旧シャニール南端のアルルーでは弱冠三十二歳にして総指揮官を務め、シャニール軍を撃退。個人の能力でも、軍の模擬戦で達人具者五人を相手取り無傷で圧勝するなど、男の特筆すべき有能さにおける情報には枚挙にいとまがない。
「ゲルミス閣下……こちらにいらしていたのですか」
「繰り上げだ」
驚くキリヤに男がそう返すと、キリヤは確認の意を持って、
「では……?」
「明日には出る」
「はっ」
短いやり取り。礼をして最後にキリヤが答えると、ヴァストは僅かに目を細め、
「首尾はどうなっている」
「管理塔への通達は済ませております。ただ、くだんの罪人がレンワイス都市内に潜伏しており、あぶり出しには時間がかかるやもしれません」
「細事だ」
「……はっ」
内心では納得していなかった。が、ここで求められているのは反論ではないとキリヤは知悉していた。
「……処遇はどうされますか」
キリヤは現在の直属の上司であるこの男に、キリヤ自身がおそらく一番訊ねたかったことを問うた。ない交ぜの気持ち。どういう心持ちなのか、己ですら判断できなかった。ただ、どうすればよいのか誰かに教えを乞いたかっただけなのかもしれない。
男はキリヤの問いに対して、冷徹に切り捨てた。
「従順ならば、捨て置け。そうでないなら、殺せ」
果たしてそれが一縷の望みだったのかどうかはわからなかったが、叶わぬと知ったその瞬間、キリヤの心は冷えきった。黒く凍ったなにかに満たされてゆく。
「……そのように、はからいます」
返答は掠れたものになった。ヴァストはそれに頓着せず、一言告げる。
「手はずをととのえておけ」
言い残し、キリヤの返答も聞かずに男は退出していった。しんと静かになった室内にはキリヤと始終を見守っていた若輩の隊員が置き去りにされる。
隊員はキリヤになにかを言おうと口を開くが、しかし止め、失礼致しましたと、ヴァストの後を追うように廊下へ出て行った。
「私は……」
キリヤは一人、呟いた。
本当にこれで良かったのか。かつて友人と自身が認めた男を、斬る覚悟があるのか。
その疑念に、もはや意味などなかった。賽は投げられ、投げたのはほかでもない自分自身だったからだ。
(君らしくないね)
「……」
(君が決めたことなのに。ヨクリがいいんだって)
「……知っている」
(きっと怒るよ。ああ見えて、かなり短気だからね)
「……それも、わかっている」
(じゃあ、期待している?)
「わからない。……私には、もうなにも」
(そう)
キリヤはかぶりを振って、再び机に向かった。引き継ぎの書面を記し、それを携えて退出する。
全てに決着を付けるために。前へ進むために。
(君がそれでいいなら、もうなにも言わないよ)
「違う」
(ふふ、じゃあ、それって違わないってことじゃないか)
「……違う」
キリヤ自身から出た声音は、キリヤの心に深く突き刺さり、じくじくと熱をはらんでゆく。




